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他者と関わる|ラインを描く人間関係|人類学者・磯野真穂さんの講義受講ノート5
ラインを描く人間関係
私達は本当に「個性」や「あなたらしさ」を大切にする社会に生きているのだろうか 。
という問いから、今日の講義はスタートした。
主に、「急に具合が悪くなる」という本の内容に触れながら講義が進んだ。
この本は、かなりオススメです。
偶然とは何か
著作の中で、宮野さんがこう書いている。
九鬼はさらに私たちが現実に生きる偶然性を「有と無の接触面に介在する極限的状態」とか「有が無に根差している状態」と言い直しています。
つまり、『ないこともありえたものがある』というのが偶然である。
あったかもしれないし、なかったかもしれない。
それがあったというのが、偶然である。
私が偶然を問い続け、「にもかかわらずある」を語る時、その根っこにあったのは、無に囚われ、必死でそこから抜けようとする生への欲望であり、「にもかかわらずある」と語ることで自らの存在を保とうとする私の執着でした。
「無に囚われ」ていた宮野さんは、死というものに囚われていたのではなくて、ないこともありえた世界、あったかもしれない世界に囚われていたのではないだろうか。
つまり、自分が今後も生き続ける世界に思いを馳せたのではないか。
これは、死に囚われているのとは、似ているけど、違うと思う。
もちろん、恐怖や不安はあったはずだ。
未知のものは、誰だって怖いはずだし、不安だ。
自分が今後も生き続ける世界に思いを馳せながら、この著作の中に、磯野さんの記憶の中に、自分が生き続けていくことを、願ったのではないか。
そんなことを、本を読み、講義を聞いて、思った。
「死」というものは、偶然やってくるのか
「ないこともありえたものがある」のが偶然だとする。
不死身の人間と、死ぬ人間、どっちがありえないと思うだろうか。
普通は、不死身の人間をありえないと思うのではないだろうか。
あくまでも、自分の想定する「死」が、今じゃないだけだ。
だから明日も生きていると思っている人が死んでしまったら、偶然だと思うだろう。ないこともありえたものがあるからだ。
一方で、例えば、110歳の人が老衰で亡くなりましたというニュースをみても、ありえたことがあった、必然の死と感じるのではないだろうか。
必然と思っていることの多くは、認識していないだけで実は不確かなものが多い。
例えば、失って初めて大切さに気がつくことも多い。
日本では、蛇口を捻って水が出るのは当然だ。でもそうではない国もある。
僕は、風邪を引くたびに、なんて健康って素晴らしいのだろうと思う。そして、すぐ忘れる。
明日も生きていること、今日が無事に過ごせたこと、これをほとんどの人が必然、あるべきことがあったと思っているかもしれないが、ないこともありえたものがある、偶然の産物なのではないだろうか。
毎日毎日の繰り返しで、そこに当然のようにあるものを人は認識できないようになっている。そうでなければ、毎日の膨大な情報処理に脳が疲れてしまうからだ。
だからこそ、自分にとって大切なものは、必然ではないのだと、改めて認識しておきたい。
いまこの瞬間は、自分や周囲のたくさんの小さな選択の連続で、ラインを描くように成り立っているのだ。
「個性」や「あなたらしさ」というものは、小さな選択の連続の中にある。
自分の選択と周囲の選択、偶然と偶然が絡み合って、この社会にラインが描かれている。
偶然を前にあなたが選べることは「私はどうありたいか」でしかない。
(磯野氏講義資料より)
「私はどうありたいのか」
一つの僕の答えは、毎日の好きと嫌いを大切にしようだ。
それは、自分の感情を大切にするということでもある。
今日という日が、あなたにとって、最良の一日でありますように。
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