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【感想・サマータイムレンダ】不朽の名作! それでも私は生きる

どれだけ長く生きたか、じゃない。いかに命を使い切ったかだ

『サマータイムレンダ』

ドクン、と心臓が震えました。
「どれだけ長く生きたかじゃない」
何もすることなく、自分の知らないところで太陽が昇っては沈んでいく。そんな毎日を送っていた私には痛みをともなうセリフでした。

この台詞を遺したのは南方ひづるという女性。ドッペルゲンガーが自分を殺しに来るという異常が発生している和歌山県の離島で、その謎を解きあかし、諸悪の根源であるヒルコ様&シデを打ち倒すという使命をかかえています。時を同じくして、幼なじみが水難事故に遭って葬儀に東京から訪れた主人公。主人公も影に殺されてしまいますが、タイムリープして7月24日が繰り返されます。果たして25日を迎えることはできるのか。主人公は南方ひづると協力して、ヒルコ様とシデと直接対峙しますが、絶体絶命。打つ手なし。すべてのカードを切ってしまった。そんなときに彼女が、主人公に言ったセリフこそ、「どれだけ長く生きたかじゃない。いかに命を使い切ったかだ」。

その結末については、ぜひ自分の目で確かめていただきたいです(アマゾンプライムで全話視聴可能です)。


「命を使い切ったかだ」

ここに南方ひづるらしさ、というのが表れていますね。使う、ではなく「使い切る」。全力投球で命を燃やしている彼女の生き様が見事にあらわれた一幕ではないでしょうか。

ちなみにこのセリフ(というよりは主人公サイドのキャラクターたち)は、シデという人物の考え方と対になっています。

シデ=死にたくない、自分がいない世界は絶対に認めない
南方=どれだけ長く生きたかじゃない。いかに命を使い切ったかだ

一見、長く生きたいと思う人間のほうが文字通り生を全うできる気がしないでもありません。実際、サプリを飲んだり運動したりして「生きること」を考えているほうが、なにかと体の不調にも気づきやすいでしょう。
でも、それってとても空虚な人生ではないでしょうか。長く生きるということはつまり、時間軸上の「死」という一点をいかに遠くに配置するかといことに意識が向いてしまう。点(・)のことしか考えられなくなってしまい、そこに至るまでの線(——)をないがしろにしてしまいやしないでしょうか。

以降ネタバレ注意

「命を使い切る」というのは線(——)の太さに命題がある生き方といえるでしょう。
実際、本作のエンディングがこの命題(生き方について——長く生きるかor命を使い切るか)に答えを提示してくれています。24日のループを抜け出せたのは結局のところ主人公たちでした。一方で、愚かしくも生に執着したシデは皮肉にも25日を迎えることはできませんでした。一日一日を全力で走り続けた人間のほうがむしろ、次の一日を迎えることができた。これ以上ないほどの鮮やかなエンディングです。


余談

余談になりますが、フィクションの美しさとはプロットで語る力だと思いますね。南方ひづるは小説家でもあって、作中でもこのようなことを言っています。

フィクションを心から信じられるのが人の業だ

サマータイムレンダ

あるいは、ビブリア古書堂の事件手帖にもこんなセリフが。

作り話だからこそ、託せる思いもあるんです

ビブリア古書堂の事件手帖


本作には、生き方についての問いがありました。
それこそ、

どれだけ長く生きるか vs. いかに命を使い切るか

世間でよく言われることでもありますよね。例えば戦争を体験した語り部たち、学校の先生、あるいは親かもしれません。
「一日一日を大切にしなさい」

でも、正直なところ、生身の人間にそんなこと言われても
しらけるし、綺麗事すぎて心に何も残らない。

けれど、物語にはそういった本当に大事なことをプロットで語ることができます。それも力強く、美しく。
だから私は物語が大好きです。
大切なことは本が教えてくれる。
フィクションだとわかっているからこそ、先入観とか偏見とか、斜に構えた自分から解放されて、物語に没入できる。彼らの発する言葉に耳を傾けられる。

余談2

文章のよい作品とは何か、とは答えづらいところではありますが、一つ挙げるとすれば言葉で語らないことですよね。
例えばこんな文章があったとします。

2月。僕は合格発表の張り出しをみた。自分の番号があってとても嬉しかった。

とても嬉しいことを表現したかったのでしょうが、これだと事実しか伝わりませんよね。熱が文章に帯びていないというか。小説を読んでいてこのような文章に出くわしたらすこし悲しいです。
作家さんならば、嬉しいという「ことば」ではなく動作でそれを示してほしいですよね。

合格。
その意味を理解するのにいくらかの時間が必要だった。後ろで母が不安と期待の混ざった目で私を見ているはずだ。
足がもつれた。
私は躓いてころんでしまう。
だが、二月のアスファルトは冷たくなかった。

こんな感じだと、感情が高ぶって体が熱くなる。足取りが不確かになって転んでしまうけど、寒さも感じないほどに嬉しかった。と、伝わるのではないでしょうか。

何が言いたいのかというと、作家さんは
ことばではなく、動作で語る。
文章ではなく、プロットで語る。

そういうところが作家さんの腕の見せ所だと思うし、
作家さんがもつ力なんだろうな~、ということです。