映画『余命10年』を観て
アマプラで映画『余命10年』を観た。
冒頭から泣いた。
ずっと観たいと思いながら観れていなかった作品。
映像も音楽も、こんな言い方はおかしいかもしれないけれど俳優さんの演技も美しかった。
それが余計に心を揺さぶったんだと思う。
エンディングもよかった。
泣きすぎて、心が昂っていて、なにをどう書けばいいか手が止まる。
治らない病気を抱えた主人公。
彼女を支える家族や友達。
好きな気持ちを素直に伝えられない好きな人。
主治医が主人公に掛ける言葉。
主人公の抱える葛藤や虚しさや寂しさ。
家族が抱えるやるせなさ。
どこにもぶつけられない、けれど何者かに対する憤り。
そんなものが、すごく、すごく感じられた作品だった。
不治の病というと、聞く人によっては怖いものだろうし、また別の人によっては未知の世界のかっこいいものかもしれない。
そんなことを書いているわたしにとっては、身近なもの、と言えるだろう。
余命10年の作者の小坂流加さんとは違うが、わたしも治らない病気を抱えている。
そして、周りにも同じように治らない病気を抱えた人たちがいる。
そんなわたしにとっては、やはり「日常にあるもの」なのだ。
はじめて「治りません」と言われたとき、がっかりというよりは心が高鳴ったかもしれない。
それはきっと、あまりに未知な世界だったから。
そんなことが自分の世界にあるなんて思ってもいなかったから。
でも、あまりに正直な先生は母に対して「娘さんの病気は一生治りません」と告げたらしい。
それを後になって聞いたわたしは、ただただ腹が立った。
強い憤りを感じた。
なぜ、そんなことを言うんだと。
なぜ、もっと違う言い方をしなかったのかと。
そんなふうに言われた母は、いったいどう感じただろうか。
頭の中は、そんなことで埋め尽くされていた。
母は「そんな身体に産んでごめんね」と何度もわたしに言った。
その度に、母のせいじゃないと返してきた。
そんなやりとりが、わたしには煩わしかった。
だって、本当に母のせいではないのだから。
難病を発症してから8年、わたしは生きている。
それは抱えている病気が、悪化しなければ命には関わらない病気だからだと思う。
それはとてもありがたいことだとも思う。
日常のなかでできないこともあるけれど、それでもふつうに生きられていることは、きっと奇跡なんだろう。
まあ、そんなことを思えたのは、余命10年を観たからではあるのだけれど。
と、御涙頂戴を書きたかったわけではなくて、ただ「わたしはどう生きるか」ということを考えるきっかけになったよ!ということを書きたくて、久しぶりに手を動かしたのだ。
エンディングテーマの歌詞に「いくつ心臓があったら」という部分があったが、心臓は一つしかない。
その一つを、わたしはどう生きていこうか、今一度そんなことを考えるきっかけになった。
余命10年だとしたら、今からの人生を、どう生きようか…
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