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ペースメーカーさん

速く歩くのが好きなので、なんの必要もなくてもつい全速力で歩いてしまいます。夏場は最寄り駅に着くだけで汗だくになっていたりします。何が自分をここまで駆り立てるのかわかりませんが、脳内でなんらかの快楽物質が出ている気はします。図書館で本を運ぶ以外、運動らしい運動をまったくしていないので、これくらいのエネルギーは使ったほうがいいのかもしれません。

最近では速く歩くためのコツも独力で会得しつつあり、どうやら「動く歩道」を歩く要領で、足裏と地面の接地時間を気持ち長くし、踏みこむときより蹴りだすときにすこし力を入れると速くラクに歩けるようです。ピッチを速くして歩数を稼ぐのではなく、ストライドを大きくするのがコツです。

往年の野球選手で「ボールが止まって見える」と豪語した人がいたらしいですが、もはや私の眼には、普通に歩く普通の人が止まって見えます。高校生などは、こんなにタラタラ歩いて遅刻しないか心配になるくらいです。猛烈な速さで歩いてくる私の迫力に恐れをなして、モーゼのごとく目の前に道が開けることもあります(周りの人には迷惑な話ですね…)。

そんなある日、いつものように通勤で乗換駅まで全速力で歩いていると、目の前を歩く人に追いつかないことに気がつきました。追いつかない一方で距離が開くこともないので、その人は私とまったく同じ速度で歩いていることになります。よく見ると右足、左足、右足、左足、と出すテンポも一緒です。自分と歩調が同じ人に出会うことがめったにないので、おもしろくなって後をついていくことにしました。結局最後まで同じ速度のまま、その人は改札口に入っていきました。

気をつけて見ると、翌日も翌々日もその人が前を歩いています。どうやら毎日私と同じ駅で乗り換え、同じ駅で降りるようです。私はその人を仮に「ペースメーカーさん」と名付け、これ幸いと後についていくことにしました。
ペースメーカーさんは長身でやや強面の男性なので、通行人側がよけてくれる率も私より高く、人混みをぬって歩くよりラクです。ペースメーカーさんからしたらいつも同じ女が後ろを歩いていることに気づいたら気味悪く思うかもしれませんが、彼は決して振り返らず、一心不乱に歩いていきます。

そうやって毎日利用させてもらっていると、ふとこの人はどういう職業なのだろう、と気になりました。年齢は三十代後半くらい、いつもスーツを着ておらず、服装からすると学生風なのですが、それにしては歳がいっているし、学生が9時出勤のペースで毎日通学するとも思えません。降りる駅の先に広がっているのは官庁街なのですが、さすがにパーカーとカーゴパンツでお役所勤め、ということもないでしょう。あとは病院とスポーツクラブがありますが、こんな怖い顔のインストラクターっているかな、この姿勢の良さからして整体師とかかな、などとあれこれ考えましたが、まさか尾行して確かめるわけにもいきません。

結局正体は謎のまま、ペースメーカーさんは最近姿を見なくなってしまいました。
速く歩きすぎて怪我でもしてしまったのではないかと心配ですが、たいへんお世話になったので、どこかで幸せに暮らしているといいなあ、と思っています。


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