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野蛮と思想 ・4

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「豊饒の海」第二作「奔馬」は、漱石の「草枕」を下敷きにしている。

主な共通点としては、
1、熊本を舞台とする
2、ヒロインが出戻り
3、能と徒然草

である。以下説明する。

1、熊本を舞台とする
「草枕」は全体が熊本での物語である。「奔馬」は、全体は東京での物語だが、神風連の物語が途中挿入されており、無論熊本での話である。

2、ヒロインが出戻り
「草枕」の那美は出戻りである。「奔馬」の神風連のヒロイン以幾子は出戻りである。本編のヒロイン鬼頭槙子も出戻りである。

3、能と徒然草
「草枕」最大の工夫は、対称となる章に「松風」と「徒然草」を入れてあることである。

これが非常にわかりにくい。特に徒然草は私も最初気づかなかった。
まず徒然草本文、高校の時に習った文章である。

「神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里にたづね入ることはべりしに、はるかなる苔の細道を踏み分けて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる懸樋のしづくならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。 かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、周りをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばとおぼえしか」

次に草枕、第十二章。

まず 過去にこの地に来たことを回顧する。

「門を出て、左へ切れると、すぐ岨道つづきの、爪上りになる。鶯が所々で鳴く。左り手がなだらかな谷へ落ちて、蜜柑が一面に植えてある。右には高からぬ岡が二つほど並んで、ここにもあるは蜜柑のみと思われる。何年前か一度この地に来た。指を折るのも面倒だ。何でも寒い師走の頃であった。その時蜜柑山に蜜柑がべた生りに生る景色を始めて見た。蜜柑取りに一枝売ってくれと云ったら、幾顆でも上げますよ、持っていらっしゃいと答えて、樹の上で妙な節の唄をうたい出した。東京では蜜柑の皮でさえ薬種屋へ買いに行かねばならぬのにと思った。夜になると、しきりに銃の音がする。何だと聞いたら、猟師が鴨をとるんだと教えてくれた。その時は那美さんの、なの字も知らずに済んだ」

何年か前に来た時に、蜜柑農家から蜜柑をタダでもらったことを思い出す。その後、那美さんが男に財布を渡す光景、つまり身銭を切って援助する光景を見る。主人公は那美がその日の朝短刀を懐に入れたのを目撃している。

「余はこの物騒な男から、ついに吾眼をはなす事ができなかった。別に恐しいでもない、また画にしようと云う気も出ない。ただ眼をはなす事ができなかった。右から左、左りから右と、男に添うて、眼を働かせているうちに、男ははたと留った。留ると共に、またひとりの人物が、余が視界に点出された。
 二人は双方で互に認識したように、しだいに双方から近づいて来る。余が視界はだんだん縮まって、原の真中で一点の狭き間に畳まれてしまう。二人は春の山を背に、春の海を前に、ぴたりと向き合った。
 男は無論例の野武士である。相手は? 相手は女である。那美さんである。
 余は那美さんの姿を見た時、すぐ今朝の短刀を連想した。もしや懐に呑んでおりはせぬかと思ったら、さすが非人情の余もただ、ひやりとした。
 男女は向き合うたまま、しばらくは、同じ態度で立っている。動く景色は見えぬ。口は動かしているかも知れんが、言葉はまるで聞えぬ。男はやがて首を垂れた。女は山の方を向く。顔は余の眼に入らぬ。
 山では鶯が啼く。女は鶯に耳を借して、いるとも見える。しばらくすると、男は屹と、垂れた首を挙げて、半ば踵を回らしかける。尋常の様ではない。女は颯と体を開いて、海の方へ向き直る。帯の間から頭を出しているのは懐剣らしい。男は昂然として、行きかかる。女は二歩ばかり、男の踵を縫うて進む。女は草履ばきである。男の留ったのは、呼び留められたのか。振り向く瞬間に女の右手は帯の間へ落ちた。あぶない!
 するりと抜け出たのは、九寸五分かと思いのほか、財布のような包み物である。差し出した白い手の下から、長い紐がふらふらと春風に揺れる。
 片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い手頸に、紫の包。これだけの姿勢で充分画にはなろう。
 紫でちょっと切れた図面が、二三寸の間隔をとって、振り返る男の体のこなし具合で、うまい按排につながれている。不即不離とはこの刹那の有様を形容すべき言葉と思う。女は前を引く態度で、男は後えに引かれた様子だ。しかもそれが実際に引いてもひかれてもおらん。両者の縁は紫の財布の尽くる所で、ふつりと切れている。
 二人の姿勢がかくのごとく美妙な調和を保っていると同時に、両者の顔と、衣服にはあくまで、対照が認められるから、画として見ると一層の興味が深い。
 背のずんぐりした、色黒の、髯づらと、くっきり締った細面に、襟の長い、撫肩の、華奢姿。ぶっきらぼうに身をひねった下駄がけの野武士と、不断着の銘仙さえしなやかに着こなした上、腰から上を、おとなしく反り身に控えたる痩形。はげた茶の帽子に、藍縞の尻切り出立ちと、陽炎さえ燃やすべき櫛目の通った鬢の色に、黒繻子のひかる奥から、ちらりと見せた帯上の、なまめかしさ。すべてが好画題である。
 男は手を出して財布を受け取る。引きつ引かれつ巧みに平均を保ちつつあった二人の位置はたちまち崩れる。女はもう引かぬ、男は引かりょうともせぬ。心的状態が絵を構成する上に、かほどの影響を与えようとは、画家ながら、今まで気がつかなかった。」

その後那美は主人公と会話する。那美は衝撃の告白をする。

「あなたは今の男をいったい何だと御思いです」
「そうさな。どうもあまり、金持ちじゃありませんね」
「ホホホ善くあたりました。あなたは占いの名人ですよ。あの男は、貧乏して、日本にいられないからって、私に御金を貰いに来たのです」
「へえ、どこから来たのです」
「城下から来ました」
「随分遠方から来たもんですね。それで、どこへ行くんですか」
「何でも満洲へ行くそうです」
「何しに行くんですか」
「何しに行くんですか。御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分りません」
 この時余は眼をあげて、ちょと女の顔を見た。今結んだ口元には、微かなる笑の影が消えかかりつつある。意味は解せぬ。
「あれは、わたくしの亭主です」
 迅雷を掩うに遑あらず、女は突然として一太刀浴びせかけた。余は全く不意撃を喰った。無論そんな事を聞く気はなし、女も、よもや、ここまで曝け出そうとは考えていなかった。
「どうです、驚ろいたでしょう」と女が云う。
「ええ、少々驚ろいた」
「今の亭主じゃありません、離縁された亭主です」
「なるほど、それで……」
「それぎりです」

そして二人で高い場所に登り、風景を見下ろす。

「岨道の登り口へ出て、村へ下りずに、すぐ、右に折れて、また一丁ほどを登ると、門がある。門から玄関へかからずに、すぐ庭口へ廻る。女が無遠慮につかつか行くから、余も無遠慮につかつか行く。南向きの庭に、棕梠が三四本あって、土塀の下はすぐ蜜柑畠である。
 女はすぐ、椽鼻へ腰をかけて、云う。
「いい景色だ。御覧なさい」
「なるほど、いいですな」
 障子のうちは、静かに人の気合もせぬ。女は音のう景色もない。ただ腰をかけて、蜜柑畠を見下して平気でいる。余は不思議に思った。元来何の用があるのかしら。
 しまいには話もないから、両方共無言のままで蜜柑畠を見下している。午に逼る太陽は、まともに暖かい光線を、山一面にあびせて、眼に余る蜜柑の葉は、葉裏まで、蒸し返されて耀やいている。やがて、裏の納屋の方で、鶏が大きな声を出して、こけこっこううと鳴く」

那美はこの後、戦地にゆく従弟に短刀を渡す。私がこの章を徒然草由来と判断した根拠は、章立て構成的に、対称となる第三章が能の「松風」を暗示しており、12章もなんらかの古典を参照していると推察されることと、

そして

1、過去にこのみかん畑で私有権にこだわらない体験をした
2、今、那美さんの別れた亭主に金を渡すシーンを見た
3、「女は音のう景色もない」

からである。この説明でこの箇所が徒然草と納得してくださる読者は残念ながら少数だろうが、心強いことに三島も同じ読み方をしてくれている。

というわけでようやく、「豊饒の海」の「奔馬」である。「奔馬」には本多の能楽鑑賞が挿入されている。演目は無論「松風」である。
社会改造のためにクーデターを企てた飯沼勲は、逮捕、無罪放免となったのち、周りの大人たちに翻弄されていただけだと知り幻滅する。ラストでほぼヤケになって財界巨頭、蔵原武介を暗殺しにゆく。住所特定のために勲が頼りにした雑誌の切り抜きにはこうある。

「蔵原武介氏の年末年始は、ゴルフをするでもない、簡素そのもので、毎年御用納めのとたんに熱海伊豆山稲村の別荘にもぐりこみ、自慢の蜜柑畑の手入れをして暮らすのがなによりのたのしみ。隣近所の蜜柑山は、大てい年内に採果するが、蔵原家だけは、松の内まで、枝もたわわな蜜柑をそのままにして鑑賞し、その後採った蜜柑は、知人に配るほか、施療院や孤児院へ悉く寄付される。財界のローマ法王ともいうべきこの人の、素朴な人柄、麗しい人情を語って余りある」

蜜柑を私有権の象徴として扱っている。蔵原武介は、蜜柑の木の周りを囲わない人、草枕の数年前の蜜柑農家であるし、那美さんでもあるのである。立派な人物である。私欲を放下しているところがある。飯沼勲の暗殺の正当性は、ここに至って完全に喪失する。実際暗殺の際の台詞は、「伊勢神宮で犯した不敬の神罰を受けろ」である。社会改造とは関係のない、どうでもよい案件、よくは無いにしても人間を殺す理由にはならない案件である。蔵原を暗殺した飯沼勲は、追手を逃れながら蜜柑をかじり、海の辺りに行って割腹する。

1、もしも「草枕」の下敷きに「徒然草」があり
2、もしも「奔馬」の下敷きに「草枕」があり、
3、三島が「草枕」の下敷きの「徒然草」に気づき、
4、その上で「奔馬」の蔵原を私欲のない人物と読みとるならば、

以下の解釈が導き出される。
三島は昭和初期のテロ事件を肯定していない。正当性のないものとみなしている。つまりニ・ニ六も肯定していない。
「奔馬」ラストでの飯沼勲は、品の良い武士から殺傷本能丸出しの野犬に成り下がっている。作者は殺傷本能自体は否定していない。しかし自暴自棄で無計画な殺傷活動を否定している。
ちなみにだが、ヒロインたちも時代が下がるほどにエゴイスティックになる。

神風連の以幾子は亭主と一緒に死ぬ
草枕の那美は元亭主に金を渡す。
鬼頭槇子は独占欲から飯沼を密告する

ところが、「奔馬」がニ・ニ六にネガティブという解釈を採用すると、同じ作者の「英霊の聲」との整合性が問題になる。「英霊の聲」はニ・ニ六の青年将校と、特攻隊の兵士の英霊が憤怒の声を上げる物語である。普通に読めば、ニ・ニ六の青年将校の立場に立った作品に思える。しかし「奔馬」ではそのようなテロを否定しているのである。

次回は「英霊の聲」解釈である。

追記


「英霊の聲」は結局独立した読み解きにした。

「野蛮と思想」は尻切れトンボで終わる。あしからず。

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