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震災から11年。 今、思うこと。

2011.03.11 → 2022.03.11

あの悪夢のような出来事から11年が経ちました。当時13歳(中学1年生)だった僕は24歳になりました。当時の自分やその友達に「お前は看護師になるぞ!」なんて伝えたとしても100%信じてもらえないのは目に見えています。


というのも自分は東日本大震災を経験して、瓦礫を掻き分けて救出活動をされる自衛隊の皆さん、震災により怪我をされた方、命の瀬戸際に立たされた方を救うべく尽力する医療従事者の皆さんを見て「すごい…頑張れ…」と思う反面「カッコいい…。いつかは自分も…。いや無理!無理!自分にはできるわけない…」と当時から人の命に関わる仕事に憧れを抱いていました。憧れで終わるはずだったのですが…。

そうです、僕は気がついたら「看護師」になっていたのです。


少し前に福島県いわき市にある二ッ箭山というところに登山をしてきたのですが、帰りのナビを設定したところ思わず「富岡町」という地名に目が留まりまして、「(そういえばあそこは帰還困難区域だったような…テレビでは何度か見たことあるけど、今はどういう状況なんだろう…)」と気になってしまい、自宅とは逆方向に車を走らせました。

国道6号を北上していくと徐々に空気が変わります。「この先は帰還困難区域」の看板が増えていく。帰還困難区域に近づくにつれて少しずつ案内の内容が変わります。「この先は帰還困難区域」から「車以外×」。柔らかめな注意から警告に変わり、歩行者や自転車で通る人がいないかチェックしている方がいたりと。

いざ、帰還困難区域へ失礼します。お店の外装を見れば一目瞭然。1番衝撃的だったのは富岡町にあったかっぱ寿司。

僕の地元にあったかっぱ寿司は数年前に店を畳んでしまいました。「ここにもかっぱ寿司あったのか!」と単純な感想でしたが少しの違和感。

「(地元のかっぱ寿司も数年前に潰れたとはいえ、看板これだったっけ?)」と。思い返してみると、「(いや、キャラクターが看板から消えたのは店を畳むその少し前だったような…(HPで確認したらキャラクターはご健在のようです)」
その間、何も変わっていなかったという事実。
11年の月日が経っているのを物語っていますね。

あの震災が起こる前は当たり前のようにここで人が生活をしていたんです。もしこれが自分の地元だったら…など色々と思うことはありましたが。

何も言えなくなってしまいました。

え…ここは同じ日本だよね…?

当時の記憶

中学1年生。今日と同じ金曜日でした。翌日、つまり2011年3月12日は自分が通っていた中学校の創立記念のイベントがあり、その準備をしていました。午後2時30分過ぎ、準備も一息ついて、教室でまったりしていたその時です。

ガタガタ…
「(ん?地震?)」

最初はそれくらいでした。すぐにおさまるだろうと。

ガタガタガタ…
「(ちょっと長いな…4か5弱くらいか?)」

揺れはいつまでも収まりませんでした。
気がつけば自分は机の下で震えていました。

そうしてようやく揺れがおさまると教室の電気がつきません。外に目を向ければ信号も止まり、車が立ち往生しています。ひとまず教職員、生徒みんなでグラウンドに避難。親が迎えにくる生徒もいましたが、僕には当時9歳(小3)の弟ががいたので親は弟の迎えに。僕は近所の友人と変わり果てた街並みを見ながら家路に。それからの僕たちは1週間ほど、ライフラインが断たれた中で生活を送り、今まで経験したことのない日々を過ごしていました。

配水車に水をもらいにいったり、湧き水を汲みに行ったりガスコンロでお湯を沸かして、インスタントラーメンを食べたりお風呂の残り湯でトイレを流したり。

東北地方で被災された方と比べてしまうのは失礼かもしれませんが僕らはそれで済んだのです。
住まいや家族を失うわけではなく、徐々に戻ってくる当たり前の生活を一時的に失っただけなんです。

自分が看護師の目指したひとつのきっかけ

中1で東日本大震災を経験した少年(僕のことです)は高校生になりました。サッカー小僧は岩手県大船渡市で開催された、現在鹿島アントラーズのアカデミーでテクニカルアドバイザーを務めている小笠原満男さん(当時鹿島アントラーズトップチーム主将)主催の大会に参加することになります。サッカープレイヤーとしては、3試合に出場して、2ゴールという結果を残せたことやハーフタイムに小笠原選手に「ナイスゴール」と一声かけてもらったことなどから僕のサッカー人生の中でも特に印象深い大会だったかなと記憶しています。

忘れもしません。1試合目で対戦したチームは岩手県の高校。前半は0-0で折り返し、後半に3ゴールを決めて3-0で勝利しました。フェアに戦う素敵なチームであったことはもちろん、それだけではありません。

大会が終わり、その高校のサッカー少年は、荷物を早々とまとめて会場を後にします。後々分かった話ですが、彼は「今だに行方が分からない家族をこれから探しに行く」そうです。

さっきまで僕らと同じようにサッカーボールを追いかけていた彼ですが、試合が終わればそのような状況なのです。僕らには明るく振る舞ってくれますが、今思えば不安でいっぱいだったと思います。自分も悩み事やしんどい事があってもそれを一瞬でも忘れられるものがあればそれだけの事しか頭に思い浮かびませんが、それが終わって、いざ現実と向き合えば辛いものです。

実際に沿岸部までバスを走らせて、その悲惨さを目の当たりにしました。

パッと目をやると「(あぁ。もうすぐそこが海だから、ここがきっと沿岸なんだろう)」と思っていたら、それは違います。そこは内陸部です。いざ沿岸部に到着すると、さっきまで自分が沿岸部だと思っていたところが遥か遠いところなのです。
「(え…そんなわけないじゃん…海からそんな遠くなんて見えるわけないでしょ…)」

そうです。
見えるわけないんです。
何も起こらなければ。

こんなところまで届くはずないだろう。
それでも遥か先の建物を飲み込んでしまう。

それが津波の。
天災の怖さなのだと思い知りました。

風化させてはいけないもの

東日本大震災のみならず、阪神淡路大震災、熊本地震など「ちょうど今日で◯年です」といったニュースはみなさんよく目にすると思います。決して忘れてはいけない、風化させてはいけないと。

僕には仙台市と福島市に住んでいる祖父母がいます。いずれも自宅の屋根が少し崩れた程度で大きな怪我や被害はありませんでした。

帰省をするたびに被災地の現状を目にしていますが、何年経っても慣れるものではありません。正直しんどい部分もあります。だからこそ忘れてはいけないと思うんです。

Pray

東日本大震災を経験した13歳の少年は看護師になりました。

救急病院に勤めているわけではないので、緊急性の高い患者さんや命の瀬戸際に立たされている患者さんと関わる機会は多くはありませんが、いつ何が起きてもいいようにこれからも向上心を持って、たくさんの知識や経験を身につけていきたいと思います。

何も起きないことが1番ですが、今後もこの日本で自然災害が起こる可能性は十分に有り得ます。

もしそうなった場合には何か少しでも力になれるように被災地へすぐに駆けつけて尽力したいと思います。看護師としてできることをやりたい。

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