末期の眼と秋の痩せ姫~源氏物語・御法の帖
(再録シリーズ。7年前のアメブロだ)
秋と痩せ姫について考えていたら、あるひとのことが思い出され、そこから『源氏物語』の「御法」の帖が読みたくなった。
紫の上が亡くなる帖。
その4年前、主に精神的な原因で大病を患った彼女は、本格的回復を見せないまま、44年の生涯を終える。
以下、円地文子の訳で引用。
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夏になると、例年の暑さでも、凌ぎきれずに気を失っておしまいになることがしばしばあった。(略)ようやく待ちわびた秋になって、あたりも少し涼しくなってきたので、御容態もいくらかは爽やぐはずであるが、ともすれば冷え冷えするのがやはりお身体にこたえるようである。
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夏の暑さに消耗させられ、秋になればなったで、朝晩の寒さが堪えられなかったり。そんな乏しい生命力を表現すべく、作者は死の直前の彼女にこんな歌を詠ませる。
「置くと見る程ぞはかなきともすれば 風にみだるる萩の上露」
萩の花に宿る露のように、風が吹けば落ちてしまいそうな儚い命だと、自らをたとえたわけだ。
その様子は、こんなふうにも描写される。
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紫の上は、あるかなきかに痩せ細っておいでになるものの、かえってこうなられたお姿こそ、限りなく高貴になまめかしい風情が一段と増さって、何一つ足りぬところもなくお見えになる。今まであまりに艶やかに匂い満ちて、美しさの濃艶すぎた盛りの頃には、まことにこの世に咲き誇る花の色香にも譬えられるようであったが、今はこの上なく無垢な御様子で、この世をはかない仮初のものと思いとっていられるようなのが、譬えようもなくおいたわしくて、何とはなしにもの悲しい。
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紫式部は千年以上も前に痩せ姫の美というものに気づき、それを称賛した稀有な作家だが、特にここの表現は力が入ってるというか。
(ついでに「あさきゆめみし」もちらっと再読してみると、大和和紀も「御法」には並々ならぬ気合をこめて描いていた)
さらに、紫式部が気づいていたものがもうひとつあり、それは、末期の眼の効果について。
死の半年前、源氏に出家を許してもらえない紫の上は、せめてものという思いで、法華経の供養を行い、花盛りのもと、自然の景色や人々の奏でる音楽などにつつまれながら、感極まってしまう。
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(略)この世にあるのも残り少ないと思われる紫の上は、お心の内では何事につけてもあわれ深く覚えられるのであった。
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この世との別れが迫っているからこそ、目にうつる風景が美しく思えてならない、というのは、芥川龍之介が「末期の眼」として遺書に記したもの。紫式部もまた、その効果を物語に生かしていたわけだ。
秋と痩せ姫、というテーマに戻ると、やはり、そのもの哀しさにしんみりさせられ、実りの秋とか、食欲の秋といったイメージとは、対照的なものを感じる。
しかし、どの季節にもそれぞれ、生と死のイメージがあり、秋における後者のイメージを体現するかのような存在が、この「御法」の紫の上なのだろう。
それにしても『源氏』の、紫式部の凄さには今さらながら圧倒される。
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