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11【針箱のうた】戦後時代1945~1986(昭和20~61)年(1/2)


バラック、東京

H
いつ頃新潟から東京に帰ってきたの?

フク
9月の5~6日頃だったと思う。

H
鉄道は空襲されずに、もう汽車は動いていたんだ。

フク
動いていた。

H
久々に東京に帰ってきて、車窓から見た東京はどうだっ?

フク
ところどころに焼け残った建物があって、あとはずーっとバラックだったね。上野はバラックばかりで、神田はずいぶん焼け残りのビルがあったし、有楽町は日劇が残っていたと思う。大森は山王とか馬込の山の上に建物が残っていた。大森駅前の山の上にある天祖神社も残っていた。

H
そうして、おとうさんの会社のアパートに入ったんだね。

フク
2階建てで10軒入っていたね。階段に焼夷弾が落ちて、屋根に大きな穴があいていて、そこだけ雨がもるんだよ。うちの部屋は8畳1間だった。

H
食べ物はどうしたの?

フク
8月いっぱいで東京に帰ってくれば籍が入ったのだけれど、9月だったので移動申告を入れてもらえなかった。そんなことでしばらくはお米を配給してもらえなかった。新潟で大事にとっておいたお米を、敷布を2枚重ねて縫って、布団のように薄く伸ばして途中にいくつも縫い目を入れて、その間に米を入れて東京に持ってきた。

H
途中で見つかれば没収だ。

フク
そう。でもいいあんばいに持って帰れた。お前も知ってのようにうちのおばあちゃんは気の小さい人で、マッチと塩と米さえ側に置いといてあげれば安心していられる人だった。どういう訳だかねえ。それでしばらくは食べられた。

闇市で露店に出る

H
それからどうしたの?

フク
こうやって遊んでいてもしょうがないから、闇市の露店に出ようと思った。そうしたらおとうさんの弁護士をやってくれた先生の親友が、茅場町の焼けビルの中でK商会という文房具や紙の問屋を始めていた。先生が「紙は統制品だから、統制でないものを売ったらどうか」と、K商会を紹介してくれた。それを仕入れてきて、大森駅近くの線路際で露店に出た。

H
おとうさんはどうしていたの?

フク
はじめのうちは仕入れをやっていた。K商会への仕入れだけは、いやがらずに行ってくれた。でも小学生用のB5判のノートを1冊2円20銭で仕入れてきて、公定価格の2円50銭で売るのだからもうからない。どうにもならない。そこでだんだん仕入れも私がやるようになった。大森駅前は午前中はあまり売れない。お昼からだんだんお客さんが出てきて売れるから、午前中おとうさんに店番をしてもらって、色々な物を私が仕入れてきた。おとうさんはお隣の露店の釣り竿屋のおじさんと、のんびりおしゃべりしていた。

「山本の娘が露店なんかやって」

フク
ある時義母が来て「山本の娘が露店なんかやっているところを近所に見られたら、私は立場がない」と言うんだよ。私は、「そう、それじゃあやめましょう。そのかわりお母さんねえ、私は家族が7人いるから、家族の生活保障を与えて下さい」と言ったの。そうしたら義母は何も言わずに帰ってしまった。
そうしたら案の定、本所にいた自転車屋のおばさんが露店の前を通ったので、私は「あらっ、おばさん」と呼んでしまった。そうしたらおばさんが「山本の実家が、何でこんなことをやらせておくんだよ」と言った。私は「そんなこと言ったっておばさん、本所のうちだって焼けちゃったもん」と言ったら、「それもそうだね」と言って、おばさんは帰っていった。義母の言うこともその通りだと思ったね。
2~3日経ったら義母が、ねぎと肉を背負ってアパートに来てくれた。「がんばってかせいでおくれよ」と言って帰っていった。
うれしかったね。

統制品を売って警察へ

フク
弁護士の先生の紹介ということだったので、そのうちK商会で統制品だった京華紙というきれいなチリ紙を卸してくれた。戦争中にどこかにしまっておいたんだろうねえ。おとうさんは店番をしていても、統制品は絶対売らなかった。売るのは私だ。よく売れたねえ。そうしたらある日私服の刑事がきて「それ何だ」と言うのよ。「ええ、これはせんか紙(わら半紙)です。せんか紙は統制になっていません」と答えたら、その時は帰っていった。それから、石けんを売ったんだよ。それで警察につかまってしまった。
刑事が「勘弁してやるから、始末書を書け」と言う。私は「申し訳ないけど、ちっちゃな時から勉強しないで守っ子ばかりしていたから、字が書けないんです。だんなすみませんけど書いて下さい」と言ってやった。戦争中おとうさんが捕まって、何か書いたりするのは懲りちゃったからね。刑事は「しょうがないなあ、おばさんじゃあ」といって書いてくれた。「どうもすみません。これからは絶対にしませんから」と言って、明くる日から石けんをまた売ったよ。石けんばかりでなく、反物とか色々な物を売ったよ。

H
おもしろいな。なかなかやるねえおかあさん。闇市って活気があったみたいだけど、恐くはなかったの?

フク
やくざがよく喧嘩していたよ。大勢がトラックに乗って日本刀を持って「これからなぐり込みだあ」なんてやってたよ。すぐ警察が飛んできて静まったよ。恐くはなかったね。毎日20円の所場代を取りに来たけど、やくざのひとりひとりはいい人が多かったよ。

H
米よこせデモなんか見なかった?

フク
見た、見た。おしゃもじ持ってね。大森でもデモしていたよ。私には関係なかったけどね。

引っ越し

フク
露店を閉める頃、毎晩おとうさんが迎えに来てくれる。ふたりで重い荷物を背負って、坂を上がっていくんだよ。ふかし芋を買ってアパートに帰ると、長女M子と長男K夫と次男K二がバクバク食べる。「部屋の中で食べなさい」と言うのに、いちばん下のK二は外に出てしまう。アパートの子どもたちがK二のそばについて離れない。毎度その子たちにあげるなんてとてもできないので、闇市でお金も少しできたし、どこかに引っ越したいと思った。そこで土地を借りて家を建てることにした。
昭和21年(1946年)9月だったよ。土地の権利金が200円で、堀立て小屋だった。屋根の材料は神田へ行って、ラス紙にコールタールを塗って砂を敷いてあるのを、おとうさんと重いのを死にもの狂いで1本ずつかついできた。何とか家の恰好はついたのだけれど、材木が足りなくて家の中から秋の月見ができたので、みんな大笑いだったよ。そのうちに露店に出なくてもいいようにと、表に店もこしらえておいた。チリ紙などならべてみたけれど横町なので売れなかったね。その家でお前が生まれた。

四男・H生まれる

H
1947年(昭和22年)9月28日。戦後の第1次ベビーブームの中で。新しい家で生まれたの?

フク
そう。他の子たちは病院だったけど、お前はお産婆さんに来てもらってうちで生んだ。

H
僕が生まれた時のことは、M子姉さんやK夫兄さんは覚えていると言ってたよ。

フク
唐紙をちょっと開けて覗いていたみたいだね。生まれる前の日まで働いていたよ。大きなお腹をしてすいかを抱えて帰ってきたら、やくざのにいちゃんに「おっ、すいか腹がすいかかかえて2重じゃないか」なんてからかわれたこともあったよ。戦争中と違って栄養を取ったから、お前は大きな赤ん坊だった。生んでからすぐ露店に出るようになると、小さなM子がお前をおぶって「おっぱいやって」と露店に来るんだ。おっぱいをやり終わると、又M子がおぶって帰る。

露店をたたむ

フク
お前が生まれた頃だね。だんだん文房具は闇市で売れなくなってしまった。食べ物屋は相変わらずはやっていたけど。近くに大きい文房具屋ができてしまった。そこで露店をたたんで、店で駄菓子を始めた。駄菓子はだめだった。子どもたちがみんな食べちゃう。M子が「おかあちゃん、2円、2円」といって持っていくと、K夫もK二も2円分食べちゃう。クジの当てものの駄菓子は大当たりは別になっていて、最後まで大当たりを飾っておけて残るようになっている。子どもたちはその当たりのお菓子を欲しがる。仕方なくやると、それを持って表に行ってみせびらかして食べるんだもの。近所で「あすこのは当たりがない」と言われてしまう。これじゃあ売れないよ。それにもうからないんだ。100円売上の当てものの仕入れが75円だもの。大変なんだよ。駄菓子だけじゃしょうがないから、ポンせんべいを焼いて売ったり、おこしも作って売ったりしたね。おとうさんは子ども用自転車の部品を買ってきて組み立てて、貸し自転車屋を始めたりした。でもこんな商売の売上はたかだか知れていて、子どもたちはよく食べるし、親戚や田舎からはよくうちを頼ってくるし、お米を買うお金にも困るようになってしまった。

妹K子の死

フク
お前が生まれてすぐ、昭和23年(1948年)1月23日だった。茨城県の古河市に嫁いだ妹のK子が、まだ生まれたばかりの子を残して死んでしまった。

H
K子おばさんの結婚の話は聞いていなかったね。

フク
K子が結婚したのが昭和18年の8月だった。相手は本所の実家のすじ向こうの鉄管問屋に勤めていて、タバコ屋の娘のK子を見初めた。相手の実家は古河でまゆ問屋だったので、父母は田舎に嫁にやれば食い物には困らないだろうとやる気になった。私はおとうさんが刑務所に入っていたから、結婚式に出るどころではなかった。
結婚してすぐ夫は戦地に行ってしまった。旧制中学を出ていたので陸軍少尉だったと思う。K子は嫁としてずいぶん苦労したらしい。食べ物はいつも残りもので、いじめられて……、いや昔はそれが嫁のつとめだったのだけれども。
K子からよく手紙がきたよ。「ねえちゃん、今日は肉のおかずです。ごはんにおつゆをかけても肉のおつゆです。おつゆだけです、あっはっはっ」と書いてきた。つらかったんだろうねえ。
戦後夫が戦地から戻ってきて娘が生まれた。そしてふたり目の子どもがお腹にいたとき、肺壊疽にかかってしまった。栄養失調だの重労働をした人間に出る病気なんだよ。

「娘にねえちゃんの思いはさせたくない」

フク
お医者さんが病気を治すには、お腹の子どもをおろすしかないというのでおろした。夫も父母もK子の病気を治そうと真剣だったよ。東京から1本5000円もするペニシリンを何十本も買ってきてK子にうった。私も露店をやっていたのでそうは見舞いに行けなかったけれど、できるだけ病院に行ったよ。闇市で本バターだの栄養になるものを買って行った。バターをご飯の上にのせてお醤油をかけて「おいしいよう、ねえちゃん」って食べたねえ。
K子は父母が病室にいないことを私に確かめてから「ねえちゃん、私死にたくないよ。娘にねえちゃんと同じような思いは絶対にさせたくない。死にたくないよ」といった。でも助からなかった。

H
K子おばさんは母違いの姉であるおかあさんをよく観ていたんだねえ。幼な子を残して先立ってしまう親の気持ち、少しはぼくも分かるよ。
でも、どうして嫁はそんな扱いを受けたのかな。K子おばさんもおかあさんも、嫁として舅や姑に従い、夫に従い、さらに老いては子に従いでしょ、息もつけないような感じだ。

フク
嫁とはそんなもんだと思っていた。

H
そうだね。女にももっと違った生き方があるってことを知らされていなかったんだね。封建的な家族制度が確固としてあったし、教育も道徳もその家族制度を支えていた。

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