noteは壁打ち。見られていなくても、書くということ〜気づいたら、noteを始めて1年が経っていた話
noteを始めて1年が経つ。今まで長く投稿していない時期もあったが、最近また投稿し始めた。合計投稿数は、今現在75本。
noteを書く以前は、何かを書いたら、炎上するとか、人格を否定されると考えていた。誰かしらがネットで叩かれている時代だ。ヤフコメなどを見てみれば、「こんなに、冷たい人が多い世の中なのか…」と身体の力が抜けるような心持ちにもなる。
また素性を晒されるとか、プライバシーが危うくなるのでは?などの不安もあった。
それでも、とりあえず始めてみた。「何か言われたら、メンタルを強く、保とう。大丈夫、今まで孤独に慣れてきただろう?」と、心の中で、謎に自分を鼓舞していた時もあった。
そんな覚悟は必要なかったようで、今のところ何らの炎上は、起こっていない。
仕事でインスタなどのSNSもしているが、そちらも何の嫌なコメントも来ていない。
それどころか、コメントは来ない。
noteは、壁打ちに似ている。伝えたいメッセージがあるので、この声が届いて欲しいとか、自分の文章を向上させるため…とか、考えて書いているけれど、そもそも見られているのかすら、わからない。
ましてや、届けたい人にメッセージが届いているのかもわからない。
そういう事実を突きつけられると、文字を打つ指が、止まりそうになる。
何のためにもならない無駄なことを、しているのではないか?、と。
私の場合は、文を投稿しても、気持ちよい気分にはならない。
文を書くなら、日記でも良いし、そもそも他人に自己開示をすることに、抵抗を持っていた。「これって、意味がある?」と、疑問に思ってしまうから。私は、ドライ過ぎるのか、話しても話が通じない人とは、会話を切り上げてしまうことに慣れている。
考えてみれば、私以外の人たちの作り上げた、何らかの作品や仕事も、こんなに物やサービスが飽和しきった時代に「必要か」など分からない。
それでも大抵の人々は物を作ったり、仕事をしたりしている。
ここまで書いて気がついたけれど、「意味があるのか?」と考えて、作品を作ることをやめるのは、私が苦手とする、「能力主義」と同じではないか?下手でも文章を書いた方が良いのと同様に、見られていないとしても「必要」だと感じた行為は、すべきだ。
文章を書くのは、積み木を積み上げるたびに、何度もバラバラに崩れて、またそれを積み直すような作業に、思える。
そうだとしても、一段、一段やっていくしかないようだ。本当に、人生はサボると、呆れるくらいやることが積み上がっている。
大学の単位を取るみたいに、一からまた、作品を書いていく。それは、決してゼロにはならないから。