娘が失敗を認めないのは、親が失敗をオープンにしていないからかもしれない。
#20231001-245
2023年10月1日(日)
「ママのせいだからね! ママがちゃんといって、ママがチェックすればよかったんだからね!」
ノコ(娘小4)はもともと学校からの持ち帰り忘れが多かったが、最近は学校へ持っていく忘れ――いわゆる普通の「忘れ物」も増えてきた。原因はわかっている。私が何度も持つよういわなくなったし、ランドセルを覗いて確認しなくなったからだ。
何度もいえば、「うるさい」という。
しまいには、持っていないのに「持った」という。
そして、下校後に「〇〇を持っていくのを忘れて先生に叱られた」「私だけ〇〇がなかったからできなかった」といい、「ママのせいだからね!」と非難する。
朝、自分が「持った」といったことは見事に忘れている。
親がズボラなほうが子どもがしっかり育つと聞いて試してみたが、道のりはなかなか長いようだ。いや、ノコが自分の問題だと思わず、親である私の問題だと思っている限り、振り返らないし、次回どうすべきか考えることはない。
このような方法で効き目があるのは、自分のことだと認識している子ども、当事者意識のある子どもの場合なのだと気付く。
ノコはまず失敗や間違えのハードルを低くすることが先のようだ。
誰だって失敗するし、誰だって間違える。
もしかして、ノコの完璧でありたいという思いの強さが失敗と向き合わない一因なのだろうか。
ノコの失敗や間違えを指摘するだけでなく、大人側の失敗談も積極的に話してみようか。
大人だって、日々失敗をする。
私はよく迷子になる。
それはちょっとした裏路地が魅力的に見えて、憶測で多分この道を行っても目的地に近いところへたどりつくだろうと思ってしまうからだ。そして、道の誘惑に負けてしまう。頭では、平行に見える道も空から見れば少しずつ離れている場合があることも知っている。なかなか碁盤目のように整った通りはない。
迷子に関しては、ノコにオープンにしている。
「あれ、違うところへ出ちゃった。ここはどこ?」とひとり内心焦っているのに、ノコのしつこいクイズやしりとりへの誘いに苛つくよりは「迷子になっちゃったみたい」といっちゃったほうが気まずくならない。迷子になったと幼いノコを不安にさせてはならないと隠していたときもあったが、かえってよくない。迷子になったとわかれば、この危機をどう乗り切ろうと団結力も強くなる。
もちろん「どうしてママはすぐ迷子になるわけ!」とも非難されるが、1発で到着したときは「褒めて褒めて」というと「はいはい、頑張った頑張った」と投げやりな称賛をいただける。
迷子のときはいえるのに、日常の小さな失敗はノコにいいづらい。
「あ……」
失敗に気付いて、ため息と嘆きと落胆がごちゃ混ぜになった音が口からもれるのをノコは聞き逃さない。
「ママ、なに? どうしたの?」
矢継ぎ早に問われる。
ささやかな失敗ゆえ、すぐにどう対処すればいいかわかる。手間と時間がかかる程度だ。たいしたことはないが、食いつかれると、げんなりさが増していいたくなくなる。
「なんでもない」
「なんでもなくないよね。今、ママ『あ』っていったじゃん。何もないのに『あ』っていわないよね。なになに、どうしたの!」
そこで素直に失敗を明かせばいいものを傷口に塩を塗るようなノコの言動に滅入ってしまう。小さな傷が大けがになる。
「なんでもないってば。ちょっと思い出したことがあっただけ」
ついごまかしてしまう。
「なんでもないはずないじゃん。私にいえないんだね。へええええ、秘密なんだ」
噛みついて諦めないノコが面倒になる。
「ただ! ちょっと乾燥させてた洗濯物が残っていたのを忘れて、洗うものを入れちゃっただけ」
我が家はドラム式の洗濯機なので、洗濯も乾燥も同一ドラムで行う。
「ふーん。それで?」
「洗濯したきれいな服とこれから洗濯する汚れた服を一緒にしちゃったから、せっかく洗った服をもう一回洗わないといけなくなったの!」
「ふーん」
聞けば、ノコはあっさりと身を引く。だが、待っても同情する言葉は掛けられない。
苛立たしさだけが残る。
ごまかさず、さっさと白状して、「やらかしちゃったよぉー」「また洗わないとー」「電気も水ももったいないよー」「なんでママちゃんと洗濯機のなかを確認しなかったんだろう」と騒ぎ立てたほうがよかったように思う。
そうしたら、迷子のときのようにノコから慰めの言葉を拝聴できるかもしれない。
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