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03【針箱のうた】幼年時代―1916~1926(大正5~昭和1)年(1/2)


荒物問屋の長女

H 
お母さんが生まれたのは?

フク 
私が生まれたのは大正5年(1916年) 3月18日で、満で74 歳だね(フク孫註:この聞き書きが行われたのは1990年)。父母とも明治16年 (1883年)生まれ。大正4年に一緒になったんだね。父母共32歳の再婚同士なんだよ。東京都本所花町で荒物の卸問屋をや っていた。結婚した時は景気がよくて、5年位で財産をつくったんだね。NHKの連続ドラマ「凛凛と」でこの頃のことをやっていたけど、景気がよかったんだよ。

H 
景気がよかったというのは、第1次世界大戦があったからだね。日英同盟を口実にして日本も参戦をして、連合国から注文がどっとくるようになって景気がよかった時期なんだね。成り金時代だったなんて歴史の本には書いてあったよ。そんな時期に結婚したんだ。

フク 
うん。たちまちのうちに自分の店を買っちゃって、本所の太平町に平屋8軒、2階屋が2軒の長屋を買って私の名義にしておいてくれた。店の者は7人もいるし女中さんがいて賑やかな店だったね。

突然の母の死

フク 
大正9年(1920年) 11月25日、私が満4歳の時に母は死んでしまった。妊娠と盲腸炎が重なって死んでしまった。今の医学だったら助かっただろうけどね。母の葬式は立派だった。店の前からハトの籠が出て、母は座棺に入れられて殿様の乗るようなお駕籠ではこばれていった。「私もそこへ一緒に乗る」といってきかなかったら、近所の人たちが皆泣いちゃってねえ。祖母が私を膝にのせて人力車で焼場へ行ってハトを放した。そのハトのことは忘れられないね。近所の人たちを泣かしたというのは後から聞いた話だけど。
ずいぶんと気の強い、よく稼いだ人だった。お得意さんで飲み仲間に「私が死んだら太鼓を叩いて踊りを踊って欲しい」と冗談に言っていたそうで、シミズさんとコイケさんのおじさんが泣き泣き太鼓を叩いてうたい始めた。そうしたら祖母が「通夜の晩に何事だ」と怒って言ったら、おじさん二人が涙をぽろぽろこぼしながら踊っていた。それを見て祖母は何も言えなくなってしまった。これも後から聞かされた話だけど。私は人が大勢来るから、うれしくてうれしくてしょうがなかった。

母の思い出

フク 
店は間口が2間で奥行きが9間で横丁に路地があって、店から奥に入る途中に5升の酒樽が置いてあって、両親共酒好きだったせいもあるけど、問屋さんが勘定を取りに来たとき振る舞ったりしていた。卸売りだけでなく、立ちん棒というか日雇いの人を使って、天秤棒の前後ろに、籠だのほうきだのざるなど荒物をつけて売りにやったわけ。毎日何人もの人が来て、売りに出かけて歩合で30銭とか50銭を払う。その頃は近くの旅館代が1晩で25銭、朝と昼食が8銭、夕食が10銭位だったから、一杯飲んで何とか暮らせる。母はタバコが好きだったから、許可も取ってタバコも売るようになった。商売が好きだったようだ。 
私は自由に遊んでいて、近所の子供たちを集めてよく遊んでいた。一番怒られたのは、棚の上に1円札があったのを持って、裏の駄菓子屋へ行って1円みんな買っちゃった。1円だと箱ごといくつも買えた。ちっちゃな子供に1円も売る駄菓子屋もおかしいけど、買ったお菓子をみんなに分けちゃった。それで家へ帰ったら目のくり玉が飛び出すほど叱られた。日雇いさんが1日50銭とか70銭で暮らせるのだもの、1円といったら大変なんだよねえ。叱られて押し入れに放り込まれて、そのまま泣き泣き寝てしまった。夜になって「フクはどこへ行った」と捜したんだよね。商売が忙しくて押し入れに放り込んだことも両親は忘れてしまった。大騒ぎをして、スースー寝ていた私を見つけた。それがひとつ話だね。その母の怒った顔は何とか覚えている。満4歳じゃあ覚えているのはその位のもんだね。

新しい母

フク 幼い私がいるということで母の妹が後妻となった。49日も経たないうちに来た。38歳の父のところへ嫁いだ義母は20歳だった。祖母に言い聞かされて泣き泣き嫁いだ。そしてすぐに妹が生まれた。妹が生まれてから、私の性格はよけいにひがみっぽくなってしまった。そうすると、近所の人たちが「フクちゃんは可愛そうに、母ちゃんが違うから」などと言うと、よけい涙が出てしまった。怒られればすみっこへ行って泣いてばかりいて、寂しくなるとひとりでよく歌をうたった。
義母も「フク」という名前だったので、字がきれいになるようにと「ふで」と呼ばれるようになった。


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