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朝のことごと 5

 岡潔という人がいる。和歌山の人で、世間では数学者ということになっている。多変数解析関数論というのを主な研究分野として、そのうち世の誰も解決出来なかった「三つの大問題」なるものを、一人で解ききってしまったらしい。私は門外漢だから、業績を聞いたって、その偉大さはよく分からないのだが、面白い随筆と逸話が数々ある人なので、それに触れて、ようやく岡潔の人となりが理解出来るような気がするのである。
 こういうエピソードがある。あるとき、研究にいささかの進捗も生まれないさなか、知り合いが北大にいるというので、北海道へ旅行したことがある。けれども、どこかへ出かけるわけでもなく、大学のある研究室のソファで毎日眠りこけていたらしく、ついには仲間から、あいつは病気ではないかと訝られてしまったという。
 また、岡潔は学生時代、奨学金をもらってフランスへ留学していたことがある。もちろん目的は数学の研究のためで、彼に言わせれば、自分の研究主題を決める、言わば漁場の設定のためであったという。しかし、彼がフランスで殊熱心に取り組んだことと言えば、松尾芭蕉、与謝蕪村を中心とした俳句の勉強であった。留学中に出会った考古学者、中谷治宇二郎と、連句に勤しんでいたのである。
 私は怠惰な変人の話をしたいのではない。むしろ、物を考えるということを、これほど考えた人はいないということを言いたいのである。何もペンを持って机に向かうことだけが、思索の華ではない。彼は、寝ていても数学をし、俳句を作ろうと数学をし、即ち生きることそのものが、数学をすることになっている。事実、彼はそういう体験を経て、必ず課題を解決してみせた。そういうときの感慨を、彼は芥川龍之介の言葉を借りて曰く、頭の中に「紫の火花」が放たれると。そうしてその後、砂糖の甘みのような、じんわりゆるやかな快感が、全身を永く包むのだと。人間、そうやってしか物を考えられないし、ここまで来なければ嘘ではないか。
 その岡潔は、「情緒」という言葉を事あるごとに用いる。乱暴に言えば、何をするにも草花を慈しむ態度をもって、我と自然とが一体であったのだという体感が必要だということで、その核として「情緒」を使っているのだ。
 「情緒」は「心」と置き換えてはならないらしい。「心」は世間一般に言い古されて、新たに用いる語としては適当ではないし、「情緒」ならば、情の緒(いとぐち)として意味の広がりがある。
 美しいと思いたければ、「情緒」の作用が不可欠である。美は情緒。美は情の緒(いとぐち)なり。成程。

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

 人という人にこれだけ語り尽くされて、それでもなお、清らかな泉のように、こんこんと人を惹きつけてやまぬ力が、溢れ、止めどもないのは、古典の不可思議というものである。
 しかし、万人がこの句を誦んじられると言ったって、誰がこれを正当に評し得たのか。文字を詳らかにしたり、成立背景を精査したり、そういう作業の精度のことを言っているのではない。読み手が受けたある感情を、言葉に移すということが、いかに不可能事か。文学とは、究極的に解釈不能なのではないか。
 芭蕉さえ飛び越えて、ピュシスに思いを寄せれば、今まで蛙が古池に飛び込んだ例が、何億箇所で、何億回あったのか、数えきれぬではないか。億という単位さえ不適当である。且つまた、ピュシスにおいて時空をおくことも不適切である。芭蕉がこと新しく、蛙の奇跡を発見したとて、それが何だというのだ。
 だが、仕方がないのだ。人はどうやったって、時空を基に考えるし、だからこそ時空の呪縛から逃れることは叶わない。それは芭蕉だって、同じである。
 物は、出会い、きちんと見なければ無かったことになる。それが既にあろうが、今生まれようが、大した違いではない。大いなるかな、芭蕉。彼は形なき物に形を見いだした。それも鋭敏な感覚をもって。
 「古池や」とする。ここに空間が生まれ、また時が発生する。池という場の誕生。それも古池とすれば、何がしかの過去が引っ付いてくる。五文字で世界が立ち上がる。
 「蛙飛び込む」で、句中に時が起こったことが明確になる。それも空間を伴って。なぜなら、その時が現在であるからだ。飛び込むには、今、蛙が飛び上がって、池に入り込むまでの時間と軌道とが必要だ。それは必ず現在なのである。
 「水の音」で、段階は殆ど未来に差しかかる。尾を引く、蛙の躍動。これが音に名残りとして聞かれるのである。もし句が、「古池や 飛び込む音の 蛙かな」であったなら、時制は現在に留まったままであったろう。読み手が「古池や」から読む、つまり順次世界が形成されることを分かって、「水の音」と結んだのである。芸術家は、超脱し難い時空を逆手にとる。
 しかし、いくら芭蕉が丹念に世界を造形し、読み手がどれほど精細にそれを復元したところで、芭蕉の感動の何が表せ、何が分かったのか。感動そのものは、句のどこにも書いていないではないか。句は、良くも悪くも、ある世界が発生した事実のみを記しているに過ぎない。
 美しい。素晴らしい。こう表現することも出来たはずだ。これが一番単純で、簡単だと普通は思う。だが、こういう形容詞を用いるようなやり方は、表現の、ある種の怠惰と放棄である。人全てが、同じ感受性の基準を有しているなど、あり得ないからだ。それは表現の不安定と暴力をもたらしかねない。
 感動を誠実に忠実に伝えようとすれば、世界を作り上げるしかない。それで少しは、受容の環境を整えられる。しかし、それでも世界を形成した事実から、飛び出る何かはない。ある種、情動を伝えるため万全を期したが故に、その情動を文字することが出来ないのである。
 美は情緒。美は情の緒(いとぐち)なり。世界は完全で、しかし足跡であり、ヒントである。得体も知れぬその先に、我々はまだ進まなければなるまい。小林秀雄は、作品は里程標だと言った。確かにそうかもしれぬ。里程標は、それそのものに意味はない。それがそこにあることに、意味があるのだ。

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