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失ってから初めて気づく大切さ(オーストラリアのプラスチック規制)

アジアンスーパーの冷蔵棚に並んでいた四角い発泡スチロール入りの納豆が消えてしまった。

オーストラリアのプラスチック規制の影響で撤去されていたのだ。

(▼詳細こちら)

代わりに目に入るのは袋入りや紙のカップに入った納豆。

環境のためとはいえ、あの見慣れた姿が消えてしまったことに寂しさを覚えた。

発泡スチロールの納豆容器に対して、特別な愛着があったわけではない。

それでも、納豆といえばあの容器が当たり前だった。

小さなフィルムを剥がし、たれとからしを入れてかき混ぜる。

その一連の動作が染み付いた習慣だったのだ。

だからこそ、それがなくなった瞬間、私は初めて気づいた。あの白くて軽い四角い容器は、私の日常の一部だったのだと。


「失ってから気づく大切さ」という言葉はよく聞くけれど、まさか納豆の容器を通してそれを痛感するとは思わなかった。

人間は、当たり前のものに対して感謝することを忘れがちだ。

そこにあることが当然だと思っていたものが、ある日突然なくなる。

その時になって初めて、その存在のありがたみが心にしみる。


シドニーに来てから、私は数え切れないほどの「失って気づいたもの」に出会った。実家で家族と囲む食卓、気軽に立ち寄れる馴染みのコンビニ、ミスドやマクドナルドの季節限定商品……

日本では当たり前だったものが、遠く離れて初めて、その温かさや心地よさに気づく。

そして、人間関係でも同じだった。

昔は気づかなかったけれど、離れてみて初めて、その人の存在がどれほど自分を支えてくれていたのかを痛感することがある。

些細な会話や、何気ない励ましの言葉が、どれほど自分の心を温めていたのか。

失って初めて気づく心細さに、胸が締めつけられることもあった。


なくなったものを懐かしむだけではなく、新しい形を受け入れることも大切だ。

袋入りの納豆も、使い慣れればきっと愛着が湧くだろう。

変化に適応することは、異国で暮らす上で避けられないことだ。

でも、時にはこうして、失ったものの価値を静かに噛みしめる時間があってもいい。

発泡スチロールの納豆容器よ、ありがとう。
あなたの存在がどれほど大切だったのか、私はようやく気づいたよ。



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