宗教と科学は対立するか ~ドーキンスvs.グールドAfter

ドーキンスvs.グールドという本の読書感想文を書いたのだけれど、そこで書ききれなかったことの追記とか。
この本はドーキンスとグールドの進化のメカニズムをめぐる意見の対立が中心テーマだったのだけど、宗教vs科学みたいなことも書かれていて結構おもしろかったのでその内容と私見を。

ドーキンスは無神論者で、科学は客観的事実を知ることができるこの世で唯一の方法だと思っている。それに対して、グールドは宗教を道徳的システムと考えていて、善悪の価値観など科学で扱うことのできない問題もこの世界には数多く存在すると考えている。

筆者はドーキンス同様無神論者で、グールドの考えというよりも宗教一般に対して奇妙だと論じている。
彼の論点は2つで、1つは善悪といった道徳的価値観が個々人の主観的なものなのかそれとも客観的なものなのかという点、もう1つは神が言うことが正しいのかそれとも正しいことを神が言っているのかという点。

まず1つ目の論点について。
例えば、人を殺してはいけないかという問いがあったとき、ある人は情状酌量の余地がある場合も存在するだろうと言うかもしれないし、またある人はいかなる理由があっても人を殺してはならないと言うかもしれない。宗教が1つの教義を指し示すように、そういった人それぞれ持っている考え方を超えてこれが絶対に正しいという普遍的な基準がはたしてこの世にあるのだろうか。

仮にあるとしよう。この基準が普遍的で客観的に正しいか間違っているか判断することが可能なものだとすると、グールドが言う道徳は科学では扱うことのできない問題だとする考えと矛盾する。客観的事実であれば科学で扱える問題ということだし、そうでないならそれは客観的な事実とは言わない。
逆に、善悪を決める基準が主観的なものでしかないのであれば、一義的に道徳観を押し付けることに正当性はない。経典が語る道徳の記述は一部の人にとっては真実かもしれないが、それ以外の人々にとっては嘘だというわけだ。

次にもう1つの論点について。
これは古代ギリシャで提起された哲学的命題らしい。
「幼児虐待が悪いことなのは、神がそれを禁じているからなのか、あるいはそれが悪いことだから神が禁じているのか?」

前者の場合、神が虐待せよと言えば虐待することが正しいということになり、筆者はそれをグロテスクだと評している。
後者であるならば、宗教的教義と道徳的価値観が別個に存在するということだ。であるならば、正しい道徳観を持つことは宗教を必要としない。

この問いの立て方だったり論理展開は面白いのだけど僕的には宗教は囚人のジレンマを回避するための社会システムだと思っているので、筆者の宗教なんて全然普遍的なものじゃないんですよみたいな主張はいやまあそりゃそうなんだけどというか、逆に宗教に対してプラトニック過ぎるんじゃないかと思ってしまう。

一応囚人のジレンマの説明をしておくと、これはゲーム理論にあるジレンマで、プレイヤーがみんな協力したほうが協力しなかったときよりもいい結果になるのに、プレイヤーは非協力的な行動を選択してしまうという類の問題のこと。

細かく説明すると、、、
協力して犯罪を行った囚人Aと囚人Bの2人にはまだ明らかになっていない余罪があって
・2人がともに黙秘すれば余罪が明らかにならず2人とも求刑2年
・しかしどちらかが自白すると、自白した方は司法取引によって求刑0年、自白しなかった方は求刑10年となる
・ただし、両方ともが自白した場合は両方とも求刑5年
みたいなときの話なんだけど、、、

Aから見れば、Bが黙秘した場合は自分も黙秘すると求刑2年、自白すると求刑0年で自白した方が得。
Bが自白した場合、黙秘すると求刑10年、自白すると求刑5年でこちらも自白した方が得になってしまう。
そうすると、AもBも黙秘した方が求刑2年で得なのに、両者とも自白してしまい求刑5年となってしまう。

あくまでこれは例え話なんだけど、要は集団内のみんなが協力したらもっといい結果が得られるのに個々が自分の利益を優先させることでかえって結果が悪くなってしまうという話。

このことが問題になるのは人間だけじゃなくて、例えばチスイコウモリの例が本の中に出てくるんだけど、
こいつらは名前の通り他の生物の血を吸って生きていて、でも餌を探しに行ったけど何も手に入れられないまま帰ってくることもよくあるらしい。
で、血が手に入らなかったやつは他のやつらに血を分けてもらって食つなぐんだけど、手に入った血が少なかったりしたやつは分けないこともある。

これって囚人のジレンマと近い状況で、
・2匹が協力しあえば餌が手に入らなかったときも血を分けあえるので両者とも生存できる可能性が高くなる
・もし自分が相手に血を分けないで、相手は自分に分けてくれる場合、自分はより多くのエネルギーが手に入って相手は餓死する危険性が高くなる
・両者とも血を分けないと、分けた場合よりもその分餌が見つかったときのエネルギーは多いけど、何日も餌が見つからないと自分も相手も餓死する危険性が高くなる

これに対してチスイコウモリはやり返し戦略をとることで囚人のジレンマを回避している。
これは、最初の1回は協力的な行動を取って、次回からは前回相手が行った行動を取るというもので、そうすると毎回協力的な行動を取っていた方がトータルで得をするようになる。

こうした囚人のジレンマだったりそれに類する問題は人間社会でも大量に存在していて、例えば他人からものを奪ってもいいのかとか、山にある山菜とか牧草とかいった共有財産を個人が無制限にとっていいかとか、ギャンブルや薬物で個人がどうなろうと自己責任の範疇なら自由にさせるべきなのかとか、損害を与えられた相手に報復してもいいかとかいろんなことが人を非協力的にさせてしまうジレンマを抱えている。

このジレンマを解消するために生物に生まれた機能の1つが感情で、嫌なことをされるとムカつくとか助けてもらったら嬉しいみたいなことが協力的行動を促して、チスイコウモリがやってるやり返し戦略と同じはたらきをする。

でも社会が巨大で複雑になってくるとそれだけじゃ回らなくなってきて、感情的に行われた報復が公共の利益を損ねたり、初めて会う人に対応しなきゃいけなったり、やり返す対象がよくわからないみたいな現象が起きる場面が増えてくる。

こうした大きな社会でも人々に協力的行動を促す手法が宗教だったり法律なんじゃないかと思う。宗教は心理的・倫理的な面で、法律は実利的な面で個々人の協力的・非協力的な行動に賞罰を与えて、囚人のジレンマが起きないように条件を調整する働きをする。

そうした視点でみると、この本に筆者が書いていたよう普遍性がないとか、道徳的な価値観は宗教的教義がなくとも存在しうるとかいう指摘は的外れのように思える。この視点で言うと、それぞれの宗教が記しているのは絶対的・普遍的な真理でもなんでもなくて、多数の構成員がそれと似たような道徳的価値観を持った時に社会がうまく回るだろうっていう1つのモデルなんだよ。普遍性はないけど、共有することに意味があるから宗教的教義として外部に保存してそれを個々人にコピーする必要がある。

あくまでモデルだから、複数の地域で異なるモデルが生まれることも当然ありうるし、あるモデルでうまくいかなかった集団の中から新しいモデルが提示されるなんてこともある。ユダヤ教の中からキリスト教が生まれたりね。

神を実在のものと考えていたり現代の認識では考えられないような世界のなりたちが書かれていたりするけど、そういったのはそこに書かれた道徳的価値観の権威付けだったり、メッセージを伝えるために物語性を与えるトッピングとして必要なだけで、それを絶対の真実だと信じる必要もないと思うんだよな。グールドは宗教を大事にしながらも進化論が事実だと考えていたわけだし、日本人がいろんな宗教の習慣を取り入れつつも自分たちの事を無宗教だって自称するのはこういった側面があるからだと思う。

というわけで宗教に関するドーキンスvs.グールドの対立を僕自身の観点で勝手に評価すると、僕はドーキンスや筆者と同じ無神論者だけど、考え方としては道徳的価値観は科学では評価できないとするグールド側の立場。筆者が奇妙だと指摘した2つの視点については、宗教は普遍的でもないし道徳的価値観と独立して存在するものなので筆者の考えとも矛盾してはいないけれど、それでもシステムとして機能することが重要だと考えている。その中で囚人のジレンマみたいなゲーム理論的な方法を用いていることを踏まえると、科学を用いた一定の評価が可能だとは思うけれど、最終的に何が正しいかという判断はあくまで主観的でなんら普遍的なものではなく科学とは独立して存在する。

この問題はドーキンスvs.グールドといいつつほとんど筆者vs.グールドだったけど、結論としては筆者の考えとも矛盾しないけど軍配はグールドに上がるといったところか。

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