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私が感想文を嫌いな理由

私は子どもの頃から本が好きで、結果的に今は図書館員ですし、頼まれもしないのにこんな note を毎週のように書いているくらいなので、文章を書くこともわりと好きです。

でも、作文の授業は昔から嫌いでした。

作文が嫌いというより、学校の作文とはほぼ感想文であり、感想文を書かされるのが嫌いだったのです。
なぜ嫌いかと言うと、嘘を書かなければいけなくなるからです。

たとえば遠足に行って、翌日感想文を書かされます。
「きのうはえんそくで○○どうぶつえんにいきました。みんなでバスにのりました。さいしょにコアラをみて、それからキリンとぞうとしまうまをみて、ひつじひろばでおべんとうを食べました。ひろばにはひつじとやぎとうさぎがいました。そのあとこんちゅうかんにいって、さいごにまたコアラをみて、バスにのってかえりました」という感じで提出すると、確実に「ただ見たことを書くだけではなくて、あなたの感想を書きましょうね」と指導が入ります。そこで最後に「とってもたのしかったです」とつけくわえることになります。

たのしくてもたのしくなくてもそう書くのです。そのうちだんだん知恵がついてきて「すごいなと思いました」「とくにおもしろかったのは○○です」
「こういう場所で働く人たちがいて、社会が支えられているのだなと思いました」「私もこの主人公のように、小さな命を大切にしていきたいです」などとヴァリエーションが広がっていきます。

子ども心にも、自分が嘘を書いているという罪悪感がありました。
私は小説を書いたこともありますし、実話しか書きたくないわけではありませんが、自分が伝えたいことを効果的に伝えるために虚構を織り交ぜるフィクションと、単なる事実の羅列が認められないため、相手の期待に応えるために心にもないことを書くはめになる感想文とはわけが違います。

じゃあ正直に本当の感想を書けばいいじゃないか、というとそうもいきません。「つまらなかった」「とくに何とも思わなかった」「可もなく不可もないと思った」というのは感想として許されないのはわかっていました。感想文とは、相手に期待される感想を書くことだと思っていたのです。
ましてや「結論から言うと、こうした行事は不要である。なぜならば、第一に…」などと理路整然とデータを駆使して根拠を述べ、建設的な代替案を提出したところでよけいに不興を買うのは目に見えています。というかその時点でもう感想文ではありません。

感想文という形式自体が、こちらの思考まで規定してしまうのです。

この問題を考えるきっかけになったのは、こちらの本です。


これはとても良い本なので興味のあるかたはぜひ読んでいただきたいのですが、ざっくり紹介すると「文化によって思考の原理が違い、それによって論理的な正しさや作文教育もまったく違ってくる」ということのようです。

思考表現スタイルを4タイプに分け、代表的な例としてアメリカ・フランス・イラン・日本の作文教育を論じています。
ここで私がもっとも違和感を覚えたのが、日本の作文教育だったのです。
ちなみに一番納得というかわかりやすかったのがアメリカ式で、おもしろかったのはフランス式、イラン式もちょっと違和感がありますが、それは単に私がイスラム教徒でないからで、それを抜きにすればそこまで理解不能なものではありません。
日本人のくせに日本の作文教育が一番合わないというのも変ですが、私が作文を嫌いだった理由もここにあったようです。

日本の作文教育の特徴はこんなところです。
・感想文が中心
・子どもらしさに価値を置く
・結果ではなく、課題に取り組む態度や姿勢を評価
・本人の体験に引きつけて書かせる
・間主観性の重視

最後の間主観性というのがわかりにくいですが、要するに「自分の考えだけでなくみんなの考えを取り入れよう」ということのようで、言ってみれば「空気読め」ですよね。「テキストを読まずに空気を読もう」というキャッチコピーをつい考えてしまいました。

体験に引きつける主義にも心当たりがあります。
高校時代、国語の授業で夏目漱石『こころ』読書感想文の課題が出ました。
私は普通に『こころ』のこんなところが優れているとか、ここの部分は漱石のこういう考え方が現れているのではないか、といったことを書いて出しました。国語の先生は気に入らなかったようで「もっと自分の実体験と関連付けて書くように」というコメント付きで返されてきました。
私は「えっ、ダメなの?自分の体験と関連付けろと言われても、恋人を手に入れるために親友を裏切った結果親友が自殺したなんてレアな体験している高校生いる?いたとしてもそんなデリケートなことなんで先生に打ち明けなきゃいけないの?公開できるようなほどよくマイルドな体験をでっちあげろってこと?」と混乱してしまい、結局書き直せませんでした。
私が書こうとしたのは「作品の評価と分析」で、先生が求めていたのは「日本式感想文」だと思うと理解ができます。

不思議なのは、大学一年生がレポートを提出すると「これではただの感想文であってレポートになっていない」と教授からダメ出しを喰らうことです。子どものころからさんざん感想文を書かされてそうなるなら「だったら小学生からレポートを書く練習をさせればいいのに」と思ってしまいます。

たしかに子どもが感想文でない文章を書くと生意気に見え、大人が感想文を書くと幼稚に見えます。
子どもの頃は執拗に感想を聞かれたのに、実社会では「それってあなたの感想ですよね?」という言葉に代表されるように、おまえの感想など知ったことではない、と言われてしまうのです。
そもそも感想文という表現形式は学校独特のもので、いい大人に感想文を書かせるのはカルト団体の洗脳教育かブラック企業の新入社員研修くらいではないでしょうか。

私が感想文を嫌いだったのは、文章力や言葉の知識、情報としての価値判断、論理的説得力などがほとんど鍛えられず、ただ相手の期待に応えるばかりで自分の内面に干渉される感じがしたからだと思います。

感想文でない文章を書いてもいいんだ、と気づいたのは十代初めの頃で、当時流行っていたさくらももこさんのエッセイを読んで、真似をして書いてみたことがきっかけでした。「感想文」から「随筆」というジャンルに移っただけで、自分の思考が自由になる、というのは大きな発見でした。


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