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批評家、という仕事について / 入江風子

今日は携帯から書いています。

批評家という人たちはきちんと仕事しているのだろうか。という疑問について。

恐らく、しているだろう。と思う。

ただ、それは個人的に「いいね!」と思うかとは違うかと思う。

批評家の人たちは、優れたバランスの取れているいまの時代に求められている作品を、良しとする。それが売れる。それがプロの経験値だ。

若いっていいね。とか尖ってて良いんだよ。って話でもないし、

十年かけて書いた渾身の作でも、ある一読者には、エゴの塊でつまらないと思われるかも知れない。

世の中には、たった数日しか逢わなくても、
私の胸に刺さる言葉を残してくれる人がいて、

私は彼らの残してくれた言葉のように甘やかすことはしないから、滅多に人の作品は褒めない。

私からする最高の褒め言葉は、誰か第三者にお勧めすることだ。

すごい
うまい
かっこいい
頭が良い

こういう本人に対する、分かり易い言葉は使わない。

自分とも比較しないし、その人がどれだけ成長できたかを褒める。

どれだけ自分という殻を破れたかを、褒める。

ただ、共通の趣味もない人に興味のない本をお勧めするのは、おせっかいだ。

だって全く興味がない人にも、下手すれば逢ったことのない見ず知らずの他人に、

裏で、表で、
「この人の作品とても良いから、是非読んでみて」、と言っているのだ。

もう一度言う。

大切なことは軽々しく言わない。

そんな簡単なことも分からないような、上っ面の付き合いしかしていないような人なら、友達としても付き合いたくない。

それに、酷評するかもしれない。

あーだこーだ、嫌になるくらいダメ出しするかもしれない。

そこに愛がなければ、有り余る金で物を買って、金を増やすのは簡単だから、帯の一つも書くのかもしれない。

だが、私は育つものにしか、水をあげない。

そう言う意味で、伸びしろのある人の尻しか叩かない。

そう教え込まれてきた。

また批評家も、そうであろうと思う。

私は良くサディストと理解されがちだが、全くの誤りである。

サディストは、根気良く相手を気持ちよくする為に、本気で怒っているのだから、


私はただの癇癪持ちであって、社会に対して憤っているのだ。

そして、気晴らしに、と友達が選んでくれた、とんでもなくつまらない映像作品を見てしまった。

誰もが写真を撮れるが為に、寫眞家が泣いている、なんて哀しい時代だろう。

誰もがエッセイを書けて、誰もがCGを描けて、

誰もが社内では不倫、車内では携帯エロ漫画、

そんな社会は、許せない。

私は、批評家の小林秀雄を高校生の頃から愛してやまなかった。

そんな批評家とは何か論じたくなるくらい、意味のない映像と音楽が劇場公開されていて、

結婚、出産を経た嫁に興味がなくなった男たちの好奇の目を、

勘違いしている若い女たちを不憫に思う。

「本当にすごい」と思えるのは、若さと未熟さ故であると思う。


私は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールになりたかった。

ジャン・ポール・サルトルを愛していたから。

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