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生命の喜びとカネのかかる俗世・その2
瞑想、なんて高尚なことをするつもりはなく、もうとにかくブチ切れたから何もしない、それだけのことだったけど、結果的にそれはいわゆる瞑想になった。
ただ座ってひたすら呼吸だけをして、時々浮かんでくる欲望や願望の類を一つ一つ「それ本当?」と点検するのだ。
本当のことなんて、ほとんどなかった。
食欲すら。今まで食欲と感じていたものの20分の1ぐらいしか、本当の肉体的な食欲ではないと気付くことになった。
気分転換したい欲。寂しさを紛らわせたい欲。退屈を紛らわせたい欲。そういう、本当は食欲ではなかったものたちを取り除けては脇に置き、をしていくと、本当に腹が減ることなんて1日1回あるかないか、しかもほんの少しで充分満たされた。
食事も減り、するとトイレの回数も減り、動かないから睡眠の必要も減った。どんどん省エネ化しながら私はひたすら座った。
あれやりたいこれやりたい、を一つ一つ点検して脇に置く度に、少しずつ、ただ座って呼吸をしていることが、至福になっていった。
あ、私、元から幸福だった。何もしなくても。何も取りに行かなくても。何かを取りに行かなくてはと常に駆り立ててくる頭にずっと騙されてきただけだったんだ。。
そう分かって、もう何もしなくてもいいや、とただただ内から湧いてくる喜びに浸って数日が経ってからやっとだ、腹の底から「歌いたい」が出てきたのは。
分厚い思考の雑音の層をあれもこれも取り払ってやっと触れることができた私の、いのちの底にあった砂金のような願いだった。
そうは言ってもさ、生活していかなきゃいけないから。ずっと座って瞑想してるわけにもいかない。子供だっている。
「歌いたい」そして続いて「踊りたい」という体一つ系エンターテインメントに目覚めたのはその時で、それから私はそのピュアな願いをしっかり掴んでは叶えつつ、だけど生きるために働く、という俗世に再びダイブして、この10数年を生きてきたわけだ。
一度掴んだ生命の喜びは、もう私の元から離れていってしまうことはなかったから、生きることが本当に楽しくなった。俗世のゴタゴタにうっかり一瞬忘れそうになっても、少し立ち止まって呼吸すれば、すぐそこに、体の底に、キラキラした爆発的な幸福がある。
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