朝のことごと 4
名前のつかない料理はない。例えそれがどれほど美味であっても、名前がなければ褒めようがないし、再び作ることも誂えさせることも叶わない。
省みれば、我々の生活というやつは、周りをどれほどの言葉に囲まれ、成立しているのか。まるでまとまりのつかない、下手な文章のなかに溺れながら、暮しているようなものではないか。椅子、机、トンボ鉛筆、ウコッケイ、バレッタ、ボックスステップ、K2、桐花大綬章。世は、既に饒舌なのである。
これは自らへの戒めでもあるのだが、故に饒舌がどんなに罪であることか。ロゴスは、最早語り尽くされている。ピュシスに対しては、言葉など役にたたぬ。話す必要のないことを話し、表しようのないことを表せるとする、その無分別。人の傲慢は、ここから始まる。
しかし、そのピュシスをどうにか表したいと誠実に行動するのが、芸術家という人種である。
言葉とは、本来名付けであった。何かよくわからないものを、何かの基準をもって、何かと見なす。この営為である。到底切り分けられないものを、敢えて切り分け、パーツにし、人の納得できるところへ落ち着かせる、ピュシスからロゴスへの道筋である。芸術家はこれを反転させる。ロゴスの知恵を持ってピュシスに入り、そこで一握にでも何かを掴んだのなら、再びロゴスへ戻る。つまりはロゴスとピュシスを往復するのだ。勇猛と言うべきか、荒唐無稽と評すべきか、しかし彼らは実行する。
事は想像するほど単純ではない。我々がよく知っていると思われる事柄でも、それに分け入れば、驚くべき深淵を目の当たりにすることになる。
例えて言うなら、ぬか漬けのようなものである。ぬか漬けの壺に漬けたものの名前が、ラベルになって貼ってある。普通ならば、それを信用して中身を改めることはない。言葉とはラベルのことであるし、信用することは、それ即ち文化ということである。
だが、果たしてラベルが正しく中身を指し示しているのか、その保証はない。仮に根拠があるとするならば、それは中身をおいて他にはない。ならば、とるべき方策は中身を食べる以外にあるまい。
蓋を開け、嫌な匂いが鼻をつこうが、ぬか床に手を入れて、冷たくぬめぬめとした触り心地を感じようが、食らって中身を確かめるまで、断固やりきらねばならぬ。芸術とは実践なのである。そうして、中身がラベルと違えば、当然ラベルを新しくしなければならない。古いラベルを信用していた者が文句を言おうが、その信用が信用出来なくなったのだから、仕方がない。為に芸術家は孤独であるし、しばしば社会への告発者としての役目を負わされることになる。
このラベルを張り替えることを、芸と言うのだろう。食べて満足していたのでは、その味わいは誰にも伝わらない。だからラベルを張り替えて、味を伝える。その伝え方がうまければうまいほど、磨かれた芸ということになる。
しかし他方、どれほど正しく中身を味わったところで、ラベルが食べた体験そのものでないというジレンマは終わらない。