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大正時代を考える~デモクラシーの隆盛と終焉に見る近代日本の分水嶺~③

今回は、前回までの内容に引き続き、大正時代を考察していこうと思います。今回は「植民地の風景」「モダニズムの到来」「大正の終焉」を主のトピックとして見て行きたいと思います。

植民地の風景―帝国主義の膨張と「周縁」への眼差し


日清・日露の二度の戦争を経て、日本はアジアにおける一等国になりました。しかし、大正期に入ると、そのような「帝国日本」の大国意識が無意識に露呈していくこととなりました。ここでの「大国意識」とは、「文明」と「遅れ」を綴る日本人の宗主国意識であり、そのような意識がむき出しになるのが、大正期の外交と植民地を巡る1つの風景です。一次大戦時に青島・南洋諸島を攻め、シベリア出兵時には長期に渡り滞在を続けたその事実は、他国に「排日感」を植え付け、欧米列強からの「警戒感」を齎す結果となりました。現地の人々からは当然ながら、日本国内からも人道主義や非戦論に代表されるように、「帝国日本」のやり方に疑問を持つ声が出始めます。

「同化か?自治か?」と観点からは、「周縁」地域の統治方法は看過できません。土地と教育に関わる分野では「内地延長主義」(=国内と同じ施策を適用)が採用され、「東亜の平和」を齎すという論理により植民地政策が正当化されていったのです。

日本の「植民地政策」に直接対抗しようとする動きでは、1919年に起きた「三・一独立運動」「五・四運動」は興味深いと言えそうです。第一次世界大戦の講和会議における米ウィルソン大統領の宣言(平和14か条・ウィルソン主義)は「民族自決」のムードを刺激し、植民地支配下の独立運動を誘発することとなりました。特に19年3月1日に朝鮮の京城(現在の韓国ソウル)から拡大した独立運動では、運動後に植民地統治の在り方そのものの転換を迫られる事態(武断統治から文化統治)となり、植民地統治論の隆盛を促しました。そのような中で、石橋湛山や柳宗悦のような、植民地支配を批判する知識人の存在は注目に値します。

第一次世界大戦後、東アジア秩序は大きく変化しました。ワシントン体制下での四か国条約、九か国条約締結によって軍縮(山梨・宇垣軍縮)へと舵が取られ、軍備の再編成・合理化が進展していきました。しかし、一方で東アジアを巡るアメリカ・ソ連・中国との緊張状態は一層高まり、牽制状態が続きました。国際連盟の発足によって、一見「平和な時代」が到来したと錯覚しますが、実際のところアメリカは連盟に加わらず、ドイツは戦争の「大きすぎる代償」を背負われることとなりました。第一次世界大戦の結果と処理は、新たなる緊張関係を生み出していたのです。

モダニズムと社会の変容―「都市」「女性」「日本」

1923年9月1日、関東一帯をマグニチュード7.9の大地震が襲いました。関東大震災です。この震災の時、デマの流行による朝鮮人虐殺が起きた事はよく知られています。都市での日雇いに従事していた民衆が、今度は朝鮮人に自ら手を下すという事態に陥るわけです。震災自体は都市の構造ゆえ火災による死傷者が圧倒的に多く、震災後、後藤新平主導のもと、帝都復興院は都市の復興を進めました。この時、「震災は天の戒めである」という説の流行により社会文化的にも「国体」の引き締めが加速したことはあまり知られていないかもしれません。また、関東に住んでいた知識人・文化人の多くが京阪神に転居し、20年代後半にかけて独特の文化圏(「京阪神モダニズム」)を形成していったことは興味深いと言えます。

「主婦」と「職業婦人」の登場に関して眺めると、女性の社会参加に加えて女性雑誌の登場により、合理的に生活する女性の生活スタイルが確立したことを記しておかなければなりません。前回記した『婦人公論』に加え、家族を持ち、家庭の中で家事・育児を担う女性の生き方を取り扱うメディアが進展し、例えば『主婦之友』のような雑誌が相次いで創刊されていったのです。「タイピスト」「事務員」等が職業婦人として出現したことはよく知られていますね。

文化・思想面では、「日本」を見つめ直し、近代社会の中で相対化させる思想が数多く提出されたことが興味深いと言えます。例えば、柳田國男の「常民」という考え方は、社会の基盤を形成し、習慣や風土、文化、伝統を担う民衆に他なりませんが、西洋文明の流入と並行して日本の在り方や伝統を探る動きが進んでいたことは看過できません。「日本という国は何だろうか」という問いが積極的に発せられ、学問世界を中心に検討が進んだ20年代半ばから後半にかけては、巨視的に見れば30年代以降の「ナショナリズム」の萌芽期と言えるかもしれません。

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「大正」の終焉と戦争の足音―恐慌下の社会

大正の終焉は、明治のそれとは異なって衝撃はそこまで大きくないと言われています。むしろ、「明治という時代」を相対化させて近代日本を検証する意識の高まりが顕著だったと言えます。

1925年に普通選挙法治安維持法が成立します。背景にデモクラシーの隆盛、ソ連の誕生、日ソ基本条約の締結があったことは明らかですが、この両方が同時に成立したことは改めて興味深いと言えます。すなわち、「飴と鞭」=「統合と排除」の構造によって「国民化」のシステムが構築されたのです。国民は、帝国日本の政策に賛成するか、賛成しつつ部分的に批判するか、排除されながら全面的に批判するか、のいずれかの政治社会的な姿勢の選択を迫られることとなりました。思想的限界から転向を図る者も現れました。社会主義と共産主義、自由主義が絡み合った複雑な時代思潮は、国家社会主義的雰囲気を生み出し、後の戦争の時代へと知識人達を惹きつけていきました。

大正中期以降、日本は数多くの恐慌を経験しました。1920年には一次大戦に伴う戦後恐慌を、23年からは震災恐慌を、27年には金融恐慌を、そして29年からは世界恐慌に伴う昭和恐慌と対峙することとなりました。利益誘導と疑獄を通して政党政治に対して溜まったフラストレーションは、国家社会主義的ムードと結合していき、「外」へと強硬的な姿勢へと転じていきました。20年代後半期の、大正から昭和前期の若槻礼次郎内閣、田中義一内閣、浜口雄幸内閣を内政・外交の側面からそれぞれ対比すると、1930年代の「戦争の時代」へ突き進む日本の姿をより理解できるでしょう。政治的腐敗と外交手腕に対する不満の高まりは、「憲政の常道」がわずか8年で終焉を迎えたという歴史的事実に如実に表れています。政治・財閥への不信感、世界的大恐慌、メディアを通じた「世論」の形成力の確立は、「昭和維新」を求める世相を作り出していったのです。

(終)

※ 文献は次回末尾に載せます。

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