物語化した私たち
好き嫌いもあるだろうが、私は現在進行形で生み出されている小説や映画といった創作物を受け付けない。理由は簡単であんまり面白くない。音楽は、たまに感激するのがあって熱心に聴いたりするが、それ以外のジャンルにこれといった発見をすることがない。
従って、普段既にこの世にいない人間の作品ばかりに触れている。やはり古典は良い。いつまでも古びないし、その作者らは常に現代人である。
清少納言も紫式部も現代人であると感じる。しかし、現代人だからといって偉いと言うつもりはないし、私が現実に出会う人達と同様、私の好みもある。合う合わないもある。
清少納言は鋭い感性をもつ現代人ではあるけれど、それゆえに文章があまりに精緻すぎ、少々いやらしい。整いすぎた顔立ちが自然に成り立ったものとは俄かに信じられず、何となく嘘くさく、下品に感じられるように、清少納言も都会人であることを一番のアイデンティティとして、それを全ての行動の源泉にしているような、そういう高慢さを持っていて、しかも都会の最先端を自ら体現してしまう人だから、彼女の文章は信用が置けない。
その点、紫式部の方が清少納言より一枚上手である。紫式部は、美を美としながら美としないような、懐深さがある。
蓋しモノの本質とは、モノ自体に自ずから存在しているのではない。そのモノを観測者が、飽くまで観測者の都合で認識しやすいようにラベル貼りを行った、そのラベルがモノの本質やら定義である。
従って、モノの本質はモノそのものとは何の関係もない。逆に、モノそのものを直に見たいと願うならば、本質やら定義など邪魔になるばかりである。それらを取り払って目撃したモノそのものとは、モノはモノでなく、全てがどろどろと溶け合った、謂わば混沌である。
井筒俊彦は、モノの本質が存在すると扱われる領域と混沌の領域とを、二重写しに見ることが出来るのが、東洋の哲人たちに共通する、基本的な姿勢だと考えた。
大隠は朝市に隠る。極端に言えば、源氏物語の基礎も紫式部の哲学も、ここに存在するのである。
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美人は何故美しいのか。答えは簡単で、みんなが美人だと思っているから美しいのである。美人の美は、美人の肉体とは何の脈絡も持たない。
美とは結局、人の認識の最大公約数であり、換言すれば極度に社会的ということであり、それは肉体から常に遊離している。美的努力とは、社会の要請に極力沿うことである。
しかし私たちは私たち自身が、美人を美人たらしめているのだという風には、ちっとも考えない。美人にその美の秘密があると信じて、折に触れてそれを探り出そうとする。
私たちはあるものが成立するためには、必ずその根拠があるものだと、疑いもしないのだ。
私たちには理由が必要である。何をするにも、社会に理由の即時提出を強制される。警官の職務質問はその具現化である。
ホームレスは理由を持たない。故に社会から理由を押し付けられて、排除か社会復帰か、ともかく理由のないものの存在を容認することはない。
おそらく生きる理由も必要なのだろう。何のために生まれて、何をして生きるのか。東洋の哲人からすれば、愚問である。私たち自身をモノだとすれば、私たちが私たち自身を直に見るとき、私たちは存在しなくなる。私たちは私たち自身にさえ本質を貼り付けて、また貼り付けられているが、それは私たちに本来無関係のものである。私たちに理由は無い。
では、理由のない私たちに必要な理由はどこからやってくるのか。それは、私たちが美やかわいいを作り出せるように、理由も創作されているのである。
夏目漱石は、顔や口には出さないが、誠に親切な人であったという。
あるとき在宅の漱石を記者が訪ねてきた。漱石は会いたくなかったので、居留守を使おうと考えて、その人に向かって、
「留守だと言ったら留守だよ」と断った。
やはり漱石は親切なのである。記者は騙されてはいない。しかし漱石も記者に長々付き合わされることはなく、面倒を切り抜けている。上手く理由を創作したのである。
だが、普通ここまで機転がきくものでもあるまい。それどころか、大半の人は理由が創作されているものとも、また創作できるものとも知らないだろう。
肉体をデザインすることさえ厭わないほどの、美への現代の妄信と圧迫は、そのまま私たちの理由に対する態度である。社会に浮遊する、ふわふわした、何の根を持たない共通観念に、私たちはびくついて、また逆らいもできない。果たして私たちは、逆に理由の内実を埋めるための、交換可能な存在になったのである。
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私たちは、何なく社会を既定的なものとして捉えている。社会はその認識を吸い上げて、輪郭を定める。そうして私たちは、社会が既定的という共通観念に圧迫されて、大多数に耳触りの良い理由として生きていかざるを得なくなる。
作家にして文藝春秋社を創業した菊池寛は、文学を志したとき、これからは生活を明らかにすることなく生活しようと決意したという。
誰にも理解されない生活。それは、社会が要請する理由とそれに伴うストーリーテリングを拒否し、つまり安易な創作は金輪際しないという彼の独立宣言であった。
この人が真珠夫人という小説を書いて、大衆の支持を獲得し、事業を興して巨万の富を手に入れるのは当然のことであった。社会とは何か、創作とは何か、きちんと分別がついているからである。
古代、人は天に従って生活しようと志した。皆、天に逸れざるように行動し、故に社会とは、生活とは、天である。孔子の理想である。
社会の要請する理由も、また天である。いささかも私心を容れる余地などなく、為にストーリーテリングは語り手不在の神話となった。
志賀直哉は天平期の仏像を見たとき、自らの作品もかくあれかしと願った。作者などとうに脱落して、仏像自体の存在そのものが光り輝いているその様を、創作の究極としたのである。
それは美しかったのである。
およそ創作にとって美とは、意識的には利用するものである。作品は常に新鮮でなくてはならない。新鮮とは未だ解明されず、名前もない、謎のようなものを、初めて名付けられたものとして受け止められた、快感のことであり、その命名に発揮されるのが人に備わるアナロジーの能力である。混沌からなにがしかを引きずりだす、その里程標として美は存在している。
裏を返せば、美はこうしてほんとうの美となる。偉大な作品たちは、一様に美しい。しかし、その美しさの裏には混沌が張り付いているのである。サルトルが嘔吐したのと同じ構図で、私たちは美の前に言葉を失い、美に幻惑される。
理由の提出という、社会のストーリーテリングの圧力につれて、理由そのものとして振る舞い出した、物語化した私たちにとって、美は誤解されている。美は、確かに共感を呼ぶ。人に喚起させる。しかし、それだけでは、美は美とはならない。シャンデリアのきらめきに目を奪われていては、むなしいだけだ。
人間の根幹を揺るがすものが、ほんとうの美には含まれている。それは、人間にサバイバルを促す。美は人間の生存に必要不可欠なものなのだ。
私は、共感だけを呼ぶ美を、にせものというつもりはない。それも美であることは、間違いないのだ。しかし、ほんとうの美が何か人間は知っている必要がある。それが忘れ去られそうな現代だから、私は少し心配なのである。
ほんとうの美を忘れた途端、人間は混沌に跡形もなく喰い尽くされるだろう。