【翻訳】素晴らしきBitsyの世界と、おすすめの作品 by Nathalie Lawhead

[訳者コメント]
本記事は『Everything is going to be OK』や『BlueSuburbia』などで知られるNathalie LawheadさんによるBitsy紹介記事(2021年6月21日公開)の翻訳です。元記事はこちらから読むことができます:
https://www.nathalielawhead.com/candybox/bitsy-is-beautiful-exploring-the-bitsy-space-and-some-of-my-favorite-bitsy-games
ちなみに、上記のブログの最新記事(2024年4月17日公開)でも個人開発者と小規模ツールについての考えが記されており、本記事の内容とも関連があるものになっています。
元ブログはCC BY 4.0 Deed (Attribution 4.0 International)ライセンスで公開されており、それに基づいて翻訳しています。目次などで表示されている見出しは訳者によるもので、原文にはありません。
[訳者コメントおわり]



この記事はすべてBitsyに関するものです!

はじめに

初めてプレイしたBitsyゲームのことは鮮烈に覚えている。作者の名前は忘れてしまって、もう二度と探し出すことはできないが……いまやそれほど大量に新作が作られたのだ。最初は、第一印象から判断してスルーしてしまうところだった。Bitsyにはそう思わせるシンプルさがある。itch.ioのようなところには、丹精込めた素晴らしいビジュアルを備えたインディーゲームがあふれるほど存在する。なのにどうして、こんなに素朴なゲームにわざわざ手を出す必要がある?まあでも、ブラウザ上でプレイできるみたいだし、触ってみるくらいなら……

するとたちまち、操作キャラの小さなアバターが身を置く空間に魅了された。2色で象徴的に表現された海に面した砂浜だった。すべてがグリッチ的なアイコンで飾られていて……奇妙なテクスチャは何を表しているのか、プレイヤーの解釈に委ねられているようだった。海辺を離れると、木だけが高く伸びている美しいグリッチ空間に出た。オブジェクトが脈打ち、限られたフレーム数で動きが表現されていた。さらに進むと視点が変わり、プラットフォーマー的な横からの眺めになった。背景にはローファイに表現された……空? 崖?のような何かが広がっている。テクスチャが非常に複雑なのだ。ピクセルが印象的なパターンを描きながら柱のように積み上がり、まるでデジタルな廃墟のようになっていた。
使われている色は二色だけなのに、圧倒的に迫ってくる。ダイアログも深淵で、ビジュアルに負けていない。
たちまちそのゲームが気に入った。立て続けに何度もプレイして、環境描写を通じてプレイヤーに働きかけるさまざまな方法を吸収した……それから、そのページを離れた。
このゲームは二度と見つけることはできなかった。もう何年も前の話だ。以来、Bitsyゲームはitch.io上に大量に投稿された。いまではとてもたくさんのBitsyゲームが存在する。

このゲームのことはいまでも折に触れて思い出す……

Bitsyとは

Bitsyを知らない人にも説明しておこう。Bitsyとは小さなストーリーやちょっとした言葉、空間を作ることができるゲームエディタだ……Bitsyゲームを説明する上で、こういった作品群を民話のようなものとして考えてみるのが良いかもしれない。洗練されてもいなければ、多額の予算がついているわけでもなく(そもそもそれは本質的に難しい)、余分な要素も、大人数のチームも存在しない。大規模にマネタイズすることもできない……でも、とても簡単に他の人とシェアできる。どこにでも存在し、多くの人にとって非常に大きな意味を持つ。Bitsyはゲーム開発のツールであると同時に、コミュニティに関わるものでもある。

Bitsy最大の特徴は制限されたカラーパレットと抑制的なヴィジュアルだ。
そういった制限があるにもかかわらず、Bitsyに丹精込めたアートを取り入れる方法が多くの人によって見いだされており、3D空間を表現可能にするものすらある。Bitsyはオープンで参入障壁も低く、そのアクセシビリティの高さは刺激的だ。
初めて公開されたときからBitsyは大きく成長し、それを取り巻くコミュニティも大変な活況を見せている。
こんなにシンプルで、容易に見過ごされそうなものが、インディーゲームにおいてこれほど重要なメルクマール的存在となったのは本当にすごいことだと思う。Bitsyは、こう評価しても決して過大ではないだろう。
あのPlaydateもBitsyにインスパイアされている(あるいは、はっきり「パクった」と言ってしまう派閥もTwitterには存在する)。
とはいえ、Bitsyは決してコピーできるものではない。
Bitsyの魅力の大部分は、それが平等で開かれているところにあるだろう。製作者がどれほど進んだ技術を投入しようとも、BitsyゲームはBitsyゲーム的な見た目になる。そもそも小さな作品を作るために存在するのだから、他の人が作ったものを素人くさいからといって低く評価することはできない。何か作りたいと思った人のための場所を提供してくれる一方で、エンジンの制約を乗り越えて素晴らしいアートを生み出すこともできる……Bitsyを通じて作家性を発揮している製作者もたくさんいる。Bitsyがあったからゲームを作ることができたという人々をみるのはほんとうに美しい光景だ!

Bitsyはどこをとっても素晴らしく、緻密に分析しがいがある。私にとって、Bitsyはインディーゲームコミュニティの良いところばかりを反映したような存在だ。開かれていて、インクルーシブで、人が声を挙げるのを助けている。
Bitsyでしかゲームを作らないというインディー開発者すら存在する。Bitsyは多くの人にとって、とても大きな意味を持っているといっても決して過言ではないだろう。
もはや私には、Bitsyのないゲーム界は想像できない。

ゲームコミュニティがBitsyから学べる教訓があるとすれば、小規模なツールの持つ重要性を決して過小評価してはならないということではないだろうか。そういったツールは扱うのが簡単で(簡単すぎるくらいだ)、誰でも使ってみることが可能で、すぐに一緒に何かを作って公開できる。itch上のツールコミュニティは全体的に活気があり、常に成長している。「The Fantasy Console」は多くの意味において正しいムーブメントだった……オープンソースでフリーウェアの小さなツールがたくさんできて、ゲームやサウンドエフェクトを作ったり、シンプルな歌をぱっと作曲したり、ビジュアルノベルを開発したりすることができる。
こういったツール類を無視することは容易い。だが、その影響力はどんどん大きくなっている。
これらの小規模なツールをめぐる空間において最も重要な点はおそらく、フリーのツールだけを使ってひとつのゲームを作り上げられるところにあるだろう。
Wobble Paintを使って絵を描いてPhotoMoshで加工してもいいし、音楽はLovely Composerで作れる。ビルドにはTuesday JSを使えばいい。細々したツール類を駆使すれば、しっかりしたひとつの成果物が組み立てられる。
私にとって、それはすごく刺激的なことだ。創作活動は本来これほどまでに開かれているのだ、ということを教えてくれるから。

これまで数多くのBitsyゲームをプレイしてきた。その中には何年たっても思い返す作品もある。残念なことに、それらの作品へのリンクを逐一保存してはこなかった。だってBitsyだから! 一目見ただけではつい見くびってしまうのだ。自分にとってこれほど重要な存在になり得るものなのに。

Novena by Cecile Richard

Novena』(Cecile Richard作)はそんな、ずっと頭に残るBitsyゲームのひとつだ。海にまつわる、美しく雰囲気に満ちた詩が描かれている。
この作品は多様な解釈を許すところが面白い。さらに言えば、Bitsyが文学的表現と非常に相性が良いということの素晴らしい例証でもある。
媒体の持つ制約を活用して手の込んだビジュアル表現を実現している。
Novenaはピクセルで描かれた祭壇のような空間から始まる。窓から光が差しており、鳥の姿をした操作アバターのまわりではろうそくのようなものがまたたいている。
ゲームを進めると、海にまつわる詩が語られ始める。私はそこからの流れが気に入っている。深い印象を残す詩を、反復をベースに一貫性のある形で語ることに成功している。文章だけでなく、ゲーム全体(操作も含めて)がひとつの詩を構成している。
とりわけ気に入っているのは、日数が経過するたびに歩く場面だ。最初は一本の線しか見えず、ドアかなにかかと思うのだが……やがてそれは経過した日数を表しているのだと気づく。文章で語られる時間経過がそういう形でも表現されているのだ。
シンプルな表現だが、どこにフォーカスするべきかを心得ている。だからこそこれほど力強い作品になっている。
この作品は多様な解釈が可能だ。詩が表現しているのは海のことであり、許すこと、相互理解のための地平にたどり着くこと、なすがままに任せること、折り合いをつけること……それは同時に、Bitsyという媒体が特別なものとなっている理由そのものでもある。
Unityを使って、きれいなグラフィックでこの作品を作ったとしても語りのインパクトは決して減りはしないだろう。そこに異論はない。だが、Bitsyのシンプルさは伝えたいことの要点にフォーカスするよう促す。だからこそ、この作品のポイントも見えやすくなっているのだろう。

私は、まだフロッピーディスクがフロッピー(=薄く柔らかいもの)だったころに、ローファイな2色しかないゲームをプレイして育った。とりわけ夢中になったのはテキストアドベンチャーだった。そこでは、プレイヤーの関心を引くための表現のメインはテキストだった。そういったゲームではしばしば、ただのユニコード文字(たいていの場合どこか顔っぽくみえるもの)がアバターとして使われていた。ゲームはプラットフォームの制約を強く受けていたが、それでも人々はその制約の中でなんとかしてストーリーを描いていた。もっと複雑なビジュアル表現が可能になったとき、私はグラフィックに乏しかったころのことを懐かしんだのを覚えている。そういったゲームでは、プレイヤーの側が想像力を働かせることが可能だった。『Chopper Commando』を見ても、不格好な何にでも見える空間で奇妙な2色の爆発が起きているとしか思えない人もいるだろう。でも、私がプレイしていたときは自分の想像力でそのギャップを埋めていた。プレイしながら、キャラクターに何が起きているのか、自分でストーリーを想像していた。
こういう遊び方は、子供がおもちゃで遊ぶのとよく似ていると言えるだろう。小さなプラスチック製の飛行機で遊んでいるときに空想の世界に浸るようなものだ。私にとって、こういった昔のゲームはおもちゃのようなものだった。想像力を働かせる余地があったのだ。
いまでは、ほとんどのゲームはそれが描き出す世界という点では想像の余地はほとんどない。物事はとても明確に表現される。車は「本当の」車のように見える。町にしか見えない町の中を、車に乗って走りまわる。そこに解釈の余地はない(インディー制作のアートゲームでもなければ)。それはそれで素晴らしいことだが、媒体による制約にもまた良い点があったとも思う。プラットフォームやツール、あるいはアートそれ自体がすすんで制約を課すことで、想像の余地ができる。
Bitsyゲームはそのことを思い出させてくれる。すべてがプレイヤーの解釈に委ねられているからこそ、描写を通じて感覚や感情が刺激されるのだ。

There Aren't Really Words… by rose.kiid

たとえば、『There Aren’t Really Words...』(rose.kiid作)がそうだ。ここでは、あり得る中でも最悪のニュース、最愛の人の死というニュースを受け取るときのことが描かれている。
この作品は驚くほどに感情を揺さぶってくる。テーマがテーマだけに、プレイするのがつらくなるほどだ。小さな作品で、語りも完璧にまとまっており、プレイヤーを特定の感情へとはっきりと導いていく。ここで描かれているのは悲しみも変化していくということだ。それは、事件が起きた後も世界は変わっていくということの反映でもある。
この作品はシンプルなだけに非常に力強い。テーマから逸れることは一切ない。知らせを受け取るプレイヤーに常にフォーカスが当たっており、プレイヤーは作者とともにその出来事に対処せねばならない。
ゲームは家を描いたシンプルな空間から始まる。あなたは宿題を終えて家事をしようとしている。それはすぐに片付く。タスクとして課されるのは簡単な繰り返しに過ぎない。ささやかな落ち着く空間、という感覚が築かれる。家事のために歩き回るうちに、家の構造を把握することもできる。
だが次の瞬間、電話が鳴って恐ろしいニュースが伝えられる。するとたちまちシンプルで幸せな自宅が一変する。いたるところがグリッチで歪み、恐ろしい空間に様変わりしている。
この急変によって、作品の要点が痛いほどに伝わってくる。恐ろしいニュースは、あなたの見た目も変えてしまう。いままでいた空間も異なって見える。平和な場所は存在しない。
これもまた、見た目の素朴さとは裏腹にBitsyゲームが非常に複雑で重い感情を惹起できるということを証明している。
There Aren’t Really Words...』は作者の最初のゲームだ。itch.ioの作者ページに置かれている唯一のゲームでもある。私にとって本作は宝物だ。誰かが何かを表現するために作り、公開した。あなたはそれを見つけるかもしれない。すると、誰かある人の人生の一瞬を体験することができる。つらい一瞬だが、誰もが共感できる瞬間だ。

The LoneliestAstronaut by AQUANAUTS HOLIDAY

The Loneliest Astronaut』(AQUANAUTS HOLIDAY作)を初めてプレイしたのは2019年のことだが、いまでも折に触れて思い返す。孤独というものを鋭く切り出した作品で、孤独を求める気持ちや、ひとりでいることの恐ろしさを描いている。プレイヤーは宇宙飛行士で、宇宙船に乗っているただひとりの人間だ。このゲームではその人間の生活を体験し、どうして孤独なミッションに出ようと思ったのかということも語られる。そういった情報の伝え方が特に印象的なものになっている。
最終的に物語は鋭いメタファーとなり、とてもパーソナルで共感できることを語る。
様々なレイヤーでいろいろなことが語られているのが気に入った点だった。ここでもまた、シンプルさのおかげで引き込む力が強まっている。

CLINT IS NOT AN INCEL: A WORD ON FATNESS AND MASCULINITY by janmart1n

CLINT IS NOT AN INCEL: A WORD ON FATNESS AND MASCULINITY』(ianmart1n作)は『スターデューバレー』の登場人物クリントについての作品だ。ここで語られている多くの事柄(ある種の人物を他のタイプよりも「恋愛可能」であると見なす私たちの文化的傾向や、それをめぐる言説のあり方など……)について、この場で軽く触れて済ますのはあまり適切とは思えない。
最初の画面では、プレイヤーはオープニングとなるダイアログを読むためにナイフを拾い集める(画像参照)。それぞれのナイフにちょっとした文章が付されていて、その内容はゲームを進めるにつれて深められていく。ここでナイフがアイコンとして用いられていることは意味深く思える。ゲーム自体を一種の「凌遅刑」として提示しているようだ。
本作ではゲームにおける身体イメージという、本来もっと語られるべき重要なテーマが扱われている。
それで思い出したが、トッド・ハーパーは2015年にGDCで「ゲームにおける肥満表象とその落とし穴」について語っていた(アーカイブから無料で視聴できるので、みんな見るべき)。
CLINT IS NOT AN INCEL: A WORD ON FATNESS AND MASCULINITY』も同様に、「太っていること」が「醜さ」と結びつき、さらには「醜さ」が気持ち悪い振る舞いと結びついていること、そしてビデオゲームがその関連付けを助長していることについて語っている。とはいえ、本作にはそれ以上の深みがある。ここで私の側からあまり多くを語って誤解を招くようなことはしたくない。
本作は個人的な視点から社会的な問題を扱っており、熟考に値するものだ。

Guerrilla Gardener by PIGEON GIRL

社会的な問題を扱うBitsyゲームはほかにもたくさんある。ゲームをプレイすることで社会についてニュアンスに富んだ感情が喚起されるのは素晴らしいことだと思う。Bitsyコミュニティは、ゲームを通じて意義深く成熟した政治性が表現できるということを体現している。

Guerrilla Gardener』(PIGEON GIRL作)は、Bitsyという形で表現された論考とも言うべき、興味深い作品だ。プレイヤーはゲーム内を歩き回り、食べ物や格差、共同菜園を運営するコミュニティの重要性などに関する情報を読んでいく。たくさんの情報を集めて読むその合間には、共同菜園の掃除などのタスクも課される。
さまざまな論点を表現するのにBitsyという手段を活用しつつ、植物を植えることでコミュニティに参加する様も体験できるようになっているところが魅力的に思える。人生に不可欠な、意義深い社会的評論だ。

A Hideo Kojima Game(Not actually a Hideo Kojima game) by TT

A Hideo Kojima Game(Not actually a Hideo Kojima game)』(TT作)も面白い。ごく小さなゲームで場面もひとつだけの、風刺的小品だ。

小島秀夫になって小島秀夫のゲームを作ろう。
小島秀夫非監督作。つまり、小島秀夫はコンセプトにもプロデュースにも原作にも脚本にも世界設定にもゲームデザインにもキャスティングにも契約にも監督にも難易度設定にもプロモーションにもヴィジュアルデザインにも編集にも商品展開にも関わっていない

これは好きだった。笑った。

madotsuki's closet by Bagenzo

そして最後にとっておきを……(プレイしてくれなかったら怒りますよ)

madotsuki's closet』(Bagenzo作)には、端的に言って衝撃を受けた。どこから説明すればいいのかもよくわからない。たぶんだが……私のゲーム『Everything is going to be OK』を気に入ってくれた人はぜひともプレイするべきだろう。意義深く複雑で、感情を揺さぶり、非常に独特な仕方でプレイヤーに迫ってくる。その結果、まさにこの作者にしか作り得ないような、非常にオリジナルな作品ができあがっている。
本作は『ゆめにっき』とトランスジェンダーとしてのアイデンティティに関するゲームだ。
このゲームは面白いことに、最初は『ゆめにっき』というゲームについて多くのことが知れる、ある種の論考のようにして始まる。『ゆめにっき』をめぐるファン文化について語るところから始まり、やがてジェンダーアイデンティティへと話題が移り、トランスジェンダーとして生きることを描いたとても個人的な自伝的作品となっていく。どんなにおすすめしても足りないくらいだ。より複雑な話題に飛び込むための助走としてファン文化が用いられているところも素晴らしいし、その組み込み方も非常に有機的で一貫性がある。本作を『ゆめにっき』の二次創作ゲームとして片付けて欲しくない。それだけではない作品なのだ。
このゲームは、熟練のゲーム批評家に期待したくなるような、ゲームに関する優れた批評でもある。その批評がゲームという形で表現されているところがとりわけ魅力的なのだろう。
しかも、そのゲーム化の仕方も非常にインパクトのあるものだ。Bitsyで表現された空間(なんと3D)を探索しながら文章を読んでいくのだが、コンテクストや視点、空間が常に変わり続けている。まるで『ゆめにっき』そのものだ。終盤には、作者が友人と行ったチャットを追体験するためのチャットウィンドウも導入される。
ほんとうに豊かであり、珠玉の作品といえるだろう。

この記事の最初の方で、私はitch.ioにおけるフリーの(オープンソース、フリーウェア、小規模開発の)ツールコミュニティが非常に刺激的だと述べた。それは、そういったツール「だけを」使ってゲームを作ることが可能だからだ。そういった場では、プレイヤーの感情を動かす優れたゲーム、パワフルなゲームを作るにあたって、Unityのようなものを使う必要(あるいは要請、といった方がいいかもしれない)はない。『madotsuki's closet』はまさにそのことの証だろう。本作の作りは非常興味深い。ブラウザ上でプレイすることができ、プレイヤーはBitsyやTwineで作られたゲームを探索する。そういった多様なコンテクストを行き来することで、これほどまでに興味深い体験が作られているのだ。
他にはない作品であり、ぜひプレイしてみてほしい。

というわけで、この記事を読んだあなたがBitsyゲームをプレイしてみて、新たな作品を生み出してくれることを願っています!

Bitsyはほんとうにもっと話題になってしかるべきエンジンだと思うし、個々のBitsyゲームにももっと光が当てられるべきだ。コミュニティは素晴らしいし、多様で才能に富んでいる。ほんとうに貴重な空間なのだ。

その他のおすすめ作品

こちらもおすすめ……

The house of the Living』(Fred Bednarski作)

「不吉な館から呼び声が聞こえる……館の秘密を明かそう。ブラウザプレイ可能、プレイ時間5〜10分、矢印キーで歩く。キャラクターやオブジェクトに向かって歩くとインタラクトできる」

Flirting』(Visager作)

「メカに乗った二人のノンバイナリの午後」

Devil's train』(Tizis作)
Bitsy製のミュージックビデオ!

Minuit』(Haché作)

「自分が十代のころ、真夜中過ぎに何をしていたかについての小品」

ちなみに、3D空間を構築する時に、まずはBitsyで見取り図を書いてみるという作業手順を踏むといいのではないかと個人的に思っている。

Karl Marx Reads You The Communist Manifesto』(Communist Sister Interactive作)

「今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」マルクスに続きを朗読してもらおう。ピクセルアートも最高水準。

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