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富士山 小学生集団遭難事故に思うこと

集団遭難発生!

2023年9月1日 富士山富士宮口五合目から水ヶ塚間の登山道にて小学生の集団遭難が発生。第一報には大変驚いた。児童にケガも衰弱もなく、その日のうちに救助されたことは不幸中の幸いであった。
私も富士山の五合目より下をメインフィールドにエコツアーや教育旅行を実施している身として、今回の事故がどのようにして起こったのかをきちんと分析し、他山の石として今後の自己研鑽に努めていきたいと考えている。
事故の経緯は以下の通り。

事故の経緯

1日午後3時頃、学校行事で富士山を散策していた静岡市立小学校の小学5年生4人(男児2人・女児2人)のうち1人から「道に迷った」と警察に通報があった。
児童の携帯電話のバッテリー残量が少なかったため、その場から動かないよう指示した上で、富士山に駐留していた御殿場警察署の山岳遭難救助隊が救助に向かったところ、午後4時半前、御殿庭入り口付近で4人を発見。
児童はいずれもケガや衰弱がなかったため、隊員とともに集合地点である水ヶ塚公園の駐車場へと向った。
午後4時45分頃、4人が集合場所に到着したため学校側が既に集まっている児童を含めて点呼をとったところ、別の児童4人(男児1人・女児3人)がいないことに気づき、御殿場警察署の山岳遭難救助隊に報告した。
これを受け、警察の山岳遭難救助隊 計7人が応援に加わり捜索を行ったところ、午後6時過ぎに御殿場警察署の山岳遭難救助隊員が、4人が南山林道分岐付近で道に迷っているのを見つけ、保護した。
いずれもケガや衰弱はないものの、携帯電話を持っている児童はいなかった。この学校は小学5年生 約150人を対象とした1泊2日の自然体験教室のため1日の日中は富士山を訪れており、引率の教員は10人、またガイドも4人いたということ。警察は学校関係者から話を聞くなどして、遭難事故が起きた原因を調べている。

原因と責任について

五合目以下のルートは高低差による自然の変化や広いすそ野の多様な自然・文化を感じることができる素晴らしい山行が楽しめるものの、山頂に向かうルートのように単純な一本道ではなく、多くの分岐やトレース(人や動物による踏み跡)が存在するため、道迷いの可能性は圧倒的に高いという前提で計画を立てなければいけない。
学校側の事情、事業者側の事情、天候や参加者の体調等といった当日の状況、何かが一つでもかみ合わなければ事故は起こる。だからこそ学校は専門家であるガイドを雇うし、ガイドは専門家として様々な状況に対応できるよう日々鍛錬しなければならない。
今回は両者に危機管理の概念が欠落していたと思わざるを得ない。
その上で「事業者側の責任」と「学校側の責任」を事故の原因と共に整理しておきたい。

「ガイドレシオ」

まず、同業者である「ガイド側の責任」において、私が最も驚いたのはガイドレシオ、つまり一人のガイドが何人のお客様を担当するかという問題。児童152人、教員10人の162人を3人のガイドで安全管理できるはずがないということ。一旦山の中に入れば、教員は素人であり引率の役を担うことは困難なので、児童と同じように扱われなければならない。3人のガイドに10人のサポートがついていると考えるのは大いに間違っているし、むしろ教員にサポートが必要になることも多々ある。
当社の教育旅行規定では、各クラスに2名のガイドが基本となり、クラスを2つに分けての対応となる。今回コースであれば少なくともガイド10名とフリーで動けるスタッフ2~3名は配置するだろうし、用意できないなら請け負うことはない。

1:15程度の小さなグループに分かれての行動

「隊列の構造」

隊列の構造にも大きな問題があったのではないか。
当日は先頭と最後尾にそれぞれ1~2名のガイド、その間に5クラス分の児童152名を挟み込み、各クラスの先頭に教員が付くという隊列だったようだ。この隊列の構造は実に不可思議だ。たとえ、先頭と最後尾に一人だけしか配置ができない状況でも、残るもう一人は危険個所のサポートや、分岐点での誘導などを担えば少しは危険回避ができたかもしれない。隊列の中の状況をガイドが誰も把握しないまま進み続ける前方と、遅れ続ける後方。隊列は途方もなく長く、とぎれとぎれになるのは必然である。
そもそも先述のガイドレシオが適切に保たれている前提ではあるが、少なくとも「ガイド→生徒→教員(計15人程度)」の順番が保たれていれば、児童が後ろに置き去りになるような状況は生まれなかったはずである。仮に1グループの人数が多い(30人程度まで)場合でも「ガイド→生徒→教員→生徒→ガイド」の形をとれば管理はしやすい。遅れがちな児童や体力に自信のない児童はガイドの近くを歩かせるなどの工夫も当然施さなければならない。遅れてしまう児童に気が付けないような長すぎる隊列構造に大きな問題があったと言わざるを得ない。

「ガイド→生徒→教員」のコンパクトな隊列

「歩くスピード」

計8人の児童が、前方の人に気が付かず、後方の人にも気が付かれずに誤った道に入ってしまうほど隊列に間が空いてしまっていたのであれば、明らかにガイドの歩くスピードが速すぎた。当社ツアーにおいては、いわゆる地図上のコースタイムの約2倍の時間をかけてゴールを目指すようにしている。地図上の標準コースタイムは距離に時間係数を単純に掛けているだけなので、当然のごとく参加者の疲労によるスピードダウン、自然解説の時間、適切な休憩による時間の使用などは加味されない。ましてや対象者が小学生となるとさらに時間がかかると考えた方がよい。結果としてツアーにおいては必然的にコースタイムの2倍+αの時間が必要タイムとなる。一方、今回のツアーは180分の標準コースタイムに30分の休憩を加えた3時間半で行程が組まれていた。先述のブレーキ要素を加味するとコースタイム通り、またはこれより早く歩かなければ時間内にゴールすることは出来ない。小学生の団体対応でこれほどのスピードで歩かなければならなかったとしたら登山計画自体に大きな問題があったのだと考えるのが妥当だろう。

急なくだりは隊列が伸びないようゆっくりと

「山では教員はガイドの役割を担えない」

「ガイドが少なくても教員が10名いればグループをコントロールできる」という安易な考えが学校・事業者の両者にあったのではいか。おそらく一部の教員で下見は実施したであろう。しかし、現地での安全管理やグループコントロールは様々な状況下でのその地をよく知るガイドが担う役割であって、教員は一参加者として考えられなけばならない。想像するに、当日は教員自身も体力的な消耗があり、出来ると考えていたグループコントロール能力が発揮できない状況に陥り、崩壊していったのではないか。
もちろん今回のケースはガイド側にグループコントロールの致命的な欠陥があったことに起因するが、既に崩壊していた隊列の中にいながら、ガイド側は隊列内に教員がいること、学校側はガイドが前後にいることに相互依存してしまったことが異変に気が付けなかった、もしくは気が付こうとしなかった原因になっている。

突然の濃霧(視界5m)の中での活動

「予算の問題」

今回のケースでは確認が取れていないが、「自然教室」と呼ばれる学校行事にしっかりと予算付けしている学校とそうではない学校があるのも事実。今回のケースが一体いかほどの予算で外注していたのかは定かではないが、プロのガイドに依頼するのであれば、それ相応のガイドフィーが必要となる。各事業者で料金やガイドレシオは異なるが、当社において当該コースを同人数で請け負った場合、6時間枠で少なくともガイド12名(各クラスにガイド2名、全体フリー2名)での対応となり、約650,000~700,000円程度の予算が必要である。これは確かに高額である。しかし、これは安全に対する対価でもあり、この規模で、この事業を実施するにはそれなりの予算が必要であることは覚悟しなければならない。充分な予算確保が出来なかったためにガイド確保が出来なかったのであれば強行だったと言わざるを得ない。

「コース選択は正しかったか?」

今回のコースは標準コースタイムが180分(画像①)。3時間でゴール出来るルートであると単純に考えてしまっては問題が生じる。先述した通りツアーにおいては2倍の時間、つまり6時間以上を想定するべきであり、結果として体力も、予算も2倍必要となる。正直、小学生の自然教室の内容としてはTOO MUCHなコースだと私は考えている。小学5年生の学習習熟度を考慮すると「五合目~六合目~宝永火口~宝永遊歩道~五合目」(画像②)の標準コースタイム85分を3時間かけてゆっくり歩くコースが、体力面、学習面、安全面など、あらゆる面から見て適切であったと思う。もちろん予算も半額で済む。適切なコース選択がされているだけで多くの問題が解決するだけでなく、児童の学びも大きく広がる。求めすぎた学校側と提案できなかった事業者側の双方に問題があったと思う。

画像①
画像②

「学校教育の傲慢と事業者の善良」

ここからは少しタブーに触れる。「子どもは『地域』で育てる」という言葉には共感する。しかし、「教育現場の人」と「実際の地域の人」との間に解釈のズレがあることがある。私も県内の学校から授業や講義を依頼されることがある。求められている内容を把握し、サマリーと見積もりを提出すると「えっ、お金かかるんですか?」と言われたことが何度もある。また「学校教育の一環なので予算はありませんが、地域の子ども達ためなのでお願いします」とも。こうした考え方は学校教育の傲慢であると思う。また請け負う側の個人や事業者も「地域のために一肌脱いでやるか!」という誤った解釈で善良を押し付けていることはないか。お互いの善意圧力が均衡している時にのみ成り立っているような事業は、均衡が崩れた時(この場合は隊列の崩壊)、責任の所在が分からなくなり、それぞれが適切な行動をとらなくなる。今回のケースもおそらくこうした関係性が存在したのではないか。
事業者と学校がそれぞれの責任と役割をしっかりと果たせる契約を結ぶことが重要である。

学校の自然教室の今後の在り方

今回の事故を受けて個別の原因や責任とは別に教育旅行や自然教室といった学校行事における自然体験が今後どのようになっていくのが望ましいのか考えてみたい。

「体験機会が削がれてはならない」

こうした事故が起きると「自然教室自体の取りやめ」や「行き先の変更」などといった極端な結論を出してしまうことがある。これが最も不幸な答えである。静岡という富士山のある地に生まれて、富士山の自然の素晴らしさを体験せずに大人になるのはなんとも勿体ない。
自然体験は適切に実施されれば、子供たちの原体験として一生の宝物になりうる。子供たちが自然に親しみ、自然を理解することで、自然のために行動できる人となる大切な機会であり、未来に富士山をつないでいくためにも、学校と事業者が盤石な体制で有意義な自然体験活動を継続的に企画実施していくという方向に進んでいくことを強く願い、働きかけていきたい。

「正しい目的を持った自然体験活動の提案」

その上で私たち事業者は富士山における自然型教育旅行に対して何ができるのか。当社が心がけているのは「富士山を10年後に大切な人を連れて行きたくなる場所にする」ということ。そのためには「楽しかった」という思いをまずは持ってもらいたい。スタートとゴールありきのツアー設定をしてしまうと「目的地に辿り着くこと」が目的になってしまう。残念ながら世の中にはそういうツアーが横行している。子供たちが富士山の自然を楽しみ、自然を慈しむ心を抱くためにはどのようなコース設定が必要で、どのようなツアー展開をするべきか。子供たちの視点に立って、適切なプランニングをしなければならない。「そこに思いやりがあるか」が大切なのだと考えている。

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