チョコレート、ラベンダー、サイモン&ガーファンクルの日々
そのころ私はひどい仕事をしていて、当然のことながら毎日が憂鬱だった。
満員電車に揺られて出勤すると、ロッカーの扉に隠れるようにしてチョコレートを口に入れた。もともと甘いものを毎日食べる習慣はなかったので、当時はちょっとした中毒だったのだと思う。チョコレートを噛みしめるときに広がる一瞬の快楽が、これから業務に向かう苦痛をやわらげてくれるようだった。
ラベンダーの香りがストレスに効くという話を聞いたので、小さな袋に乾いたラベンダーの花を詰めてポケットに入れておき、いやなことがあるたびに鼻に当てた。たしかに一瞬スッと楽になるような気がした。いやなことがたくさんあるので袋はすぐボロボロになってしまい、新しいものに交換しなければならなかった。
冷静に考えればそんな仕事は早く辞めてしまえば良かったのかもしれないけれど、六か月の期間を勤めあげれば契約が更新されてもっとましな職場に異動できるかもしれないという希望と、ここで辞めれば負けたことになるという妙な意地にからめとられ、無遅刻無欠勤で通い続けた。
そのうちにストレスのせいか極端に集中力が低下し、自分でも信じられないようなミスを連発するようになった。そのため職場の居心地はさらに悪くなった。このころには綺麗な服が欲しいとかおいしいものを食べたいとかいう気持ちはまったく起こらなくなっていた。自分があまりに無価値なので、何かを楽しむ資格はないように感じた。
死ぬほどのことではなかったけれど、夜眠りに就くときに、このまま二度と目が覚めなければいいな、とは思った。
神経がとがっていて寝つけないので音楽を聴いた。
なぜかいつもサイモン&ガーファンクルだった。もっと好きな音楽はたくさんあったはずなのに、受けつけなかった。
『The Boxer』という曲があり、惨めな境遇のなかで殴られても殴られても戦い続けるボクサーの歌が、荘厳な響きと哀切な声で歌われていた。
六か月の契約期間を満了したとき、私はまだ同じ場所に立っていた。
契約は更新されなかった。さいわい次の仕事が決まっていたので路頭に迷わずに済んだ。自分が心を病まずになんとか乗り切ったことがわかった。毎日規則正しく食事を摂り、夜はきちんと眠った。その六か月で学んだのは世の中には悪質な人間がいるということと、メンタルコントロールというのはある程度ならできるということくらいだ。
当時のことを思い出すので『The Boxer』は長いあいだ聴けなかった。今あらためて聴いてみると、名曲だと思う。
それにしてもあんなにお世話になっておいて申しわけないのだけれど、私にはどっちがサイモンでどっちがガーファンクルなのか、今でもわからない。