彼女は頭が悪いから 感想  2/3 学歴コンプレックス編

さて、1を読み終え2へと移動してくれたであろう読者諸賢に私はこの場を借りて謝罪をせねばならない。


 それは、私の文章のていたらくである。

 言い換えると、私の文章は論理的とは言い難くクソつまらない。


 無論、全てにおいて私の文章がつまらないという自意識はない。

 むしろ面白いと思ってやっているし、私以外の文字を書く人も「オレが一番面白いんじゃい」と思って書いていることだろう。違いない。


 然し、1のように〇〇年に〇〇が〜〜、〇〇という意識が〜〜というような論理的な文章というものに私は滅法弱い。


 書いている内容の真偽に自信がないから文体は硬くなる。文体が硬くなるからつまらなくなる。さながら興味の無い授業を取ってしまった大学生の作成するレポートの様である。


 以下では、余剰とも思われるほど充分に自分語りを交え、論理の鱗片も見せぬ情緒に溢れ返り溺れそうな文章を書こうと思うので期待していただきたい。


   嗚呼、学歴コンプレックス!


 この物語では「学歴」は非常に大きな役割を担う。方や自尊心の肥大の要因として。方や平均を平均以下たらしめる要因として。


 まだ約20年しか生きていない若輩にも関わらず、いや、約20年しか生きていない若輩だからこそ、「学歴」という評価によって身分不相応な自意識を抱えてしまう。


 物語中に様々な大学名(数は少ないが名門中学生・高校名も)が登場し、その偏差値の序列がストーリーを理解するための重要なキーとなっている。


 私は自身を、その構成を充分に堪能することが出来た読者の一人だと認識している。なぜなら私は、高校時代に生粋の学歴厨であったからだ。


 どの大学が偏差値いくつか、この大学とあの大学ではどちらのほうが偏差値が高いのか、どのような入試形式なのか……そんな取り留めの無い話を級友と数時間掛けて弾ませていた。病的である。


 故に、登場人物たち(主に「東大じゃないんだ」と煽られた横教生や学歴を引け目に感じ美咲との決別を選択した日大藝術学部)の心情は深く理解することが出来たと自負している。


 学歴コンプレックスとは、呪いに違いない。


 彼らとて馬鹿ではない。学歴が全てではなく、手段の一つであり、目的を遂行するために用いられるものであるという事を、心中では理解している。

 自分に確たる目的があり、その目的を遂行するために学歴が必要ならば、得るまで受験すればいい。必要でないならば、深追いする必要はない。


 それだけ論理的に受験を処理できればどれ程楽だろうか。


 受験生は1日に12時間、人によっては14時間以上勉強する。手段であるはずの学歴を一旦目的に置き換え、理想を持って学習に臨む。

 思うに、彼等の12時間14時間という浮世離れした学習量をこなす原動力となっているのは「行為による理想と現実の同一化」である。


 理想は志望大学の学生となることである。

 現実は凡庸な高校生である。

 凡庸な高校生は自身を周囲と同様の凡庸な高校生から解き放つべく、志望校の名を掲げ「〇〇大学の受験生」という肩書をつくり、理想と現実の同一化を図る。同時に周囲の凡庸さから解き放たれ、アイデンティティを作り上げる。

 

 一度アイデンティティが確立されてしまうと、あとは楽しささえ芽生えてくる。多くの場合受験生は「あの大学はこうらしい」「あの大学はこの大学より上」「あの大学はこの大学より下」等、仲間内で暗号のように固有名詞を詠唱し、序列を定義し始める。

 多くの受験生にとって、年齢的にも経験的にも、ここで初めて人間の社会的「上下」を目の当たりにすることになる。

 得体の知れぬ複雑で不透明な社会がバイオレンスに序列化されていることを知った10代は何を思うか。

 非倫理的な学歴社会を非難するであろうか。

 格差を破壊するために立ち上がろうとするだろうか。


 否。


 先人たちと変わらず、10代もまた、舌なめずりをし、蘭蘭とした目で、グロテスクな社会構造を悪趣味に楽しむに違いないのだ。


 おわかりいただけるであろう。

 学歴を手段から「一旦」目的に置き換えることで得られる副次的効果は、高校生の心理に大きな影響を及ぼす。

 大学が自己と同一化し、アイデンティティとなり、理想と現実の間隔をさまようそれを、揺るぎない現実に迎え入れるため、受験生達は1日の半分以上の時間を学業に回すのである。


 一言で「12時間」「1日の半分」と言ってしまうのは容易いが、それが果たしてどれだけの負担であるか。我々は実際それだけのことが可能であろうか。半日中していることがあるだろうか。仮になければ、白と言われて可能だろうか。更に、それを連続する日々の中でコンスタントに継続していけるのだろうか。 


 受験生は出来る。「自分は〇〇大学の学生になる高校生なんだ」と言い聞かせ、不可能を可能にするのである。


 その姿は、薬物中毒者を彷彿とさせる。

 薬物はいつか潰え、禁断症状が現れる。


 「自分は〇〇大学の学生になる高校生なんだ」の「〇〇」に望む大学ではない名が代入されたとき、その心中では麻薬が切れた薬物中毒者と何ら変わらぬ状態に陥れられていると言っても過言ではない。

 

 志が妄想と霧散し、何よりも尊い自身の栄光は他人にぶんどられ、「お前はここだ」と、受験直前に初めて意識した大学に取り込まれていく。


 さながら創氏改名を行なわれ、皇民化される朝鮮人や台湾人の屈辱である。


 彼らのオーバーワークは、名も知らぬ大学のための徒労と化す。掲げた大学名は完全に自意識から切断され、ひどい場合周囲から「嘘つき」「実力不相応のビックマウス」「言動不一致」等と評価される。


 これがどれ程10代の人格形成に悪影響を及ぼすか。


 作中で美咲をはじめとする登場人物にこれ程の描写はされなかったが、世の学生たちは実際にこのような認識の中で人格を形成していく。


 世は当に大学歴時代!

 弱肉強食のジュラシック学歴社会!


 深刻なことに、このような認識をしている中高生は少なくないのだろう。

かつて私がそうであったのは、言うまでもない。



https://note.com/fresnel_lens/n/nfdad3095333c?sub_rt=share_b

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