「火の鳥」連載初出ver.の復刻 書架で艶めく大全集
“マンガの神様”手塚治虫の作品は、単行本化される際、しばしば内容が改変されていることをご存知ですか?
どんな漫画作品でも、単行本化される際に多少、加筆・削除・修正されることがありますが、手塚作品における改変の度合いは、かなり大幅な場合があります。コマ割りや台詞、ストーリーなど、作品によって程度は異なりますが、オリジナル版との違いはなかなか複雑です。
改変の理由の一つは、各時代に沿って常にアップデートしたものを読者に届けたい、という手塚治虫のサービス精神であると言われています。ですが、違いがあれば知りたくなるのが人の性。熱心なマニアはもちろん、多くの手塚ファンにとって、各作品の変更点は大きな関心事となりました。
現在、そんなファンの好奇心に応えているのが、雑誌初出時の内容を忠実に再現したオリジナル版の刊行です。以前は、初出時の貴重な雑誌を入手するしかありませんでしたが、特に2000年代以降、そうした初出オリジナル版が、複数の出版社から刊行されるようになったのです。
さて、復刊ドットコムでも数々の手塚作品のオリジナル版を出版していますが、中でもひときわ存在感を放つのが、『火の鳥《オリジナル版》復刻大全集』(全12巻、2011〜2012年)です。
同大全集は、手塚治虫の代表作の一つ「火の鳥」の全エピソードを、ストーリー的な内容はもちろん、連載当時の雑誌のサイズ、扉絵、カラーページ、予告カット類まで再現し、文字通りオリジナルそのままの復刻を試みたもの。
復刊ドットコムが復刊してきた漫画作品の中でも、作品の知名度やリクエスト数が非常に高く、特に力を入れて制作された代表作の一つです。
本記事では、同大全集の企画から編集を振り返るとともに、それを支えた編集者の陰なる尽力をご紹介します。
唯一無二の大型企画『火の鳥《オリジナル版》復刻大全集』
手塚治虫のライフワーク「火の鳥」の連載期間は非常に長く、「漫画少年」(1954-55)、「少女クラブ」(1956-57)、「COM」(1967-73)、「マンガ少年」(1976-81)、「野性時代」(1986-88)の各誌で、足かけ35年にわたり連載されていました。他の手塚作品の例に漏れず、同作も単行本化される際には、そのつど、大幅な改変が行われており、初出オリジナル版は幻の存在として復刻が切望されていました。
しかし、大河作品「火の鳥」全作品のオリジナル版を出版するとなれば、大変な編集作業となることは明白で、責任重大です。その企画・編集を務めた担当者は、「一度始めたら途中でやめられない、巨大な山脈を登るような冒険でした」と表現しました。
『火の鳥《オリジナル版》復刻大全集』は、書籍としての“豪華さ”にも配慮されています。内容だけではなく、装丁や造本の面でもこだわり抜かれているのが同企画。大全集と銘打ち、初版完全限定、つまり重版することを想定していないからこそ、ただ一回だけ、”これ以上はない”と思える完成度を目指す企画でした。
とはいえ、それだけの企画を完遂するには、相応の時間と費用が必要です。編集面だけではなく、宣伝や販売面での社内の準備と施策、そして成功が不可欠でした。
その点、復刊ドットコムでは、多くのファンからのリクエストという形での事前の反応リサーチや、ネット通販を活用した販売など、企画を支える環境は整っていたと言えるでしょう。それでも、準備開始から告知までに要したリードタイムは半年以上と長いものでした。
さまざまな検討が重ねられ、予価を含むトータルイメージが固まった上で、ようやく実制作に入ることが許された大型企画だったのです。
高揚と忍耐の編集作業
『火の鳥《オリジナル版》復刻大全集』の制作は、一般的な書籍とは逆の順序で進められました。まず、「◯◯編」というエピソード単位に沿って、全巻分のページ割りや、装丁、造本といった”大枠”を先に決め、次に、各巻を作っていくやり方です。
そこでは、大全集の名に見合う、重厚感ある仕上がりが意識されました。
サイズは掲載雑誌と同じB5判、褪色しにくい中質紙を用い、糸を使った“かがり綴じ”のハードカバー。黒い布張りのハードカバーの表紙に、金刷りで火の鳥のイラストとタイトルをあしらっています。文芸書のように見返しを付け、また、背の上下には、本を丈夫にし、装飾する役割を持つ花布(はなぎれ)、漫画単行本では珍しいスピン(紐状のしおり)、収納用の堅牢な化粧箱が採用されました。
そして、肝心の誌面に関しては、初出時に限りなく近い形で再現できるよう編集作業が重ねられました。オリジナルの雑誌をスキャンし、きれいに補正していく作業は、レストア技術が進歩してもなお、人の目によるチェックが欠かせません。編集者が一コマ一コマ丁寧に目を通し、線のかすれや滲み、ヨゴレやゴミ、色味などを細かく修正していくのです。
担当編集者は、当時の編集作業について次のように振り返ります。
「架空の本のデザインを事前にイメージして宣伝用の画像を作ったり、各巻のページ数や定価を割り出したりというのは、自分の中の引き出しを開けまくったり、試算を重ねるという、一種の頭脳労働ですよね。一方で、毎月、山のように積まれたゲラを、ボールペンの赤インクがあっという間になくなるくらい細かく校正するのは、どちらかというと肉体労働。
どっちも大変ですが、刺激や新発見が多くワクワクしました。でも同時に、めげてしまいそうな忍耐を必要とする作業でもあったんです。その二つが常にせめぎ合う状態が続きました。」
常に完成形を想像し、先読みしながらの作業は、特殊で骨の折れる仕事だったと言います。ですが、その甲斐あってか、のべ2年がかりで完成した復刻版の評判は上々でした。
『火の鳥《オリジナル版》復刻大全集』は、連載当時の雑誌をそのまま読んでいるかのような懐かしさと、火の鳥という壮大な物語に相応しい迫力を兼ね備えた仕上がりとなったのです。
「大全集」に込めた想い
ところで、復刊ドットコムにおける手塚作品の全集は、2009〜2011年刊行の『鉄腕アトム《オリジナル版》復刻大全集』に始まり、その後、「火の鳥」「ブラック・ジャック」「ブッダ」「三つ目がとおる」など、計7タイトル、数十巻に及びます。
いずれも「大全集」の名を冠する愛蔵版で、同じ編集者が手がけたものですが、実は、コンセプトや造本が必ずしも同一だったわけではありません。
例えば、『ブラック・ジャック大全集』(全15巻、2012年〜2013年)では、B5判、カラーページの再現や扉絵の収録、といった点では『火の鳥《オリジナル版》復刻大全集』と同じですが、誌面は雑誌からではなくオリジナルの原稿からスキャンして制作した点、ソフトカバーの本に黒いスリーブケースを付けた点(「火の鳥」ではハードカバーに化粧箱)など、いくつか異なる点もあります。
このような違いが生まれる理由は、それぞれの作品が持つ固有の事情(初出版と単行本版の違いの度合い、元素材のコンディションなど)もありますが、編集者によれば、作品そのものが持つ個性を重視したためだと言います。曰く、「『火の鳥』が荘重でクラシックだとすれば、『ブラック・ジャック』はシャープでモダンな作風」。編集の方向性は、各作品の個性によって自ずと決まってくるはずであり、その結果として現れたのが各作品の仕様の違いなのです。
一方で、「大全集」という、やや古風な名称とスタイルで手塚作品をまとめ続けたのは、編集者のこだわりでもありました。数ある文学作品、漫画作品の中でも、名実ともに「大全集」と呼ぶに相応しい作品は限られていますが、手塚名作にはその資格ありと考えたのです。
「僕がイメージしていたのは、昔、父親の書棚に並んでいた、1950−60年代に一世を風靡した平凡社の『世界大百科事典』(全32巻)。紙の書籍の到達点の一つというか、堂々たる造りで、存在感がすごかったんです。でも、そうした造り、フレームに見合う内容でないと、やっちゃいけない。当時、手塚プロの方からは、『“大全集”が好きですね』と笑われちゃったんですけどね(笑)」
編集者自身も、少年時代に手塚作品に魅せられたファンの一人。読者として、編集者として、両方の理想を結集させようと試みた「大全集」は、その立ち姿も美しく、今も読者の書架を飾っています。
未来に繋がっていく「火の鳥」
さて、『火の鳥《オリジナル版》復刻大全集』に始まった復刊ドットコムの「火の鳥」企画には、まだ続きがあります。
大全集が完成した2012年、出版記念として「火の鳥 複製原画展」を各書店で開催し、そこで展示された複製原画が欲しいと言う声を受けて、「複製原画集」が企画・発売されました。
同じく2012年、手塚治虫が製作・総監督した劇場用アニメーション映画『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』(1980年)のストーリーボードをまとめた『火の鳥2772 ストーリーボード集[完全版]』(上・下巻)も、大全集の別巻として出版されています。
その後、『火の鳥 オールカラー画集』(2019年)などを経て、2021年、「火の鳥 黎明編」の実写化作品である実写映画『火の鳥』(1978年)のBlu-rayおよび、トレジャーBOXを発売。
同映画は、原作の手塚治虫に加え、監督は市川崑、脚本は谷川俊太郎、テーマ音楽はミッシェル・ルグランと信じがたいほどの巨匠たちとオールスターキャストが集結した超大作でありながら、権利関係が複雑だったために一度もパッケージ化されず、“幻”とまで言われた作品。
復刊ドットコムで多くの手塚作品を手がけた編集者が、十数年をかけて実現に漕ぎ着けた企画でした。
そして、実はこの企画、同編集者が復刊ドットコムで手がけた最後の大仕事でもありました。同氏は、次のように振り返ります。
「長くかかってしまいましたが、逆に、それだけの時間がかかったからこそ、ノウハウも人脈も整ってできた企画だと思います。社内、社外ともに多くの方々が、本当に力強く協力して下さいました。苦心もしましたけど、そのぶん達成感がありました。実は、会社に入った頃(2010年)から社内では企画に内諾をもらっていたものだから、ずっと十字架を背負っているような気分でした。『在職中に、これだけはやらないと』という思いがあって、実現したことが一つの区切りになった気がします。」
担当編集者が社を去ったことで一旦の区切りがついたとも言える「火の鳥」企画ですが、火の鳥は、その名の通りフェニックス(不死鳥)です。
2020年より、先の大全集が、手に取りやすい判型(A5判)とソフトカバーによる新装版で刊行開始。オリジナル版の内容を読めるのは同大全集だけとあって、品切れ後も復刊リクエストは絶えず、その要望に応える形での出版となりました。
読み返すたびに、新しい発見と感動があるのが「火の鳥」。
「復刻大全集」を一つの通過点として、これからも、新たな視点、さまざまな形で、新鮮な企画が生まれていくに違いありません。
「火の鳥」(C)手塚プロダクション
※本記事は2025年5月までの期間限定で公開しています。
■取材・文
Akari Miyama
元復刊ドットコム社員で、現在はフリーランスとして、社会の〈奥行き〉を〈奥ゆかしく〉伝えることをミッションとし、執筆・企画の両面から活動しています。いつか自分の言葉を本に乗せ、誰かの一生に寄り添う本を次の世代に送り出すことが夢。
https://okuyuki.info/