朝のことごと 7
己が見ることと、己以外が見ることは、異質なのである。これを己一人の作用であるとしたところに、心身の分離がある。
しかし心の措定は身体を排除し、己の傲慢と偏見とを生み、また心の物質化という無理難題を招いた。
私とは何の関係もないし、どう考えてもそいつが悪いのだが、複数人に囲まれて、叱られるというか、詰められている、ある知り合いをみて、胸が縮み上がるような、恐怖を抱いた。
確かに知り合いがいけない。しかし、その事案に対する善後策を、膝を突き合わせて話したところで、何になるというのだ。謝罪の方法など、言葉にするか、金を出すか、贖罪の行動をするか、それくらいしかないではないか。反省の色を見せろと言われたって、見せようがない。心は目に見えるものか。
いちばんいけないと感じるのは、叱る側が、あくまで建設的に議論を進めようとしている点だ。一緒に解決策を考える。どうしてこうなったか、経緯を追って、反省に導く。全て相手を支配しようという、営みではないか。答えは、叱責者に想定されている。叱られている側は、相手の最適解を目指して、べらべらと物を喋る。これが本当の反省か?その言葉は、おもねるためだけに口から発される。議論がすり替わっているではないか。それならば、思うままに怒りをぶちまけてくれた方が、まだ健全だ。
相手の負い目につけ込んで、散々自分の鬱憤ばらしをした挙句、それが教育とか矯正だと信じ込んでいるならば、これほど偽善的で、暴力的な奴は、他にあるまい。人が人によって、みだりに変更されて良い筈がないし、またそんなこと不可能だ。人は必ず、自分の力で学ぶものだ。自分の都合で、人をどうにかしようなど、いくら被害を受けたとて、許されることではないし、また出来ないのだ。
怒りたいなら、怒れば良い。泣きたいなら、泣けばよい。感情を露わにすることが、不徳ならば、それこそ天道に背く。そうして、その感情と事態の解決が、全く別の論理であることを、よく呑み込んでおけば良いのだ。感情の解放を、実務的な解決法に翻訳して、人を責めたてるようなやり方は、その行いの陋劣なること、言うに及ばぬ。
人は妥協しながら生きるしかない。全て己の思い通りになるか。人が変わらぬことを念頭に、再び自分に火の粉が降りかからぬよう、手を打つくらいが精精だ。それでも事態が変わらぬなら、自分が変わって、火の粉が降りかからぬだけの、距離を取ればよい。
私は親に、散々こういうことを強いられたので、例え自分が関係なくとも、似たような状況に置かれたら、昔の禍々しい感情を思い起こして、途端に嘔吐しそうになる。私は、親のサンドバッグになるため、生まれてきたのか?まるで無形の強姦である。そのために私の親は、私に対して特権的地位にあると、ますます錯覚するし、私は私で、その苦悩が峻険な山々の谷にように、どこまでも深く横たわっていることを、いつまでも感じ続けていなくてはならない。