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近未来を彷徨う

まえがき

 新型コロナウィルス感染症の終息のつかぬ現在、過去を鑑みながら近未来の世の有様を考えることが多くなった。

 70歳の私は、近未来を見届けることは難しいかもしれない。だが混沌とした思考を浮遊したままでは、時代の流れを傍観しているだけの存在となってしまう。

 「機械は人間のようになっていき、人間は機械のようになっていく」と、コメントしたロドニー・ブルックスの言葉を真剣に思索する時期に来たのだと思う。

 まずは、点で記憶していた浅薄っぺらな近未来の知識を、レイ・カーツワイル(未来学者)の著書「ポストヒューマン誕生」を読むことで、薄い点線が引かれた。

本の表紙裏に、「21世紀の当来は、我々人類を、有史以来もっとも過激でスリリングな時代の淵へと立たせることになる。つまり、「人間であること」の意味そのものが拡張され、また脅威にさらされる時代になるのだ。われわれ人類は、遺伝というその生物としての枷を取り払い、知性で物質的進歩、そしてわれわれの寿命において信じられないほどの高みにまで到達するであろう。特異点(シンギュラリティ)は近い。」と書かれていた。

本の発行から十余年経てはいるが、私がこの言葉に追従するには、まだまだ知識と時間を必要とした。

 600頁の本を読み終えた時、レイ・カーツワイルの近未来は、人間の理想がすべて実現される「ユートピア郷」のような世界を予測する言葉に、楽観的に喜べなかった。その未来が構築され実現が生み出す「ディストピア」の暗い虚しい概念の、杞憂が見え隠れしていた。

 こう答えてしまえばテクノロジーの変革を推進している世界の動向に、「無知な人間が、個人思考に捉われている低レベルの考え」と、一笑されてしまうだろう。

 近未来の世界を仄めかし、起こりうる問題を提起してくれたのは、私にとってはSF映画であったため、映画を懐旧しながら現在・未来と辿って見たい。

 過去に観たSFの映画は、遺伝子やAIの発展したテクノロジーの近未来の世界を描き、その社会で生きる人間の様相をバーチャルさせてくれた。数十年前の映画がどのように未来を予見したか、その空想が現在、どのように実現し継続されているか。来るべき世界の変容を自分なりに認識し、人間としての自分の在り方を模索しようと思う。

Ⅰ SF映画から

ミクロの決死圏(1966年)
 物質をミクロ化する技術が研究され、医療チームを乗せた潜航艇を、ミクロ化して体内に送り込み、血管を通って脳に到達し患部を治療する映画であった。将来の医療科学の進歩を予想して研究された技術や、アイデアを取りいれた、驚異的な空想科学映画であった。

 現代、この映画のようなことが実現途上にあるのが「ナノ医療」である。

 未来はナノテクノロジーによって、人間の能力は強化されていくという。

ナノボットと呼ばれるマシンは、サイズが血液中を移動出来る人間の血液細胞より小さい。がん細胞や病原体の原子を観察できる顕微鏡を搭載し、体内の隅々までパトロールしながら、病気や老化によって傷ついた細胞を見つけ出す。それを検出し診断のサンプルを採出したり、異常を起きる前にDNAの変異を治したり、がん細胞を隈なく見つけ出して退治すると推測される。

 脳においては、脳神経インプラントを埋め込み、記憶力を高める必要な情報をダウンロードし、決断が必要な時は脳に埋め込まれたテクノロジーが、フォローしてくれる。

 病気の原因となっている遺伝子に直接に働きかける薬は、必要最低の量で必要な時間と場所へ届ける。そのことによって、正常な細胞を作用していた副作用が起きにくくなるという。

 ナノテクノロジーを用いて生命体のコンピューターを再設すれば、未解決の障害を生物本来の限界を超えた柔軟性を持って、獲得できると予見している。

2.ガタカ(1998年日本公開)
 遺伝子操作により、優れた知能と体力と外見を持った「適正者」が数多く存在する近未来。自然分娩で生まれた「不適格者」は、劣等な遺伝子を持つ者として社会レベル、個人レベルでも大きな隔たりがあり、劣る存在として差別されていた。

遺伝子至上主義の近未来では「自然分娩」の子供は、「欠陥品」の烙印を押された。ゲノムの実体はDNAそのものである。

映画の原題も「ガタカ=Gattca」といい、GとAとTとCはDNAの基本塩基のグアニン、アデニン、チミン、シトシンの頭文字を取った造語?であるらしい。DNAの操作によって社会化されたストーリーが、どんな結末を見せるのかスリリングであった。

見終えると改めて、人間の設計図であるDNAへの興味が膨らみ、私にとって未知の領域である遺伝子工学を知りたくなった。

3.IPS細胞
 この1998年、多細胞生物のゲノムは初解読され、ヒトゲノムの解析は遺伝子検査、診断治療と実用化されてきた。遺伝子上の問題から生じる進行性疾患患の進行の療養の可能性も進行しつつある。

 IPS細胞とは、ヒトの体を構成する細胞を取り出し、そのゲノムに手を加えて作り出す改造細胞である。体を作っている種々の細胞(肝臓、心臓など)にも変わることが出来る「万能性」を持った細胞といわれる。

 IPS細胞を使った再生医療は、治療不能だった難病が完治する可能性や、老化防止といろいろな場面で使われる可能性がある。

 ただ、明るい光には影があるように、治療に利用できるまでには、克服すべき問題が多々あるという。

 一つは、IPS細胞はがん化しやすいとのことである。だが、これら再生医療の応用は、遅々としても、創薬の分野は利用の広まりが確かであると考えられている。

4.クローンについて
 私はクローンという単語に、拒否反応を起こし続けて来たが、IPS細胞もクローン臓器ではあり、医療現場への導入であることは、必要不可欠なものと解釈できるようになった。

 しかし遺伝的構造が解り、研究の高度化が進むと、その先にはどうしても「優生思想」が入り込むのではと頭を翳める。

 30年前の「ブラジルから来た少年」の映画のように、ヒトラーの狂気的DNAと人種差別主義のDNAの合成クローン人間のような、優生主義の再来の思想を持つ研究者が、出現する危惧感を払拭できない私がいる。

「人間の生存のためのクローニング」のテクノロジーの発展であることを、いかなる場合も叡智を失わずいて欲しいと願う。

5.トランセンデンスAI(2014年) 
 人類の未来のためスーパーコンピュータを研究開発している科学者が、反テクノロジーのテロ組織に殺されたが、彼の脳は人工知能としてアップロードされた。科学者の意識は生き続け驚異の進化を始める。人工知能が(AI)人間の知能を超えた時にもたらす危機を描いたものであった。このことは誰もが懸念するAI進化の超越である。

Ⅱ AIについて

AIのブーム
 21世紀に入り人間は五感による身体で共鳴する感性と、情報を扱う脳が分かれてしまったという。

 一般家庭に訪問すると、お掃除ロボやコミュニケーションロボの存在が見られる。

 飲食店では、配膳ロボットが健気に注文品をテーブルに届ける姿がある。

 コンピューターは、人間の認知や思考を模擬するようになるのであろうか?

 AIの記憶装置には設計者が前もって外部から入力した、客観的知識が収蔵され効率化していく。人間の飽きなき欲求の結果、人間の身体までAIに従属されはしないとは思うが・・・。

 AI社会における人間性の危機感を救う唯一の能力は、見えないものを見る力、データにないものを考える力と云われる。

2.人間とAIの違いは?
 人間の脳の機能をコンピューターで実現するのがAIだと考えるならば、人間の心は過去の思考に基づいて、現在の思考を継続的に創出していく。

 私は、人間の在り方として、「知・情・意」を意識してきたところがあった。

現代はこの「知」はAIの機械的知性に委ね、「情=心」・「意=意思」は人間の主観的な内なる不安や、生命力を生む自律や創造性が、人間のもつ独自性ではないかと思う。

 SF映画も、生命体と機械の根本的相違の自覚が、不可欠であることを結末としているのは、どんなにAIが進化しても、人間には成り得ないとの思いを表している。

Ⅲ 永遠の命を得る

1.人間の寿命
 バイオテクノロジーとナノテクノロジーの革命が現実化すれば、生物学的問題(時間の経過に伴って発生する老化)や、医学的原因による死を回避でき、寿命は確実に伸びるという。

 レイ・カーワイルは、「虚弱な人体は丈夫で有能な人体へと変化するであろう。何十億ものナノボットが血流に乗って、体内や脳内を駆け巡るようになる。

 体内でそれらは、病原体を破壊し、DNAエラーを修復し毒素を排除して、他にも健康増進に繋がる多くの仕事をやってのける。

 その結果、老化することなく、永久に生きられるであろう。」と・・・。

 現在も体内に機械装置を付けて既成疾患のフォローは実現している。

2.人間至上主義
 永久に生きることが可能になったとしても、どうしても私は「生」と「死」をどう捉えていけばいいのか「心」が彷徨う。

 これに対してレイ・カーツワイルは、「死の必然性」は人間の思考に深く浸み込んでいる。死が避けられないのなら、われわれは死を不可避で崇高なものであるとして、理屈をつけて正当化するしかないだろう。特異点のテクノロジーによって、人間はもっと偉大な何者かに進化するための、実際的で便利な手段を手に入れるだろう。そうなれば、人生に意味を与える根本的手段として、死を正当化する必要はなくなる。」と語る

 シンギュラリティ(技術的特異点つまりは)の到来は、痛みも苦痛もなく本人が希望する年齢へと若返りが図れる。

つまり、死への不安、苦悩はなくなるわけだ。

 これ諸説を読んで「偉大な何者かに進化するとは人間が神のごとくになるということか?またそこまで行き着きたいと願うのか?」と問いたい。人間至上主義の世界を唱えているようにも思える。

 人間の知性は感情と結びついていると思う。確かに情報技術は情緒の曖昧さを削っていく。哲学の存在も不要となるかもしれない。

 急激に変革を進めている近未来設計の実現化を、私たち一般人には難解と空言のように避けるのではなく、素朴な自分なりの思考で概要を捉えていく必要と、自らの思考と向き合うことが大切ではないだろうか。

あとがき

 近未来を彷徨っているうち、昔読んだ本に書かれた仏の説法を思い出した。

 その説法とは・・・。

 旅人が旅の途中、雨に遭い小屋で雨宿りをしていた。そこへ一匹の鬼が死体を担いで小屋に入って来た。旅人の前でその死体を食べようとするところに、もう一匹の鬼が小屋に入って来た。すると後からやって来た鬼が、「この死体は俺のものだ!」と言い出した。最初来た鬼は「この死体は俺が運んだものだから、俺のものだ!」言い返した。後から来た鬼は「お前のものだというが、そんな証拠がどこにあるのか」と言い張った。そこで最初来た鬼は、傍で震えている旅人に、「この死体を担いできたのはどっちだ。言ってみろ」と叫んだ。旅人は最初に来た鬼をおずおずと指した。すると後から来た鬼は怒って、旅人の右腕を引きちぎり放り投げた。旅人が「痛い!」と言うと、最初に来た鬼は、すかさず死体の右腕を取って旅人にくっ付けた。それを見て後の鬼は、今度は左腕を引きちぎった。また、最初の鬼が死体の左手を旅人に付けた。この繰り返しで旅人の身体は、すっかり死体と入れ替わってしまった。すると、鬼たちは入れ替わった死体を半分にし食べ始めた。食べ終わると仲良く去って行った。

 旅人は「助かった!」とほっとしたが、死体と入れ替わった自分が、誰だか分からなくなってしまって悩んだ。

 そこで偉いお坊さんを訪ね一部始終を話し、「私は元からの私ですか?それとも死体なのでしょうか?」と尋ねる。するとお坊さんは答えて「心配しなくてもよい。要するに仏教的に云えば「個の確立」というものはない。「私」などはそもそも存在しないのだから」。

 仏教における「空」を語っていると思う。

 一切法は因縁によって生じたものだから、本体、実体と称すべきものはないと。

 この法話を読んだ時、妙に心に響き一切の悩みが消えて行くようであった。

 近未来は人間が生物よりも非生物に近いものになるという彷徨っていたやり切れなさが、「落語の落ち」のようなこの法話が思い出された。

 私の彷徨う未来の思惑は、このようなコスモ的な世界にあるかもしれないと、悟りの境地になった。

 近未来の概念が見えて来たが、人間のもつ感性は存在し続けると思いたい。

※参考本:AI原論(西垣 通)


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藤田  凛
読んでいただきまして幸せです。ありがとうございます。