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「仕事ができる」とはなにか? -アメリカのエンジニアから学んだキャリア観の違い-
ぼくはAmazon USでプロダクト開発の仕事をしている。若いエンジニアとAmazonのセール機能を日々あくせくと開発する毎日を送っている。
今日は最近気付いた「会社の飲み会」とそこから考えたことについて書いてみる。
アメリカの飲み会
いわゆる「会社の飲み会」というのはアメリカ、というかぼくが働いている会社にもある。大きなプロジェクトが一段落したときにオフィスの近くのレストランでご飯を食べたり、バーを貸し切ってみんなでワイワイ飲んだり。
アメリカというとあんまり会社の飲み会はないイメージだった。仕事が終わったらさっと家に帰るイメージ。で、基本的にはそのイメージ通りだったのだけれど、たまにチームでご飯に行ったり飲みに行ったりというイベントがあるのだ。
今日は久しぶりの飲み会。ぼくがはるばるシアトルからアリゾナまで出張に訪れているということもあって、アリゾナにいるエンジニアチームみんなで行くことになった。ぼくが日本人ということもあり、そしてみんな日本食が好きということもあって日本食レストランを訪れることになった。アリゾナの砂漠のど真ん中に日本食レストランがあることだけでも面白いのだけど、アメリカ人やインド人の同僚の前に焼きそば、うどん、寿司なんかが並んでいるのを見ると違和感だらけでなかなかおもろい光景だった。
飲み会を調整するのはだれか?
準備してきたプロダクトを無事リリースしたタイミングということもあって飲み会は大いに盛り上がった。とはいえ1時間ほどでお開きに。どれだけ会話に花が咲いてもダラダラせずご飯を食べきったらあっさり切り上げるところがアメリカ式。ぼくはこの合理的な感じが結構気に入っているのだけど。
帰り道をとぼとぼ歩いているときにあることに気付いた。それは飲み会の調整をいつもシニアのメンバーがやっているということだ。
今回の飲み会もエンジニアを束ねるマネージャーのニシャがやっていた。エンジニアだけで行く時はリーダー格の先輩エンジニアであるカーソンやアレックスが調整することも多い。もしくはもっと大きい組織全体のイベントをする時などは、アドミン業務を一手に担う秘書のクリスタがやることが常だった。
逆に言えば若手が飲み会を調整するという姿をぼくは見たことがない。大学を出たてほやほやのコーナーやマークというエンジニアが飲み会をセッティングすることはこれまで一度もなかった。彼らは言われるがままに飲み会の場へとついていくか、もしくは「今日は飲み会は行きたくない」と言って断るかだ。マネージャーや周りの先輩エンジニアもそれを普通のものとして受け入れている。
日本での「仕事が出来る」とは?
こういうのを見るとぼくは思い出す。日本にいたときに自分が下っ端として飲み会の調整をしていたときのことだ。ぼくは新卒で渋谷にあるITベンチャーの会社で働いていた。チームで一番若手だったということもあって飲み会の調整は決まってぼくの仕事だった。参加者を調整して、居酒屋を探して予約し、飲み会の場ではまとめて注文をしたり支払いをしたりするのもぼくの役目だ。そして飲み会の最後にはみんなで写真を撮って後日メールで共有する。このすべてが暗黙の了解としてぼくの仕事とされていた。
上司が当たり前のように一番若い人に飲み会の調整を任せるには理由があるだろう。それは「飲み会の調整」が「仕事の基本を学ぶ機会」とみなされているからだと思う。日本では気が利いたり早く調整できたりすることを「仕事が出来る」とみなす向きがあったように思う。もちろん仕事の内容や専門職か総合職かみたいな違いでそこには差はある。ただ日本人の同僚や友達と話すといまだに「あの人は仕事が出来る」というときには暗に「調整力がある」と定義されていることが多いように思う。
そんな気遣いやこまめな調整力を身に着ける機会として飲み会の調整が有効な職務訓練として機能しているようにみなされている。そう思えるのだ。
翻ってアメリカの話。ぼくの周りにいる25歳ぐらいのエンジニアはろくに飲み会の調整も出来ないだろう。ほんとに気も回らないしそういう調整はまず出来ないと見ていい。これほんとの話です。
でもじゃあ彼らは「仕事が出来ない」のか?
それは違う。絶対に違う。
彼らは飲み会の調整も出来ないが、それでも20代半ばで年収2,000万円ほどは優に稼いでいる。彼らはどう見ても「仕事が出来る」しチームに貢献している。だから誰も文句は言わない。
ここに「仕事が出来る」ということについての考え方の違いが見て取れる。日本とアメリカでは何が違うのだろうか。この点について深掘りしてみたい。
アメリカで「仕事が出来る」とは?
じゃあここで考えてみよう。アメリカで「仕事が出来る」とはなんだろう?
ぼくが思うに「自分の責任範囲において専門性や強みに価値を提供出来ること」じゃないかと思う。前提としてまず自分の責任範囲が明確に決まっている。そして自分が提供する価値をユニークにかつ最大化するために「他人にはなかなか代替できない専門性や強み」を提供することが求められる。
だからアメリカの学生は大学の専攻を真面目に選ぶし、大学・大学院でもしっかり学ぶ。仕事終わりに飲み会に行く代わりにコーディングの勉強をしていたりする。
アメリカだとエンジニアは高給取りで悠々自適なイメージがあるかもしれない。でも少なくともぼくが今いる環境はぜんぜんそんなことはない。そこにはシビアな競争社会がある。実力があれば年齢関係なく昇り詰めていくがそうでなければ居場所がなくなる。以下の記事にもストーリー立てて書いたけれど「仕事の出来るエンジニアしかいらない」という怖い世界がそこにはあるように思える。ちなみに誤解のないように言っておくと、日本のエンジニアがぜんぜん勉強してないとかそんなことは全く思ってない。そうではなくてアメリカのほうが競争が露骨でシビアだなという話を言いたい。ぼくはどちらもズッポリと中にいた or いるからこの違いについては認識せざるを得ない。
ちなみに前述のエンジニアマネージャーのニシャや秘書のクリスタはあくまで「仕事の1つ」として飲み会の調整をやっているのだ。チームメイトのエンジニアをもてなすことが大事な仕事の一つとみなしているからやっているだけなのだ。そこに「下っ端だからなにかをやらせる」という観点はない。というか「頑張ったチームを労う」とかであればマネージャーこそやるべき仕事と考える向きがある。
「なんでも屋」ではなく「〇〇ができる人」が求められる
繰り返すけれど、アメリカでは決められた責任範囲に対してユニークかつ最大化された価値を提供することが求められる。そのために自分が勝負すると決めたフィールドで一生懸命に勉強して職務経験も積もうと頑張る。それを一生かけてやったりするわけだ。エンジニアならエンジニア、デザイナーならデザイナー、ファイナンスならファイナンスみたいな感じで。
これがちょっと違うなと思ったらMBAに行く。MBA不要論とかもたまに聞くけど、アメリカにいるとMBAはキャリアの方向性を変えるための数少ないオプションとして今でも重宝されていることを切に感じる。
日本では「なんでも屋」が頼られやすい傾向もあると思う。ただ「なんでも屋」は「なんでもない人」になる危険性もある。上司には使いやすいという理由で重宝されるかもしれないけど、グローバルで戦うとしたときに「よく分からない人」と見られてしまうかもしれない。「なにが出来るかが分からない人」はこれまで話した「仕事が出来る人」には残念ながらアメリカでは当てはまらないと思う。それは「なにに対しても中途半端」か「なにも出来ない」とみなされてしまうかもしれないからだ。
もうお気付きの方もいると思うが、この傾向はなにもアメリカ西海岸だけではない。日本でも外資系であればこういうことを踏まえて採用をしているところも多いだろうし、こういう考え方は高度な分業で成り立つグローバル社会と相性がいいので今後も世界中に広まっていくだろう。日本も「調整が出来る人」を重宝する世界から少し変わっていくのかもしれないとも思う。
いつか海外で仕事がしたいと少しでも考えるのであれば「自分が何で戦うか」を理解してそれを武器を毎日研鑽していくことがきっと大事になるんじゃないでしょうか。そう思う今日この頃です。
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今日はそんなところですね。ここまで読んでくださりありがとうございました。
旅先のブルックリンにて。アン・ハサウェイ主演の映画『マイ・インターン』のロケ地でも使われたPartners Coffee (パートナーズ・コーヒー)を訪れて。
それではどうも。お疲れたまねぎでした!
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