法華神道秘訣 第二巻 現代語訳

法華神道秘訣二巻

八幡の事。八幡神とは、第十六代の応神天皇である。八幡愚童訓という書には、「第十四代の仲哀天皇(応神天皇の父で、妃の神功皇后は第十五代天皇)の時代、異国から日本へ貢物を捧げる為に塵輪(じんりん)という者がやってきた。姿は鬼神のようで、体の色は赤く頭は八つあり、眼は太陽のように輝いている。黒雲に乗り、空を自在に飛び回り、人々を殺していた。これを射殺そうとしても、弓が折れてしまい、近くに寄れば心が惑わされて逆に殺されてしまう。ついには討伐しようとする人も居なくなってしまった。仲哀天皇はこれを聞いて民衆を憐れみ、自ら十善の力(前世において十の善業を行ったものが帝王に生まれ変わる事が出来る、という考えから、天皇の事を指して「十善帝王」「十善の君」という尊称が生まれた。ここでは帝王の徳の事。)によって降伏させようとした。そして、妃(神功皇后)に暇乞い(挨拶)をした際、皇后は「たとえ女人の身であっても(国を守る為に)戦いたい」と申し上げた為、皇后と共に五万の軍勢を引き連れて出発した。長門国豊浦郡(現在の山口県下関市及び美祢市の辺り)に着き、阿部高丸(あべのたかまる)と介丸(すけまる)に仲哀天皇の滞在する屋敷の門を守らせて「もし塵輪がやってきたのなら急いで知らせるように。決して人の手で倒そうなどと思うな。」と言い含めた。二人が弓矢をたずさえて門を守護する事、六日目、黒雲がたちまちにやってきて塵輪が目を怒らせて弓矢をたずさえてやってきた。高丸はこの事を武内大臣(武内宿禰。伝説の名臣で蘇我氏などの祖)に報告して仲哀天皇にお伝え申し上げると、天皇は自ら弓を持って矢を放った。その矢は塵輪の首に刺さり、頭と身と二つになって落ちた。塵輪を討伐した事にお喜びになったのもつかの間、流れ矢が天皇の玉体(お体)に当たり、お倒れになった。そして「今、皇后の胎内にいる子は日本の主と成る子だろう。その位に就くまでの間に異国を征服せよ」とご遺言を残されて、その三日後の二月六日に崩御なされた。(この話は神楽の「塵輪」として伝えられるほか、八幡愚童訓の記載の他に岡山県牛窓町(瀬戸内市)にも同様の話が残っている。ただし、ここでは神宮皇后が朝鮮を征伐する途中に塵輪鬼を倒し、さらにその帰途に牛鬼と成って化けて出た塵輪に対して住吉明神が征伐するという形と成っている。また神楽「塵輪」では仲哀天皇が崩御していない場合や、更に「塵輪」が新羅より数万の軍勢と共に来た、朝廷のまつろわぬ民たち(熊襲 くまそ)への征伐に対抗してきた、とするものもある。いずれも、日本書紀内にはそれらの記述は見られない。ただし、現在、広まっている仲哀天皇の崩御の原因は神々のご神託を疑ったことの祟りと記しているが、異説や天書紀などでは九州南部の熊襲征伐の際に熊襲の矢に当たった、と記すものも存在する為、上記の説はそうした説から生まれたものであると推察できる。)
その後、神功皇后は物狂いになられた。武内大臣が御簾を巻き上げて、いかがなされたか、とお問いした所、「私は五十鈴川のほとりに住む天照大神である。三韓(歴史用語としては三韓とは朝鮮南部の馬韓、辰韓、弁韓の三つから成り立つ辰国を指すが、この場合は新羅、百済、高句麗の事を指すか。)は既に十万八千の船を浮かべて数千万の軍勢が日本に攻めてこようとしている。この国に着く前に急いで責めなさい。」と述べられて神は天に登られた。その後、皇后が二心無く純粋な信心によってご祈祷し、諸神に敵国の降伏を祈り、さらに四王寺の山に登り四天王に護助を祈って鈴を榊(さかき)の枝に付けて高く振って神々を呼び、七日間神楽を捧げた。この神楽の一音に驚いた神々が来ってまず虚空に光明が満ちてその中から虚空蔵菩薩が現れた。この虚空蔵菩薩が老人の姿として現れて皇后に「私は地神五代の「彦なぎさだけの尊」(ひこなぎさだけのみこと 一般にはウガヤフキアエズという名前で知られ、日本書紀における正式名称が「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」である。)である。(ここで著者日澄の注釈が入る。私(日澄)が考えるに、これは津守の浦におわす住吉明神の事である。ある説には第五代孝昭天皇の事であるともいう。) 軍は大将を先にして進軍する。私は老齢であるから、この国に留まり、仲哀天皇の皇子をお守りしよう。高良の神を祀って三韓を征伐せよ。」と仰せになられた。(訳者注 この高良の神とは今日の福岡県久留米市の高良大社に祀られる高良玉垂命(こうらたまられのみこと)の事か。ただし、高良大社の創設は応神天皇の子である仁徳天皇の時代であり、更にこのご祭神に対しては謎も多く明らかになっていない。) また住吉明神がおいでになられて「船が舵取りをもって主柱と成すが、誰がこの舵取りを司る神と成るだろうか。」と仰られた。それに対して武内大臣は「住吉明神にはお考えがもうあるだろう」と述べると、明神は「安曇礒良(あずみのいそら)という者がいる。」と勧めた。(この安曇礒良とは安曇氏一族の祖神で海の神であり、太平記には住吉神に誘われて現れて神功皇后の征伐を助けた話が残っている。また北九州の航海を取り仕切っていたのは安曇一族であると考えられる。)
私(日澄)が考えるに、住吉明神とは都の近辺に居て御所をお守りする為に檍原(あわぎはらまたはあをきはら 宮崎県江田神社あたりの地名を指すか。イザナギノミコトが黄泉の国から帰ってきた際に穢れを落とした場所)から津守の浦(現在の大阪府住吉郡の辺りか)にお移りになられた。そのため、この辺りを住吉と言うようになった。続古今集に曰く
 「西の海や あはきか原の 塩路より あらはれ出(いで)し 住吉の神」(遠い西の海の向こう側、宮崎の檍原から海を渡って住吉の神がおいでになられたのだ。)
卜部兼直(うらべのかねなお)がこの歌を詠んだのはこれを示している。
また住吉明神とは海の案内者である。先の安曇礒良を招くとき、彼が管弦(かんげん 楽器の事。音楽)を好む事を教えた。皇后は礒良を招くために船の中、海上に向かって管弦を奏でてお待ちになった。すると礒良はたちまち常陸国(茨城県)から豊浦(山口県?)までおつきになられた。磯良は海の底に長い事いらっしゃった為、顔にカキが付いている為、それを恥じて衣を顔にかけた姿で、管弦の音に合わせて「清農」という舞をしながら船に浮かび上がった。(どういう舞なのかはわからない。) この曲は伶人(朝廷の雅楽を担当する官人)が今に伝えて家の秘曲の舞とする。磯良は鹿島明神、大和(奈良)においては春日明神、筑前(福岡県)においては鹿島大明神とは一体分身の関係で両者は同体であるとされている。船を用意しようとして長門国(山口県)の「ふさなき山」(所在は不明)に入って材木を伐採し、宇佐郡において四十八の船を造り、また住吉明神が申されるには「戦は謀(はかりごと 計略の事)をもって第一とする。シャカラ龍王(八大龍王の一人)には旱珠(かんしゅ 潮を引かせることの出来る珠)と満珠(まんしゅ 潮を呼ぶことの出来る珠。旱珠と合わせて日本神話にも記述あり。)をお持ちになられている。それをお借りして敵を降伏させるべきだ」として、皇后の御妹である「豊比呼」(トヨヒコ 肥前国風土記に記載がある豊姫の事か。)というお方に香良(こうら 住吉明神の御子である香良明神を指すか)と、磯良(安曇磯良か)を付き添わせて龍宮へと送られた。この豊比呼とは、肥前国(佐賀県長崎県)の河上明神(肥前国一之宮)として顕れになられたお方である。さて、三人のお使いが龍宮に着いて「もし珠をお借りする事が出来たのなら、これから生まれてくる皇子を龍王のお婿と致しましょう。」と申し述べると、龍王はお喜びになって珠をお貸しした。そうして龍宮に遣わしてから三日後、珠を持ち帰った上に諸々の小さな龍たちがお付き添いして皇后の船を守って航海を守護させた。この時の約束から、皇子御生誕の後に龍王の娘を妃となされた。この方が八幡三所の第二の姫大神(西の御前)である。(訳注 八幡三所に比売神(ひめかみ)の記述はあるが、この比売神に関しては宗像三女神説や応神天皇の皇后である仲津姫命説もある。) 私が聞いた所に依ると、この時、トヨヒメに付き従ったのはトウ大臣(藤大臣と言う意味か。藤原氏の大臣の事。ただし、この時代には藤原氏は存在していない。)という歌もある。またアトメノイソラ(詳細不明)が付き従ったという話もある。この時、香良明神が珠を預かられた為、香良明神を玉垂命(たまたれのみこと ただし高良明神の名でもある。後述)という。こうして皇后、三十一の歳に敵国に攻め入った。その姿はまさしく「能き大将」そのもので、身長は九尺二寸(大体二メートル十六センチ)、御歯は一寸五分(大体四センチ五ミリ)で光り輝いており、男装して髪を結いあげて厳めしい表情をされて兜を締められた。更に柔和の御手には多羅寸(香木の一種か?)の弓を持つ。私が考える所、弓矢の事を「御(おん)たらし」と呼ぶのはこの事から始まったのだろう。また八目のかぶら矢(音の出る矢)を持ち、細い腰には太刀をはき、都羅畳(とらちょう 詳細不明)を踏む
御足にはわらぐつを履かれて、紅の御裳(おんも はかまの事)の上には唐綾おどしの鎧を着られている。胸が大きいため、胸の部分の鎧を高くし、更に妊婦であるため鎧を調整なされた。そうした時に高良大明神(筑後一宮の高良大社に祀られる高良玉垂明神の事か。ここでは香良明神と一緒とされている。)が私のくさずり(鎧の下部)をお使いください、と一枚切って差し出して脇の下に付けさせた。今の鎧に脇立(わきたつ ただし、今原罪に脇立という時は兜の後ろ等に付けるかざりの事を指すので、ここでは袖などの事か?)の始まりである。女性の身ながら先帝の遺誡を守って皇子が皇位に立てて国を安らかにしよう、と武具をまとい戦場に出られた。軍の大将には住吉明神、副将軍には高良明神、船のかじ取りには鹿島明神、このように歴々とした神々が皇后の前後に従い、左右居並ぶ姿は漢の劉邦(初代皇帝)に仕えたハンカイと長良(ちょうりょう)のようであった。私が聞いた所によるとこの異国追討の様相は筑後国(福岡県南部)の高良大社に詳しい縁起がある。
檍原は日向国である。この時、神功皇后の祖先であるニニギノミコトの天孫降臨の際に神々が付き従った。その際の有り様は将が兵を子の如く、兵が将に仕えるのに父の如く。(そのように君臣一体の有り様であった。今、この神功皇后の時も)、先に挙げた神々の他にも諏訪大明神、熱田大明神、三島大明神、宗像大明神など、さらに厳島大明神なども加わり諸々の神々が集合して三百七十五人、鹿島より四十八の船が着き、それぞれの神が身を分けて一つの船に三百七十五人が乗り込んでいた。そうした所に皇后はお産の気配が生じられた。御腹の事でしきりに悩まれた為、白石を腹にまかれて「私が今はらむ処の子よ、日本の主と成るのならひと月の間は胎内から出るべからず。」と仰れば、御腹のうちより十月出ることなく居座りになられた。私が伝え聞くにこの時の白石を後に祀り上げて大分宮と成った、とされる。(大分八幡宮の事か。ただし、白石の事は長崎県壱岐市の月読神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮の三か所にこの白石であるとされるものが存在している) 戦が終わるまでは生まれる事が無いので安心して異国へお向かいに成るように、との(胎内からの)声をお聞きすると合戦の事も忘れて早く皇子が生まれて欲しいという思いに駆られて、度々また再び声を聴きたいと思うようになってお尋ねすると、「私は帰国できるまで生まれる事は無い。この故は早く征伐して私を生まれさせてほしい。」と仰せになられた。 皇后は既に対馬を出でられ風をしのいで海を渡って敵国の近くまで攻め寄せられた。異賊(敵軍)は十万八千の船に四十九万六千余りが乗って翼の囲みを為し、魚鱗の陣を張った。(おそらくだが、左右に軍船を分け。それぞれ魚の鱗のように小さな陣を造っていた、という事だろう。) 矢は雨の如く降りかかり、白刃は光を交え、寄せ来る日本軍の船は敵軍の千分の一にも満たず、敵は雲霞のように大勢であり、それらが日本の船を包囲してかごに閉じ込められる鳥のように、網にかかる魚のようであった。しかし、日本軍は多勢にも恐れず皇后は高良明神を使いとして敵に降伏を勧告した。高良明神は虚空に立って勅宣(降伏勧告)を伝えたが、高麗(この時代には高麗は無いが、著者の時代には高麗が伝わりやすかったのだろう)の国王大臣は大いにあざけった。その様子を見た日本軍は高良明神に命じて白い珠を海に入れた。すると海はあっという間に干上がった。敵軍はそれを喜び、日本軍に攻め込もうと船から降りた所、日本軍側の小龍たちは海を出して船を浮かび上がらせ、さらに高良明神が青い珠を入れた時に再び海に水が広がって山や草木までも水に浸かり、敵兵はみな魚と成った。(原文表現まま) これによって敵国の王臣は耐えかねて降伏し、誓いを立てて「我等は日本国の犬となり日本を守護しよう。毎年、八十そうの貢物を奉り、全く怠るようなことはしない。もし害する心をもてば天罰を被るだろう。」と述べた。皇后はその時、弓矢で大きな石に「新羅国の大王は日本の犬なり」とお書きになって、鉾(ほこ)を王宮の門前に指してご帰国された。今日の犬追物(柵の中に放った犬を何匹、弓矢で射られるかを競う競技)は犬を異国の敵に見立てて弓矢を射る事を現わす行事であり、その為に今日まで絶える事無く続いている。(訳注 ただし史実での犬追物は鎌倉時代が始めであると一般的には言われている。) 私が伝え聞くところに依ると神前に獣を置くのは皇后のお社(御所?)から始まったとされる。その一つは獅子(ライオン)である。ライオンは諸々の獣の王であり、恐れるものが無い。仏のお座りになる場所も「獅子座」という。別の一つは高麗の犬である。これは異国降伏の心を指す。日本軍退却後に、先の新羅国の大王は日本の犬なり、と書かれた石を恥じであるために焼き消そうとしたが、かえって鮮やかに残ってしまった。またもし害する心を持った時は必ず煙が石から立ち上ろようになる、とも伝え聞いている。 このように我が国が他国から制圧されずにいるのは、ただ皇后の御威徳である。皇后が召された兜や甲冑、弓矢は摂津国難波の浦西の宮にあり、同じく三万八千人の「荒人神」の兵たちが集まった場所を「武庫の山」と名付けた。(尼崎から兵庫までの海岸付近の旧名に武庫があり、宝塚市に武庫山の地名がある。元亨釈書などによれば武器を埋めた場所、とも。) また皇后のご帰国の後は神々もそれぞれの地にお帰りになられて、住吉神は津守浦(住吉区?)に御顕れになられた。そうして皇后のご帰国の後、十日間が経ったとき、仲哀天皇の治世九年目の卯月(四月)十四日に筑前国那珂郡にてお産も無事に終わり、太子が誕生なされた。その場所をそれより「生の宮」(うみのみや)と名付けられた。または「宇美」(うみ)とも言う。この時、お生まれになられた太子は誉田天皇(ほんたのおおきみ 日本書紀には、ほむたのすめらみこと とも)と言い、第十六代の帝である応神天皇であり後には「八幡大菩薩」として神明と成って顕れなされた方である。このようにして皇后は異国征伐の次の年の春の二月に都へ向かわれて、皇子はようやく都におなりになられて三十二年にご即位なされた。武内大臣を後見にばされ、第十五代天皇(神功皇后)は六十九年に御歳百歳で四月十七日に大和国(奈良県)十市郡にて崩御なされた為、御葬礼を行い大和国篠山陵(しのやまりょう)を御陵(ごりょう、みささぎ 皇室のお墓)となられた。これ以降、異国が攻めてきたときはまずこの御陵に宝幣(ほうへい)を奉納してお祈りするようになった。(この篠山陵の事かはわからないが、現在では奈良市の狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)では無いか、と考えられている。) 八幡三所の中に東の御前大多羅志女(おんだらしにょ 神功皇后が祀られているのは事実だが、この名は不明である。) 歌には「秋篠や 卜山(とやま ただし本来は「外山」)の里の 時雨らん 伊駒の嶽(たけ)に 雲のかかれる」(奈良の秋篠のあたりの外山の里には時雨が降っているだろうか、生駒山にかかる雲がそのまま時雨となっているのだろう 原典には記されていないが西行法師の歌である。何故ここで引用されたかはわからない。)
神亀元年(七二四年)に香椎宮が造られ神功皇后を聖母大菩薩として崇められた。正直の者の頭、梢(こずえ 枝の先)のひらき、杉の枝に私は住まう、と御誓いをなされた。されば他所のスギの木は皆鋭いが、この宮の社頭のスギは梢は平である。(丸っぽいという事か?) 仲哀天皇は神明として顕れになられて三所の中の御前に八幡大菩薩とご同座なされている、と伝え聞く。(仲哀天皇の)崩御の初めは香椎に置き奉り、その後に長門国豊浦宮に送り奉った。その八幡大菩薩の父、仲哀天皇は異国の流れ矢にあたって崩御なされ、母の神功皇后は自ら敵国と戦った為、異国降伏の御志が深く末代までも軍神と成って武運を守護し王位に背く敵を防がんと言う誓願をたてられた。神功皇后三年、四歳にして東宮(春宮とも。皇太子。)に立てられ、七十一の御年に第十六代の帝位に即位なされて応神天皇と号された。治世四十一年の時代に文字が初めて大唐や異国より渡った。また衣装を縫うという事も始まったという。百済国から衣を縫う女人や色々の物作りの職人、博士、良い馬、経書(古事記には応神帝の時代、王仁(わに)が「千字文」と「論語」を伝えたとされる。それを指すか。ただし千字文は応神帝より二百年ほど後に作られている。)なども献上された、という。(ここら辺の記述はおそらく応神天皇の時代に秦始皇帝の子孫を称する秦氏の祖の弓月君や後漢霊帝の子孫を称する東漢氏の祖の阿知使主などが渡来して帰化した事などの事も現わしているだろう。両者ともに技術者集団として朝廷に仕えた。)
後に我が国でも牛馬などが渡り、塩焼きなどの調理法も持ち込まれた。その時の御歳は百十一歳という。 庚午(応神天皇四十一年)二月十五日、大和国高市郡、武智郡、豊明宮にて崩御なされた。(ただし、日本書紀ではその二年後の四十三年壬申である。) 御陵は河内国に定めて葬られた。今の誉田の御廟はこの御陵の事である。その後、様々なお姿に変化・示現されながらも慎みを持ち、人を待って明徳を隠して威徳を顕わさず。異本に馬城という所に示現する話があり、愚童訓には武家の子供は始め三歳の時に竹の葉の上に立つ、とある。(この記述の内容はわからないが、南北朝期の安居院唱導らの教団による「神道集」宇佐八幡宮の項目には八頭の翁が現れて、とある人が正体を現されるように請うと二、三歳の子供と変化して竹の葉に乗り、「私は誉田天皇である。名は護国霊験威力神通大自在王菩薩である。」と述べた。また馬城峰という場所では「石体権現」(八幡神が石の体で現れた姿か。)が女神二人(大足姫・ヒメ大神)を連れて久しく百王守護を行う為に現われた、とある。同書には馬城峰は八幡大菩薩の剃髪し出家した地である、とも記される。この事について関連があるだろう。)
神と顕れる事、人王第三十代欽明天皇の治世三十一年、正月十一日に初めて顕れになられた。崩御より二百余年後の事である。その成り行きは豊前国宇佐郡の厩峰(うまやみね)と菱形池(ひしかたいけ)のほとりに鍛冶をする老人が居た。これを人々は奇怪な事であると考え、これによって大神此義(おおかみのこれよし または大神比義おおがのひき とも)が穀物を断って三年間、篭居して精進し御幣を捧げて「貴方がもし神であるなら我が前に顕現なされてください。」と祈ると、即座に三歳の子供の姿と成り、竹の葉上に立ってご神託を下されて曰く「私は日本の第十六代誉田天皇である。廣幡(ひろはた)の八幡麻呂とも言う。我が名は護国霊験威力神通大自在王菩薩である。国のあちらこちらに神通力によって姿を変えて現れている。今ここに初めてこの姿を示して顕れたのだ。」と仰られた。その後、菱形小倉山にお移りになられた。こうした事によって朝廷は勅命を下して同じ年に宇佐の祠を建てられた。これが八幡の最初の垂迹なされた事であった。これより以後、三十三年ごとに一度、必ず作り変える事が九つの村?(原文では九刀(漢字は刀が三つ))に分担される課役である。これより以来、百王鎮護(百代にわたって帝を守る)、三韓降伏(異国の降伏)の神として伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟(先祖を祀るお社)としてあがめられる事に成る。
 八幡大菩薩と名乗る事は御出現の始めに「私は誉田天皇、廣幡の八幡丸」とあるに依る。また他のご神託には「八重幡雲がたなびく丘が私が降り立った場所であると思え」ともある。応現なされる場所には必ず八重の旗が現れるという事である。箱崎へお移りになられた時も松の上に長さ八丈(大体24メートル)ある四つの白旗と四つの赤旗が降り下る奇瑞があったという。延喜二十五年六月(延喜は二十三年までだが、二十五年というのは延長三年(925年)を指すか。)に若宮大菩薩の仰せとして七歳の女子に神懸かりご神託を下して曰く、「宇佐の地より七尺、筑前国箱崎の浜は昔私が天下を守っていた時に、「戒」「定」「慧」の三箱を埋めた場所である。太宰少弐(大宰府の役人)に命じてこの地に箱崎の宮を造ってほしい。そうすれば、この地にて仏道の戒(戒律)・定(禅定)・慧(智慧)を修行して国を守り敵を防ごう。また海辺であるから善き放生の修行(生き物を野に逃がすという修行)が出来るだろう。」と仰せになられた。早速、この旨を朝廷に報告して役人を派遣し、造宮に取り掛かった。昔、三学(戒・定・慧)の箱(何を指すかは不明)を埋めて、その上に印として松を植えた。これよりこの松のある所を「箱崎」というようになった。この松の上に赤白八旗が降り下りてきた為に「八幡大菩薩」と号するのである。これらは浅い解釈である。深い解釈としては、延喜二年(902年)の四月二日に二歳の子供に神懸ってご神託して曰く、「私は遠い遠い昔より罪深い衆生を救ってきた。いまだにその救いに預かる事が出来ていない衆生の為に今、末法の時代において大菩薩として顕れよう。偈文に曰く「得道来不動法性 自八正道垂権迹 令得解脱苦衆生 故号八幡大菩薩」(悟りを得てより真理に住して動かず、自ら様々な姿に示現して仏の説く八つの正しい道を弘めて、苦しむ衆生を解放させる。故に八幡大菩薩と号するのだ。)とある。」(この偈は石清水八幡宮の若宮社から見つかった「僧形八幡神像絵図」にも同様の文がある。) またご神託に曰く、「大覚(大いなる悟り)の山を住処とし、法性(自己の悟りの性質)を動かさず。故に大菩薩と号する。八正道を示して化身を顕わし、八幡宮と号す」とある。(八正道とは)正見(正しい見識)、正思惟(正しい思考)、正語(原文では正悟となっている。正しい言葉使い。)、正業(原文は正乗。悪業を離れる事。)、正命(正しい職業に就く。)、正念(内外の状況を正しく理解している状態。)、正精進(正しい修行。)、正定(正しい集中力)である。大菩薩の歌に曰く、
 「箱崎や 松吹風も 波の音も 尋てきけは 四徳波羅蜜」(箱崎の松に吹く風も波の音も、心を澄ませて聞いてみれば、皆四波羅蜜(常・楽・我・浄)の徳の声である。 誰の歌かは不明であるが、謡曲『箱崎』に同様の歌有り。)
二歳の子供に神託して曰く、「私は大自在菩薩であって、大明神ではない。また菩薩の三聚浄戒(さんじゅじょうかい 三種の菩薩の戒)を保っている。明神の名を改めて菩薩と名づくべし。また明日よりはお供え物も精進料理としてほしい。」と述べた。また八幡大菩薩は様々な姿にも変化する。四十九代光仁天皇の御代、宝亀八年(777年)五月十八日のご神託に「明日辰の時、沙門と成って三帰五戒を受ける。今より以後は殺生を禁断せよ。ただし、国家の為であるならばこの限りではない。」と述べた。あるいは聖武天皇の御代、「ご出家したい」とのご神託あるによって御衣と御袈裟を奉った、という。孝謙天皇の御代に和気清丸(和気清麻呂)が勅使として宇佐八幡宮に赴いた時、「私は誓願を起こした。私は様々な姿に変化(三身 法体、俗体、女体)するが、神の体と成った時には様々な善悪を裁断するだろう。また上十五日は法体(仏の法の姿)として仏法を守護し、下十五日は俗世間の体として国家をお守りしよう。」と。
誉田天皇の第四皇子第十七代の仁徳天皇から今上天皇に至るまでいずれも大菩薩の御子孫にあらざる者は無い。その上、八幡宮において御殿の中よりお声を出してただちに勅使に返事をなされるのである。第四十六代孝謙天皇の命令で和気清麻呂が勅使として様々な幣束を宇佐八幡宮に奉った。道鏡法師の践祚(皇位に即位する事。同時代、権力を握った僧侶の道鏡が皇位を狙った。)に関してお伺いするに、神護景雲三年(769)七月の初めに女禰宜(ねぎ)にご神託に「宣命聞き給うべからず。」(道鏡法師を践祚させるべきではない。) その後、清丸が禰宜のもとに参じた時、「神のお姿を顕わされて朝廷への御返事をお聞きしたい。」と申し上げると、この時に宝殿が揺れ動き、御殿の内より紫雲がたなびき、満月の輪が顕れて高貴なお姿の方がおいでになられた。ご身長は一丈ばかり(三メートルちょっと)であった。その方が仰せになって曰く「我が国の皇位は天地開闢より以来、君臣の間柄はしっかり定まっており、臣下をもって王位に即位させる事は前例が無い。私は誓願を起こして曰く、三身の神体を顕わし善悪の道の理を示す。今、あなた(和気清麻呂)が述べる事は非例無道の事である。決して認めてはならない。この旨をただちに朝廷に奏上せよ。あなたはそれによって罪を与えられる事になるが、私はそれを必ず助けよう。此度は姿を顕わして言葉を述べた為にこのような非例無道の話を聞くことになった。今より後はこの言葉をとどめよ。」との神勅を述べられた為、ただちに朝廷に帰りこの事を忠実に奏上すると、大菩薩の御許しが無かったために道鏡が即位は叶わず、孝謙天皇は激怒して清麻呂が神に悪しく申し上げたからこそ叶わなかったのだ、として名を「和気穢麻呂(丸)」(わけのきたなまろ)と改めさせて足を切って(削って?)船に乗せ、風のゆくままに流させた。その船は宇佐に流れ着くと、一頭のイノシシがやってきて船に付き添い、清麻呂を乗せるとゆっくりと宇佐神宮の南楼まで連れ出した。これもひとえに大菩薩の御召し寄せである、と有り難く思い、イノシシより降りた後も涙を流して宮を拝した。その時、御殿の中から
声がして一首の歌を詠んだ。「ありきつつ きつつみれとも いさきよき 人の心を 我忘れめや」(今まで様々な歴史を見てきたが、これほどの心が潔白な人間が居た事を私は忘れないだろう。 新古今和歌集に岩清水の歌として所載。また「袋草子」にはこの説話と同様の背景が語られる。) これをうけたまわって清麻呂は有り難さのあまり無二一心の信仰を捧げると、また宝殿より五色の小蛇が寄ってきて、清麻呂の両足を舐めるとたちまちに両足は元の通りになった。心の内は喜び限り無く、帰依のあまりに一つの伽藍(仏堂)を造って法味(仏道の功徳)を捧げよう、という願いを起こした。ご神託に「男山に建立すべし」(原書には八幡山と言う、とある。)と仰せに成られた為、八幡山の奥に弥勒菩薩を安置して「足立寺」と名付けて和気氏の氏寺として今に伝わっている。卞和(べんか 史記に所載 和氏の壁、完璧の言葉の語源にも繋がる故事で正直者にも関わらず両足が切られたエピソードがある。)が両足を切られ、蘇武?が一足を切られるも(漢字からおそらく前漢の蘇武であると思われるが、足を切られるエピソードは不明。史記に所載。)、最後まで癒える事は無かった。しかし、清麻呂の両足は元のように戻る事が出来たのはひとえに大菩薩の徳のゆえである。 以上の事は欽明天皇三十一年に大菩薩として顕れて、孝謙天皇の御代、神護景雲三年に至るまで二百年あまりである。この間にも形を現してお言葉を下される事が(多々)あった。
 八幡大菩薩の宇佐より他の様々な地に移られる事、まず第四十五代聖武天皇の時代、天平四年(732)壬申、東大寺の大仏をお造りになる時に宇佐へ勅使を遣わして東大寺の鎮守として八幡大菩薩を勧請したい旨を申し上げて宮を造った。(手向山八幡宮の事か。)
また第五十代桓武天皇の御代、延暦二十三年(804)甲申 比叡山に八幡大菩薩を勧請為される事があった。聖真子(しょうしんし)がこれである。(聖真子は比叡山横川区域において信仰された地主神で、本地は阿弥陀如来である。また平安後期の大江匡房が書いたと伝えられる『扶桑名月集』には八幡大菩薩の事ともされている。) 第五十五代文徳天皇の斎衡(斉衡)二年(855)乙亥 大安寺に八幡大菩薩を勧請された。(奈良市東九条町の八幡神社を指すか。) 第五十六代清和天皇の貞観元年(859)己卯 男山の鳩峰岩清水にお移りに成られた。その縁起や釈書をかいつまんで説明すると、釈行教(この場合の釈は苗字ではなく仏弟子行教という意味)は武内大臣の子孫である。大安寺で修行しており、貞観元年宇佐八幡宮に参詣して一夏九十日の間、当地で夏安居して昼は多くの大乗経を読み、夜は真言を唱えて九十日を過ごして都(京都?南都?)に帰ろうとしたとき、七月十五日の夜に夢を見た。八幡大菩薩が顕れて曰く「ありがたく法の布施を頂いた。師(行教)から離れたくは無いのだが、師は都に戻らねばならないのだろう。私もまた従って王城(皇居)の傍に居て皇位をお守りいたそう。」と仰せになられた。行教は目が覚めて歓喜のあまり誓いを立てて、七月二十日に宇佐を立って八月二十三日にようやく山崎離宮(今の離宮八幡宮)に着いて寄宿する間、信心祈願して鎮座の所をお示しくださるよう請うと二十五日の夜、夢の中で八幡大菩薩が顕れて曰く「師よ、私の居る所を見よ。」と。目が覚めて、たちまち起きて見ると東南の男山鳩峰の上に大光が向かっていくのが見えた。実に霊妙な事である。行教はその場所を確認してまず読経して法味を捧げ、その後にこれらの事を記録して帝に奏上した。同年九月十九日に木工介(建築関係の木工寮の次官)の橘良基に詔して宇佐神祠に似せて新宮を建てた。三所の御殿、三宇の礼殿、六宇を建てた。貞観二年には御像を安置した。世には行教が八幡神の本身を祈ると袈裟の上に阿弥陀仏、観音菩薩、弥勒菩薩が顕れた。その為、御殿の中にはこの三像が安置されるのである。また男山の岩清水にはもともとは本来、大梵天王が勧請されていた。しかし、貞観に八幡神がお移りになられた為、この梵天王は栂尾(とがのお)にお移りになり、この地を応神天皇(八幡神)に与えられた。故に八幡神のご神託には「私の所に七度参るよりも栂尾(の梵天王)の所へ一度参るのが良い。」と仰せになられている。八幡三所というのは「中の御前」は応神天皇仲哀天皇がご同座され、左は「西の御前」姫大神、龍王の第二の娘である。本地は文殊、あるいは勢至菩薩、右は「東の御前」神功皇后、大多羅の娘である。(息長宿禰王の娘であるが、ここでの大多羅は本名の息長帯姫命おきならたしひめのみこと に関与しているだろう。) 本地は普賢あるいは観音菩薩。末社には日吉大明神の御子、高良明神。本地は勢至あるいは龍樹菩薩、他の末社には松童(神名とある。磯良明神を祀る一童社の事か?不明。)、本地は不動明王。若宮殿は応神天皇の第一皇子である。仁徳天皇は第四皇子である。本地は普賢菩薩、子守(神名)は本地は地蔵あるいは正観音菩薩、三輪神の本地は大日、地主神の本地は観音あるいは薬師如来、住吉大明神の本地は薬師あるいは高貴徳王菩薩という。この菩薩は涅槃経に出てくる対告衆(仏と対話問答する相手)の一人である。また貴船神は不動明王、稲荷大明神は如意輪観音、南宮(神名)は阿弥陀仏あるいは弥勒菩薩、武内大臣は阿弥陀仏、劔(つるぎ 神名)は不動明王、今若宮と小若宮の両社はいずれも十一面観音、そのほか八幡の縁起に関わる神様が二十九社祀られている。(これらは石清水八幡宮の摂末社たちの本地を説明しているのだろうが、現存するかは不明。またどことどこが対称するかもよくわからない。) 
 武内大臣の事。第八代孝元天皇(原書では孝光天皇とあるが、おそらく孝元天皇の誤り)から数えて四代の子孫。第十一代垂仁天皇十年に景行天皇と同日にご誕生なされた。垂仁天皇はことさらに可愛がり、景行天皇の時代には国の柱のような臣下(棟梁の臣)として用いられた。(ただし日本書紀では同日の生まれなのは景行天皇の皇子の成務天皇であるとする) 成務天皇三年正月に大臣の位を与えた。大臣号はこれより始まった。景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇の六代にわたってお仕えして後見して、政治を取り計らった。御歳三百八十余歳、仁徳天皇五十年に因幡国上宮の山の中に衣冠を正してお入りになられてそのまま行方知れずとなった。後にはクツのみが留め置かれていたという。(同様の伝説が因幡国風土記にあり、また鳥取県宇部神社に伝説がある。) その日をもってお亡くなりになったとしてクツを墓に納められた。応神天皇の時代は様々な政治を司り、後に応神天皇が神の姿として顕れた時はその後見として威光を放ち、武内明神とお成りになった。日夜、白張装束に立ち烏帽子を召して八幡の御殿に参詣する人々の名前を記してその望む所を成そうと八幡神にご進言なされているという。八幡大菩薩が誓願によって鳩に化身した時も、武内明神は鷹と化身して付き従い、一体の分身のようであった。昔、インドの舎衛国(コーサラ国の首都)に仏菩薩が集まって説法なさっていた時にその場所へ紫鳥という鳥が居て、その鳥が飛びまわり鳴き声が説法のようであった。その鳥は八幡大菩薩が変化なされたものであり、凡人には鳩と映るのみである、と八幡神は仰せになられたという。故に鳩は八幡大菩薩の化身である。
 本地の事は様々な説がある。仏として説かれる言葉を「経教」と名付け、神のお考えをもって仰せに成る言葉を「託宣」とする。いずれも真実の言葉である。(八幡神の)御託宣は多くあり、全て縁起に載せられている。五十一代平城天皇大同四年(809) 七月の託宣に曰く「昔、インドの霊鷲山で妙法蓮華経を説いた。この度は衆生を救う為に大明神として顕れて、この峰に過去現在未来に渡って住まい、諸々の衆生を利益する。現世には悉地(しっじ 密教における悟り)に触れさせ、後世にはその悟りを完成させるのだ。」と。藤原實元(ふじわたのさねもと 詳細不明)の七歳の娘に神懸かりして託宣して曰く、「我が本体は釈迦如来である。日本国を救う為に身を変えて自在王菩薩として示現した。」 八幡講式に曰く、「摩耶夫人を母とし、浄飯王を父とする。」(両者とも釈迦仏の父母) 八幡神は曲がった事が嫌いであり、釈迦仏はその曲がった事を正す存在である。故に両者は一体である。
 大隅の八幡の事 二十七代継体天皇の時代、中国の陳の皇帝(ちん 南北朝時代の陳か。南部に勢力を持っていたので日本との交易があっても不思議ではない。)の娘である大比留女は七歳にしてご懐妊した。父の皇帝は怪しく思い、「お前は幼少であるのに誰の子を宿したというのか。ひそかにそれを教えてほしい。」と仰せになられると、娘は「私が眠りかけている時、朝日の光が胸に当たり予想せずして孕んでしまったのです。」と述べた。皇帝も大臣も皆、不思議に思ったが、程なくして無事に出産し皇子が生まれた。そして、これらの事がとても人間技では無いため、うつほ船に母子を乗せて辿り着いた所を所領とせよ、と述べて流した。母子は大海を渡り、日本の大隅の磯の岸に辿り着いた。その太子の名を八幡と号した為、辿り着いた所を八幡崎と名付けた。その時、大隅の国の住人は「隼人」と号したが、この八幡を追放しようとして陣を張り合戦した。八幡は幼少の身であったが、隼人を猛攻してついに討ち取って首を切った。昔は神功皇后の腹に宿って三韓を征伐し、生まれ変わってはこのように弓矢の道の大将と成った。御母の「大比留女」(おおびるめ)は筑前国の若椙山へ飛び移って後には香椎の聖母菩薩(香椎宮に神功皇后が仲哀天皇と共に祀られている。)と一体と成った。皇子は大隅に留まり、正八幡宮と言われた。(鹿児島神宮の旧名が大隅正八幡宮である) この八幡宮の神人(本来は下級神官を指すが、ここでは神官の事か)が八幡菩薩の本地を議論して阿弥陀仏であるとか、釈迦であるなどの意見が出たが、ある時、御宝殿の前の大石が自然に分かれて一方には「八幡」の二字、もう一方には「昔霊鷲山説妙法華経今在正宮中示現大菩薩」(昔はインド霊鷲山にあって法華経を説き、今はこの宮に居て大菩薩として示現する)の二十字が鮮やかに顕れていた。言い争いを鎮めて一同に釈迦であると認めさせた。あるいは御殿の柱に虫食いの文が生じて「昔於霊鷲山説妙法華経為度衆生故云々」(昔、霊鷲山において妙法華経を説き、衆生を救う為に・・・(略されているがおそらく大菩薩として示現する、が続く。)
私が聞く所によると、八幡抄(日蓮聖人の諌暁八幡抄の事か)には文証、現証、誓願証の三つを示しており、現証には応神天皇のご誕生と崩御は釈迦仏と同じであると仰せになられており、縁起年代記などに大いに相違している。これらは別に口伝があっての事であり、公に示すべきことではない。
誓願に関しては釈尊は「正直捨方便 (担惜無上道)」(仮の教えを捨てる(真の教えを説く))と仰せになられている。(これは法華経方便品の経文) 偏りや曲がった事を捨てて真実の妙法を説く。これが仏の本意である。八幡神も正直の頭こそ私は住処とする、と述べられており、八正道を基にして仮の姿(八幡神)を顕わす、とある。また釈尊は日本国の主であり、師であり、親である。(八幡神も)万民を氏子となさるから親であり、様々な利益や縁起を今世と来世に示す師であり、国の主として日本を守護なさる為、主である。経文に曰く「私は一切を平等に見る」と。一切衆生の苦しみはそれぞれ異なっているが、それらはことごとく仏の苦しみである。また衆生を大切な清らかな子供(聖童)のように見る、と大悲経にはある。ご神託に曰く、「他国より我が国を守るべし云々」仏典に曰く「私は世尊(世に尊ばれる者)として及ばないものは無い。」ご神託に曰く「護国自在王菩薩(自由自在の神通力で国を守る菩薩)」とある。(これらの仏典やご神託の通り、八幡神は国や人々を守護し導く存在である。) ただし、一説に阿弥陀仏である、というのは石清水の勧請の元になった行教和尚の袈裟の上に弥陀三尊(阿弥陀仏と勢至菩薩、観音菩薩)が顕れたという故事に依るものである。 とある説に依れば岩清水において姿を顕わして行教和尚がご覧になった時は弥陀三尊と映るも、「ささやきの橋」(ささやきの語源になった岩清水の源流が通る細橋(ささやきばし)の事だろうか。)では「本地釈尊」(本体は釈迦仏である)とのささやきが聞こえたという。これらは別に矛盾する事ではない。仏神の人々を救う手立ては人々の状況やレベルに応じて様々に顕れるものであり、故に行教和尚の性質に応じて阿弥陀仏として顕れたのである。また行教和尚には釈迦と伝えても、世間の人々は阿弥陀仏を好むため、八幡神の本地が阿弥陀仏であるという事を行教和尚の伝説に寄せて語ったとも考えられる。その例は善光寺の本尊の仏を世間では阿弥陀仏というが、本来はそうではないのと同じである。(詳細不明) 釈書(元亨釈書の事か?)にも八幡神の鳩峰に移られる事を記した部分には「行教和尚が八幡神の本地を知りたいと一心に祈った時、袈裟の上に阿弥陀仏、勢至菩薩、観音菩薩が顕れた」という一段も「世の言葉である」と書かれている。世間に伝わる言い習わしである。 所詮、奥深い宗義は争う処無くはっきりと顕れている。釈尊にもあらず、阿弥陀仏にもあらず、法華経の化身である。正八幡抄(諌暁八幡抄)に曰く「八幡大菩薩は法華経の化身である。正直の心とは自然に法華経の心と合致するものである。」(以上、趣意である。)そうであるならば、八正道の教えより神としての力(権迹)を示す。故に「八幡」と名づくのである。このご神託が示す事は法華経の奥底に備わる八正道の真理から八幡神が顕れる事は、法華経八巻の化身であるという意味と合致するという事である。阿弥陀仏や釈迦仏の根本の師匠もまた法華経である。経典に曰く「(諸仏は)常にこの教えを説き示す」と。涅槃経に曰く「諸仏の師とする所」と。大智度論に曰く「諸仏が恭敬し、供養するのは法界である。故に諸仏が皆、「諸法実相」(全ての存在の真の姿)をもって師とする」と。天台大師曰く「法はこれ聖の師匠である。(中略)法は重く聖は軽し」と。よって法華経と釈尊と八幡の三体は一体であり、分身示現の関係である。八正道の本覚(生まれ持っている真理)は法華経そのものである。法華経は八年間の間、説き続けられ、これは真理の世界の姿をそのまま真実に説いた教えであるから八正の仏道である。この内証(悟り)より八邪を抱える衆生を導いて八正道に導きいれる為に神の姿に化身して結縁する。故に「八幡大菩薩」と号するのである。されば八幡大菩薩が箱崎に納めたという「戒・定・慧」の箱も、法華経の事である。また行教和尚と共に石清水の地に移ったご神体も、この法華経の事であろう。その故は先師たちの口伝に「鎌倉鶴が丘八幡宮の学頭が語るには、男山の八幡(岩清水八幡)のご神体を移し奉るときのご遷宮のご神体として当社の宝殿には紺紙金泥の法華経がある。」とある。
 天上という事、ご神託に曰く「天日継(あまつひつぎ 皇位)は必ず帝の氏から出すべきであり、その血を継ぐ皇子たちを私は守るだろう。」 称徳天皇の天平神護二年(766)十月八日の託宣に曰く「禰宜、社女によって生じた穢れに依って、我が宮を出離して大虚に雲隠れしていたが、帰り来たって天朝の御命を守り奉り、一切のものの中で朝廷の命令を最も重んじて天皇に仕え奉る事、他になし。玉体(天皇の御身)を守り奉る事、影が形に沿う如し」と。 五十一代平城天皇の時代、ご神託に曰く「私は日本国の鎮守、八幡大菩薩である。百代の王を守護するという誓願がある」と。 また曰く、「百代の王を守る為、三神として顕れる。木製(すぎ うつぎ)の社を嫌う訳ではないが、住処とする所は天子の殿である。金玉の宝を重んじない訳ではないが、それらよりも帝王の寿命を重んじるのである。」 五十五代文徳天皇の御代、天安三年(859)二月三日、ご神託に曰く、「大菩薩はこの宮にも座している訳では無い。かけまくもかしこき帝の御身を守護し奉る為に、京都に座して御殿の上を避けて守護し奉る。ただし、折々の祭の時は大虚よりこの宮にかけり来る。一切の神たちも天皇の御命に違するものは無い」と。五十六代清和天皇の時代、貞観三年(861)六月十日夜行、教行和尚に示現して曰く、「聖人、共に男山鳩峰に座して清涼殿、弘徽殿の天皇、后妃、宮、大臣や臣下、役人たちを鎮守しよう、王城鎮護の為に神道として跡を垂れて顕れた。八幡三所は護国霊験威力神通大自在菩薩である。眷属の諸神たち、二十五の菩薩、十五の童子、夜通し、昼中が王位を守護する事、影と形のようである。」と。そもそも、このように王城を守護し、帝位を大切に思し召しているにも関わらず、都が荒乱し、政治権力も衰えているのは何事であるか。百王というのは、無際限を意味する為の仮の喩えに過ぎない。しかし、いまだ百代にすら至っていないにも関わらず、平清盛公が世を乱してより公家は力を失い、八十一代安徳天皇は西海にお沈みになられ、頼朝公は天下を管理して朝廷の政治を滅ぼし、武勇の時代と成った。八十二代後鳥羽院は王道を取り戻して逆賊を討伐する為に承久の合戦を起こしたものの公家の軍隊は敗れてしまい、陪臣(臣下の臣下という意味)である北条義時に天下を取られて後鳥羽院は隠岐へと流されてしまった。八十三代土御門院は「中院」とお呼ばれになられているが、始めは土佐、次に阿波へ流される。(ただし、土御門院はそもそも討幕に反対し、承久の乱にも関与していなかった為、鎌倉幕府からはお咎めが無かったが、父親である後鳥羽院が流されるのに自らが京に居るのは忍びないとして自ら流罪を志願した。そのため、鎌倉幕府も土御門院に関しては特別の扱いの上で流罪を行った。都に近い阿波へ移されたのも配慮あっての事である。) 八十四代順徳天皇または「新院」ともお呼びされる君は佐渡へ流罪、また後鳥羽院の皇子の六条宮(雅成親王)は但馬国へ、院三人宮一人(正確には冷泉宮頼仁親王も備前に流されており、宮二人が正しい。)が流され、皆、配流された地で崩御なされている。(ただし、六条宮は一時的に許されて京都に戻るが、政争に巻き込まれた為に但馬へ送り返されている。) 、また同心した臣下たちは皆、処刑されている。 九十五代後醍醐天皇が鎌倉幕府の北条高時を討ちとったが、当家将軍の御代(足利将軍家の事か)になってからは王法公家門跡はことごとく没落した。全ては武家の裁量と成った。 今の時代(室町末期 戦国時代)に至ってはその将軍家の威勢、武家の威力も失って地下土民(本来は位の低い武士たち)が台頭するようになった。このように成り下がり下剋上する事は八幡神がこの国にはいらっしゃられないが故である。孝謙天皇の御代、天平勝宝七年(755)のご神託には「他国よりも自国、自国の五穀繁盛を成して、他人より我が人。百姓に利を等しく与えよう。御神木をカヤとするのも斧で切って役立ててもらう為である。(中略)もし我が民に一人でも悲しむべき事を起こしたのならば、私は社を去って虚空に住まい、天下には様々な災いが起きるだろう。」と。また曰く「私は天雲の中に登り、隠れようと思ってもたやすく国を捨てる事など出来ない。世間は変わっても神の心は変わらない。」と。また曰く「もし私の氏人、宮司らに悲しむべき行動があれば私は社を去って虚空に住まうだろうと思いなさい。そうなれば、自然に国土には種々の災いが起こるだろう。」 天平神護二年(766)の正月の託宣に曰く「私は誓願をたてる。もし我が氏人に損失を与えるものは一人が代わりに三百三十三人をおさめいるべし。(詳細不明。原文では埋入とある。)、また殺害しようとしたものは一人が代わりに三千三百三十三人をおさめきわめるべし。」と。(おさめいるの意味はわからないが、報復の意味だろうか。) 放生会は四十四代元正天皇の養老四年(720)九月、異民族の動乱があった。大隅、日向で反逆が起こり公家は宇佐八幡宮に祈請した。神は軍を率いて異民族たちを征伐して平定した。その時、八幡神のご神託に曰く、「合戦の間、多く殺生をしてしまった為に放生をしたい。(仏教行事で捕らえられた生き物を逃がす事)」と。諸国で行われる放生会(ほうじょうえ)はこの時より始まった。箱崎はよき放生の地としてここにお移りになり、箱崎の浜に波に打ち上げられる「虫・貝・魚・ヘツ」を拾って折桶を一つ買ってこれに入れて海に放った。この虫貝を拾い始めてより放生会というのである。このように大菩薩は生き物を憐れみ、諸国に放生会を毎年行い、畜生の死さえも悲しまれるのに、いわんや日本一同に内乱が起こって氏子万民は社前において一日に千人も一万人も死し、残された妻子や家来たち諸々の人々の悲しみは港に満ち溢れ、大菩薩はこれをご覧になりながら何もせず、ご神託はことごとく虚しい有り様であった。これをもって八幡神はお去りになった事がわかるだろう。八幡神が社を去って虚空に住まえば様々な災難が国に起こり、悲嘆があるだろうと述べた事はご神託にも経典にも載せられる事である。今の時代、様々な災難が起こり、天変地異極まり、風雨、干ばつ、疫病、内乱で国土も穏やかでは無く、人々は朝夕に嘆きの心を抱いている。これこそ八幡神がこの国を去った証である。 男山(岩清水)の放生会は毎年八月一日より十五日に至るまで、所々に人を遣わして百千もの魚を買い取って山下の小川に放って、その善根供養の為に十五日早朝に御輿山(神興山?みこしやま?しんよやま?)の下へ降りて神官たちが法会(仏教供養)を行い、楽人たちは伎楽を奏でる。その後、神輿山より下りて神官たちがそれぞれ衣服を飾り着て供奉する。その装いは誠に荘厳である。法会が終わって(神が)お帰りになるときは先の例のように、神官たち供奉の人は皆、美服を脱いで浄衣を着て白杖を突き、わらぐつを履いて送り奉る。これらは葬礼の儀式である。これらは即ち、「朝には若々しい紅顔を世間に誇るとも、暮れには白骨と成って郊原(こうげん)に朽ちる」という道理を人々に教える為であると伝えられる。八幡大菩薩は正直の頭に宿るというご誓願がある。正直というのも浅い深いがあるが、無常(時の移ろい)を知り、名利を求めずむさぼらず、仁義を学び、道理を曲げない人を「正直の人」という。この上になお、虚妄の見識を離れてまっすぐ正しい道を悟る。これを「真実の人」という。放生会の儀式はもっぱら衆生を誘引してこうした正直の道に入らせようという方便(手段)である。
八幡神は謗法の国をお捨てになられる。それは本地が仏であり、仏は法華経を根本とするからである。この仏と法とに背いてしまえばたとえ八幡神を信仰したとしても、体を離れて影を尊び、親を殺してその子に近づき、根を切ってその枝葉を育て、水源を塞いで下流の水を汲もうとするようなものである。何故に八幡神の加護が受けられるであろうか。俗世間の教えに「主には忠を、親には孝を、師には仕えよという。この三つに背けば不忠不孝として天地はこれを罰する。」と。孝経に曰く、「三千の罪があってそれらの重さに応じて五つの刑罰があるが、不孝より重い罪はない。」と。これは現生における父母の事であり、一切衆生の父母である釈尊に背く事は言うまでもない。釈尊は三徳(主・師・親)を持つ存在であり、これに背くという事は人々の成仏の可能性を断ち、その人が命を終えると共に地獄に堕ちるだろう、と経典には述べられている。涅槃経に曰く「主無く親無ければ家は滅び、国は亡ぶだろう。」と。(日蓮聖人の)「真言亡国」(真言は国を亡ぼす教えだ)という言葉は一部であり、総じていえば諸宗の修行は皆、国を亡ぼす教えである。この故に神々はこの国を去ってお帰りにならなかったのである。国が亡ぶのは現前の事である。しかし、法華経の行者には八幡神もお宿りになられる。その故は四十八代称徳天皇の神護景雲三年(769)七月十一日のご宣託に曰く「鉄の塊を食する事になるといえども、心汚き人のお供えは食さない。熱した銅の上に座すといえども、心の汚き人の所には至らず。正直の頭にこそ私は住処とする。心をへつらう人々の心には住まわず。」と。正八幡という正の字は正直八幡という意味である。八幡神の御母、聖母大菩薩も正直の者の頭と柊(ひいらぎ)の枝とに住まうのである。 正直は「邪曲」(よこしまで曲がった心)に対する心である。この正直に二つある。一つには世間の正直の心。論語に「民衆を心から従わせるにはまっすぐな人間を取り立てて、よこしまな人間を取り立てない事である。」(論語為政篇) また「親は子の為に隠し、子は親の為に隠すまごころ」(子路篇に葉公が「わが村には正直な者が居ます。親が羊を盗んだ時、子がその咎を暴いたのです。」と語ると孔子は「私の知る正直者とは違います。私の知る正直とは、親は子の罪を隠し、子は親の罪を隠すという事です。正直とはそうした心の中にあります。」とある。) 「微生高」(公治長篇 ある女性と橋の下で待ち合わせしていたが、大雨の為に増水しても立ち退かなかった為に溺れ死んだ、という故事がある。ただし、孔子は論語でこれを批判している。)の事のようである。廉直(れんちょく)という事は上下乱れず、親疎(親しいとうとい ここでは転じて親族とその他という意味)の分別があり、礼儀が節度に適い、規則決まり事は位に従って守られる。尚書に曰く「木は縄によって矯正され、人は諫言に従って聖と成る。」と。これらを「正直」という。しかし、このようなものは今の時代は一人もいない。よって八幡神が宿れるような頭は無いため、天に登られたのである。仏典に曰く「後の悪世の衆生は善の心根が少なく、心は汚く曲がり真実は存在しない。」と。
新勅撰和歌集に曰く
 「さてもさは すまはすむべき 世の中に 人の心の にこりてぬる」(さても住まうべき世の中には、人の心は濁り果ててしまっている。 後京極殿(藤原良経公))
 「月星も さやかに照す かいそなき 此の世の人の うはの空こと」(月や星が人々を明るく照らすのも甲斐が無い事だ。照らされている人々はその事に対してうわの空なのだから。 藤原良経公)
 「世の中の 麻はことなく 成(なり)にけり 人の心の 蓬(よもぎ)のみにて」(世の中がまっすぐであるから、人々の心も自然とまっすぐになるのだ。 この歌を読み解くには 「麻に連(つ)るる蓬」という言葉を理解しなければならない。蓬とは曲がってしまう植物であるが、まっすぐに育つ麻と共に育てればその蓬もまたまっすぐに育つのだ。という事。転じて、人は環境や世間によって自然に良い人物にも悪い人物になる、という意味。)
二には出世(仏の世界)の正直。九界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天界・声聞界(仏の声を聴いて成仏を目指す者)・縁覚界(師を持たず一人で悟りを得る者)・菩薩界(仏の教えを聞いて人々と共に成仏を目指す者))は仏から見れば邪まで曲がった世界である。聖者たちの上位に位置する菩薩界ですら、いまだ迷いを抜け出さない人々なのだ。ただ仏界のみが正直の世界であり、無明(迷いの根本)を尽くしてただ悟りの世界を悟る。詩経の三百一もの言葉は全て邪(よこし)ま無しという一言に尽きる。(おそらく論語為政篇の言葉か) 仏法で例えるならば、法華経以外の仏の教えは全てこの九界のようであり、邪曲である。曲とは虚妄という意味である。故にそれらを信じる者は正直からは程遠い悪心であり、これによって成仏しようとするのは血で血を洗い、木で木を切るようなものである。無量義経において、「この経典より前に説かれた経典は全て真実を顕わしていない。」というのはこの事である。他の経典は仏が人に教えを請われてその人の為に説いた教えであるが、この法華経こそ仏がご自身の意思で説かれた究極の教えであり、仏の悟りそのままの教えである。法華経の「正直捨方便」(法華経以外の真実でない教えを捨てる)という経文はこの事を現わす。九界の邪も一つの真理に帰す。故に妙法という。
無量義経に曰く「経文と説かれる真理はまっすぐ正しく、尊い事この上無し。」と。法華経に曰く「ただしの真理の修行に至る。」と。また「真理の道に至るのに妨げが無い。」と。
天台大師の言葉には「五乗(人間界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界の教え)は曲がっており、まっすぐではない。」と。「邪まな極端を離れて真実の教えを修行し、生き死にがそのまま悟りである事を悟り、苦しみの無い、差別区別のない真実の世界に入る。」と。(円頓章の一部) よって法華経において修行すれば煩悩などの悪邪の心はたちまち真理の仏心と成る。法華経において妙荘厳王(みょうしょうごんのう)が邪心を改め、仏を裏切った提婆達多が自らの誤った見解を悔い改めて即座に正しい悟りを得たようなものである。法華経に曰く「正定衆(しょうじょうしゅう 仏と成る事が約束されている者たち)に入る。」と。 普賢経に曰く「教えを念じる事、これは即ち正しい心、正しい念、正しい思惟である。」と。 法華経に曰く「心素直で柔和な者(はまさしく仏を観る)。」と。
その者が本当に正直であるかどうかを調べるのは黒縄の喩えの如し。(おそらく黒縄地獄の事を言うか。殺生や盗みに依る地獄。) しかれば八幡神が憎む所は曲がりへつらい、住処とする所は神としての姿の時は世間の意味合いでの正直であるが、本地の悟りを考慮すれば仏法における正直である。世間の邪正すら厳しくなさるのに、仏法における邪正はなおさら八幡神の配慮なされる所である。世間の正直の頭に宿るのだから、仏法における正しき者の頭にはなおさら宿られるであろう。今天下に上は一人、下は万民に至るまで世間の道すら曲がっており、心は不浄である。故に仏の法を曲げて正しい教えに背いている。人々はことごとく邪宗に入り、執権は真実の教えを誹謗している。このような曲がりへつらいの頭に何故、八幡神が宿られる事があろうか。これらの道を捨て離れて法華経の道を歩む行者の頭にこそ八幡神は宿られるのである。諌暁八幡抄に曰く「八幡大菩薩は不正直を憎んで天にお帰りになられるとも、法華経の行者を観れば労力を惜しまずに宿られるだろう。我が一門は深くこの心を信じるべし。八幡大菩薩はここにお渡りになるだろう。疑う事無かれ」と。例えば、江河の水、大海の水は深く大きいが濁っていれば、水面に月を写す事は無い。小池の水、あるいは小さな器の水は浅く少ないが、清ければ月の影が宿るようなものである。大河の濁る水は大王や大臣たちの心の如くである。謗法(ほうぼう)邪悪の心である。小水の澄んだ水は法華経信受の心、水が澄むのは我ら行者の如くである。また八幡神は汚さ穢さ、不浄を嫌い、正直の心を好む。世間の清濁は表向きの清濁であるが、実には人々は皆、三毒(むさぼり、怒り、愚痴)五欲(物質、音、香り、味、感触を求める心)を抱える不浄の心である。これを改めようとしない衆生であっても法華経を修行すれば自ら清直と成る。法華経に曰く「この法華経を持つ者は真の清らかさを持つものである。」と。また「世間の不浄にあっても染められない事、蓮華の如し。」と。天台大師の師である南岳大師の言葉に曰く「妙法蓮華経は他と比べようも無く清浄である。」と。この経は転輪聖王(てんりんじょうおう 古代インドにおける世界を統治する理想の、伝説上の王。法華経においてはその転輪聖王が誰にも渡さなかった宝珠を、今取り出して人々に与えるのと同じくらい法華経を説く事は貴重なのだ、と説く。)の宝珠のようなものであり、王とは三才一極(天の理(働き)、地の理、人の理の三つが一体となる事)にて正直で妄想の無い徳を中心にしており、転輪聖王の宝珠(明珠)とはその正直の極みである。故に法華経内に説かれる明珠も清浄の極みである。故に法華経を諸経の中の王。正直の至極、この上無い清浄というのである。これを持つ行者の頭もまた自然清浄、正路の霊祠(神の住まう処)である。例えれば濁る水に全ての願いをかなえる如意宝珠を入れるようなものである。これぞ諸仏が守護なさる所であり、諸天が昼夜問わず守護する所である。八幡大菩薩は本地は釈迦仏、法華経である。まさに知るべし。法華経を持つ者は釈迦仏と共にあり、釈迦仏の手に頭を撫でられるものである。(法華経を託されるという意味。) 妙法蓮華経を頭に受け持って朝夕に信心すれば、成仏の種を植える事となる。さすれば来世の成仏は疑いなし。これをもって仏の利益の仕上げと成る。これを八幡神の正直の行者の頭に宿り給うと言うのである。大乗仏教があるこの国に生まれながら、成仏の縁を忘れて悪道に堕ちてしまうのはこれこそ八幡大菩薩がお捨てになった人々である。
八幡神の縁起は善法院(詳細は不明だが、石清水八幡宮にある律宗寺院の善法寺か。)から借りる。
八幡愚童訓、神祇霊応記などは様々な資料と比較し取捨選択して、神託寺(詳細不明)においてこれを記す。これらは私の意見を交えずに書いたものである。後世の人はよくよく信じるように。
 八幡神の本所は筑紫国に二、三か所ある。大隅八幡宮にある先述した石は「石鉢の銘」と伝わる。豊前には伝教大師の袈裟が伝わる。(これは八幡神から伝教大師が神宮寺において法華経講義をした際に八幡神が顕れて自ら宝殿を開けて紫の袈裟を大師に賜ったという伝説の事を指すだろう。諌暁八幡抄に詳説有り。) 筑前の箱崎(筥崎 はこざき)には異国退治の金箱に法華経を入れて埋めるという。皆、本地は釈迦仏であるという証拠である。
 
神道秘訣巻の二 終


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