長崎 泰雅
静の恋人杏子は、破れた書き置きに歌を一首添えて、どこかへ去った。枯尾野とは何処。静は消え去った影を、追う。
思想断片集
好き嫌いもあるだろうが、私は現在進行形で生み出されている小説や映画といった創作物を受け付けない。理由は簡単であんまり面白くない。音楽は、たまに感激するのがあって熱心に聴いたりするが、それ以外のジャンルにこれといった発見をすることがない。 従って、普段既にこの世にいない人間の作品ばかりに触れている。やはり古典は良い。いつまでも古びないし、その作者らは常に現代人である。 清少納言も紫式部も現代人であると感じる。しかし、現代人だからといって偉いと言うつもりはないし、私が現実に
私は立ち漕ぎをして、ひらけた野原の一本道を走っていたとき、あたりは早速春でした。 花の雰囲気だけが漂って、まだ淋しい風景が残っている、この一瞬に、やわらかい風が吹いたら、それはあなたでした。 あなたの首筋を思い出して、時々涙します。 あなたの面影が、私を苦しめます。 道端に咲く花は、きっとあなたなのでしょう。
水道橋の遊園地に遊びに出かけたのだが、電気の不通とかで、ジェットコースターやらメリーゴーラウンドやらが丸々動いていなかった。 困っていると、三百円でできるアトラクションがあるから、広場へ来いという園内放送が鳴り出して、気になるから行ってみた。 一度に七人まで遊べるものらしく、私はほとんど一番乗りだったので、運良く最初の組に入ることができた。 他の来園者も暇だったろうから、やるやらないに関わらず、広場のぐるりを取り巻いて、物凄い人だかりである。 何をするのか分からない
廿四 その寺は山の斜面に築かれて、境内に高低があった。静は石の段々を登り、手水場を横目に、伽藍へ向かった。 冷気が肌に染みるようである。そういえば、年の暮れも押し迫っているのではないか。静の繰り出す足も早まった。 本堂に近づいたとき、俄に雨が降り出した。静は急いで軒下に入った。 ふうと息をつくと、瓦屋根の狭間をつたって、幾筋もの雨水が途切れることなしに、地面へ流れ落ちた。仕方がないので、軒に上がって、止むのを待つことにした。 「雨宿りなら、どうぞ中へ
廿三 暗がりを抜けた長い険路の先に、その寺はある。 海に程近いはずなのに、山に隔てられてかか、波のさざめきも聞こえず、全ては鬱蒼とした森の中である。 谷間の道を辿り、静は山の上にあるというその寺を目指していた。 山から雲が湧く。目の前に霧となって、行手を遮る。滔々と流れる川があるらしいと分かるのは、音に聞こえるからである。 道は右手の、壁のような崖に沿って行けば良い。静は反対側の際に近づいてみた。ここも崖になっていて、下には流れがある。激しい水の飛
廿ニ 左絵里は暫く姿を見せなかった。静はどういう顔で接したら良いか分からないでいたので、ほっとしたような、しかしそれで済まされる事ではないとも思っていた。 用事もあるだろうし、仕事も続けているはずである。それに下宿へ帰っていることも考えられた。どこに住んでいるのか、静は知らなかった。 部屋に一人残されると、照明を消した。すると途端に薄暗い影が身の回りに満ちた。 静が思いあぐねて、連絡し続けるのを思いとどまりかけていたとき、左絵里は帰ってきた。 左絵
廿 それから左絵里は三日を開けず、家を訪ねてきた。 左絵里は肉や野菜を買い込んで、何品も料理を作った。皆、静の好物ばかりであった。 どうして左絵里が自分の好みを知っているのか、静は不思議でならなかった。話はそればかりではなく、風呂はやや熱い湯加減が良いことも、たまに飲むワインの銘柄、食器の在り方、書棚の本の名前まで、左絵里は分かっているようであった。 疑問に思えば、きりがなかった。だが静は、左絵里に何も聞かなか
十七 家のポストに、左絵里の手紙が入っていた。切手はなかった。白の螺鈿のような、綺麗な封筒であった。 「田中さん、どこかにお出かけでしたか。行き違いでもなく、何だかお会いできないようなので、手紙を残しておきました。 こういうふうに、人に宛てて文章を書くのなんか、何年ぶりなんだろう。昔はよくペンを走らせていたんですよ。小学生の頃かな。友達どうしで小さな手紙を交換しあうんです。今日はこういう授業があって、先生に褒められたとか、誰それちゃんが泣いちゃったとか。
十五 加賀の潜戸というところがある。古い謂れの、不可思議の洞穴である。 海に突き出た平べったい岬を、波間から覗けば、大きな穴が二つ、矢で貫かれたが故であると神話は記す。 先端にある、海に近い方は、佐太大神なる神の生まれ給うた所。その手前にあるのは、黄泉への懸け橋である。 子に先立たれた親が、我が子に逢いたい一心で訪れるのが、この陸の果てである。その在処も伝説も知らぬ人らが、知らぬはずの子に、夢枕でここを告げられ、弾
十三 あれから幾山河越えた先に、出雲はあった。松江駅に降り立ったとき、白い息が出た。土地独特の、捌けた匂いがした。 静はタクシーに乗って、約しておいた宿に向かった。大きな橋と小さな橋を一つずつ渡ったところに、それはあった。市街の中にある、古い、平家の日本造りの建物であった。 伝えておいた時間より少々早く着いたのだが、部屋は既に準備されていた。女将が出てきて、静の荷物を持って、案内してくれたのだった。 何の変哲もない和室であった。床の間の掛軸に、達磨
九 霧がかる夜明けを発って、静は出雲に向かった。何時に出発しなければならないという決まりもないのに、薄暗い早朝を選んだのは、人目を憚るべきだと考えたからである。それが、全てを消し去って何処かへと去った杏子に対するひとつの礼儀だと、静には切にそう思われた。 行きっぱなしで半日はかかる、鉄路の旅である。車窓は何も写さない。ただ、線路脇の照明のため、規則正しく白い光が投げかけられて、その度に静の顔が、ふわりふわりと闇夜に浮かんだ。 列車は揺れた。静はまどろ
七 静は逡巡したが、無言を貫くわけには、いきそうもなかった。 「同棲していました」 静の答えに、二人は平静を装っていたが、驚いた様子なのは疑いなかった。それがどういう質の驚愕であったか、静は敢えて問わなかった。ただただ、ひとつ会社で何年も働いておきながら、身の回りのことを何も明かさず、同僚にかけらさえ心を開かなかったという、杏子の淋しさが、時をおいて響くばかりであった。 「それが過去形というのは、どうして」 「杏子は、ある日突然失踪しました」 静は、そう
一 「あなたに左様ならを伝えようと思って、これを書き残しました。そして、まず言わなければならないのは、あなたに何の責めもないということです。 理由があるのかないのか、私にも分かりません。だけれど、何をどうしようと、勝手にあなたのもとを離れるのですから、私が一番悪いのです。こうして書き置きを残すかどうか、これさえあなたの知らないところ、見えないところで、決めあぐねていました。 秋の夕暮れの、白壁に染みいる濃紺の影のように、何も残さず立ち去ることが、我儘
近頃熱読していたのは、「細川日記」なる文章です。終戦間近の政治を舞台に、あくまで冷静に居ようと努める熱情の塊が、右に左に揺れ動く様が、そこにはよく描かれてありました。 筆者は、侯爵細川護立が嫡男、護貞。近衛文麿元首相の側近で、当時軍令部出仕の海軍大佐高松宮殿下の耳となり、政界、軍部、民間の有り様を、東奔西走して伝えるのでした。 それぞれ立場はありましょうから、敢えて政治のことには触れないとしても、非常に淡白に文章が連ねられてありながら、その狭間にほとばしる熱は面白かった
高校以来の友達が、二日我が家に泊まって、帰った。今、寂しい思いにかられている。 奴はちょうどつらい時期で、仕事で悩んで、結局心を病んだ。今は休職中で、職場へは戻らぬつもりらしい。それが良いと思う。 ままならぬ自分という存在を抱えて、人の中であくせくしている。なかなか他人には理解されない性質を持って、しかしどうにも世の中に生きていかなければならない。全く困ったことだ。 時代がどんどん閉塞していく。そのせいだと言うと人に怒られるだろう。だけれど、自分ではどうしようもない出
今どき辻斬りが出るという。 わざわざ街の繁華な通りで、さぁっと斬ってしまうらしい。使うのは大きな太刀で、通りがかりの誰かを半分にしてしまうという。 人を殺せば死体が残るはずだが、何故だか亡骸のことは話題にならなかった。どこの誰が斬られたのかも分からなかったから、初めは可笑しい噂と思うだけだったが、一部始終を目撃した者がいないというのに、中身が詰まった噂がそこかしこに流れて、巷が浮き足だった。私も夜道が気になり出した。 梅雨の終わりに、家の近くで懐かしい人と偶然会って、