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07【針箱のうた】結婚1938(昭和13)年~(1/2)


タケどんとの結婚

フク
小坂さんを辞めてしばらくして、親戚の深川の酒店でお産があるからというので手伝いに行った。父がその店の小僧だったタケどんが見えないので「タケどんはどうした?」と聞くと、「店を持った」という。何も調べずに「店を持った」というだけで父は気に入ってしまった。それがあんたたちのお父さんだよ。店を持ったというので、もう父が夢中になって、ただ固いタケどんというだけで結婚話をまとめた。おとうさんは大正元年(1912年)10月15日深川生まれで私より4歳上だった。昭和13年(1938年)3月14日が結婚式だった。近所のウオケイさんから仕出しを取って、店で結婚式をやった。店の大家さんなどに近所廻りをして帰ってきて結婚式が済んで、その晩に枕盃をして。

H
枕盃ってよく分からないけど。

フク
仲人さんがお布団を一組敷いて、その枕元でを交わすんだよね。そして、無事に済んだか済まないかをこの封筒に一筆書いて入れて手紙をよこしなさいと言って、ふたりを枕元に置いて帰ってしまった。そうしたらおとうさんが、あのカチカチのおやじが、借金の帳面と台帳を持って来て「うちには借金が700円あります。これでやっていかれますか。やっていってくれますか」と言ったから、私は「何ででもっと前に言ってくれなかったのですか!帰れません!」と言ったの。「枕盃が済んで帰れば、そのまんま帰ったってキズものです」と言ったの。「それじゃあやっていくほかしょうがないでしょ!」と言ったの。私の父親はそんなこと何も調べなかった。

誤魔化された3000円

フク
無理もないんだよね。おとうさんの父は某ガス会社に勤めているときに栄養不足と重労働で肺壊疽で死んで、おとうさんの母は退職金と保険金共で5000円もらった。酒ばかり飲んでいたそうだ。「1000円あれば小金持ち」と言ったんだから大変なお金だ。おとうさんの母はどうしても田舎の新潟へ帰りたいと言って、おとうさんの妹と障害児の弟を連れて、この弟は6歳で死んだのだけれど、3000円持って帰った。それを全部田舎で誤魔化されてしまった。当時の田舎は貧しかったからねえ。寄ってたかって誤魔化したんだねえ。
残りの2000円だけはおとうさんはどうしても離さなかった。その2000円もすぐ下の弟の肺病の治療費に使ったり、店の権利を買ったりで使い果たしてしまった。肺病の弟が店で寝ているんだもの、酒屋なんか売れるわけがない。まして深川は1升・2升のお客で、こっちは1合2合のお客だもの。おとうさんは商売をやる気をなくしていた。私と結婚したのがその肺病の弟が死んで1年後だった。私は物臭の所へ嫁に来たかと思った。

初夜

フク
2階の8畳の座敷には一組しか布団が敷いてなくて、おとうさんは下から布団を担ぎ上げてきて、隣の4畳半にさっさと布団を敷いて「おやすみなさい」と言って寝てしまった。私は親に言われてきているから「私はこれで出されるんですか。出されるんでしたら今夜のうちに帰ります」と言ったの。そしたら「いや、そうじゃあないです。あなたは疲れているでしょうから休んで下さい」と言うから、「ああそうですか」と言ったの。そうしたら「本当のことを言うと女の人を知らないから、申し訳ないが待ってくれ」と言ったの。

H
おとうさんも可愛いねえ。

フク
14日に結婚して、16日に里帰りで夕方まで仕事をしてから本所に帰った。本所では里帰りだということで近くの親戚の人も集まってくれていたけど、夕方になっても来ないから帰っちゃった。

H
当時は里帰りという風習があったんだ?

フク
今で言えば新婚旅行から帰って、ふたりで里へ挨拶に行くようなものだね。親戚も集まって鯛だの何だのの御馳走もこしらえて待っていてくれた。そこでおとうさんが私の父に「実はお父さん、おふくろがひとりなもので聞く訳にもいかないので……」と話始めたら、私の父母がお腹をかかえて笑い出しちゃってねえ。でも借金のことは実家では一言も私は喋らなかった。私を嫁に出すとき父親が親戚の人に、義母が部屋を出た合間に「肩の重荷がおりました」と言って涙をこぼした。それを見たら、嫁に行ってどんな苦労があっても帰るものかと思っていた。だから借金が700円あろうが800円あろうが「商人で借金のないうちはないのだから、やっていきましょう」とおとうさんに言った。

「嫁だものねえ。しょうがないものねえ」

フク
酒屋の売上は1日に1円あるかないかだった。これじゃあどうにもならない。それで結婚して2~3日してから縫い物を始めた。御陰様で縫い物は来るわ来るわ。朝早く起きて、御飯に火をつけてすぐ縫い始めた。初めは御飯を薪で炊かされたけど、私はすぐガスにした。頭を洗うんだって女はうちの中で洗っちゃいけないと姑が言う。5銭の洗い粉は買ってくれない。樽酒の藁を燃やして、それに熱湯をかけて出たアクで洗うように言われる。そんなもんじゃ落ちやしないよ。洗濯石鹸で頭を洗ったら、もったいないことするなと言われた。月のものがあるとボロを使わされて、それを洗って使うの。それを日向に干すとお天道様にバチが当たると言って、便所のわきの日陰に干した。けれども同居の自分の娘には月経帯を買っていた。嫁だものねえ。しょうがないものねえ。

流産

フク
そして直に子どもが出来て、夏に流産してしまった。その日はおとうさんは妹と池上で防空演習の紙芝居があると言うので見に行っていた。

H
その頃からもう防空演習なんかあったのか!

フク
そうだよ。樽の口をあけたように血が出てしまって、しかも止まらなくなってしまって、病院に入院して食塩注射をしてもらってやっと止まった。死ぬかと思った。私の義母も飛んできた。
栄養が足りないからねえ。何たって4人家族でさんまは3尾かうんだよ。お父さんと義妹は1尾ずつで、私と姑は半分ずつ。姑は尻尾の方を食べて「ねえちゃんはこの家の頭になるんだから」といって、頭の方を食べろと言う。頭の方じゃ身なんていくらもない。今でも御飯だけ食べておかずを食べられないのは、その頃のくせがついているんだね。

H
女中とか嫁とか、女性がそんな扱いをされた時代なんだねえ。それから翌年昭和14年(1939年)にM子姉さんが生まれたんだね。

フク
そうだよ。

長女M誕生

フク
昭和14年(1939年)12月31日が出産予定日だったけど、11月16日にM子が生まれた。280匁しかない未熟児だった。産んですぐにクベーゼ、今で言う保温器、ちょうど畳半畳敷き位の電気の箱の中に、6人位押し込んであった。私も初めての子だから早く見たくてねえ。姑があんまり義妹を可愛がるんで、自分の子どもはそんなに可愛いものかとうらやましかった。私はそんなに可愛がられたことはなかったから。さて、自分が産んでみるとその顔が見たくて1週間経ってもまだ見られないので、夜そっと赤ちゃんを見にいった。そうしたらねえ、電気の箱の中で6人の赤ちゃんが、ゴニョゴニョと動いているんだよ。足の裏に苗字が書いてあった。そうしたらその箱の中で、赤ちゃんの顔より大きなゴキブリがョロチョロ6人の間を走り廻っていたんだよ。それを見て私はびっくりして「死んでもいいから家に連れて帰る」と言って、明くる日退院しちゃった。さあ家に帰ってから、ゴムの氷枕にお湯を入れて、火傷をしないようにと注意しながら湯たんぽを回りに置いて温めた。小っちゃいから氷枕の上に乗っちゃうし、お風呂に入れるにしてもこの手の中に入っちゃう。11月なのでもう寒くて、明くそれでもだめなのでお医者さんを連れてきた。「こりゃあ注射もうてないや。カヤを吊れ、カヤを吊れ」と言われたので、冬にカヤを吊って練炭をおこしてお湯をガンガン沸かして、2階の陽のあたる四畳半で育てた。おっぱいの飲み方も分からず、サジで流し込んでいたけど、しばらくするとようやく飲むようになった。

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