文章を書くことは発見の連続
朝寝坊してしまい、昨日は文章を書けなかった。書けなかった日は頭の中で文章が渋滞している感じがして、なんだかソワソワする。夜に書いてしまうと、脳みそが覚醒して寝つきが悪くなるから朝書くようにしていて、朝のラジオ体操のような役割になってきている。私にとっての文章は脳内整理みたいなもので、散らかった部屋を片付けている感覚に似ている。頭という部屋の中に散らばっている文字を収納棚に収まるように選んだり、入れ替えたり、時には磨いて格好良くしたりして、しまっておく。散らかったままだと他のことをやりづらいし、しまった場所が分かっていれば覚えておかなくてもよくなる。朝のラジオ体操というよりも、朝の大掃除なのかもしれない。散らかった部屋でなくしたものを見つけるように、自分はこんなこと考えてたんだーという発見もある。今も文章についての文章を書きながら、たくさんの発見を感じている。この発見があるのが楽しいから、また文章を書きたいと思うのかもしれない。
文章を書くという行為は、いい印象を持たない人も多いと思う。学生時代は授業でひたすらノートへ黒板を書き写し、夏休みでは観察日記や読書感想文を書き、大学ではレポートを書き、アルバイト募集や就職活動では履歴書を書き、仕事では報告書を書く。正直あまり楽しそうではない。私も今でこそ楽しいけれど、最初からそう思えてたわけではない。国語の授業で、作者の気持ちを書きなさいという作者じゃないのに分かるわけないだろ問題が嫌いだったし、読書感想文なんて本を読むだけで大変なのに、その後に感想なんて持てるわけないだろと思っていた。そもそも読書をする習慣がないのに、いきなり自分が面白いと思う本に出会えるわけもなく、無理矢理言葉を捻り出してその場しのぎをせざるを得なくなってしまう。国語の問題は未だに意味がよく分からない(笑)つまり自分の好きなことで文章を考える機会がなかったのだ。書きたいと思う前に、書きたくないことを書かされている。それでは創造性を育まれるどころか、文章は難しくて面倒くさくて大変なものになってしまい、Chat GPTに任せたくなる人も増えていく。
私は良くも悪くも、高校生の時点で社会のレールから外れてしまったから、書きたくない文章を書く機会は減った。初めはただの気持ちブログだったものが、音楽活動の報告ブログになり、徐々に自分の考えを書くようになって、ついには文章についての文章を書いている。文章が自分の体に染みついて、表現の一つになるまでには10年以上かかった。それぐらい学生時代は、創造性のある文章を書く機会がなかったのだろう。言葉を選んで、意味を把握して、読みやすいように並べて、文脈がおかしくならないように構築していくのは、実はかなり難しい。今の私は1500文字を1時間半くらいで書けるけど、日頃から文章を書いていない人はおそらく、テーマを自分で自由に決められたとしても何を書けばいいのかすら分からないと思う。私もそうだった。それはテーマを自由に決めさせてもらう機会があまりにも少なかったから。テーマは補助の役割があって、りんごについて書きなさいと言われれば、ある程度内容を思いつけると思う。でも何でもいいから書きなさいと言われると、そもそも自分の興味があることや、興味を持てそうなことを探してこなければならない。この探してくる機会は、社会のレールの中で生きているとなかなか作らせてもらえない。読書感想文の本と同じで、普段から探していないのに急に見つけられるわけがないのだ。自分の興味があることを見つけたとしてもそれをやる時間も、肯定してくれる場所もなく、仕事にならない興味のあることはことごとく否定される社会。今はYouTubeにアップしたり、こうしてnoteに書けば見てもらえる機会が増えたから、いい時代になったなあと思う。
もはや話が文章についてではなく、興味を持つことについてになってしまっているけれど、文章を書くとはそういうことなのだと思う。興味があっちへ行ったりこっちへ行ったりしなければ、話は膨らんでいかない。文章についてなんて狭い範囲では、300文字にも満たないだろう。今日は寄り道をしまくったから、1800文字を越えている。広げて広げて、たまに軌道修正して、また広げて、時には予想外の方へ行ったままにして。文章だけでなく、色んなことをそうやって広げていけると毎日がさらに楽しくなる気がしている。