書評|「紙の動物園」にファンタジーの価値を教わる
ケン・リュウの短編集、「紙の動物園」である。
大森望さんのSF講座の課題に取り組む中で知った本。
しかし、知らない自分を恥じるほどの名作である。
2011年に発表され、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞の史上初の3冠に輝いているほど、世間的評価があるのに、恥ずかしながら知らなかった。
この3冠情報を抜きにしても、1つ目の短編「紙の動物園」で圧倒された。
短編で、こんなに胸を抉られるとは。
と。
ちなみに、この3つの賞は何なのか、というと、
ヒューゴー賞|SF界のノーベル賞(前年発行のSFおよびファンタジー作品の中で優れたものに授与)(一般が投票)
ネビュラ賞|同じくSF界の権威ある賞(出版業の会員が投票)
世界文学大賞|ファンタジー文学賞(選考委員が投票)
これを総なめはすごい。
1つ目の短編を読んだだけで、歴代の各賞を読みたくなった。
そのくらいパンチがあった。
この「紙の動物園」収録の「紙の動物園」「月へ」を読んだだけで、
ファンタジーの価値を感じた。
その価値とは、「残酷な現実を食べやすくする」ことだ。
「紙の動物園」は、虎の折り紙に母親が息を吹き込むと、折り紙たちが生命を持ち、動いたり鳴いたりするファンタジー要素がある。
一見ハートウォーミングかと思いきや、この短編が取り上げる「残酷な現実」は、
・中国の貧困地域に生まれおちること(土を食べて空腹を埋める親)
・アメリカ人が”買う”中国人花嫁のカタログ
・米中ハーフの子供が、アメリカで受けるヘイト
・ハーフ息子の成長するごとに増える中国生まれの母親との軋轢
・親孝行したいときに親はいない
という、社説やルポ向きの話である。
こんな残酷な現実の話は、そのままでは読みにくい。手が伸びない。
そこで、ファンタジーの出番である。
折り紙動物たちが動き出す、というファンタジー要素があることで、この残酷な現実の話を読めるようになる。
2つ目の「月へ」も、
「高い木に登って、月にたどり着いた男」というファンタジーな幕開けだが、取り上げられる残酷な現実は、
・難民の苦しみ
・難民が入国したい国に住んでいる愉悦
・法律が認める価値観と、見落とされる価値観
という難民や法律の公平性に関する問題である。
この問題を、「月に行った男が、月に住む人から邪険にされる」という話を相似形として織り交ぜてくる。
月に行く男とは、難民。
月に住む人は、亡命先の国の住人。
私は、幸い「月の住人」側の人生を送ってきたな、と感じた。
日本に馴染みが薄い難民問題も、このような形で語られると、自分ごと化しやすい。
将来、日本が貧困化すると、私も「月に行く男」側になるのだろうか?と感じた。
残酷な現実を生きるには、ファンタジーが必要だ。
そんな著者からのメッセージを受け取った気がする。
ハリーポッターを書いたJKローリングも、シングルマザーで生活保護を受けて生き延びていた時に、ハリーポッターのアイデアを着想し、その魔法の世界があるから、耐え抜けた、という趣旨の話を語っている。
恵まれた現実に生きるなら、ファンタジーに逃げる必要はない。
現実が楽しいからだ。ただ、現実は残酷な顔をしていることが多い。
そんな時は、まともに向かい合わず、ファンタジーの粉をかけて、味を誤魔化して咀嚼する。
優れたファンタジーを描ける人とは、生きる苦しみが大きかった、とも言えるかもしれない。
オルダス・ハクスリーの「すばらしき新世界」の中でも、高度文明人と野人の対比の中で、「幸福と芸術はトレードオフだ」という指摘がある。
芸術は不幸から生まれる、というのだ。
人間の嘆き、悲しみがあるから、シェイクスピアの悲劇作が生まれる。
そのような嘆き・悲しみが取り除かれた高度文明では、芸術作品は必要ない。人は皆、試験管から生まれて美貌を持ち(現代の美容医療×遺伝子操作の極致だ)、五感を刺激する「感覚映画」をみて(現代の4DXの進化版だ)、複数の相手と性交渉を持ち(結婚という概念がない)、日々快楽の中を生きている。そんな生活の中では、シェイクスピアの詩もピンとこない。悲劇がわからないからだ。
そんな中、野人ジョンは、シェイクスピアを愛する。芸術のためなら不幸になってもいい、と生きていく。
話は戻って、紙の動物園のケン・リュウ。
彼のプロフィールは一見華々しい。
だが、きっと米国移民としての苦しみが多かったのだろう。
きっと、自尊心のために勉学に励み、ハーバードへ。最新のコンピューターサイエンスでの理系エリートの顔を持ちつつ、文系エリートの弁護士の資格もとる。舐められたくない、みんなに認められたい、という気持ちが原動力だったのではないか。
彼の言葉を引用しよう
→言われてみれば「月へ」を読んで、自分は「月の住人側にいる」と思ったし、「紙の動物園」を読んで、自分は「母の愛を受け、孝行できる環境にいる」と思った。本当に「自分が誰であるか」を無意識に問いながら、ストーリーを読んでいるのだな。なるほど。
なるほどな、自分をSF作家とも、ファンタジー作家とも捉えてない、その枠組みで物事を捉えていない。だから、SF賞とファンタジー賞を同時受賞する作品が生まれるのか。
もっと、ケン・リュウ作品を読んでみよう。
そして、この「触れられるメタファーをつくる」という発想で、短編を考えてみよう。
まとめると、考える論点は以下かな。
・今の社会で「抽象的」だが、重要な問題とは?
・そのメタファーを、手で触れるものに変換すると?
・それを描く過程で、読み手の自己理解が深まるには?
パッと思いつくのは、
「ポリコレ」かな。かなり抽象的。
これを、手で触れるものに変換。なんだろう、ポリコレって、本来は万人の価値観の肯定であるが、不遇のマイノリティがいる場合は、バランスをとるために、その不遇側の価値観を多く肯定する必要が生じているよな。
つまりは、「シーソー」的な。「異性愛が基本、善」という価値観が数千年あった=シーソーは片方に数千億人が乗って傾いていたから、「同性愛もまた善」というマイノリティ側の価値観=シーソーのもう片側には数人だけ乗っていた、バランス取るために、たくさんの石を乗せた。結局は、シーソーのようにお互いが同じ高さでバランスを取ることは難しいだろう。でも、その完全な均衡を目指して、人間社会はギッコンバッタンを続けていくのだろう。
こんな感じかな。あれ、意外と書けそう?
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UnsplashのKatrin Haufが撮影した写真
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