【ショートショート】野球の日
時計職人の田中さんは、あまりにも精巧にできていたので、誰も人間だと信じて疑わなかった。
「田中さーん」
と、安井食堂を経営している安井さんが店に入ってくる。
「急なお願いがあるんだけど」
「なんでしょう」
「今日、これから野球の試合に出てくれないかな」
「えっ」
「古道具屋の後藤さんがギックリ腰になっちゃってね、うちの商店街のチーム、九人しかいないから、誰か抜けると試合にならないんだよ」
「私は野球を知らないのです」
「なに、立っていてくれるだけでいいからさ」
「そうですか」
田中さんはそのまま店のシャッターをおろし、公園付属のグラウンドに連れて行かれた。
「田中さんと後藤さんは同じくらいの身長だからユニフォームも合うと思うんだよね」
田中さんは商店街チームのユニフォームに着替えた。
「野球ってなんですか」
「ほんとにぜんぜん知らないの?」
「はい」
「まあ、スポーツというかゲームだね。ボールとバットを使うんだ。ボールはこれ。バットはこれ。ピッチャーがボールを投げて、キャッチャーがそれを受け取る。打者がそれを打つんだな。つまり、ボールを投げる側と打つ側に分かれて、交互に役割を交代して、なるべくたくさん点をとったほうが勝ち」
「はあ」
と田中さんはぼんやりしている。
「ま、見ていればわかると思うよ」
試合は商店街チームの攻撃から始まった。
第一打者は、安井さん。ストライク、空振り。ストライク、空振り。ストライク、空振り。あっという間の三振だった。
続く二人も三振で終わった。
「速いなあ」
「剛速球だ」
相手の下町ファイターズは強豪だ。
田中さんはグローブを手渡され、ライトの守備についた。
「ボールが飛んできたらキャッチして、投げ返してくれ」
と安井さんがいう。
「できますかねえ」
「まあ、気楽に気楽に」
下町ファイターズはばんばん打ってくる。ライトにボールが飛んできた。田中さんは言われた通り、ボールをキャッチする。
「ナイスキャッチ!」
と安井さんたちが叫ぶ。
こうして回が進み、いよいよ田中さんに打撃の順番が回ってきた。
「バットを振ればいいんですね」
「そうそう。頼むよ、田中さん」
田中さんは、これまで観察してきたように、バットを大振りして三振した。
「惜しかったが、まあ、最初はこんなもんだ」
なにが惜しかったのかなと田中さんは考える。
試合は下町ファイターズの圧倒的な優勢で進んでいった。
五回にようやく商店街チームに二塁打のヒットが出た。みんな、大喜びだ。田中さんは首を傾げる。あれ。ボールを打ち返したほうがよかったのかな。
やがて田中さんの順番が回ってくる。
「ボールを打ち返せばいいんですか」
「そうだよ、田中さん」
田中さんはホームランを打った。
「すげー」
「田中さん、走れ走れ。一周してくるんだ」
田中さんは二回ホームランを打ち、試合は九対二で終わった。
「いやー、田中さん、野球の才能あるよ」
「うちのチームに入りなよ」
「いえいえ。私にはちょっと無理みたいです。疲れてしまいました」
「そうかあ。まあ、また、困ったときには助けてよ」
田中さんは店に帰ると、鍵を閉め、自分の修理にとりかかった。ふだん大きな運動をするようには作られていないので、いろいろな部品が消耗してしまったのだ。まず右腕を取り外し、左腕を使って、器用に分解していく。壊れてしまった小さな部品を取り替える。
左腕、右足、左足と分解修理を終えて、ホッとため息をつく。
「どうにも疲れた一日でした」
と呟き、休息モードに入った。
(了)
ここから先は
朗読用ショートショート
平日にショートショートを1編ずつ追加していきます。無料です。ご支援いただける場合はご購読いただけると励みになります。 朗読会や音声配信サー…
この記事が参加している募集
新作旧作まとめて、毎日1編ずつ「朗読用ショートショート」マガジンに追加しています。朗読に使いたい方、どうぞよろしくお願いします。