女の人差し指 向田邦子を読んで
昭和の時代の懐かしい生活を 豊かな感性で描く向田邦子のエッセイを読むと、私は必ず エッセイを書きたくなる。
それほど私に刺激をもたらせてくれる作者は 一短編の中に 必ずどこかに じんわりと効き目のある山葵(わさび)を付け加えている。
例えるなら、向田邦子の短編は 新鮮なお刺身の盛り合わせ。 その美しく飾られたおいしそうな大皿の片隅に 一枚の大葉が添えられ、「芽紫蘇」や「小菊」と共に「桂剥きされた大根の小さな円錐形の器に 盛られた山葵」のように!
知っている者ならば 一番に探出して箸に取るものを、知らない者ならば うっかり見逃して いろんな刺身をパクパク口にし、後で「山葵」に出会って「う~ん!」と 唸るような読後感で ある。
それは ともすれば 何とも言えない辛味のある「ウフ!」であり、それが 快感になって、さすがは 「向田邦子さん、一味違うぜ!」と なるのだ。
そして、向田邦子の世界には 現在 失われてしまった「美しい日本語」がある。 それは 「戦前戦後」という時期を 境に変わっていったような気がする。
時代が変わるにつれ、言葉も変わるのは 致し方がないとしても、最近の言葉には「情緒」というものが 全く感じられない。 人の発する言葉に余韻がないのだ。 私は 古い人間だからなのか、
余韻のある戦前の「美しい言葉」が 懐かしい。
来て:いらして、
居る:おいでになる。
着る:お召しになる。
言う:おっしゃる
食べる:いただく
嬉しく思う:嬉しゅうございます
あげれば、キリがない。 古い映画の中の女性の会話が 早口なのに、なぜだか 透明なガラス玉を 転がすような 美しい響きを感じるのも、一つ一つの言葉に 情緒があったからなのだろう。
それは 話す相手への「友愛」に繋がっているようにも聞こえる。
まだ「女の人差し指」は半分も読んでいないのに、感想を書いてしまった。これは、私の大好きな向田邦子さんの作品だからというのもあるけれど、 何回 読んでも新鮮だ!と言う事かもしれない。
書くことに行き詰まったら、私は向田邦子さんの作品を読むことにしよう。そうすれば、書くことを 思い出せるように思うから…
私にとって きっと、向田邦子さんの作品は
「歌を忘れたカナリア」の「海に浮かべる舟」なのかもしれない。
そう思うと俄然、これを投稿したら 又続きを読もう! と、
ワクワクし出している自分に気づいた。
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