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10【針箱のうた】戦中時代1941~1945(昭和16~20)年(2/2)


東京大空襲

フク
3月10日が本所の空襲で……。

H
東京と大阪に大空襲があったんだね。陸軍記念日に当たるので、大空襲のうわさはあったんだってね。資料によると死者が東京だけで10万人にも達して、東京の4割が焼失して、100万人が焼け出されたそうだ。早く降伏すれば出さずにすんだ犠牲なのに。政府は「一億火の玉」になって敵にぶつかれ!なんて命令してたんだ。本所のおじいちゃんたちは?

フク
おじいちゃんとおばあちゃんと弟は、江東区猿江の東泉小学校のプールの中で、もぐっちゃあ顔を出して一晩過ごして助かった。火の勢いはすごくて、弟は鉄かぶとをかぶっていたんだけどその中に火が入って髪の毛が焦げてしまったそうだ。家だけは焼け残っているかもしれないと行ってみたら、何にもかもなくなっていた。そこでタケさん(フク孫註:フクの夫)が来てくれるだろうと思って、ずっと待っていたそうだ。そうしたらおとうさん(フク孫註:フクの夫)は先に深川の奉公先だった酒店へ行ってしまった。

H
おとうさんらしいねえ。義理堅い。

フク
そうなんだよ。そうしたら酒屋の主人から、駒込まで行ってリヤカーを借りてきてくれと頼まれた。何時間かかけて汗をかきかきリヤカーを借りて帰ってきたら、主人夫婦は腰かけてビールを飲んで待っていた。「ああ、ビールはもうなくなっちゃった」といわれたものだから、おとうさんはムッとして「リヤカーをここに置きます」といって、本所の私の実家へ行った。そうしたらおじいちゃんが「何で早く来ないんだ」とおこった。おとうさんは「酒屋へいってました」といったら、「酒屋よりうちじゃないか」といわれたそうだ。「本当にそうだった」と、つくづくいっていたね、おとうさんは。

東京山手大空襲

H
5月24日が山手地区に大空襲があって、渋谷、目黒、大森荏原、芝などが被害にあったとあるけど。

フク
東京大空襲で焼け出されて、私の両親と弟がうちの店の2階に仮住いしていた。そうしたらおじいちゃんが「防空壕はこういう風に掘った方がいい」といって、家の中に穴を掘って廻りに焼酎の入っていたかめに水を入れて壁にして、布団や子どもたちの服などを入れて、裁縫の裁ち板をのせその上に土をかぶせた。空襲で寺に逃げて、家は焼けてしまったけど、布団や服は助かった。そしてそれを陽に干していたら、何枚か盗まれてしまった。もっていった人は分かっていたけど、しょうがないものねえ。私の両親は芝白金に家を借りることができて、そこへ引っ越していった。私と次男K二は仕方がないので新潟へ行った。おとうさんはようやくお金を稼げるようになったので東京に残り、会社のボロアパートに入った。

新潟の「人気者」

フク
戦争前には田舎の新潟から東京の家に来ない人はなかったくらいだ。うちに3~4日泊って、東京見物したりして帰った。あの貧乏のさなかに。貧乏していたってちゃんと食べさせて、土産を持たせて帰したから、あたしのことは田舎で知らない者はないのね。「東京のねえさん、ねえさん」と行った当初は大騒ぎをしてくれた。おとうさんより大騒ぎしてくれるものだから、「お前は俺より新潟で人気者だな」といわれた。
そして、本家の百姓の手伝いをした。日当はお重に一杯のごはんだった。お米では絶対にくれなかったし、お金を出すから譲って欲しいと言っても、「ない」と断られた。ごはんをもらって帰ってくると、子どもたちが待っているんだよ。大根なんかを入れて汁にして、お釜いっぱいにして、子ども3人とおばあちゃんで、私なんかロクに食べないうちに、きれいに無くなってしまう。百姓って厳しかったね。

新潟、長岡空襲と行商生活

フク
長岡は山本五十六大将の故郷だから、ここも空襲された。月日は覚えていないけど。私たちの疎開した今町は長岡から2~3里は離れていたけど、みんなで田んぼの中に逃げた。
長岡が焼けてすぐ私は行商を始めた。近所からかぼちゃのヘタから、下駄から、コブから、何でもかんでも買えるだけ買って、それをリュックサックに背負って、長岡に売りに行った。焼け出されちゃっているから、売れるのよねえ。「おかあさん、いらないかのぉ、いくらだいのぉ」といってね。
何回か行って儲けて帰ってくるものだから、親戚がうちの娘も連れていってくれといった。そこで連れて行きながら「たおちゃん、ここは長岡警察だよ。だから、こっちへ行っちゃいけないよ」とさんざんいったのに、たおちゃんは警察の裏で「いらんかのぉ」とやってしまった。警官に「おめえ、ここをどこだと思っているんだ」とどなられて、おどろいて何も売らずに家に帰ってかくれてしまった。私は全部売って帰ってきた。田舎の人だから、わかんないんだよね。

「再婚話」に行商やめる

フク
長岡で、焼け残った大きな呉服屋へ行商に行ったときのことだった。その店では行く度に買ってくれた。少し遠くの村でぶどうを仕入れて、呉服屋の中でぶどうをひと山いくらで並べていると、近所の人も買いに来るんだよ。ある時その呉服屋の主人が「お前さん子ども何人おるかいのぉ」と聞くから、「3人おります」と答えた。「おうおう、そうかいのぉ。だんなさんは死んだかいのぉ」というから、うっかり「はい」といってしまったんだよ。
「どこで死なれたいのぉ」と聞かれて、さあこまってしまった。こりゃぁ同情をひいた方がいいと思って、「本所の空襲で死にました」といった。(笑)
「かわいげらにまぁ、3人も子どもがあって。どうしょうばのぉ明日来てらっしゃいのぉ」というから、翌日も行商に行った。そうしたら「おお、待っていたいのぉ、待っていたいのぉ」と、呉服屋さんだから、手ぬぐいとか色々なものを私にくれる。ちょっと見ると向こう側にへんなじいさんが腰かけて、こっちをチラリ、チラリと見ているんだよ。呉服屋の主人が「お前さん、どうかいのぉ。嫁に行かんかいのぉ」という。「ここにいらっしゃるだんなさんだすけ」という。ごはんを炊いて働いてくれれば、何も不自由させないという。息子が田んぼをやっているし、このじいさまのまんまさえ炊いてくれればいいという。
私はびっくりしちゃってねえ。ああ、うっかりでもうそをつくものではないと思ったねえ。行商はやめちゃった。おとうさんが長岡に来たときこの話をしたら、「行けばよかったじゃないか」なんていってたよ。

「玉音放送」

H
8.15はどう迎えたの?

フク
天皇陛下のあれがあるんだというんで、ラジオの前に正座して、泣いたねえ。勝つ、勝つと思っていたからねえ。負けるなんていったひには国賊だから。

H
ラジオの前には何人位いたの?

フク
長岡でもラジオのないうちはないから。家族だけだったよ「チン、フワァー」というのが聞こえたと思ったら、よく分からないうちに終わっちゃってね。

H
お母さんたちは3回もひどい空襲を体験したのに、それでも勝つと思っていたの?

フク
ああ、思っていたよ。

H
教育というのは恐ろしい。沖縄戦のことは報道されていたの?

フク
知らなかった。15年位前におとうさんと沖縄旅行に行ってそこではじめてそのひどさを知った。

H
ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下については?

フク
ラジオで聞いたように思う。ピカドンって恐いんだってと話したことを覚えている。もう負けたというんで、進駐軍が来ると東京は恐い、若い女なんかかっさらってしまってとか何とか噂がたった。あとから考えれば、それは日本人がさんざんやったことだからだと思うけどね。その時には進駐軍というのはそういうことをするものだと思っていた。

H
進駐軍という言葉をもう使っていたの?

フク
そういわれるとどうだか分からないけど、進駐軍といってたと思った。

H
占領軍を進駐軍といい変えたり、敗戦を終戦もそうだけど一億総ざんげだなんて、日本の戦争指導者たちは責任問題をごまかしてズルいねというか、ごまかし方が巧みだね。

フク
東京はおっかないからまだ帰るまいと思っていたけど、長岡でいじわるされるようになってしまって。近所の親戚から「居座られたら大変だ」とけしかけられて、あんなにいいバアバアが途端に変わってしまった。「お前たちはいつ帰るんだ」ばかり言われた。それで仕方なく、おとうさんの会社のアパートが焼け残っていたから、東京に帰ってきたんだよ。

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