ポップ人類学者の遠い肖像


デヴィッド・グレーバーは本当に学者なのか?

 近年、デヴィッド・グレーバーという人類学者の本が人気のようだ。2020年にこの世を去ったらしいが、生前最後の、考古学者との共著『万物の黎明:人類史を根本からくつがえす』も評判のようであり、少し前、久しぶりに大型書店に行った時にも平積みにされていて目に留まった。とはいえ一般に売れている学者の本、有名な学者の本というのは大抵、あまり信用の置けないものであり、たとえばゼロ年代後半、啓蒙書をよく読んでいるようなブログを覗けば、その頃の大衆的な知名度や評判とは相反して、クオリアや動的平衡といった言葉を世に広めた学者による話題の本が知的な観点から非常に軽蔑されているのをよく目にした。高度な専門性や知的誠実さに基づくほどに、基本的には広く一般には読まれない内容になるので、その逆ということだろう。個人的には以前、ユヴァル・ノア・ハラリという歴史学者の『ホモ・デウス』という話題の本を人から貰ったので読んでみたが、あまりの内容の薄さに耐えがたくなり、上巻三分の一ほどのところで読む価値なしと判断して、二次流通に放流したこともある。同著者による大ベストセラーの『サピエンス全史』は読んでいないので、ただ単に続編はネタ切れだった可能性もあるが、そうだとしてもそんな本を出す時点で瞑想が足りない。また実際、ハラリは学者としてあまり真っ当とは言えず相応に批判されているようだ。そうした経験則に加えて、『万物の黎明』は広く捉えれば『サピエンス全史』と同様の、いわゆる「ビッグヒストリー」系の本の一種のようであり、あくまで個人的な直感だが、ラーメン二郎が美味しいという評判にも似た疑わしい雰囲気を感じた。

 グレーバーの名前をはじめて知ったのはたしか、元サッカー日本代表の本田圭佑が『負債論』という、やたらと分厚く値段の高い本を薦めているという話題を耳にした時だった。今はどうか知らないが、ひと昔前までは『~の文化史』『~の人類史』といった題名の分厚い本がよく出ており、人類学者という肩書きから判断して、何となくそういった本と同様に、様々な地域や民族における負債についての歴史を辿りながら、その文化的多様性などの知見をまとめつつ、一般的な分析も行っているような内容なのだろうかと、そんな印象を持った覚えがある。しかし特に興味を引かれなかったので、Amazonの当該ページを覗くことさえしなかった。

 その次に名前を聞いたのは、たしかYahoo!ニュースで『ブルシット・ジョブ』という本が話題になっているという記事を見た時で、社会的意義もなく労働者当人も意味を感じないような、そんな仕事が現代では増えているという内容らしく、うっすらと違和感を覚えた。負債の歴史か何かについて研究しているらしい人類学者(考古学系か民俗誌系?)が一体なぜ、そんな専門外と思われる本を出すのだろうか。もちろん経済人類学的見地から、現代の労働も研究対象になるのだろうが、しかしたとえば、アメリカで地味な公共政策の実証研究をしている経済学者に日本のマクロ経済政策について訊ねてもあまり意味がないように、ひとくちに「~学者」という括りであっても通常、高度な専門性を有するのはその分野のごく一部のはずだろう。

 そしてその次は『万物の黎明』であり、しかもその中において、スティーヴン・ピンカーの著作を非専門家によるポップ人類史、つまり大衆本と批判しているらしい。ピンカーは学者としては分からないが、少なくとも啓蒙書の書き手としては一流という評価を受けることが多く、それは大量の科学的知見や定量的データに基づくからであり、ビル・ゲイツが推薦したというような要因で売れることはあっても、特に日本において、内容の魅力でベストセラーになるようなことはまず考えられない。大衆的な話題性や面白味に欠けるからだ。もちろん定量的分析を重視する堅い本でも、トマ・ピケティの『21世紀の資本』のような例外はある。しかしその場合はおそらく、リーマンショックに端を発する世界金融危機の余韻が覚めやらぬ中、日経文化圏的な大衆マインドの興味を引いたから売れたのだろう。そもそもビッグヒストリーの記述対象となるような、人類史全般に深く通じているような専門家はこの世に一人も実在しないと思われるので、ピンカーの著作に対する批判はやや奇妙にも聞こえる。グレーバーも共著者のデヴィッド・ウェングロウも数理的歴史学のような目新しい手法を取り入れているわけでもなさそうで、手広く人類史を描き出すなら当然、そのほとんどは既存の知見の援用に基づくはずであり、そんなに真新しい見方が提示できるかというのも怪しい。本田やYahoo!ニュースに取り上げられるほどの通俗的な評判を考えれば、むしろグレーバーの著作こそが大衆本なのではないかという疑念が湧いてくる。そこで学者の本を読む前にそれを読む価値があるかどうかを見定める一例として、ざっと下調べをしてみることにした(あくまで雑記であるゆえに、簡便な形式をとり、ソースとなる文献やウェブページの大半は本文中にリンクを挿入する)。

活動家? 思想家?

 さてまず最初に、日本版とは違ってそれなりに参考になることも多い英語版ウィキペディアの「David Graeber」のページを見てみると、冒頭近くに『負債論』『ブルシット・ジョブ』『万物の黎明』の三冊が挙げられており、評判になった通り、これらが主著のようだ。人類学者のほかにアナーキスト活動家という肩書きもあり、2011年に起こった「ウォール街を占拠せよ」(社会経済的不平等や金融セクターの腐敗に対する抗議運動)において主導的な役割を果たしたという。おそらくそれで広く一般に有名になったのだろう。ひとつ気になったのは、過去にイェール大学を契約非更新により免職されていることであり、それはグレーバーの活動家としての政治的側面が問題だったらしい。ただその原因については確かな情報はないようだ。また数十年前のキャリア初期にはマダガスカルでフィールドワーク・民族誌的研究を行っていた形跡があるが、その後はそのような地道な仕事の積み重ねよりも、むしろ活動家としての側面が大きく取り上げられている。「現代において最も重要な人類学的思想家」と評する声もあるそうで、気のせいかもしれないが、むしろ学術的ではない部分が評価されている感が透けて見える。「活動家」「思想家」というのは「批評家」「コメンテーター」などと並んで、疑わしい学者の主な属性として非常に多く見受けられるものだ(他には「哲学者」という名目の大陸系思想の解釈者や「知の巨人」という名目の乱読家など)。

 次に論文検索サイトのGoogle Scholarで検索してみると、非常に知名度が高く、ネット普及以後に活動した学者なのに、グレーバー名義のプロフィールページが作られておらず、文献一覧を見たり、それを発表年順や被引用数順に並べ替えたりすることができない。思想的にグーグルのような大企業が嫌いなのかもしれない。人類学という分野の基準が分からないが、被引用数はおそらく非常に多く、それもぱっと見では論文よりも著書ばかりが目立つ。これも分野によりけりとはいえ、学者の著作は一般向けの啓蒙書であっても、先行して論文で発表した研究を核にしていることも多く、それを読むことで、著書を読むかどうか判断したり、分厚い本を読む手間を省いたりできるが、グレーバーの場合、たとえば「負債」についての学術論文は見つからない。アナーキスト・ライブラリー(アナーキスト関連の文書を公開するウェブサイト)に『負債論』出版前に書かれた同名の短い文章(被引用数300弱)があり、反資本主義的な問題意識の曖昧な提示、および貨幣の歴史についての短い叙述があるが、引用文献の明記もない単なる随筆にすぎない。もう一つ負債に関する文章があり、こちらは文献リスト付きだが、社会運動グループのブログに寄せたものらしく、より論考的な雰囲気を帯びているとはいえ、やはり随筆の範疇に留まる。経済史家カール・ポランニー的立場から負債の起源について考えるというような趣旨らしく、マルクスの価値論を重視するなど古い思想に依拠したところが目につき、引用として多くの思想(誰々はこう考えた)、いくつかの民族誌の断片、少ない歴史的証拠、さらに諺や語源、自身の根拠のない断言などが、それぞれ重みを区別されずに織り交ぜられて議論を構成するので、全体として明確な筋道や根拠が見えてこない。おぼろげながら、貨幣の起源は物々交換ではなく信用と負債だという立場を取っているらしいことは伝わり、それがマイケル・ハドソンという経済学者による古代近東の研究に依拠していることは分かったが、しかしそれなら、それはハドソンの業績であり、具体的な知見としては当の研究者であるハドソンの文献の方が詳しいだろう。『ブルシット・ジョブ』に関しても出版に先行する文献として、「On the Phenomenon of Bullshit Jobs: A Work Rant」という被引用数500弱のものがあるが、これも引用文献すらない数ページの随筆にすぎず、よく見ると「Strike!」という自費出版誌(政治思想的カルチャー誌?)への寄稿文のようだ。

ポストモダニスト?

 論文はHAUという媒体に掲載されたものがぽつぽつ目につくので、どんな学術誌なのかちょっと調べてみると、グレーバーは創刊の2011年から2017年までこの『HAU: Journal of Ethnographic Theory』誌の特任編集者(Editor-at-Large)を務めていたらしく、何やら内輪感が滲む。そのうちの一つ、2013年掲載の論文にざっと目を通してみると、やはりマルクス、さらにヘルダーやヘーゲルなどの思想を俎上に載せたかなり古色蒼然とした観念的評論といった内容であり、その他にもヴェーバーやブルデューなどにも触れながら、調子の悪い生成AIを思わせるような、ひたすら表層を撫でていく調子の文章が冗漫に続いていき、率直に言って怪しい学識の持ち主という印象が強まる。これが通用する分野なのだろうかと疑問に思って、英語版ウィキペディアの「Anthropology」のページを見てみると、人類学には大別して社会文化・生物・考古学・言語の四つの下位分野があるらしく、もしその中で当てはまるとしたら、グレーバーの論文はおそらく社会文化という範疇になるだろうか。そう思った時、引用元のない「要出典」の記述ながら、以下のような文章が目に留まった。

 社会文化人類学は、構造主義やポストモダンの理論に大きな影響を受け、また現代社会の分析へとシフトしてきた。1970年代から1990年代にかけて、この学問分野に大きな影響を及ぼしていた実証主義の伝統から、認識論的な転換が行われた。この転換の中で、知識の本質と生産に関する永続的な疑問が、文化人類学と社会人類学の中心的な位置を占めるようになった。対照的に、考古学と生物人類学は依然として実証主義的であった。このような認識論の違いから、人類学の四つの下位分野は過去数十年にわたってまとまりを欠いてきた。

     Sociocultural anthropology has been heavily influenced by structuralist and postmodern theories, as well as a shift toward the analysis of modern societies. During the 1970s and 1990s, there was an epistemological shift away from the positivist traditions that had largely informed the discipline.[citation needed] During this shift, enduring questions about the nature and production of knowledge came to occupy a central place in cultural and social anthropology. In contrast, archaeology and biological anthropology remained largely positivist. Due to this difference in epistemology, the four sub-fields of anthropology have lacked cohesion over the last several decades.[citation needed]

https://en.wikipedia.org/wiki/Anthropology#Fields

 つまり社会文化人類学の場合、ポストモダニズムの悪影響により、前世紀終盤から実証志向の学問ではなくなってしまったらしい。となると、そのようにして真っ当な社会科学へと至る道から外れた結果、おそらくは人文系の批評分野に近いような、思想に依拠して観念的な空論に耽る袋小路に陥ったという可能性が推測される(「知識の本質と生産に関する永続的な疑問」という文句からフーコーの悪影響が非常に大きいことも示唆される)。たとえばアメリカの生物学者エドワード・オズボーン・ウィルソンは1998年、アトランティック誌に寄稿した文章のなかで、ポストモダニズムの特徴のひとつを「科学的教育に縛られないことを選んだ人々への救済(the relief it affords those who have chosen not to encumber themselves with a scientific education)」と評しており、またポストモダニズムの明示的な一例として「文芸批評の一技法である脱構築(deconstruction, a techniqueof literary criticism)」を引き合いに出してもいる。北米など英語圏ではポストモダン思想は哲学ではなく、主に文芸批評や文化批評といった領域に大きく取り入れられたことを鑑みるに、人類学内部において、同様の影響を受けた文芸批評的人類学(評論・思想志向)と、そうではない社会科学的人類学(実証・学術志向)との分裂があったということかもしれない。

 とはいえHAU掲載の論文は学者としてというより、特任編集者としての立場から寄稿した力の抜けたエッセイに近いものなのかとも思って、別の人類学系学術誌掲載の『Consumption』と題されたグレーバーの論文を読み流してみると、こちらもアダム・スミス、マルクス、プラトン、スピノザ、カント、ヘーゲル、はてはバタイユ、コジューヴ、ラカン、ドゥルーズ&ガタリ、フーコー、アガンベンなどの思想家をあまり脈絡なく取り上げながら、「消費(Consumption)」という概念について散漫に語り(分析哲学における概念分析のような緻密な論理性はない)、終盤に唐突に現代のテレビの話題に突入するという、なかなか悪酔いしそうな代物となっている。ここまでから判断して、どうやらグレーバーは(民族誌的研究をしていたらしい初期を除き)社会文化系の人類学に属しているようであり、主として大陸系の様々な思想に触れながら何となくそれっぽい雰囲気を醸し出しているフレーバーテキスト性が、たしかにポストモダン思想を好む層の文章と類似している。日本で言えば、昭和の観念論的文芸批評家や平成の評論家系社会学者の文章にも通じた味わいがあり、英語圏の社会文化人類学の少なくとも一部は、文芸批評やカルチュラル・スタディーズなどと同様、そのような界隈になってしまったのかもしれない。

 検索してみると実際、人類学がポストモダニズムに受けた影響についてまとめたアラバマ大学のページがあり、主にフランスの思想家たちの空論を真に受けて、真の客観性は存在せず、それゆえに科学的手法の本格的な実践は不可能であるという、深刻な認識論的懐疑が生じてしまったようだ。

 だがそのような影響をまとめた後、むしろポストモダニズムに批判的な人類学者たちの意見も羅列されている。まったく価値判断から自由な客観性はないにしてもその理想にできるだけ近づくことが人類学の目標であり、ポストモダニズムの道徳的主観性に対して、科学的客観性は証明や反証が可能であるだとか(Roy D’Andrade)、ポストモダニストは独りよがりな主観性を助長しているだとか(Ryan Bishop)、その客観性の完全な欠如と政治的意図を押し付ける傾向ゆえに科学的な調査には事実上役に立たないだとか(Patricia M. Greenfield)、科学よりもむしろ宗教に近いだとか(Bob McKinley)、道徳的判断に優位性を置きすぎているだとか(Christopher Norris)、理論の体をして反理論的な立場を取るので矛盾しているだとか(Pauline Rosenau)、何でも「権力」の問題にしてしまうだとか(Marshall Sahlins)、もし人類学が科学的手法から目を背けるなら、人間を形作るものについての因果的説明が成り立たなくなってしまうが、知的責任として社会科学においては客観性(科学的手法)が要求されるだとか(Melford Spiro)、お馴染みの常識的な見解が並んでいる(それぞれのソースについてはリンク先の末尾にある文献リストを参照)。そもそも科学分野においても、真の(あるいは完全な、絶対的な)客観性に到達できるなどと思っている学者はまずいないわけで、ポストモダニズム批判書『「知」の欺瞞』で指摘された科学用語の濫用・誤用などと同様、実際にはそのようではない対象について思いきり誤認したまま論じるというのが、ポストモダニズムに根付いている習性なのだろう。

 HAU掲載の、また別のグレーバーの論文を眺めてみると、脚注の一つにブルーノ・ラトゥールに論文を送った(がその後、連絡を無視されるようになった)という記述がある。ラトゥールは1970年代後半から80年代にかけて、科学を社会学的に分析するという名目の仕事で有名になったらしいが、のちに『「知」の欺瞞』において、事実と事実についての知識を繰り返し混同していることを指摘された上、自分では事実について評価を下せない(つまりそれについて専門知識を持っていない)科学の論争を研究対象にすべきではないと忠告された(文庫版140–149頁)。さらに『「知」の欺瞞』の著者ソーカル&ブリクモンは、ラトゥールが実際に研究対象についての専門知識を持っていない一例として、アインシュタインの相対性理論を記号論的に分析したと称する彼の論文を取り上げ、その相対性理論の理解が出鱈目であることを暴いた(文庫版185–198頁)。連絡を無視されるようになったとはいえ、グレーバーのエッセイ系論文に見受けられる大陸系思想への頻繁な言及、および人類学がポストモダニズムに受けた影響も考慮に入れれば、グレーバーは学者としては生前、そのような界隈に近いところに生息していたのかもしれない。

理想家? 扇動家? 粗忽者?

 ただしグレーバーがポストモダニスト系かと言うと、どうやらそう単純な話でもなさそうだ。というのも、HAUについて書かれたQuilletteというオンライン雑誌の記事によれば、ケンブリッジ大学の博士過程に在籍中だったジョヴァンニ・ダ・コルという人物によって立ち上げられたHAUは元々、企業出版モデルに対する抵抗、および大陸哲学が人類学に及ぼす影響への懐疑心に触発されて、流行のポストモダン理論に焦点を当てるのではなく、人類学の根本である民族誌(Ethnography)に立ち返るべく創刊されたという。そしてグレーバーは特任編集者に就任すると同時に、2011年の創刊第一巻においてダ・コルと共著の序文を書き、雑誌のロゴである「ウロボロス(自らの尾を噛む蛇)」は混沌ではなく、衰退する人類学の再生の象徴であるとした。2011年にもなってポストモダン理論が流行しているということは、人類学(の少なくとも一部)は相当に危機的な知的状況なのだろう。ダ・コルはのちにHAUに寄せた文章において、以下のように振り返っている。

 デヴィッド・グレーバーと私にとって、民族誌理論は人類学の知識に対する批判として始まり、その立場はこの学術誌の創刊号における序文で大々的に明示された。私たちは決して、斬新な、画期的な、度肝を抜くようなものを発明しているとは主張しなかった。それどころか、民族誌理論についてのHAUプロジェクトはかなり伝統主義的なものであり、哲学者を気取る者たちによって生み出され、流行の新造語や売り物になる驚きによって尖鋭化された、恥ずべき学問の最先端を示す「車輪の再発明」の繰り返しを避けるために、我々の学問分野の知的歴史を認識することを提唱してきた。

     For David Graeber and me, ethnographic theory began as critique of anthropological knowledge, a position that was largely made explicit in the inaugural Foreword of this journal. We never argued that we were inventing anything novel, groundbreaking, or mind-boggling. On the contrary, the Hau project of ethnographic theory has been fairly traditionalist, propounding an awareness of the intellectual history of our discipline in order to avoid the recurrent “reinventions of the wheel,” marking some infamous disciplinary cutting-edges—sharpened by fashionable neologisms and marketable astonishments—generated by the ones keen to play the philosophers.

https://www.journals.uchicago.edu/doi/10.14318/hau7.1.002

 HAUの創刊号は2011年の終わりに出ているので、とすると初期に民族史的研究を行っていたらしいグレーバーは、同年秋の「ウォール街を占拠せよ」で名前が売れたのも追い風にしながら、志に共鳴して、冒険に打って出る若者と同じ船に乗ったということなのだろうか。だがQuilletteの記事によれば、どうやらそう単純でもなさそうだ。

 デヴィッド・グレーバーはHAUの創刊号の序文を共著したが、このプロジェクトへの関与はほとんど飾りだけのものだった。彼はウォール街占拠運動の間に政治活動家として名を馳せた、ベストセラー『負債論』と『ブルシット・ジョブ』の著者である。「私たちは99%だ」という文句を生み出し、彼の名前は「ミレニアル社会主義」と切っても切れない関係にある。彼はまた、世界で最も有名なアナーキストであり、自称「ブラック・ブロックのベテラン」でもある(「ブラック・ブロック」とは抗議者たちが市民騒乱の際、黒い服やマスクを着用する戦術のこと)。アナーキスト・ライブラリーで公開された記事の中で、彼は政府や法律は不要だと提案している。なぜなら、人々が自由に任せられると、自然に品位ある民主的な方法で行動するからだと。アンドレイ・グラバチッチとの共著『アナーキズム、あるいは21世紀の革命運動』と題された別のエッセイでは、彼が言うところの「革命的実践に関する倫理的言説」を探求している。これには「国家元首を暗殺する人を非難すべきか?」「レンガを投げるのはいつ適切か?」といった問いかけが含まれている。

     Although David Graeber co-authored the foreword to the first issue of HAU, his association with the project was mostly ornamental. The author of best-sellers Debt: the First 5000 Years and Bullshit Jobs: A Theory he achieved fame as a political activist during the Occupy Wall Street movement. Having coined the phrase “We Are the 99%,” his name is inextricably linked with “millennial socialism.” He is also the world’s most famous anarchist and is a self-described “Black Bloc veteran” (a ‘Black Bloc’ is a tactic used by protestors who wear black clothing and masks during civil unrest.) In one article published at The Anarchist Library, he proposes that governments and laws are unnecessary, because when people are left to their own devices they naturally behave in decent and democratic ways. In another essay titled “Anarchism or the Revolutionary Movement of the 21st Century” co-authored with Andrej Grubacic, he explores what he describes as “ethical discourse about revolutionary practice” which includes asking the questions “should we condemn someone who assassinates a head of state?” and “When is it OK to throw a brick?”

https://quillette.com/2019/09/09/the-anarchist-and-the-anthropology-journal/

 やはり地道な学術研究よりも夢想に近い政治活動に興味があるのかもしれない。政府や法律が不要というグレーバーの信念は残念ながら、現実を生きる99%の人々の助けにはならず、むしろ左翼やリベラルと呼ばれる人々が絶えず批判する対象の、市場原理主義や新自由主義と呼ばれるイデオロギーに近接しているようにも思える。

 Quilletteの記事によれば、HAUは企業出版モデルに対抗する無料のオンライン学術誌として瞬く間に成功を収めたが、その裏では、予算が少ないゆえにそこで働く若者たちに過度の負担をかけていた。長時間の無償労働だ。やがて苦戦する「自由な(無料の)学術」モデルに対して2017年、シカゴ大学出版局から、限定された無料アクセスに有料購読を組み合わせるハイブリッドモデルの提案があり、現実に持続可能なプロジェクトとして、これが理事会に売り込まれた。だが、この提案は「企業出版」モデルに堕してしまうものだとして、純粋なオープンアクセスモデルを支持する者たちに反対された(シカゴ大学出版局は厳密には非営利の学術出版社に分類されると思うが、完全な無料のオープンアクセスではなくなることがすなわち、反対派からすれば「企業出版」モデルへの堕落だったということだろう)。反対派のうちの一人が特任編集者も務めるグレーバーであり、彼は総編集長のダ・コルと対立した。創刊から関与している学術誌の、純粋なオープンアクセスという理想が学生の無償労働で成り立っていることも、「企業出版」モデルへの移行も、それが広く世に知られれば、グレーバーのパブリックイメージと評判に傷をつけることになる。その一方、博士号を取得せずに雑誌を立ち上げたダ・コルにとってHAUはすべてであり、シカゴ大学の援助が何としても必要だった。グレーバーはダ・コルに「スキャンダルが起こる前に」辞任するよう迫り、ほどなくダ・コルに対して匿名で「不適切行為」の申し立てがあった。のちにグレーバーがダ・コルのその種の行為を探している内容のメールが流出しており、その中では明確なセクハラの証拠が「理想的なもの」だと述べられている。だが執行部の内部調査の結果、その申し立てには根拠がないとされた。HAUは公式声明として「HAUおよびその編集者ジョヴァンニ・ダ・コルに対する最近の苦情について詳細に調査した結果、これらの苦情が否定的な噂話、伝聞、および個人的な敵対心によって形作られていることが判明しました(Our close investigation of recent complaints against HAU and its editor, Giovanni da Col, has shown us the disturbing extent to which these complaints are shaped by negative gossip, hearsay, and personal animosities.)」と発表した。ダ・コルは総編集長の座についたまま、HAUは再編成および法人化されてシカゴ大学と提携した。だがグレーバーはその後、HAUに関わったことに対する謝罪文を公開し、その中でHAU内部における虐待的なハラスメントの存在を仄めかし、オープンアクセスモデル自体には欠陥はないが、その追求方法に問題があったとして、シカゴ大学への「売却」を嘆いた(実際には提携であって売却ではない)。さらにグレーバーはHAUにいじめ・財務不正・性的嫌がらせの文化が蔓延していたとするワーカーグループ七人によるオープンレターを回覧した。その七人のうち後に公に名乗ったのは一人だけで、自称「アナーキスト共産主義者」であり、グレーバー指導下の博士課程の学生だった。グレーバーは数ヶ月間、Twitter上でダ・コルによるセクハラについて曖昧に言及したが、その証拠を提示することを求められても常に拒否した。ダ・コルの評判は大きく損なわれて、やがて地位を退くことを余儀なくされた挙げ句、無一文同然になった。

 このエピソードは学界についての、より大きな真実を物語っている。「活動家学者」を自認する者が増えるにつれ、学術的な行動規範が無秩序に陥りつつある。同僚を解雇したり検閲したりすることを要求する学者たちのオープンレターがオンライン上に出回るのは当たり前のことになっている。目にするのは、学者たちが査読や法の適正な手続きを素通りして、「動員し」「同盟を結び」「支持を呼びかける」ことであり、それらはすべて政治的対立者を威嚇し沈黙させるための努力である。

     The episode speaks to a larger truth about academia. With an increasing number of academics identifying as “activist-scholars,” the norms of academic behaviour are being thrown into disorder. It has become commonplace to see open letters circulated online by academics demanding that one of their colleagues be fired or censored. By passing peer review and due process, we see academics “mobilising,” “forming alliances,” and “drumming up support,” all in an effort to intimidate their political opponents into silence.

https://quillette.com/2019/09/09/the-anarchist-and-the-anthropology-journal/

 雑誌に向けられた苦情について、ダ・コルが誹りを免れることができるわけではない。無料モデルは明らかに機能しておらず、報酬もなく出版物のために長時間働く学生や学者には同情すべきだ。その一方で、表向きは自分なりの「アナーキスト的正義」を実現するために、人類学の分野で著名かつ有力な人物が、自らのプラットフォームと名声を利用して確たる証拠のない噂話や風説を広めた。理想の「自由な学問」が現実と対立したとき、グレーバーは誰が傷つこうともその理想に固執した。そして彼なりの正義は、透明で、公正で、しかるべきものとは程遠く、もっぱら感情への訴求と群衆の暴力によるものだった。

     Da Col is not without blame for the grievances levelled at his journal. The free-to-read model clearly wasn’t working, and students and academics who work long hours on a publication for no pay deserve our sympathy. At the same time, a well-known and powerful figure within anthropology used his platform and fame to spread unsubstantiated gossip and rumour, ostensibly to enact his version of ‘anarchist justice.’ When the ideal of ‘free scholarship’ came into conflict with reality, Graeber clung to the ideal regardless of whom it hurt. And his version of justice—far from being transparent, fair, or decent—consisted entirely of base appeal to emotion and the brute force of mob rule.

https://quillette.com/2019/09/09/the-anarchist-and-the-anthropology-journal/

 だが、このQuilletteの記事はほぼ完全にダ・コル寄りであり、グレーバーに対して一方的な見方をしている印象がある(明確な証拠が一方にあり、もう一方にはそれがない場合、それでも正当と言えるが、記事で語られているグレーバーの動機には、多分に憶測に頼っている部分がある)。そしてこの記事の後、ジェシー・シンガルという一人の科学ジャーナリストがこの事件に興味を持ったようだ。シンガルによれば、Quilletteの記事は、ダ・コル本人に取材を拒否されていること、社会正義などに焦点を当てたイデオロギー的な切り口になっていることから、この事件に関する純粋なジャーナリズムとは言えないという。「これは明らかにかなり複雑な話であり、様々な角度から攻撃することが可能である(This is obviously a fairly complicated story that can be attacked from any of a number of angles)」

 そしてその後、シンガルは取材を経て、The Chronicle of Higher Educationにおいて、その「複雑な話」についての長大な記事を発表した。その記事によれば、Quilletteの記事はせいぜい不完全な内容にすぎず、実際にはダ・コルは癇癪持ちの非常に悪い上司であり、従業員を頻繁に非難したり威嚇したりしていた。さらにダ・コルは真冬のノルウェーで不注意から長時間放置されたことに怒り、外部の人類学者に暴行事件を起こした疑惑がある(証拠不十分により捜査打ち切り)。ダ・コルの脅迫癖によって歴代の編集長は次々に去っていき、なかには書籍出版関連費用の半分を個人的に負担するよう迫られた者もいた。ダ・コルは出版社で働いた職業経験もなく、度を越えて理不尽な進行を強いることも多かった。2015年の春から、HAUはオープンアクセスモデルへの支援として、論文の著者に対して記事処理料(一種の掲載料)を要求するようになり、これは通常、善意の努力に委ねられるものだが、ダ・コルはその資金を用意できなかった著者に対して、論文が掲載された後、支払いがなければ論文を撤去すると告げ、その交渉に強いて当時の編集長を関与させた(その後、論文の著者は資金獲得に成功して支払いを済ませた)。ダ・コルは理不尽なことに、著者が記事処理料を支払えない場合、編集長にそれを肩代わりしなければならないという圧力をかけたりもした。こうしたことがあっても、歴代の編集長は即刻の辞任はできず、それはHAUというプロジェクトへの忠誠心のほかに、任期を終えるときに一括で給料を受け取るという奇妙な後払いシステムだったゆえに、金銭的な損失のリスクがあったからだった。しかもダ・コルは仕事上のミスを口実に給料を減額したり、まったく支払わないこともあった。のちに外部諮問委員会の長になった人類学者は、未払い給料を請求する者たちに補償をしたが、それは請求額よりも少なかった。にもかかわらず、その委員長はHAUの傘下組織である学会の評議員に対して、紛争は円満に解決されたと報告した。告発キャンペーンに関して、グレーバーはたしかにダ・コルについての誇張された噂を広めることに寄与したようであり、たとえば流出した人類学者間のグループ・メールにおいて、ダ・コルが深刻な詐欺行為をしており、大金を横領していると何の証拠もなく繰り返し述べている。ところが、酷い目に遭った歴代の編集長でさえ、ダ・コルの財務不正を否定しており、ただ単にお金に関して非常に杜撰であっただけで、監査でも不正は認められず、会計責任者もそれを認めている。他にもグレーバーは、ダ・コルがHAU内部において暴力沙汰を起こしているという虚偽を広めたり、そのセクハラを重要な疑惑として信じていたりしたが、それらは事実ではなかった(前述のノルウェーでの暴行疑惑はあるが)。暴力沙汰についてはシンガルの取材に対して、グレーバーは自分の勘違いだったと弁明した(取材中はまだグレーバーは存命だった)。またセクハラ疑惑については、ダ・コルは下品な物言いや性的な物言いをすることはあったものの、明白なセクハラの証拠を知る関係者は誰もおらず、過去に一人だけチャット上での性的な発言を告発したHAU関係者の女性もいたが、彼女は取材に対して、実のところ、それは一時的にイチャついていた会話の中でのことであり、のちにそれが気まずくなったのだということを認めた。とはいえQuilletteの記事の一部では、グレーバーが恩師と共著でHAUの書籍部門から出した著作の宣伝や売れ行きが悪かったことに不満を持っており、それがグレーバーによるHAUおよびダ・コルに対する告発キャンペーンの大きな動機だったという筋書きが描かれていたのだが、取材の結果、それを明確に裏付けるものはなかった(グレーバーも共著者も不満を持っていたことを示す証拠はQuilletteの記事内で提示されているが、それ以上の繋がりは憶測にすぎない)。要するに、グレーバーが粗忽にも噂や伝聞を広めることに関わり、その影響力から炎上に大きな影響を与えたのは確かだが、しかしダ・コルの失脚にはそれ相応の原因(主にパワハラ)があったということになる。

 この人類学界のスキャンダルについて、人類学的観点から興味深いのは、大規模な目に見えて透明性のある調査が行われなかったことで、真空が生じ、そこに臭わせや憶測、そして多くの人々の思惑が押し寄せ、おそらく関係者全員にとって事態が悪化したことだ。

     What’s interesting about this anthropology scandal, from an anthropological perspective, is how the absence of any big, visible, transparent investigation created a vacuum into which rushed innuendo, speculation, and many people’s agendas — perhaps making things worse for just about everyone involved.

https://www.chronicle.com/article/how-one-prominent-journal-went-very-wrong

 HAUはこの騒動が起きてからいくつかの変更を行った。支払い体系が改革され、ダ・コルは編集者の職を追われた。しかし正確に何がどのようにして起こったのかについての公式な説明は未だになされていない。その代わりに、スキャンダルはツイートや噂のたびに、ただ悪化するばかりだった。

     HAU has made some changes since this controversy broke. The payment structure was reformed. Da Col was ousted as editor. But there still hasn ’ t been an official accounting of exactly what happened, and how. Instead, the scandal has just sort of festered, one tweet and rumor at a time.

https://www.chronicle.com/article/how-one-prominent-journal-went-very-wrong

 もっとも、HAUはこのThe Chronicle of Higher Educationの記事に対して、二人の個人間の対立という単純化された観点、噂話やメールの遣り取りなどに基づく倫理的に浅はかなものだと遺憾の意を表明している。ダ・コルも去って再出発済みのHAUとしては、過去の汚点に再注目されたくないのだろう。

閑話休題

 だいぶ脱線してしまったが、話を元に戻せば、先に述べたラトゥールに触れているグレーバーの論文をよく見てみると、グレーバー自身もその文章を「エッセイ」と呼んでいることに気づいた。とすると、もしかしたらグレーバーは学術誌に寄せる論文ではエッセイ系のものしか書かず、分厚い書籍において本格的な研究を発表するタイプの学者なのかもしれない。そしてグレーバー自身、ポストモダニズム以降の社会文化人類学の悪習にいくらか染まってしまっており、論文という形式ではダ・コルが言うところの「哲学者を気取る者」のような文章をつい書いてしまっているだけかもしれない。科学用語や数学用語の意味をよく理解せずに濫用・誤用したポストモダン思想家たちほどではないだろうが、グレーバーはおそらく抽象的な概念を用いた明晰な論述があまり得意ではなく、しかし書籍においては、具体的な事例や根拠に基づき、骨太の研究を発表している――そんな可能性が考えられる。そこでここからは主著と思われる『負債論』『ブルシット・ジョブ』『万物の黎明』の三冊について、それらが批評や思想といった側面ではなく、社会科学としてどのように専門的に評価されているかをざっと調べてみることにした。ポストモダニズムの影響により人類学の一部が真っ当な実証的学問から遊離してしまったという前述の経緯を踏まえれば、とりわけ実証的研究として、どのように評価されているかという点が重要になるだろう。

デヴィッド・グレーバーの本は読む価値があるのか?

『負債論:貨幣と暴力の5000年(Debt: The First 5000 Years)』

【AIによる『負債論』の要約】

・デヴィッド・グレーバーの『負債論』は、負債の歴史と社会的影響を包括的に分析した2011年の著作です。グレーバーは、従来の経済学が主張する「物々交換の神話」を批判し、貨幣の起源は実際には信用と負債にあると論じています。
・著者によれば、初期の人間社会では「コミュニズム」的な原理、つまり「それぞれの必要に応じて(与えられ)、それぞれの能力に応じて(貢献する)」という相互扶助の精神が支配的でした。この「人間経済」では、負債は単なる経済的取引ではなく、道徳的および社会的な関係性を表すものでした。その一方、現代の「市場経済」は人間関係を歪め、本来の人間性を損なっていると批判します。
・グレーバーはこの人間経済(相互扶助とコミュニティに基づく経済)と市場経済(競争と利益追求に基づく経済)の対立を強調し、人間経済が本来の人間社会の形であり、市場経済がそれを歪めていると主張します。彼は、負債を単なる経済的な問題ではなく、道徳的な問題として捉え直すことを提唱し、現代の経済システムに対する新たな視点を提供しています。
・グレーバーは、歴史を通じて負債が階層構造と不平等を生み出す原動力となってきたと指摘します。彼は、古代メソポタミアから現代のグローバル経済に至るまで、負債が社会構造を形作り、しばしば支配階級による搾取の道具として機能してきたことを示しています。
・本書では、過去5000年の歴史を通じて、仮想的な信用貨幣と金属貨幣が交互に主流となる循環的なパターンが描かれています。この循環は、戦争や平和の時期と密接に関連しており、社会の組織化方法に大きな影響を与えてきました。
・著者は、負債が道徳的危険をもたらす可能性についても警告しています。負債は借り手に対する社会的圧力や恥辱感を生み出し、不平等を助長する可能性があります。
・グレーバーの著作は、経済学の基本的前提に疑問を投げかけ、負債と貨幣の歴史を再評価することで、現代の経済システムに対する批判的な視点を提供しています。彼の分析は、私たちが当然と考えている経済の仕組みが、実は歴史的に構築されたものであり、変更可能であることを示唆しています。

 まず人力およびAI検索により、『負債論』に対する実証的見地からの精査・批判をしている専門家の論文を探してみたが、被引用数6000超えにもかかわらず、内容の薄そうな書評論文しか見つからず、初っぱなから、これは専門的な学術書とは見なされていないのではないかという疑念がよぎる。仕方なくオンライン記事にまで対象を広げて検索すると、AIがノア・スミスという人物の書評を提示してきた。英語版ウィキペディアによれば、元々は経済学者の道を歩んでいたが、のちに経済コラムニストに転じたアメリカの著名ブロガーらしい。

 スミスはグレーバーによる『負債論』の問題点は、「560ページを苦労して読んでも、負債という現象についてこの本が何を言いたいのか、どうしても分からないということだ(after slogging through all 560 pages, I can't for the life of me tell what point it's trying to make about the phenomenon of debt)」と述べ、それが「無秩序に広がった、とりとめのない、混乱した本(a sprawling, rambling, confused book)」であるゆえに、論じるにはグレーバーの明確ではない論旨を自分なりに抽出しなければならないが、そのようにして批判すれば、それは誤読であるということにされてしまうという罠を指摘している(実際にTwitter上で遣り取りした経験から、グレーバーはそうした人物であるとスミスは判断している)。そのうえでスミスはまず、この本のうち、物々交換から貨幣が出現したという「教科書的な」経済史観を証拠によって論駁する部分は興味深く、非常に学べる点もあるが、しかしグレーバーがそれを通説を覆す大きな衝撃だと考えているのとは対照的に、貨幣経済学者は、通貨の出現以前は信用取引が標準的な支払い形態であり、それが実物商品の単位で表示されていたことをよく知っていると指摘している。スミスは次に、そのような議論以外の大部分は負債の仕組みではなく、負債と道徳的問題との関連について書かれており、市場や資本主義は自由な人々を奴隷化する悪であり、根本的に搾取的だという左翼標準のお題目を、グレーバーは明示的にではなく、繰り返し遠回しに展開しながら、その種の逸話に常に負債を結びつけて、ひいては負債も非難されるべき対象であるかのように仕向けていると述べる。このやり方についてスミスはこう表現する。

 もし誰かが『金属:最初の5000年』という本を書き、その本を戦争と流血の物語で埋め尽くし、それぞれの逸話の後、それに金属が何らかの形で関連していたことに必ず気づかせるとしたら、私たちはなぜ著者が戦争そのものではなく金属にそんなに執着したのか、首を傾げることになるかもしれない。

     if someone wrote a book called "Metal: The First 5,000 Years," and then filled that book with stories of war and bloodshed, never failing to remind us after each anecdote that metal was involved in some way, we might be left scratching our heads as to why the author was so fixated on metal instead of on war itself.

https://noahpinionblog.blogspot.com/2014/11/book-review-debt-first-5000-years.html

 そしてスミスは、『負債論』はあまりにも一貫性がなく無秩序で、グレーバーはかなり詳しいと思われる事柄から、明らかに何も知らない事実誤認まで、行ったり来たり陽気に飛び移り、しかも自分の主張や思想に確信的で無批判なので、語り手として信頼が置けず、この本を精読することは不可能に近いとする。そのようにとりとめがなく混乱した内容でも、グレーバーの左翼的なイデオロギーに共感できるなら、あるいはこの本が出版されたばかりの住宅バブル崩壊後の時期であれば、頷きながら読める人も多いだろうが、しかしとても薦められる本ではなく、面白い小ネタはいくつかあるとはいえ、読む価値はないというのがスミスの結論になっている。

 このスミスの書評は個人的にはかなり説得力を感じる。なぜなら事前にグレーバーのエッセイや論文に対して、散漫さや論理性の希薄さを感じており、また学問よりも活動家としての思想に重きを置いている情報や印象を得ていたからだ。しかしスミスはかつて経済学の助教か何かだったとはいえ、あくまでブロガーであり、日本の脳科学で言えば茂木さんのような存在である可能性もある。そこで次に学者による批判を探してみた。スミスの書評を参考にすれば、グレーバーが証拠に基づいて興味深い議論を行っているのは、初期の人類社会において、そして貨幣の起源として、物々交換よりも信用と負債が先行したという点のようであり(道徳的主張の部分は活動家としてのプロパガンダのような側面が大きいのだろう)、とすれば、経済学者か経済史家による批判が探すに値する。その論点に絞って検索してみると、ロバート・マーフィーという経済学者による「人類学者はメンガーの説を覆したか?(Have Anthropologists Overturned Menger?)」というリバタリアン系シンクタンクのブログ記事が引っ掛かった。このマーフィーは現代の経済論争ではクルーグマンに批判されるような立場らしく、どうも無政府市場主義者のようで、つまりグレーバーとは市場に対する思想は真逆だが、政府は不要というアナーキズム思想(夢想?)では共通している。

 マーフィーの記事によれば、メンガーというのはオーストリアの近代経済学者で、まさに物々交換から貨幣が出現したという説を唱えた一人であり、この説を非常に簡易に説明すれば、直接の物々交換では交換してもらえなくても、自分が欲しい物により交換されやすい物に交換するという間接的な物々交換が繰り返されていくうちに、最も交換されやすい物(たとえば小麦)の優位性が雪だるま式に増幅していき、やがてそれが最も市場性が高い交換媒体として、共通の貨幣になったというものだ。その一方、グレーバーは純粋な物々交換経済の記録がないことを自身の主張の根拠の一つとしている。だがマーフィーの反論によれば、直接の純粋な物々交換はすぐに間接的な形態に移行するうえに、多くの商品を貨幣なしで交換する場合、それらの間の交換比率をすべて決めなければならないが(たとえば20品目ある場合、190通りの価格表示が必要)、それは非常に複雑で非効率なので、ほどなく単一の交換媒体として貨幣が出現する。その結果、それなりの規模の経済になり、活気ある市場と文書記録を持つ文明になった時には、すでに貨幣が出現しているので、貨幣なしの純粋な物々交換の記録などは残りようがない。マーフィはこの見方を支持する根拠として、収容所の戦争捕虜たちの間で実際に、配給品の直接交換の状態から短期間でタバコが共通の交換媒体となった事例研究を挙げており、この事例の場合、タバコを単位とした各商品の価格表が掲示板に示されていたという。グレーバーがもし捕虜収容所の遺跡でその掲示板を発見したら、初期の物々交換の状態は存在しなかったと誤って推論するだろうとマーフィーは述べる。ただしメンガーの説もあくまで推論にすぎないことは認めており、しかもマーフィーは『負債論』を読んでおらず、グレーバーの別所での発言にのみ基づいて批判しているようだ。

 上記の収容所の事例は第二次大戦中の話であり、そもそも捕虜たちが貨幣経済を経験済みであるゆえに、根拠としては相当に弱く、グレーバー自身がコメント欄でその点を指摘して、そんなものは反証になっていないと指摘している。たしかに物々交換経済が記録に残っていないからといって、それが存在しなかったとは断言できないが、かといって理論的推論と20世紀の事例研究によって、それが遠い過去に存在したと主張しても説得力がない。グレーバーはこのコメント欄で長大な反論文を書いており、その要点は以下のようなものだ。(1)貨幣の物々交換起源説の欠陥は、それが二者間のその場での交換(スポット取引)を前提とすることであり、しかしその場合、二者間の欲求(つまり互いに欲しい物)がそうそう一致するわけがないという問題がある。(2)それゆえに無貨幣経済では物々交換ではなく、何かが欲しい人がいればそれを「贈与」して、与えられた人は借りを感じてお返しをするという、大まかで定量化されない互恵性に基づく信用取引が行われる。(3)貨幣には単一の起源があるわけではなく、それは価値の正確な等価性を測定するシステムが必要な場合、たとえば官僚機構の会計システムや法的罰則としての損害賠償に伴って出現した。そしてグレーバーは実証的根拠の一つとして、純粋で単純な物々交換経済の例を記録した民族誌はこれまでに一つもないという、人類学者キャロライン・ハンフリーによる研究を挙げている。

 だが、このグレーバーの主張の要点に対しては、ジェフリー・フンメルという経済学者・経済史家による反論がある。フンメルによれば、グレーバーの物々交換の定義は特異なものであり、それが稀にしか存在しなかったという自分の主張に沿うように、二者間のその場での交換(スポット取引)にその意味を限定している。つまり遅延交換(たとえば豚一頭との交換として二週間後に斧を作って届ける)や多者間のネットワーク取引を物々交換に含めていない。しかし通常は物々交換にはそれらも含まれるうえに、小規模社会ではスポット取引ではなく多者間のネットワーク取引の方が、各人の欲求を満たせるゆえに行われる可能性が高い。グレーバーはそのような物々交換と信用取引とを混同しており、ネットワーク取引の場合、その物々交換が即時的に行われるのか、それとも時間差があるのかは二次的な問題にすぎないという。

 さらに加えて、フンメルはグレーバーの経済学批判は無理解に基づく藁人形論法だとする。たとえば、グレーバーが歴史的にそのような事例はないと批判する経済学の教科書に載っている物々交換の例は、小学校の算数の教科書に載っているリンゴを使った文章問題のようなもので、あくまで簡易な仮想例にすぎない。信用よりも貨幣が先行したと経済学者たちが普遍的に信じているとグレーバーは主張しているが、それも藁人形論法であり、有能な経済学者なら誰でも、貨幣がなくても債務取引は可能であることを理解している。グレーバーは様々な狩猟採集民や部族に見られるような、大まかで定量化されない互恵性を「コミュニズム」と呼んでおり(これは進化生物学では「互恵的利他主義」として知られており、グレーバーはそのような知識に疎いことも指摘されている)、その「コミュニズム」に基づく信用システムと物々交換システムを対比して、後者の取引では交換する品に価値の等価性が必要であると誤解しているが、実際には貨幣の物々交換起源説を唱えたメンガーの理論では、むしろ物々交換は主観性に基づき、価値の不等価性に依存している(一人はリンゴを高く評価し、もう一人はバナナを高く評価するという各人にとっての価値の違いにより、互いにそれを交換する)。グレーバーは経済学が現実から乖離した空論だという類の批判をしているが、そのグレーバーこそが経済学をよく理解せずに戯画化している。その他、グレーバーは経済学者のメンガーが経済学に「様々な数学方程式を追加」したなどと非難しているが、それは息子である数学者のメンガーとの混同であるとも指摘されている。

 とはいえ、コメント欄にはグレーバーを支持する声もあり、グレーバーはたしかに新古典派経済学の理解に乏しく、空想的な考えも多いが、しかし『負債論』には素晴らしい洞察も含まれていること、またフンメルが混同として批判した遅延物々交換についてもグレーバーは「負債」だと見なしていることが指摘されている。つまり信用に基づく即時的ではない物々交換について、それを時間差のある現物取引とみるか、広い意味での「負債」の生じる信用取引とみるか、解釈の違いがあるということになるのだろう。もっとも、古代経済史や考古経済学ならともかく、現代の主流派経済学にとって貨幣の歴史的起源というのはそもそも重要な問題ではないだろうが(メンガーの属するオーストリア学派は異端派経済学であり、主流派は一般的に歴史は重視しないとされる)。

 ここまでから、貨幣の物々交換起源説については、それに対して明確に否と言うことはできないにしても、それを支持する証拠はほとんどないらしいことが分かる。だがその点に関しては、とりわけ人類学的には、グレーバーが主たる根拠とするキャロライン・ハンフリーの研究の方が信頼できる(論文を読むかぎり、ハンフリーは理論的には、遅延物々交換は取引相手の情報に基づく信用が必要なので、顔見知りのコミュニティ内に限定して起こり、経済の複雑化と分散化が進んで、取引相手の個人情報が得られなくなるほどに貨幣という決済手段が必要になるという、経済学者チャールズ・グッドハートの見方を支持している)。またグレーバーは貨幣が交換媒体よりも負債として出現したことを示す事例として、古代メソポタミアの神殿経済、その官僚制度における債権の勘定単位や記録を挙げているようだが、この点に関しても興味があるなら、グレーバーが主に依拠しているマイケル・ハドソンの研究、あるいは近年のその他の研究の方が信頼できる。そもそもハドソンは自身の研究に基づき、物々交換よりも信用と負債が先行したという見方を早くから唱えており、グレーバーはそれを援用しているだけだろう。もちろんそのような既存の知見が盛り込まれた著作として『負債論』があり、個人的にも正直、メンガー流の物々交換起源説にはまったく説得力を感じないのだが、にもかかわらずグレーバーの本に読む価値を感じられないのは、前述のノア・スミスの指摘のとおり、おそらく『負債論』は様々な知見を秩序立てて纏め上げたものにはなっておらず、また偏向した余計な道徳的主張が多分に含まれている可能性が高いようであり、なおかつ、グレーバーの学識や知的態度にやはり非常な疑念を抱かざるを得ないからだ。

 たとえばグレーバーの長年の友人であり、同様に反資本主義的な政治活動にも熱心な、英王子を模擬処刑する計画を立てて逮捕された経験もある人類学者のクリス・ナイトは、2021年のグレーバーへの追悼記事の中で、フェミニスト人類学者のサラ・ハーディやカミラ・パワーなど、その他の人類学者たちの仕事を引用しながら、以下のように述べている。グレーバーは、ダーウィン由来の進化科学的説明をすべての行動に合理的動機を帰するものであり、その合理的動機とは人間の場合、利己主義や貪欲に他ならないとして、むしろロシアの革命家クロポトキンの相互扶助という思想に重きを置き、彼なりの「コミュニズム」という見方を提示したが、しかしグレーバーの言う「コミュニズム」は現代の科学的説明では適応度を高めるために進化したものであり、それは遺伝子レベルでは「利己的」だとはいえ、まさにそれが私たち人間に利他主義や(チンパンジーなどに比べた場合の)ジェンダー平等主義をもたらした。ナイトはそう批判した上で、グレーバーと同様の粗雑な主張をする者は今日では、その愚かさを露呈し、たちまち取り残されてしまうだろうとまで言っている(グレーバーもナイトの人類史に対する見方はまったく間違っていると言っていたらしいので、良い友人関係だったのだろう)。この批判に関連してナイトが引用しているグレーバーの文章を読むと、グレーバーはネオダーウィニズムや進化心理学がイデオロギーに基づくものであるとして、その合理的説明に対して、動物はみな目的のない遊びをするというクロポトキンの視点から反論を展開している。だが、そのグレーバーの進化学への理解それ自体が非常に素朴かつ陳腐な(そしてかなり古風な)イデオロギー的解釈に基づいており、遊びという行動についても、クロポトキンと同時代からカール・グロースが進化的説明を試みて、現在ではより洗練された見方が唱えられているわけで、グレーバーが単に不案内なだけという印象しか残らない(ただこの文章を読むと、グレーバーはある種の文学的感性に富んだ書き手であり、「科学的教育に縛られないことを選んだ人々」に非常に好まれそうなタイプであることが窺える)。

 あるいは政治学者のヘンリー・ファレルは『負債論』について、その歴史的議論の大半は専門外なので語ることはなく、また非市場経済に関する部分は人類学における一般的な知識の要約としてよく書けていると評する一方(ファレルは院生に経済人類学を教えるなどその専門知識がある)、自身の詳しい国際政治経済や貨幣と軍事力との関係については、グレーバーの理解が非常に拙いことを指摘している。ファレルによれば、グレーバーは経済学が非市場経済を単純化した交換の理論で説明していると批判するが、グレーバー自身がそれと同様の単純化を現代の政治経済に対して行っているという。グレーバーは自説を裏付ける十分な根拠もなく、現代経済を債務と貨幣関係のみで説明しようとしており、複雑な経済現象を過度に単純化している。軍事力以外の経済的要因や政治的動機を軽視して、アメリカが軍事力で他国に恐怖を与え、債務返済とドル支配を強制していると信じており、イラク戦争などの軍事行動をドル支配維持のためであると証拠もなく主張している。2002年にアルゼンチンが債務不履行に陥ったことに関連付けて、その後のアメリカの軍事行動は同様に不履行をしようとする債務国への威圧だったと述べているが、その主張には何の証拠もなく、独創的という以外には長所がない。中国とアメリカとの関係についての長ったらしい主張にもほとんど事実の支えがない。

 要するに、グローバル経済システムの本質に関するグレーバーの大ざっぱな主張を裏付ける証拠があるとしても、彼はそれを読者に提供していないのだ。おそらく、その証拠は彼の情報源のどこかに埋もれているのだろう。あるいはどこにもないのかもしれない。しかし、自分以外の全員が間違っているという、壮大な主張を自意識過剰にも行う場合には、それなりの証拠を用意し、それを前もって提示する準備をしておくべきだ。グレーバーは、よほど秘密にしているのではない限り、有力な証拠をまったく持っていない。これでは、グレーバーが自らに課す(誰もが認める高い)基準に達しているとは思えない。

     In short – if there is evidence to support Graeber’s rather sweeping claims about the nature of the global economic system, he doesn’t provide it to the reader. Perhaps this evidence is buried in his sources somewhere. Perhaps not. But when one self-consciously makes grand claims that everyone else is wrong, one should have good evidence, and be prepared to produce it up front. Graeber, unless he’s keeping it very close to his chest indeed, has no strong evidence at all. This doesn’t seem to me to live up to the (admittedly high) standard that Graeber sets for himself.

https://crookedtimber.org/2012/02/22/the-world-economy-is-not-a-tribute-system/

 上記引用内の、グレーバーが自らに課す高い基準とは、グレーバーが『負債論』執筆にあたり、「大きな問いを投げかけ、広く読まれ、世間の議論を喚起することを意図した、しかし同時に、学術的厳密さを犠牲にしない大著(a big book, asking big questions, meant to be read widely and spark public debate, but at the same time, without any sacrifice of scholarly rigor)」を目指したと述べている記事に由来している。グレーバーは執筆を通じて「自分の主張を、実際に自分が考えている通りのことを述べている広範かつ詳細な参考文献で裏付ける(back up your statements with extensive, detailed references that actually do say what you think they say)」ことを学んだとも述べているが、実際には全然裏付けられておらず、偉そうに見得を切っておきながら、自分で掲げた基準を裏切っているとファレルは指摘しているわけだ。

 その記事、つまりグレーバーが『負債論』執筆の意図や方法を解説した文章には、非常に興味深い視点が含まれている。グレーバーによれば、英語圏では学者が広く一般の読者に訴えかける際、主として二つの書き方がとられてきたという。ひとつは人類学者の多くが嫌うジャレド・ダイアモンドや進化心理学者などが用いる「大衆様式」であり、親しみやすく軽快な文体で、学術的な文章よりも理解しやすいが、読者の考えを覆すような内容ではなく、読者がすでに真実だと思っているようなことに対して、彼らが決して知らなかった理由を提供するもの。もうひとつは学術界の外の文化産業で働く人々に信奉される類の、ドゥルーズやボードリヤール、流行のフランス・ドイツ・イタリアの理論家などが用いる「神託様式」であり、できるだけ多くの常識的な仮定に異議を唱えながら、それと同時に、通常の学術的な文章よりもさらに曖昧な文体を用いて、その曖昧さが一種のカリスマ的権威を醸成することで、お気に入りの思想家が実際には何を言いたかったのかという議論を誘発するもの。しかし英語話者にとって「神託様式」は現実的な選択肢ではなく、せいぜい大陸系思想家の御神託の、二次解釈者か忠実な相棒になることしかできない。そしてグレーバーは「大衆様式」にも魅力を感じなかった。その結果として『負債論』はそれらとは異なる様式――すなわち平易な英語で書かれていながら、常識的な前提に体系的に挑戦するものとなったという。

 しかしここまで見てきた批判から示唆されるのは、『負債論』の読みどころは、物々交換経済に対する否定的証拠など一般的な人類学の知識の要約、さらには文献に基づく歴史的な逸話や記述が主のようであり、つまりは平易な英語で既存の知見をまとめた部分のようだ。それらはもちろん引用元の方が詳しいうえに、きちんと整理されていないところも多いのかもしれない。そしてそれらを繋げる全体的な分析の論理性、人類に関する科学的知見、より現代的な市場や経済の理解などについては、かなり覚束ないもの、乏しいものである可能性が高い。おそらくグレーバーは、一般に通じる平易な文体を用いているという側面においては「神託様式」の思想家たちとは異なる一方、進化心理学者やピンカーなどが依拠する科学的知見や定量的データを蔑ろにして、さしたる根拠もなく常識的な仮定を覆そうとしている(あるいはその仮定自体が単純化・戯画化されており、必然的に藁人形論法になる)という側面においては、大陸系の思想家たちに似ていると言えるのだろう。グレーバーは上掲の記事において、『負債論』には約 100 ページの注釈と参考文献が載っていると述べているが、そのような膨大な脱線や引用がノア・スミスの言うとおり一貫性がなく無秩序な効果を生み出しているとすれば、たとえ平易な英語で書かれていても、それは「神託様式」のような一種の曖昧さを醸成するだろう。そしてその一貫性に欠けた乱雑さゆえの「曖昧さ」は読者によっては、複雑に入り組んだ博覧強記の「難解さ」に感じられるかもしれない。

 きわめて常識的な前提に反するように思われるのだが、グレーバーは先の記事においてこうも述べている。「優れた学問は、学術界の読者よりも一般の読者に高く評価される(Good scholarship is more appreciated by popular audiences than academic ones)」

『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論(Bullshit Jobs:A Theory)』

【AIによる『ブルシット・ジョブ』の要約】

・デヴィッド・グレーバーの著作『ブルシット・ジョブ』は、現代社会における無意味な仕事の増加とその影響を分析した2018年の作品です。
・デヴィッド・グレーバーは、2013年に「ブルシット・ジョブ」に関する小論を発表し、大きな反響を呼びました。彼のもとには250を超える体験談が集まり、それらを基に2018年に『ブルシット・ジョブ』という本を出版しました。この本では、現代の労働環境における無意味な仕事の増加とその影響について詳述しています。
・「ブルシット・ジョブ」(BSJ)の定義は、「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、被雇用者は、そうではないと取り繕わなければならないと感じている」というものです。グレーバーは、ブルシット・ジョブの増加が労働者のモチベーションや幸福度に悪影響を及ぼしていると指摘し、これが現代社会の大きな問題であると論じています。
・グレーバーは、現代の労働環境を「経営封建主義」と呼び、これがブルシット・ジョブの増加に寄与していると指摘します。経営封建主義とは、企業内での権力構造が中世の封建制度に似ていることを意味します。具体的には、上層部が権力を集中させ、下層の労働者は無意味な仕事を強いられるという状況です。このような構造は、労働者のモチベーションを低下させ、無意味な業務が蔓延する原因となっています。
・グレーバーは、ブルシット・ジョブを以下の五つのカテゴリーに分類しています。
①取り巻き(Flunkies): 上司や組織のために存在するだけの仕事。例えば、受付係や秘書など。
②脅し屋(Goons): 他者に対して攻撃的な役割を果たす仕事。例えば、広報担当やロビイストなど。
③尻ぬぐい(Duct Tapers): 組織の欠陥を一時的に修正する仕事。例えば、システム管理者や修理工など。
④書類穴埋め人(Box Tickers): 規制や手続きを満たすためだけの仕事。例えば、品質管理担当やコンプライアンス担当など。
⑤タスクマスター(Task Masters): 他人の仕事を監視するだけの仕事。例えば、中間管理職やプロジェクトマネージャーなど。
・結論として、「ブルシット・ジョブ」は、現代の労働環境における無意味な仕事の増加とその影響を鋭く批判しています。グレーバーは、資本主義が理想とする効率性と不必要な仕事の蔓延との矛盾を強調し、性急な解決策の提案には慎重であるものの、いくつかの潜在的な解決策を論じています。ユニバーサル・ベーシック・インカム、労働組合の強化、従来の労働の概念を超えた多様な貢献の形を認めるよう、社会の価値観を見直すことなどです。この著作は、労働の価値を再考し、現在の文化的・経済的パラダイムを根本的に見直すことを求め、より意義のある仕事に焦点を当てることの重要性を訴えています。

 幸いにも『負債論』とは違って、『ブルシット・ジョブ』に関しては適当な専門家による論文がすぐに見つかった。『疎外は「ブルシット」ではない:グレーバーのクソどうでもいい仕事論に対する実証的批判(Alienation Is Not ‘Bullshit’: An Empirical Critique of Graeber’s Theory of BS Jobs)』と題された論文であり、労働社会学者たちによる研究のようだ。

 この2021年の論文は、グレーバーの「クソどうでもいい仕事論」には検証可能な仮説があるにもかかわらず、しっかりとした実証的研究に基づいていないとして、その仮説を検証にかけている。そして冒頭近くを読めば、グレーバーのこの著作の立場がよく分かる。

 デヴィッド・グレーバー(2013年、2018年)の「クソどうでもいい仕事論」が発表されたことで、役に立たない仕事に関する学者・一般市民・政策立案者の関心が高まっている。実際、グレーバーの2013年のエッセイと2018年の著書『ブルシット・ジョブ』は、Google Scholarによれば900回以上引用され、一般メディアでも広く議論されている。このような書誌計量は、学術的な影響力の程度に関して完全な姿を提供しないかもしれないが、グレーバーの著作のような非学術的な出版物に含まれる主張を真剣に受け止め、厳密な実証的検証にかけることは重要である。実際、労働社会学は、商業出版社から出版された一般向けの著作から頻繁に影響を受けてきた。とりわけ、ハリー・ブラヴァーマン(1974)、ナオミ・クライン(1999、2007)、ガイ・スタンディング(2011、2014)などの影響を否定する人は少ないだろう。さらに、グレーバー(2013、2018)の主張は、フレイン(2015)やスパイサー(2017)のような一部の学者によって無批判に取り上げられ、その本は学術界の内外で好評を博している。

     The publication of David Graeber’s (2013, 2018) ‘bullshit jobs theory’ has generated a heightened interest among academics, the public and policymakers regarding useless jobs. In fact, Graeber’s 2013 essay and 2018 book on bullshit jobs (BS jobs) have been cited more than 900 times, according to Google Scholar, and discussed widely in the popular media. While such bibliometrics may not provide a complete picture with regards to the extent of academic influence, it is important to take seriously claims contained within non-academic publications, such as Graeber’s, and subject them to rigorous empirical examination. In fact, sociology of work has frequently been influenced by popular works published by trade publishers. In particular, few would deny the influence of the likes of Harry Braverman (1974), Naomi Klein (1999, 2007), or Guy Standing (2011, 2014). Moreover, Graeber’s (2013, 2018) arguments have been taken up uncritically by some scholars such as Frayne (2015) and Spicer (2017) whose own books have gone on to be well received both within and beyond academia.

https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/09500170211015067

 つまり『ブルシット・ジョブ』は実証的根拠に乏しい非学術的な商業出版物であり、にもかかわらず(あるいはだからこそ)多数引用されており、一般メディアはおろか学術界においても影響力だけはあるという。

 しかし、グレーバー(2018)が彼の「クソどうでもいい仕事」という主張を支持するために提示した証拠は、主として、この主題に関する彼の以前の思索的なエッセイを賞賛し、彼と逸話を共有するために著者に近づいた被雇用者からの定性的なデータに基づいている。このデータソースへの依拠は、グレーバーの一般化に実証的な裏付けをほとんど提供しないことに加えて、おそらく自己選択バイアスに汚染されている。幸いなことに、グレーバーの著書は、定量的に検証することが容易な、いくつかの明確な予測を提示している。そこで本稿では、グレーバー(2018)の主要命題のいくつかを実証的に検証する。

1. 役に立たない仕事をしている被雇用者の数は多い(すなわち20~50%)
2. 役に立たない仕事は時間の経過とともに急増している
3. クソどうでもいい仕事の割合が非常に高い職業(金融サービス、マーケティング、管理職など)と非常に低い職業(ゴミ収集人、清掃員、農家など)がある
4. 高学歴の若い労働者は、学生債務のためにクソどうでもいい仕事をしている可能性が高い
5. 役に立たない仕事は「精神的暴力」とメンタルヘルスの不良を引き起こす

     However, the evidence presented by Graeber (2018) in support of his ‘bullshit jobs’ thesis is largely based on qualitative data from employees who approached the author to praise him for his earlier speculative essay on the subject and to share anecdotes with him. Not only does reliance on this data source provide little empirical support for Graeber’s generalisations but it is also likely plagued by self-selection bias. Fortunately, Graeber’s book offers several clear predictions that are straightforward to test quantitatively. This article, therefore, seeks to empirically test several of Graeber’s (2018) main propositions:

1. that the number of employees doing useless jobs is high (i.e. 20–50%);
2. that useless jobs have been increasing rapidly over time;
3. that some occupations have very high rates of BS jobs (e.g. financial services, marketing, administration) and others very low (e.g. refuse collectors, cleaners, farmers);
4. that young workers with higher education qualifications are more likely to be doing BS jobs due to student debts;
5. that useless jobs cause ‘spiritual violence’ and poor mental health.

https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/09500170211015067

 この論文の著者らは2005年から2015年にかけての、5年おきの欧州労働条件調査(EWCS)、EU28カ国の総勢約80000人の回答データを用いて、これらの命題を検証した結果、グレーバーの主張は実証的にほとんど支持されないと結論した。すなわち(1)自分の仕事が役に立たないと感じている労働者は10%に届かず、2015年ではわずか4.8%であり、(2)自分の仕事は役に立たないと感じている労働者は急増しているどころか、むしろ若干減少しており、(3)営業職には少しその傾向が認められるとはいえ、グレーバーがブルシット・ジョブだと予測した職種(法律専門家・上級公務員・管理専門職など)は概ね自分が有用な仕事をしていると考えている一方、むしろゴミ収集人・清掃員・介護職など、グレーバーがブルシット・ジョブではないと考える職種にはその逆の傾向があり、(4)学生債務とブルシット・ジョブに相関関係は認められず、むしろ学生ローンを利用するような高学歴ほど、役に立たないと感じる職に就く可能性が低く、(5)たしかに自分の仕事が役に立たないと感じている労働者のウェルビーイングのスコアは低く、それが「精神的暴力」に起因する可能性も示唆されるが、それは因果関係が逆である可能性もある。以上から、仮説3は営業職のみに弱く当てはまり、仮説5は妥当かもしれないといった程度で、それ以外はむしろグレーバーの予測と正反対の結果が出ており、クソどうでもいい仕事論の社会科学的な価値は否定される。しかし論文の著者らは、役に立たないと感じる仕事をすることは有害な影響をもたらすという見方については、グレーバーは正しいと述べており、このような研究を触発してくれたグレーバーの洞察力と豊かな想像力に対しては謝意を捧げている(著者らはイギリス人なので、気のせいかもしれないが、京都人的な皮肉が感じられる)。この論文の分析では、仕事の有用性の感情にとっては、社会的価値よりもむしろその仕事における社会的関係、とりわけ上司との関係が重要であることが示唆されている(HAUの歴代編集長が次々に辞めていったことが思い出される)。そして著者らは最後に、自分たちの研究はグレーバーよりも遙かに妥当ではあるが、横断的データのみでその時系列の追跡データはないゆえに、限界があることをきちんと付記している。

 ちなみに『ブルシット・ジョブ』の理論は統計データとしては、イギリスのネット調査会社およびオランダの人事会社による調査に基づいており、学者であればその調査の方法論を精査し、その限界を認識し、また読者に提示するものだろうが、この論文によれば、グレーバーは驚くべきことに、それらを元に彼の理論が「統計調査によって圧倒的に確かめられている(been overwhelmingly confirmed by statistical research)」と述べているという。さらにグレーバーは「経営封建主義」によって「全体的なブルシット・ジョブの数が、そしてさらに重要なことに、それらの仕事に就いている人々自身がクソどうでもいいと考える仕事の全体的な割合が、近年急速に増加していると信じるに足る十分な理由がある(there is every reason to believe that the overall number of BS jobs, and, even more, the overall percentage of jobs considered bullshit by those who hold them, has been increasing rapidly in recent years)」とも述べているというが、その実証的根拠はまったく示していないらしい(実際には上述のとおり、まったく急増している証拠はない)。

 この本が非常に話題になったのはおそらく、それが読者の考えを覆すような内容ではなく、読者がすでに真実だと思っているようなこと(たとえば個人レベルでは無駄な会議、社会レベルでは忌み嫌われるネット広告産業など)に対して、それらしい視点を提供したからだろう。親しみやすく軽快な文体で、学術的な厳密さはまったくないので、一般大衆でも非常に受け入れやすかったのだろう。この観点からすると、『ブルシット・ジョブ』がGoogle Scholarによれば900回以上(2024年現在では約2000回)も引用されているのは、学術的な影響というよりも、むしろTwitterのリツイート(現Xのリポスト)のようなものと言えるかもしれない。このような影響力は実際、言っていることは大した根拠もなくいい加減だが、その放言が非常な訴求力を持ち、多くの人々の間で話題になるという、ソーシャル・メディアの言論系インフルエンサーに非常によく似ている。そのような学者の影響を受ける聴衆は当然ながら、根拠を精査するような姿勢はあまり持っていないので、もっともらしい概念や逸話を提示したり、著名な思想家の言葉を引用したりして、感化されやすい道徳的主張を展開すれば、ひとかどの知識人だと信じ込んでくれるのかもしれない。

 ちなみに上掲の論文には、2019年に発表された先行研究、こちらもグレーバーに触発された「社会的に役に立たない仕事」についての経済学者による分析も引用されている。そしてその研究においても、異なる4時点の47カ国、10万人の労働者からなる代表的なデータセットを使用した結果、(1)労働者のうち10%ほどが自分の仕事は社会的に役に立っていないと認識しており、(2)大多数が自分の仕事を「クソどうでもいい」と感じている職業は存在せず、しかも傾向としてはむしろ、グレーバーが依拠するイギリスの世論調査も含めて、グレーバーがその割合が低いと主張している低所得の単純労働者や肉体労働者の方が、グレーバーがその割合が高いと主張している管理職や経営職よりも、自分の仕事が世の中に貢献していないと感じており、(3)自分の仕事が社会の役に立っていないと感じている人はここ数十年、全然増えてもいない。詰まるところ、グレーバーの主張の大半を否定するものとなっている。ただし営業・マーケティング・広報・財務管理・代理店・ブローカーなどは社会的に役に立たないと感じる人の割合が14%を超えており、比較的高いと言える。

 もちろんアンケート調査のようなものは、標本バイアス、言葉の定義の曖昧さ、質問の暗黙の誘導性、回答の信頼性など様々な問題があり、またデータやその分析手法によってはグレーバーの主張を一部支持するような研究もありうるだろう。実際、アメリカの労働条件調査のデータ(1811人)を用いた2023年の研究の場合、回答者のうちの19%が自分の仕事が社会的に役に立っていないと認識しているという結果が出ており、EU諸国の先行研究などよりも高い。またこの研究では、未加工データでは運輸業や生産現場職のような単純労働の方が社会的無用感が高いが、自律性の欠如や能力の不活用といった疎外感、社会的相互作用、公共サービスへの動機付けなど、その回答に影響を与える要因を制御した多変量解析をすると、金融・管理職・営業およびマーケティングといったグレーバーがブルシット・ジョブと予測した職業の幾つかが、他の職業よりも社会的無用感を覚える確率が高いという結果も出た。しかし結局のところ、そもそもが個人的実感と定性的な逸話に基づく「理論」に対して多少妥当な結果が出たところで、それは占い師の言が当たるようなもので、上記のようなグレーバーの方法論の脆弱さ、それにもかかわらず大げさな確信的態度で物語る傾向は、やはりこの人物の知的誠実さに対して払拭できない疑念を抱かせる。とはいえ、グレーバーが仮に学術的著作のつもりでこの本を書いたとするなら、その仕事自体がブルシット(出鱈目)と言われても仕方がないが、しかし最初に引用した論文において、明確に非学術的な商業出版物と呼ばれていることを鑑みるに、おそらくグレーバー自身も『ブルシット・ジョブ』は単なるエッセイにすぎないと明言しているのだろう。

『万物の黎明:人類史を根本からくつがえす(The Dawn of Everything: A New History of Humanity)』

【AIによる『万物の黎明』の要約】

・『万物の黎明:人類史を根本からくつがえす』は、人類学者デヴィッド・グレーバーと考古学者デヴィッド・ウェングロウによる2021年の著作で、人類の歴史に関する従来の理解に挑戦しています。
・この本は、人類社会の発展が狩猟採集から農耕、そして文明へと単線的に進化したという伝統的な歴史観を批判しています。著者たちは、最新の考古学的証拠と人類学的研究を用いて、初期の人類社会がこれまで考えられていたよりもはるかに複雑で多様であったことを示しています。
・グレーバーとウェングロウは、人類が何千年もの間、大規模で複雑ながら分散化された政体で生活していたと主張しています。彼らは、先史時代の社会が季節によって異なる社会構造を採用するなど、驚くほど柔軟であったことを指摘しています。
・著者たちは、農業の発明が必然的に私有財産や社会的不平等をもたらしたという一般的な見方に疑問を投げかけ、初期の都市形成や国家の起源に関する従来の理論にも挑戦しています。彼らは、社会組織の形態が多様であり、多くの初期社会が何らかの形の民主主義を実践していた可能性を示唆しています。
・この本は、ルソー主義とホッブズ主義を対比させながら、その両方を批判します。ジャレド・ダイアモンドに代表されるルソー主義は、人類の生来の善良さと平和的起源を仮定し、文明を道徳的衰退の源と見なします。スティーヴン・ピンカーに代表されるホッブズ主義は、人間の本性を利己的で競争的なものと見なし、暴力を抑制するためには文明と統治が必要だと主張します。グレーバーとウェングロウはこれらに異議を唱え、有史以前の社会は牧歌的でも残虐でもなく、複雑で多様であったと主張します。
・さらに、この本は17世紀と18世紀のアメリカ先住民による西洋文明批判が、ヨーロッパの啓蒙思想に与えた影響を強調しています。これは、西洋中心主義的な歴史観に対する重要な反論となっています。
・『万物の黎明』は、人類の歴史をより豊かで多様なものとして再解釈し、現代社会の問題に対する新たな視点を提供することを目指しています。この本は、歴史学、考古学、人類学の分野に大きな影響を与え、人類の過去と未来の可能性に関する我々の理解を拡大する重要な貢献となっています。

 邦訳書副題の大言壮語感がここまでに示唆されるグレーバーの個性を的確に捉えており、何となく嫌な予感がしてくるが、しかし『万物の黎明』の大きな特徴は、それが共著だということだろう。つまり実証的厳密さの基準がおそらく緩いグレーバーの欠点を考古学者のウェングロウが補っていれば、そこには素晴らしいケミストリーが生じている可能性もある。もちろん先史時代については専門家であっても推測だらけで、未来永劫、実証的に強固には確かめられないことが大半だろうから、この場合の厳密さには、よく分かっていない点、専門家でも見解が分かれている点、根拠が薄い仮説などに対して、努めて慎重な取り扱いをする姿勢も含まれるだろう。

 そしてこの著作にはそれに先駆けて、二人による『Farewell to the “Childhood of Man”: ritual, seasonality, and the origins of inequality』という共著論文が存在している。この2015年の論文はおそらく『万物の黎明』の基本的な視点を示しており、(1)後期旧石器時代の豪華な埋葬や記念碑的建造物、その時代のヨーロッパにおける季節に応じた人々の集合と分散のパターンを示す考古学的証拠を提示しながら、(2)それと20世紀の民族誌に報告されている狩猟採集民の季節ごとの社会生活様式の切り換え、儀式に関する理論的考察との類似性を指摘して、(3)先史時代には、季節性の気候や資源の変動、大型狩猟動物の移動などに応じて、小規模な集団に分かれて暮らす分散期、宗教的儀式を伴う大規模な集落を形成する集合期といったように、人々は異なる社会組織の様式を使い分けていた可能性があるというものだ。これは階層的と平等主義的といった社会構造の二分法、あるいはバンド・部族・首長制・国家という順に社会が発展していくという単線的な歴史観などに反しており、むしろ人類は本来、これらの要素を行ったり来たりする柔軟な創造性、より多様な社会的可能性を持っているという。

 この論文の興味深い点は、その内容がおおむね考古学パートと人類学パートに分かれており、とりわけ考古学パートにおいて、標準的な学術的訓練を受けている印象の、それなりに明晰な記述が行われていることだ。これは率直に言って、以前に幾つか見たグレーバーのエッセイ系論文には見られなかった特徴であり、おそらくウェングロウが書いているのだろう。実際、この論文はウェングロウが行った講演を元にした拡大版であると脚注に記されている。人類学パートはグレーバーが書いているのか、それを元にウェングロウがまとめたのかもしれないが、考古学パートよりもやや質が落ちた印象になる。季節に応じて生活様式を変えていたことが示唆される考古学的証拠に対して、それと類似する人類学的証拠を持ち出す場合、どこどこの部族では雨季にはこのような生活、乾季にはこのような生活をしていたという類の事実的記述が最も重要なはずだが、むしろ著名な人類学者が異社会の有り様をどのように見たかという、属人的な解釈(それが民族誌理論というやつなのかもしれないが)の方をしばしば押し出してくるので、そのぶんだけ根拠として弱くなり、客観的な論理性も見えにくくなる。とはいえ、グレーバーの単著エッセイ系論文に比べれば曖昧な観念性は低く、明らかに具体的で把握しやすい。講演を元にしているせいかもしれない。ただし考古学とはそういうものという側面も大きいのだろうが、非常に推測的な主張ゆえに説得力は薄い。またウェングロウは比較考古学者らしいが、類似性だけに焦点を当てて、比較対象の違いには頓着しないところも危うい感がある。この論文自体はひとつの視点を大まかに提示するだけの内容で、まったく綿密な論証はしていない。

 とはいえこうした印象から、ウェングロウが『万物の黎明』を主に書いており、グレーバーは民族誌に依拠したアイデア提供役などに留まっているなら、この著作は読み甲斐があるかもしれないという期待も湧いてくる。一般には無名の優れた考古学者が自身の著作を広く世に出すために、その見方を評価しているグレーバーの名声を半ば利用させてもらっているのかもしれない。最新の考古学的知見をまとめながら、それらを元に、あくまで推測に次ぐ推測に過ぎないものとして、新たな古人類史像を描いていくという内容であれば、たとえその推測に次ぐ推測の部分が相当に行き過ぎていたりしても、それは読書を牽引するフィクションとして楽しみながら、現時点での様々な考古学的知見の要約に触れることができる。その一方、グレーバーの主導権が強く、たとえば人類にはもっとアナーキーな可能性がある(あるいはそのような可能性があったのにこんな現状になってしまった)というような自身の思想に即して、それに様々な知見をねじ曲げてこじつけるような内容であれば(あるいはウェングロウもそのように思想に学問が従属するタイプであれば)、学者の本としては読む価値は低いだろう。もう一つの懸念としては、要約的な情報に触れる限りでは、二人が批判対象に据えているらしい社会進化論(単線的・目的論的・決定論的な歴史観)が相当に単純かつ古風なものに思えること、つまりそんな見方が現在でも学術界で主流だとは考えづらく、そもそも「くつがえす」対象が彼らの頭の中にしか存在しないのではないかという疑念がよぎる。

 まず『負債論』について軽く調べた経験から、話題になった本の場合、ブログやオンライン雑誌にも学者による様々な長文の批判があることを知ったので、それを幾つか見てみることにした。『万物の黎明』ではダイアモンドやピンカーといった著名人が批判されているらしいので、彼らによる応答がないかを検索してみる。すると当人による直接の反論は見つからなかったが、ピンカーは自身のTwitter(現X)において『万物の黎明』に対する批判的な書評をひとつ紹介していた。

 その書評では冒頭において、科学ではどんな考えもそれを裏付ける証拠の強さによって地位が左右されること、ひいては常に暫定的であり、疑問や修正を免れることはできないことが語られる。だが近年、学術研究がなるべく信条や政治的関心によって歪められないようにするという規範に沿わない学者も増えており、まさにそのような一人として、グレーバーが引き合いに出される。グレーバーはかつてTwitter上で、よく目にする絶対的貧困や児童労働の減少、平均寿命や教育水準の向上といった世界が良くなっていることを示す統計について、それらは「新自由主義的/保守的」なデータであり、「右翼のシンクタンクがまとめた」ものだからと言って、それに対する反証を募った。そしてこの書評ではそれと同様の、事前の信条に歪められた解釈や証拠の恣意的な取り扱い――すなわち動機付けられた推論が『万物の黎明』にも散見されることが指摘されていく(以下、グレーバーとウェングロウのことをG&Wと略記する)。

  • G&Wが覆すべきだと批判する社会進化論は、当人たちも本の後半で「今ではほとんど誰もこの枠組みを全面的には支持していない(almost nobody today subscribes to this framework in its entirety)」と認めているように、17~19世紀の考え方だが、G&Wは自分たちが支配的な見解に挑戦しているという印象を作り出すために、人類学や考古学以外では、その古い枠組みが未だに根強いかのように錯覚させようとしている。しかし現代の学者は人間の行動や社会を説明する際、不変の法則を措定するのではなく、たとえば狩猟採集民は平等主義的な小規模社会で暮らす「傾向」があるというように、相対的な傾向と相関関係を探す。

  • G&Wは人類学者のクリストファー・ボームを批判しており、ボームが狩猟採集民は何千世代にもわたって「厳密に」平等主義的であり、それゆえに政治的動物である人類がおよそ二十万年もみな同じように暮らし、長きにわたって何も起こらなかったという、奇妙な主張をしていると述べている。だが実際には、ボームは「厳密に」という言葉は使っておらず、むしろ狩猟採集という生活様式それ自体は決定的に平等主義を保証するものではないと述べており、また平等主義的な社会秩序を乱そうとする野心家が現れては抑え込まれること、そのような制圧の逸話が口承で伝えられていくことを指摘している。

  • G&Wはジャレド・ダイアモンドを批判しており、農業の発明とそれゆえの人口増加によって、バンドから部族へ、さらに部族の一部は首長制へと階層社会への移行が起こり、「あらゆる場所で永遠に」平等に終止符が打たれたとダイアモンドが主張していると述べている。だが実際には、ダイアモンドはある程度の一般化を可能にする通文化的パターンとして、人口規模・生業(サブシスタンス)・政治的中央集権化・社会階層化の四つの要素は相関する傾向があるとは述べているが、「あらゆる場所で永遠に」といった絶対的な見方はしておらず、それぞれの社会の独自性や多様性を認めている。

  • G&Wは批判対象の古い社会進化論を否定して、農業以前の狩猟採集は「大胆な社会実験」の世界であり、また農業と私有財産は「不平等への不可逆な一歩」を示すものではなかったと主張している。そして実のところ、ダイアモンドも著書において「バンドから国家への発展は、至る所で起こったことでも、不可逆でも、単線的でもなかった(the developments from bands to states were neither ubiquitous, nor irreversible, nor linear)」「伝統的な社会は、事実上、人間社会を構築する方法に関する何千もの自然実験を示している(Traditional societies in effect represent thousands of natural experiments in how to construct a human society)」と述べており、むしろこの点ではG&Wと類似している。

  • G&Wはスティーヴン・ピンカーを批判しており、ピンカーが著書のなかで先史時代を論じる際、広範な証拠の評価を通じて科学的にテーマに取り組むのではなく、逸話や画像、メディアの見出しを飾るような個々のセンセーショナルな発見などに頼っていると述べている。だが実際には、ピンカーの書籍には科学的な情報源に基づく統計がぎっしり詰まっており、G&Wが参照しているピンカーの著書の当該ページを見ると、様々なタイプの社会における推定暴力率を比較した複数の科学的文献に基づく棒グラフがある。

  • G&Wは「ピンカーを典型的な現代のホッブズ主義者と見なすことができる(We can take Pinker as our quintessential modern Hobbesian)」とした上で、しかしピンカーの議論を再評価して、その都合の良いところだけを見ることを止めれば、それはホッブズとは正反対の結論、すなわち「私たちは養育と世話をする種であり、人生が陰険で、残酷で、短命である必要は全然なかった(our species is a nurturing and care-giving species, and there was simply no need for life to be nasty, brutish or short」ということになると主張している。だが実のところ、ピンカー自身、ホッブズは多くの点で間違っていたと評しており、また非国家社会の人々は親族や同盟相手と協力するゆえに孤独ではなく、陰険で残酷になるのも時々だけで、数年ごとに襲撃や戦闘に巻き込まれるにしても、その生活には宴会・歌・物語・子育て・看病などに費やす時間がたっぷりあると述べている。

  • G&Wは、部族社会の人々が略奪と戦争の繰り返しに巻き込まれて、暴力的な死まであと数歩という不安定な生活を送っている例証として、ピンカーが南米のヤノマミ族の事例を持ち出しているとする。そしてピンカーがホッブズ的な暴力の例証として特に持ち出しているにもかかわらず、実のところ、ヤノマミ族の殺人率は他のアメリカ先住民の平均よりも低いと指摘する。だが上述のとおり、ピンカーは非国家社会の人々が常時暴力と死に迫られているとは考えていない。ピンカーは、互いに安全の脅威を感じた場合、先制攻撃が両者にとって合理的な選択になってしまうというジレンマを説明するために、ヤノマミ族の暴力を例示しており、しかもそれが突出した例外ではないことを示すために、敢えて平均よりも殺人率が低い社会を引き合いに出している。実際、ピンカーは他の集団の方が暴力率が高いことを指摘している。

  • G&Wは、ピンカーが歴史的な暴力の減少、現代の人々が祖先よりも長寿・安全・健康・幸福になっているという改善の大きな要因として、17世紀と18世紀にヨーロッパで開花した啓蒙主義を挙げていることについて、ピンカーが人類の進歩を「白人」「西洋文明」に帰していると解釈する。そしてピンカーのようなホッブズ主義者の見方では、ヨーロッパ列強による大量虐殺や侵略などの蛮行は人類がいつも行ってきたことであり、決して稀ではないが、それよりも本当に重要なのは、自由・法の下の平等・人権といったヨーロッパ的な考えを生存者に広めることが可能になった点であるという、そのような議論に行き着いてしまうという。だが実際には、ピンカーは「西洋文明」ではなく、啓蒙主義的価値観を進歩の要因としており、それがどこで生まれたかは重要ではなく、だからこそ非西洋文明においてもその価値観(つまり自由・法の下の平等・人権など)が明文化されてきたのだと述べている。

  • G&Wは、異なる社会を比較する方法は、人々にその両方を経験させて、どちらで生きるかを選ばせることだと主張している。そして南北アメリカの植民地史において、入植者が先住民社会の捕虜になった後、戻るか留まるのか選択の機会があった場合でも、子供も含めて、ほとんど必ず、先住民社会に留まることを選んだと述べている。また対照的に、結婚や養子縁組でヨーロッパ社会に組み込まれた先住民の場合、かなりの富や教育を享受していた人々であっても、ほとんど必ず、逃げ出したり適応に失敗したりして、結局は先住民社会に戻ったとも述べている。だが実際には、G&Wが根拠として引用した1977年の論文は定量的分析ではなく定性的分析であるうえに、入植者の捕虜が元のヨーロッパ社会に戻ったという記述も多く、しかもその論文の著者はG&Wとは明確に異なる結論を述べている。論文の結論によれば、捕虜が同化するかどうかの主要な決定要因は、捕らわれる以前の文化的環境でも人種でもなく、捕らわれた時の年齢であり、思春期より前に捕らえられた子供はほとんどの場合、同化していった一方、思春期以後に捕らわれた場合、大抵は出身社会に戻りたがったという。この点は歴史学者のダニエル・イマーワーによって「まったく的外れの誤り(ballistically false)」であると批判された。

  • G&Wの議論は、上記のような個人的執着や科学的範囲外の関心、不要な人身攻撃や藁人形論法によって損なわれており、科学よりも政治的議題に関心があるという印象を強めている。

 もちろん、ダイヤモンドやピンカーを含め、本を書く学者が誰しも政治的関心を持っているのは事実だが、重要なのは、そうした関心が真実を追求することよりも優先されるかどうかということだ。真実を発見し共有することを優先する者は、自らの好む政治的物語と矛盾する証拠を率直かつ正確に報告するだろう。その一方、政治的な物語を推し進めることを優先する者は、それに挑戦する情報源を無視したり歪曲したりするだろう。そしてこれは、学者や一般社会から、知的資源の中で最も貴重なものを奪うことになる――誠実な議論。

     While it is of course true that every scholar who writes a book has political concerns, including Diamond and Pinker, the important question is whether those concerns take precedence over truth-seeking. Those whose priority is finding and sharing the truth will report evidence that contradicts their preferred political narrative candidly and accurately. Those whose priority is to push a political narrative, on the other hand, will neglect or distort sources that challenge it. And this robs the scholarly and the lay community of that most precious of intellectual resources: Honest debate.

https://quillette.com/2022/10/22/the-dawn-of-everything-and-the-politics-of-human-prehistory/

 この書評では、G&Wの藁人形論法の特徴について、相手の主張を断言的なものに歪曲・単純化すれば、傾向や相関関係に基づく議論よりも、それを論駁しやすくなるという指摘がなされている。このG&Wのやり方は一種の「論破芸」と言えるかもしれない。そのような悪癖が相手の主張ではなく、自らの主張にまで及んでしまえば、入植者と先住民の同化に関する議論のように、自らの足下を支えるはずの根拠も歪曲して、あえなく躓いてしまうことになる。ちなみにこの書評は前述のHAU騒動において、明確に反グレーバーの偏向した記事を書いたQuilletteに掲載されているが、この書評自体はしっかりと引用に基づいて組み立てられており、仮にこの書評で批判されているG&Wと同様に、この記事の執筆者が情報を歪曲していないとすれば、なかなか説得力が感じられる。

 実際、入植者と先住民の同化に関する議論に出てきた1977年の論文の結論部分を読んでみると、たしかにこの書評による引用は正しく、捕虜になった年齢が同化の主要な決定要因だと述べられている。学位論文で300ページ以上あるのでさすがに全部精読する気は起きないが、いくつか重要そうな点を拾い上げてみると、入植者が先住民の捕虜になった場合、そもそも殺されるか拷問されて早期に逃亡を試みることが多かったという(西部の場合、成人女性捕虜は強姦されることもあった)。わずかな定量的記述によれば、ニューイングランドで捕虜になった記録に残る750人の場合、92人は先住民に殺され、60人は先住民に同化し、300人以上が家族のもとに戻ったとも述べられている(家族のもとに戻ってもその多くは生涯、先住民的な特徴が残ったとされているので、長期間捕らわれていた後に戻ったのだろう)。G&Wの主張で一部支持されるのは、ヨーロッパ社会で教育を享受した先住民でも、同化に失敗して以前の生活様式に戻ろうとした人が多かったという点で、これは肌の色の違いで平等な扱いを受けられなかったことが要因だという。より細かく言えば、養親によって白人家庭に引き取られた子供は同化していった一方、寄宿学校に入れられた子供は教師による蔑視、同じ先住民同士で暮らしたことなどにより、むしろ出身社会の意識を強めて先住民居留地に戻ることが多かったらしい。愛情深い白人に引き取られた後、出身社会に戻る機会にそれを拒む先住民の子供の事例もあり、また成人の白人捕虜女性でも、先住民との間に子供が出来るとそこを離れがたくなるという話もある。つまり愛着の対象があってこそ、その社会に入っていけるということなのかもしれない。いずれにせよ、とりわけ白人捕虜の場合、ほとんど必ず先住民社会が選ばれたとは言えないだろう。

 ニューヨーク・タイムズの記事によれば、この点についてウェングロウは、イマーワーの方が論文を誤読していると反論したという。さらにそのくだりに続けて「そして、彼とグレーバーは、この本の核となる議論を、査読付きの一流の学術雑誌に発表したり、この分野で最も権威のある招待講演において語ったりすることに、注意を払ってきたと述べた(And he noted that he and Graeber had taken care to publish the book’s core arguments in leading peer-reviewed scholarly journals or deliver them as some of the most prestigious invited lectures in the field.)」とある。だが、先に見た二人の共著論文(それは招待講演を元にしている)には、Quilletteの書評で指摘されたような内容は含まれておらず、それが査読されたわけではない。しかもこの記述に続けて、ウェングロウは相当に異様なことを口にする。

「当時、なぜこんなことをしなければならないのかと思ったことを覚えている」とウェングローはそのプロセスについて語った。「私たちはそれぞれの分野でそれなりに定評がある。しかし、それがひどく重要だと断固として主張したのはデヴィッドだった」

“I remember thinking at the time, why do we have to put ourselves through this?” Wengrow said of the process. “We’re reasonably established in our fields. But it was David who was adamant that it was terribly important.”

https://www.nytimes.com/2021/10/31/arts/dawn-of-everything-graeber-wengrow.html

 つまりウェングロウは当時、『万物の黎明』の核となるアイデアを査読付き論文という形式で発表する必要はないと考えており、その理由は、彼とグレーバーがそれぞれの分野でそれなりに定評があるからだという。これは控えめに言って、常識的な考え方ではないように思われる。というのも通常、学術的に重要なのは一般向けに書籍を発表することではなく、専門家同士による批判や精査の場におけるプロセス、それに耐えられる研究であり、たとえ定評があるからといってそのプロセスを免れられるような分野は、とても真っ当な学問とは言えないだろうからだ(別の言い方をすれば、そのような分野において確立された定評は信用できないものだろう)。しかもG&Wの共著論文は査読付きと言っても、ひとつのアイデアをかなり漠然と提示しただけで、取り立てて論証的でも実証的でもない。こうした姿勢に加えて、自らの誤りを認めて訂正できない姿も見せつけられると、ウェングロウに対する疑念も高まってくる。

 さしあたり続けて、イマーワーによる書評を読んでみると、『万物の黎明』の絶え間ない修正主義は爽快ではあるが、同時に消耗するものでもあるという。イマーワー曰く、G&Wは歴史のあちこちに彼らが夢見る階層構造のない社会、支配者のいない統治の痕跡を見て取るが、その解釈の軽々しさは、遠い過去についての確かな知識の欠如を糧にしており、証拠が少ないほどに憶測が暴走する危険がある。そのスタイルはグレーバーの過去の著作にも見受けられたものであり、グレーバーは常識をくつがえす創造的な思想家として、正しいことよりも興味を引くことで世に知られている。実際、イラク戦争は石油輸出の支払いをユーロで行うようサダム・フセインが主張したことに対する報復だったとか、ホワイトカラーの労働者は実際には何もしていないだとか、裏付けのない発言や放言をする癖がある。時間と空間を楽しそうに駆け巡り、乏しい、あるいは紛らわしい証拠を前に、自信満々で仮説を立てるこの本が信頼できるかどうかは疑わしい。そしてイマーワーは例の「まったく的外れの誤り(ballistically false)」を指摘するが、しかしそれもG&Wにとっては大したことではないだろうという。なぜなら『万物の黎明』は弾丸の雨であり、そのうちの数発でも標的に当たればそれで十分だろうからだ(「ballistically」は直訳すれば「弾道的に」という意味なので、勢いよく発射された弾丸があさっての方向に飛んでいき、もうその軌道を変えることはできないというようなニュアンスだと思われる)。

 とはいえ、イマーワーの書評には誤りの指摘は一つしかない。またQuilletteの書評は主として、ダイアモンドやピンカーに対する批判の妥当性を検討しており、科学的内容の妥当性にはほとんど触れられていない。しかし実際のところ、知識に触れたい読者にとっては、人類史に対してダイアモンドやピンカー、あるいはG&Wがどのような立場を取っているかというのは、どちらかと言えばどうでもいいことだろう。最も興味を惹かれるのは科学的議論の部分なのだから。そこで改めて色々と検索してみると、いくつかの書評の他に、博士課程で政治地理学を学んでいるらしいウィル・サハール・パトリックという人物の書評がアナーキスト・ライブラリーに見つかり、その書評が優秀なことに、これまでの『万物の黎明』に対する学者たちの批判の多くをまとめていた。このパトリックはまだ博士課程の学生ではあるが、スタンフォード大学の歴史学者ウォルター・シャイデルにも書評を賞賛されており、その記述はきちんと文献に基づいている。そこでこのパトリックの書評を主な情報源にしながら、しばらく様々な学者の書評を見ていくことにした。

 だがその前に、敬意を表してパトリックによる批判の概要も紹介しておくべきだろう。パトリックによれば、G&Wは「平等」や「不平等」の概念は文化によって質的に異なるので、そのような尺度は役に立たないとして、社会の自由を議論する際、富の不平等や社会階層化の程度を比較測定することに反対している。これは現代の他の学者とは立場が異なるので、G&Wは代替となる尺度を提示する責任がある。そしてG&Wが提示する代替的な尺度は(1)「移動の自由」(2)「不服従の自由」(3)「社会関係の再編成の自由」という三つの自由であり、G&Wによれば、かつて人類は平等主義と権威主義を行き来する可能性を持っていたが、やがてこの三つの実質的な自由を喪失してしまったがゆえに、支配的な階層構造に「はまり込んで」しまったのだという。だが、パトリックはそのような主張を支える根拠の問題を次々に指摘していく。

  • まず「移動の自由」は「立ち去って移住する」「遠く離れた土地で歓迎されると分かっていて、自分の共同体を捨てる」という自由であり、G&Wは古代エジプト・メソアメリカ・メソポタミアにおいて民衆が都市を捨てた事件、あるいは北米五大湖地域の氏族制度における血縁・親族・出自に基づく拡大ネットワークを通じた移動やオセージ族の「無人」地域への移動などを例として挙げている。だが前者は圧政から逃れるためのやむを得ない移動であり、後者の氏族制度の説明はすでに古くなった推測的な歴史に依拠した記述で、G&Wが例に挙げたオセージ族の移動も敵対する民族との争いから逃れるためであり、また同時にその移動によって、別の民族を南へと追いやるものでもあった。これらの移動は「実質的な自由」の行使とは言い難い。

  • 次に「不服従の自由」は「権威に従わなくても罰を受けずに済む」「指示に従わない」「他者の命令を無視するかそれに従わない」という自由であり、G&Wは南スーダンのシルック族において臣下が首都以外では「レス(王)」の主権を無視したこと、あるいは北米のナチェズ族においても「偉大なる太陽(最高酋長)」がその目の届かないところでは無視されたことを例として挙げている。だが前者は単に首都以外に主権を強制する仕組みが整備されていないがゆえであり、後者は半自治的な村落地区に分かれていて、それぞれの村人はむしろ自分の村の酋長に恐れ従っており、「偉大なる太陽」は政治的に対等な酋長たちの中での第一人者のような存在で、その主権は他の酋長たちの競合する権威によって抑制されていた。これらは権威の及ぶ範囲においてそれに従わない自由とは言えない。さらにG&Wは、北米のウェンダット族において、氏族の命令に同意できない場合、独自の村を設立したり別の村に参加することができたことも不服従の自由の例としている。だがウェンダット語を話す学者によれば、この言語で「命令」に最も近い言葉は「要望する、頼む」という意味であり、「従う」に近い言葉も「誰かの言葉と共にある」という条件付き同意のような意味であり、従ってウェンダット人の拒否はむしろ、不同意の自由(関係を解消する可能性)とするのが適切であり、不服従とは性質が異なる。

  • 最後に「社会関係の再編成の自由」は『万物の黎明』の中でも様々な言い方で表現されており、ややつかみどころがないが、G&Wはその例として、様々な先住民族が一年を通じて社会統治の「切り換え」を行っていたことを取り上げている。たとえば北米のシャイアン族は毎年の夏と秋に集まり、警察隊を任命して自分たちの管理を任せ、バイソン狩りをして、狩猟の季節が終わるとその警察隊を解散し、ふたたび小さな集団に分かれたと伝えられており、これをG&Wは季節ごとに劇的に体制を切り換えていたと主張している。だが実際には、シャイアン族は一年を通じて同じ統治構造を保っていた。まさにシャイアン族の学者レオ・K・キルズバックによれば、これは儀式や政治的会合を執り行う44人の酋長、移動の円滑化・村の保護・狩猟の組織・儀式の運営という四つの神聖な役割を担う警察的な戦士組織という、「シャイアン族の兄弟愛の原則の上に築かれた(built on the Cheyenne principle of brotherhood)」「二つの高度に組織化された機関の間の微妙な均衡(a delicate balance between two highly organized institutions)」による権力の共有と交換であり、狩りの期間、一時的に戦士組織が主導権を握るのは、両者が基盤とする制度の一部だという(狩り以外の期間も各バンド内に調停役の酋長とその決定を守らせる戦士組織の構成員がいる)。ところがG&Wは、伝統的なシャイアン族の統治の意図性と複雑性を軽んじて、それをあたかもごっご遊びであるかのように表現してさえいる。G&Wは今では時代遅れのマルセル・モースらの論文を引き合いに出して、北極圏のイヌイットも季節ごとに統治形態を切り換えていたと主張しているが、これはその後の研究で覆されており、平等主義的で自律性を重視する北西部、指導者への恭順を規範とする東部など、実際には社会組織の地域差が大きい。さらにイヌイットは独自の生態学的知識を通じて、季節を問わず食料を再配分する寛大な互恵性に基づく制度を発展させてもいる。したがって小集団に分かれる夏は閉鎖的な家父長的権威主義、集会所に集まる冬は平等主義というような季節性の切り換えの見方は誤っている。

  • G&Wは、社会的平等の概念はヨーロッパ社会とは相容れないものであり、したがって輸入されたに違いないという主張、それに関連して、北米先住民文化の思想に触れるまでは、ヨーロッパ人が社会的不平等の起源を問題として取り上げたことはなかったという主張もしている。だが、北米先住民の価値観の影響を受ける以前から、ヨーロッパ人が平等と不平等の問題に深く関わっていたことを示す証拠は数多くある。G&Wのルソーに対する理解も浅く偏見に満ちており、ルソーが出身地のジュネーヴにまつわる政治体験ですでに平等な民主主義に目覚めていたことを踏まえていない。

  • 結論として、G&Wによる不平等の起源(および自由の道筋)に関する物語はその他の「ビッグヒストリー」と同様、また別の神話作りにすぎないのだろう。

 G&Wによるルソーの描き方や啓蒙主義に対する見方については、近世フランスを専門とするプリンストン大の歴史学者による厳しい書評もあり、この学者は「学術的不正に危険なほど近い(perilously close to scholarly malpractice)」という表現まで使って批判している。とはいえ「ビッグヒストリー」の場合、その内容が非常に多岐に広範にわたるので、一部には大きな瑕疵があることも避けがたいだろう。どんな学者もその広大な議論すべてに対して専門的な見識は持っていないので、自分の専門領域に近い記述ほど目に留まり、たまたまそこに度し難い欠陥があれば、非常な衝撃を受けて呆れてしまうかもしれない。しかしそれが屋台骨に入った大きな亀裂でなければ、寛大に見なければならないという作法もある。だが一方でそこには、誰も全体をくまなく精査はできないので、あちこちで杜撰な手抜き工事が許されたり、誤りを指摘されるたび、それをごく一部の過誤として片付けたりもできるという、知的不誠実の余地も生じやすくなる。そうなるとやはり、判断材料はそれなりの量が必要になる。

 科学的観点からの一つの批判としては、G&Wが人類進化に関する新しい膨大な学問的成果をほとんど取り入れていないというものがある。人類学者ナンシー・リンディスファーンと作家ジョナサン・ニールは共著の書評において、人類は太古の昔から支配と自由とを選択することができたというG&Wの主張に関連して、これを以下のように指摘している。

 これらの新しい研究を無視することで、グレーバーとウェングロウは、霊長類の比較進化とヒトの適応に関する、注意深く、現在では極めて十分に裏付けられた議論に逆らうことになる。彼らの問題は、この材料が「オリジナルの」人類社会は存在しないという彼らの主張を覆し、選択に関する彼らの主張をむしろ馬鹿げたものにしてしまうことだ。
 グレーバーとウェングロウは、かつて人類が狩猟採集によって生活していたことを否定はしない。しかし、彼らは環境や人間という存在の物質的基盤にはほとんど関心を示さない。そして、これらの社会が必然的に平等であったことを否定している。
 彼らの議論の最初の一歩は、人類の進化はすべて過去のことであり、当時何が起こったかを知ることはできないというものだ。すべては推測にすぎない。
 しかし、これは単純に正しくない。
 過去40年間の科学革命は目覚ましく、人類進化の分野では膨大な研究が花開いた。現在では、非ヒト霊長類および霊長類の行動に関する驚くべき新しい研究、初期人類に関する新しい考古学、近現代の狩猟採集民に関する新しい民族誌が数多くある。
 化学微量分析、DNAサンプリング、放射性炭素年代測定、そして質素な住居についての忍耐強い考古学的調査のおかげで、階級以前の社会や初期の階級社会に住んでいた人々について我々は多くのことを学んだ。我々の尊敬する人物たち、読みやすいクリストファー・ボーム、フランス・ド・ヴァール、R・ブライアン・ファーガソン、サラ・ハーディ、マーティン・ジョーンズ、ローラ・リヴァルらの広範にわたる出版物がある。
 このような研究は、人類進化と人類史の研究を変革している。そしてその出発点には驚かされるかもしれない。私たちは平等になることで人間になったのだ。これは注目すべき貴重な洞察である。
 しかし、この洞察はグレーバーとウェングロウの説明の根幹を揺るがすものだ。

     In ignoring these new studies, Graeber and Wengrow have set themselves against a careful, and now extremely well-documented, arguments about comparative primate evolution and the human adaptation. Their problem is that this material would upend their assertion that there was no ‘original’ human society, and make their arguments about choice seem rather silly.
     Graeber and Wendover do not deny that humans once lived by hunting and gathering. But they are deeply uninterested in the environment and the material bases of human existence. And they do deny that these societies were necessarily equal.
     The first step in their argument is to say that human evolution is all in the past, and we cannot know what happened then. Everything is speculation.
But this is simply not true.
     Over the past forty years, the scientific revolution has been remarkable, and there has been an enormous flowering of research in the field of human evolution. There are now many amazing new studies of non-human primates and primate behaviour, new archaeology of early humans and new ethnographies of near contemporary hunter-gatherers.
Thanks to chemical microanalyses, DNA sampling, radiocarbon dating and patient archaeology in humble homes, we have learned a great deal about the people who lived in pre-class and then early class societies. Among our heroes are the extensive publications of the readable Christopher Boehm, Frans de Waal, R. Brian Ferguson, Sarah Hrdy, Martin Jones and Laura Rival.
     This work is transforming the study of human evolution and human history. And the starting point may come as a surprise. It now seems that we became human by becoming equal. This is a remarkable and precious insight.
     But it is an insight that strikes at the very foundation of Graeber and Wengrow’s account

https://theecologist.org/2021/dec/17/all-things-being-equal

 リンディスファーンとニールはそこから、祖先の霊長類や初期人類は道具を用いた狩猟採集、雑食と火による調理、食料の共有と分配、潜在的な暴君の集団的牽制、攻撃性や利己性の抑制、通年繁殖やモノガミー傾向や共同保育といった特性をそなえていき、平等主義的な性質を持つようになったこと、それらの証拠として、化石や洞窟に残る痕跡のほか、犬歯の縮小や性的二形性の低下、男性器や精巣の変化、社会的知能の発達を示唆する脳の大型化など、他の霊長類と比較しての解剖学的特徴があること、それらは200万年以上にわたる特定の生態的地位への適応を通じて進化していき、約20万年前、今に続く現生人類が出現したことなどを述べる。そして『万物の黎明』は見解の相違としてクリストファー・ボームとサラ・ハーディに軽く触れている以外、そうした膨大な科学的知見を回避しているが、しかしもしそのような環境と適応の議論を受け入れたなら、G&Wの政治的議論にとって重要な、人間の自由選択という主張は覆されてしまうだろうという。なぜなら人間の選択は特定の環境と物質的条件によって制約されており、進化を通じてまず平等主義的な性質をそなえるようになった後、農業の普及によって次第に不平等になっていったのだから。たしかに農業は階級的不平等と決定的に結びついてはいないが、定住や余剰の生産および貯蓄といった特性によって、それを可能にするものだった。ところが(『万物の黎明』と重なる主題を扱う)考古学者のケント・フラナリーとジョイス・マーカス、政治学者・人類学者のジェームズ・C・スコットらの著作とは異なり、G&Wは技術・環境と経済・政治の変化との間の関連性をほとんど考慮していない。たとえばG&Wは農業・階級的不平等・国家の出現との間の関連性を軽んじる理由、つまり先史時代の狩猟採集民にも不平等や戦争があった根拠として、奴隷制度さえも持つ「複雑狩猟採集民」の事例を挙げている。だが、そうした狩猟採集民であるカナダのクワキウトル族の研究では、そこが膨大な量のサケが獲れる場所、干しザケとして余剰を蓄えられる場所であるほど、階級的不平等を示す文献や考古学的証拠があり、限られた重要な水路や漁場を支配する彼らは、巨大な戦闘用カヌーなど軍事技術を持っていた。つまりそうした人々は事実上、農民が畑に縛られて暮らしているのと同様に漁場に縛られて暮らしており、農民と同様に貯蔵が不可欠で、その階級社会は環境の制約と技術に基づいていた。そのうえ「複雑狩猟採集民」の事例は少なく、7000年以上前には見つかっておらず、14000年以上前に戦争があった証拠もない(その他にも色々と人類学的知見に基づいた批判が列挙されている)。

 進化人類学的視点からの似たような批判は、G&Wが出版以前に『万物の黎明』と同様の主張を述べている記事に対してのものだが、人類学者のカミラ・パワーによっても行われている。パワーは、G&Wが今まで語られてきた人類の起源についての物語は間違っていると述べる一方で、後期旧石器時代(約4万年前)以前の社会生活については証拠がないので何も分からないと述べている矛盾を指摘したのち、特にジェンダー的観点に重きを置いて「私たちはどのようにして最初に平等になったのか」を論じている。

 私が注目する移行は、200万年前、50万年前、15万年前に起こったものであり、グレーバーやウェングロウとは異なるタイムスケールである。彼らが人類の起源を語る資格がない理由は以下の通りである。第一に、進化の文脈をまったく提供していない。第二に、セックスとジェンダーを扱っていない。第三に、私たち現生人類が進化を遂げたアフリカ大陸を省いている。

     The transitions I focus on occurred 2 million, half a million and 150,000 years ago, a different timescale from Graeber and Wengrow’s. The reasons they are disqualified from speaking about human origins are as follows. First, they give no context of evolution. Second, they don’t deal with sex and gender. Third, they leave out Africa, the continent on which we evolved as modern humans.

https://libcom.org/article/gender-egalitarianism-made-us-human-response-david-graeber-david-wengrows-how-change-course

 グレーバーと同様に反資本主義的な政治活動にも熱心な、英王子を模擬処刑する計画を立てて逮捕された経験もある人類学者のクリス・ナイトもまた「(ほとんど)すべて間違っている」と題した書評において、G&Wが非現実的にも進化的説明を認めないこと、現代の進化論と19世紀の社会進化論(「野蛮」から「未開」を経て「文明」へと至る歴史観)とを混同していること、彼らの用いる科学は「考古学」だけであること、数万年前までしか遡らない彼らの視点は「黎明」(つまり明け方)ではなく「万物のお茶の時間」(たぶん午後4時くらい)にすぎないことを指摘している。ナイトはこのような主張の根拠の一つとして、かつては芸術や象徴文化の起源は後期旧石器時代(約4万年前)のヨーロッパだと考えられていたが、近年ではそれより3~4倍早い中期旧石器時代(10~20万年前)、アフリカ大陸のサハラ以南において出現したという見方が発掘証拠に基づいて支配的になっていることを挙げている(ウェングロウの講演を元にした共著論文でもこの証拠に言及はされているが、そのような現代的行動の証拠が数多く発見されるようになったのは後期旧石器時代のヨーロッパであり、それは人口密度が高まって文化的相互作用が可能になったからだという説の紹介にすぐ話題が変わっている)。ちなみにこのナイトの書評は最終的には科学的な議論から逸れて政治思想の話になり、資本主義の完全な停止、全人類の賃金奴隷からの解放、炭素排出量の即刻の50 パーセント削減を実現した後、資本主義に逆戻りしないと確信して初めて、仕事に戻るリスクを冒すことができるという壮大な夢が語られる……。

 こうした批判から示唆されるのは、G&Wは古い社会進化論を今さら覆そうとしている一方、ここ数十年に発展した人類に関する生物学的進化論に沿った学問的成果(進化人類学や社会生物学の進展)には、あまり通じていないか、それゆえに無視している可能性が高いということだろう。加えてここまでのその他の書評も含めると、『万物の黎明』は科学的啓蒙書というよりも、むしろ「ビッグヒストリー」の体裁をした政治思想書なのかもしれないという印象も受ける。実際、リンディスファーン&ニールの書評においてもナイトのそれにおいても、エンゲルスやマルクスを引き合いに出したその種の議論が一部に含まれている。

 ただグレーバーはともかくとして、共著者のウェングロウは何と言っても考古学者であり、ここまでの書評には、考古学的見地からの具体的批判はほとんどない。数万年以上は遡らないという点も、「人類の黎明」ではなくあくまで「万物の黎明」であり、その「万物」の定義が現代的行動が本格的に花開いたことを指すと言われれば、それまでかもしれない。そこで前出のパトリックの書評の参考文献の中に、歴史学者・考古学者のイアン・モリスがまさに考古学誌に寄せた長文の書評があったので、次は考古学的な批判を読んでみることにした。

 モリスは冒頭で『万物の黎明』について、各種メディアの大きな注目を集めた点やベストセラーになった点では、ハラリ『サピエンス全史』やダイアモンド『銃・病原菌・鉄』以来の古代史に関する重要な著作だとした上で、ハラリとダイアモンドが進化論的な歴史観を提示したのに対して、G&Wは明確に反進化論的であること、G&Wの独創性は、新たな事実を掘り起こすことではなく、古い事実を組み直して新しい絵にすることにあると述べる。またこの学術誌(American Journal of Archaeology)の書評を30年間担当してきて、読むのが楽しかった本は初めてだと賞賛する。それからG&Wの歴史を書き直す試みを評価する方法として、(1)事実、(2)事実の選択、(3)論理という三つの観点を挙げる。まず(1)事実については、事実を正しく理解しているかという問題だが、このような広範な本を書けば誰でも間違いがあるので、中核となる論旨が無効になるほどの誤りを犯しているかどうかが重要だとする。モリスは多少の事実誤認を指摘しつつも、各地域の専門家なら誤りを見つけられるだろうとはいえ、この点に関しては合格だとみる。次に(2)事実の選択については、過去に関しては膨大な知識があり、また未知のギャップもあるので、都合のよい事実だけを並べればどんな物語でも作り上げることができてしまうという問題だが、この点に関してはやや疑問があり、たとえばシュメールの都市ウルクが「民主的な自治」を行っていたという「推測的な」示唆が、その後の記述では「~世紀にわたる集団的な自治」という完全な確信に変わっているなど、時として仮説を確実なものとして扱っていると指摘する。とはいえ、不都合な証拠を無視していると感じたことはほとんどなかったと評価する。そして(3)論理については、G&Wが提示する事実が「進化論」に対する反証となっているか、また彼らの代替案と一致しているかという問題であり、この点に関しては説得力に欠けるとして、モリスは以下のような六つの事例を取り上げる(なお、モリスは古い社会進化論ではなく、より現代的な社会文化的進化論も含めた「進化論」が『万物の黎明』において否定されていると見なしているようであり、ここではそれに倣って、G&Wの批判対象を主に「進化論」「進化論者」と表記する。この社会文化的進化論は生物学における進化論と同義ではないが、大なり小なり、その見方を取り入れている)。

  • G&Wは、段階的な進歩観を持つ「進化論」を否定する根拠として、シャイアン族など、季節ごとに大きな集団を形成したり小さな集団に散らばったりする部族の例を挙げている。なぜなら「進化論者」の見方では、そのような事例は、ある時期にはバンドから国家に進化して、またある時期には国家からバンドに退化するという、不可逆な進歩とは矛盾した話になってしまうからだと。だが「進化論者」はこうした事例を取り込むことに何の問題も感じておらず、たとえばショショーニ族もシャイアン族と似たように大規模な狩りの際、多世帯組織を形成して指導者を据えたが、それは狩りに関与する限りでの強制力しかなく、階級化された国家の人民と同一視できるものではない。G&Wは、先史学者が季節性を軽視してきたという点では正しいが、季節性が「進化論」と矛盾するという点では間違っている。

  • G&Wは、紀元前32,000年~13,000年の間のものとして次々に発見された、何千もの象牙ビーズなどの副葬品を伴う豪華な埋葬は、氷河期の人々がすべて質素で平等主義的な狩猟採集民というわけではなかった証拠であると主張している。また興味深いことに、埋葬されたのが小人や巨人といった特異な身体的特徴を持つ例もあったことから、それは南スーダンのヌエル族において風変わりな人が時として「神に触れられた者」として扱われるような、仮初めの崇拝対象だったのではないかとも推測している。だが、考古学者のブライアン・ヘイデンは一部の狩猟採集社会を「過渡的平等主義(transegalitarian)」と呼んでおり、これは厳格な階層構造はないものの、階層化の過程にあり、私財や余剰や威信財などを有する。そのような社会の自己顕示的な酋長はしばしば、自分が神に触れられたと主張する。また文化人類学では、予測可能な豊かな資源を見つけた場合、狩猟採集民はそこに留まる傾向があることが知られており、氷河期の豪華な埋葬は実際、マンモスやトナカイを待ち伏せるのに適した場所から出土している。そしてシャイアン族やショショーニ族のように、大規模な狩猟は指導者を据えた組織の必要性を高める。従って既存の知見からしても、そのような場所では、平等主義的な狩猟採取民の典型から外れた社会があっても何らおかしくはない。さらにスンギル、ドルニー・ヴェストニツェ、アレーネ・カンディーデの豪華な埋葬のように、重傷を負った若者の骨格が出土した例もあり、それらの埋葬がどのような意味を持つのかは定かではない。

  • G&Wは、先史時代の人々は遊びのように農業を試しており、それに固定されることなく、やってみたり止めてみたりして、生産様式や社会構造を切り換えていたと主張している。たしかに実際、今世紀に入ってから専門家の大半は、動植物の家畜化・栽培化の要因が人口増加であり、それが近東で始まり、農業は定住・労働投入量の増加・不可避の不平等を伴うといったような、これまでの古い理論を放棄している。その代わりに専門家たちは、植物栽培の実験は複数の地域(特に湿地)で行われていたこと、食料に占める植物の大部分が栽培化されるまで約3000年(紀元前9500年~6500年)を要したこと、栽培化された資源への移行は逆行することもあったこと、栽培化は定住の原因ではなく結果であったこと、定住と植物栽培の実験は氷河期の最も寒冷な時期(紀元前21,000年頃)から始まっていたこと、紀元前5500年頃以前の近東には制度化された不平等の兆候がほとんど見られないことなどを示唆または指摘している。現在の「進化論」の大半はそうした新しい知見を取り入れて、より洗練された枠組みを採用しており、たとえばスティーヴン・シェナンの『First Farmers of Europe』は農業の起源と拡大に関する徹底的で説得力のある説明を提供している。したがってG&Wの古い理論に対する批判はもはや有効ではない。

  • G&Wは、ギョベクリ・テペ遺跡の巨大な石柱を持つ集落に代表されるような、先史時代に狩猟採集民によって建設された記念碑的建造物について、そのようなものを建設できる社会は小規模で平等主義的なバンドには程遠いと妥当に指摘している。だが現代の「進化論」がそれを無視してきたという主張は間違っており、ブライアン・ヘイデン、ケント・フラネリーとジョイス・マーカスのような「進化論」的考古学者はその知見を取り込んでいる。また狩猟採集民による記念碑は世界各地に発見されているとはいえ、初期の農耕民による記念碑に比べて稀であり、規模も農耕民のそれの方が桁違いに大きい。

  • G&Wは、古くは紀元前7000年頃のトルコのチャタル・ヒュユク、紀元前3500年頃のシュメールのウルクなど、世界各地の初期都市の中には、制度化された不平等の痕跡が見つかっていないものもあることから、都市生活そのものが必ずしも特定の形態の政治組織を意味するわけではないと妥当に述べている。だがG&Wはそこから、それらが「組織化された集落規模の劇的な拡大が、支配層の手に富や権力を集中させることなく起こった(a dramatic increase in the scale of organized human settlement took place with no resulting concentration of wealth or power in the hands of ruling elites)」「驚くほど共通のパターン(a surprisingly common pattern)」を示しているという主張に飛躍して、それが従来の物語を覆す強固な証拠だと述べている。そうした都市がどれほど平等主義的だったのかは専門家の間でも見解が分かれているとはいえ、それらに大規模で制度化された不平等の痕跡が見つからないことは確かだが(そしてそれがなぜなのかは分かっていないが)、しかし古代の都市の大多数には宮殿や王族・貴族の墓が見つかっており、強力な支配者がいた。一般理論が説得力を持つためには、一部のパターンがそれ以外を覆すと宣言するのではなく、全体的な傾向と平等主義的な例外の両方を説明する必要がある。幸いにも社会学者・歴史学者・考古学者のなかには、ケント・フラネリーとジョイス・マーカス、ウォルター・シャイデルのように、すでにそのような説明を提供している者がいる。

  • G&Wは、ジャレド・ダイアモンドのような「進化論者」が歴史における社会の崩壊を主題として扱っているのとは対照的に、その「崩壊」という見方それ自体に対して批判的な姿勢を取っている(進化には定義上、方向も目的もないゆえに、拡大発展ばかりではなく縮小衰退にも学問的関心を持つべきだというのが、「進化論者」が崩壊を論じるようになった背景らしい)。そして『万物の黎明』における代替的な見方としては、北米ミシシッピ文化最大の中心地だったカホキア遺跡の説明がある。1350年から1400年の間に、わずか3世紀前には15,000人の人口を誇っていたその都市が急激に衰退したことについて、それは支配層からの自由を求める人々の自発的な放棄だったとG&Wは推測しており、その集団離脱の影響によって、どんな種類の支配者も避けて慎重に権力を分配することを志向する広範な運動があとに続いたと主張している。だが広範な歴史的文脈において、ミケーネ文明後の東地中海や西ローマ帝国後の西欧などの例をみれば、衰退した後にしばらくして、また支配者は戻ってくる。それらと同様に実際、ミシシッピ文化後の北米にも縮小したとはいえ首長制の政体は戻ってきた。その後の植民地化と疫病の猛威のせいで先住民国家の道は断たれたが、もしそれがなかったら、19世紀または20世紀までに複雑な社会を再生していた可能性もある。G&Wはそうした反実仮想を無駄な議論として退けているが、それでは歴史における比較が成り立たなくなってしまう。

  • 以上の六つの事例において、G&Wが「進化論者」たちの理解も十分ではないことを指摘するだけに留まっていれば、それは貴重な学術的貢献になっただろう。しかし『万物の黎明』は唯物論的・決定論的な「進化論者」に対して、観念論的・主意主義的な代替案を提示しており、集積された事例の詳細は魅力的ではあるが、検証可能な命題を切り分けもせず、その主張がどれだけ「進化論」を否定しているのか、事実に適合しているのかを判断する方法論を具体的に示すことがない。これでは論敵の主張を反証しておらず、単なるスローガンにしかならない。社会科学の問題として、検証するのが難しい理論が発展してしまうという点があるが、社会文化的進化論者はこの問題に対して、たとえば農耕社会と狩猟採集社会を比較する際、定住地の規模・不平等や階層の程度などを比較してきた。だがG&Wはあらゆる測定を避けており、『万物の黎明』には統計が欠如している。唯一、最初の巻末注でモリスの著書にある過去の経済的不平等の推定値に言及しているが、G&Wはそのような定量化を愚かだと侮蔑したうえ、別の指標と混同して軽薄に論じている。その一方、方法論を重視する考古学者はティモシー・コーラーとマイケル・ スミスの『Ten Thousand Years of Inequality』のように、富の不平等を定量化して論じており、不平等は農業とともに確かに増えていき、人口密度が上昇して、労働力不足よりも土地不足がより重要になり始めた時点で、最も急速に増大した。さらに新世界には、不足していく土地の生産性を最大化するために必要な大型役畜がおらず、それゆえに旧世界よりも不平等が増大した。

  • 結論として、驚異的な独創性をそなえた『万物の黎明』は論理よりもレトリックに走ってしまっており、読者は高揚感を覚えるかもしれないが、筋が通っていない。

 上記のモリスの批判には、ここまでにも指摘された特徴が多く見受けられる。あたかも相手がそれを知らない時代遅れであるかのように、論敵がすでに理解して取り入れている知見を提示するのは、藁人形論法の一種と言える。推測や少数の例外から飛躍した一般化は、解釈の軽々しさに加えて、傾向や相関関係を議論する素養のなさと言える。そして定量化や測定比較の欠如は、すなわち科学的手法の欠如と言える。この最後の点に関しては、モリスは「数字のないトマ・ピケティの『21世紀の資本』を想像してみてほしい(imagine Thomas Piketty’s Capital in the Twenty-First Century with no numbers)」と評しており、たしかにそんな本があったら、まったく説得力はないだろう。ただモリスは提示された事実(おそらく現時点での考古学的証拠などを指していると思われる)そのものについては、大きな誤りはなかったと評価している。モリス自身もビッグヒストリーに近い系統の本を書いているので、細かい誤りは避けられないことを身に染みて知っているのだろう。

 もっとも、モリスは事実に関して、各地域の専門家なら誤りを見つけられるだろうという条件付きで評価しており、実のところ、そのような専門家を含めて『万物の黎明』に対する書評集(コメンタリー集)を企画した学術誌がある。その中にはモリスの書評も掲載されており(内容はほぼそのまま題名を変えており、上記の要約はそちらも参考にしている)、他には前出の歴史学者ウォルター・シャイデルのほか、文化人類学者一人、考古学者二人という顔触れになっている。

 その学術誌は『Cliodynamics: The Journal of Quantitative History and Cultural Evolution』という名前で、直訳すれば『歴史動態学:定量的歴史と文化進化の学術誌』となる。この歴史動態学(クリオダイナミクス)はイメージしやすい日本語で言えば、数理歴史学数理的歴史学などと呼ばれることもあるもので、歴史を科学として扱う学際的な研究分野であり、歴史マクロ社会学、文化・社会進化論、経済史/計量経済学などを取り込みながら、長期的歴史過程の数理モデル化、大規模な歴史的データベースの構築および分析を行うという。通常の歴史学が叙述的・解釈的な手法をとるのに対して、定量的なデータ駆動型の研究手法であり、数理モデルによって過去の歴史動態を説明するのみならず、歴史から一般的なパターンを抽出したり、理論的予測とその検証を行ったりするのが大きな特徴とされる。もちろん歴史に一般法則があると信じる人も、未来を予測できると思う人も希少であり、歴史学者の大半もその点については懐疑的であるようだが、研究者のうちの一人は、歴史動態学が役に立つのは、例外的ではない巨視的な出来事に対して、大まかな傾向を見る場合だけだと述べているので、大規模なデータ分析という面では示唆に富むところも多いのだろう。

 その歴史動態学の代表的な創始者が複雑系科学者のピーター・ターチンであり、このターチンもまた、G&Wが『万物の黎明』出版前にそれと重なる内容を寄稿した記事に対して、自ブログに批判を書いている。この批判は『万物の黎明』に対しても通用すると思われる点が多いので、以下にそれらを抜き出しておく。

  • G&Wは官僚制度を悪と見なしている。だが、政体の人口が20万人を超えると(そして数百万人を超えたら確実に)、専門官僚を含む洗練された政府機関が必要になる。数百万人規模の社会は、専門の行政官なしでは機能しない。それなしでは社会は崩壊してしまう。人々の幸福を維持し向上させるためには、官僚が人々のために働くような制度を発展させる必要がある。

  • G&Wは、ジャレド・ダイアモンドは生理学で学位を取っているので、人類の歴史について本を書けるような分野(おそらく人類学や考古学を指している)の専門的訓練を受けていないと指摘している。だが、それはダイアモンドがその種の本を書く約40年前の話であり、彼はその長いキャリアにおいて群集生態学を含む様々な分野に生産的な貢献をしてきた。

  • G&Wは、スンギルやその他の場所で発掘された最終氷期の真っ只中まで遡る豪華な埋葬に言及しながら、それが農業による定住以前の先史時代の、単純で平等主義的だとされる狩猟採集生活に対する見方をくつがえしていると主張している。たしかに何千もの象牙ビーズを含むスンギルの埋葬は非常に豪華だが、G&Wが提示するそれ以外の場所の副葬品は作るのにそれほど労力が必要だとは思えない。また農業が必ずしも不平等を引き起こすわけではないというのは標準的な見解であり、実際、北西部のアメリカ先住民のように非常に生産性の高い地域では、狩猟採集社会であっても、大きな格差や奴隷制などを伴う不平等な社会が発展していた。新石器時代を専門とする考古学者にとって、農業の導入によって急激な変化はなかったというのは目新しい考えではない。

  • G&Wは、牙のフレームに皮を張って建てられた「マンモスハウス」など、最終氷期極大期にまで遡る記念碑的建造物について、それを当時の基準では公共事業としか考えられないものとして言及している。そしてそれは当時の価値観や尺度の範囲内において意味を持つので、その「記念碑性」を測定するのは愚かであり、ギザのピラミッドやローマのコロッセオと規模を比較しても意味がないという。だが第一に、定量化の拒否は、自説を否定されたくない場合の最後の手段であることが多い。また第二に、考古学者は建設に要した労働時間を単位として、それらの記念碑の価値をすでに定量化している。ターチン自身、著書において定量化を行っており、たとえばギザの大ピラミッドを建設するにはおよそ年40万人の労働力が必要だったが、ギョベクリ・テペの一つ一つの石造寺院を建設するには年300 人で済んだと推定される。マンモスの小屋は一日で建てられる。これらの数値を比較せず、マンモスの小屋をピラミッドと同様の記念碑として見るのは馬鹿げている。

  • G&Wは、豪華な埋葬は「王子」の墓のように表現されることもあるが、記念碑的建造物も含めて、時間的にも空間的にも散発的にしか見つかっておらず、氷期における制度的不平等の証拠としては不十分だとする。そして祖先はおそらく小さな集団で暮らしていた一方、周期的な動植物資源の変動に応じて、資源が豊富な時期にはその場所に集まり、儀式や芸術、あるいは物資の取引に従事していた――その集合期に生じた一時的な権力の痕跡が豪華な埋葬や祈念碑だと示唆する。その根拠として彼らが挙げるのが、北米のシャイアン族とラコタ族であり、普段は小さな集団で暮らしながらも狩りの時期には集まって、その大集団を統制する権力がそこに生じるという、そのような季節に応じた切り換えが先史時代にも起こっていたのだと主張する。さらにそれこそが社会進化論の、バンド・部族・首長制・国家という単線的かつ段階的な発展への反例になると主張する。だが、シャイアン族やラコタ族のような、狩猟採集民の季節性の集会の規模は数千人にすぎず、人口数百万の古代エジプトのような、国家として組織化された複雑で大規模な社会とは桁が違う。国家は中央集権的であり、最高指導者を頂点とした深い階層構造を持ち、その統治は内部では官僚・将校・司祭などに専門化されている。グレートプレーンズの北米先住民社会はそのようなものではなく、最も中央集権的な社会に近かったコマンチェ族にも最高指導者はいなかった。

  • G&Wは、トップダウンの統治構造が大規模組織の必然的な結果であるという証拠はまったくないと主張している。だが、大規模な人間社会が階層構造以外の方法で組織化できるという証拠はまったくない。社会規模で持続的により良い変化を起こすには、指揮系統をそなえた効果的な政治組織が必須になる。

 数理モデルとデータベースに基づく分野の創始者だけあって、定量化を重視した論評となっており、ターチンはコメント欄での遣り取りにおいて、twitter上でグレーバーから反応があったが、批判の内容についての反論はないこと、またtwitter上での人々の反応を見る限り、自分の批判が理解できるか否かの大まかな境界線は、数学が得意か苦手かにあるらしいことを述べている。

 とはいえ『Cliodynamics』の書評集の寄稿者たちは別段、歴史動態学の研究者ではないようだ(ウォルター・シャイデルはターチンと共同研究も行っているようだが)。この書評集の冒頭にはまず、計算歴史学者・複雑系科学者のダニエル・ホイヤーによる編集者の立場からの序文があり、『万物の黎明』がセンセーショナルなベストセラーになっていること、その一方、他の「ビッグヒストリー」系の本と同様かそれ以上に偏向的な内容であること、チョムスキーのような著名人や社会正義の支持者たちにも好評を博していること、その一方、主として現役で研究に従事する考古学者・歴史学者・人類学者たちから、懐疑的な論評も寄せられていることを述べた後、収録された書評について簡単に紹介している。

 五人の学者のうち、モリスの書評はすでにまとめたので、残りを人類学者、歴史学者、考古学者の順に見ていくことにして、まず最初に人類学者のポーリーン・ヴィスナーの書評を取り上げる。ヴィスナーは文化人類学を専門としており、カラハリ砂漠のサン族やパプア・ニューギニアのエンガ族などの研究をしてきたようだ。ヴィスナーによれば、G&Wは「誤っているだけでなく、不必要に退屈な人類史の従来の物語(the conventional narrative of human history that is not only wrong, but quite needlessly dull)」を改訂すると宣言したが、その二つの要素のうちの後者の改訂は成功しており、読んでいて退屈な瞬間はほとんどなかったという。だがそこには一貫性がなく、従来の社会進化論的な物語を否定しながらも、説得力のある新しい物語を構築することには失敗しているとする。

  • G&Wは人類一般、とりわけ狩猟採集民の歴史における環境の役割について、認識の欠如がある。狩猟採集民とひとくちに言っても、生存のための資源の範囲・予測可能性・生産性、そして余剰の貯蔵可能性に応じて、移動性が高いものから定住性が高いものまで様々な社会がある。豊かで予測可能かつ貯蔵可能な資源がある地域の狩猟採集民(hunter-gatherers)の場合、より大規模で永住的な集落を築き、半階層的な機関によって、資源の権利の管理、宴会や儀式や集団的競争の組織、地位の制度化、争いの調停などが調整される。その一方、遊動的採食民(foragers)の場合、利用可能な資源を確保するために高い移動性が必要であり、より制約された生活を送る。後者は干ばつや不作、狩猟動物の移動などで資源が確保できない場合、貯蔵もなければ行き詰まり、互恵的な交流相手のところに滞在させてもらうために、子供たちも伴って全員で数十キロから数百キロの苦しい旅をしなければならない。これは自由と言えるだろうか。もちろん環境への適応は社会的形態の基盤を形成する一方、それを決定するものではなく、たとえば砂漠の遊動的採食民にも様々な社会的取り決めが見られるが、その多様性の根底にはやはり環境の制約がある。

  • G&Wは人類が平等と階層との間を行ったり来たりするという見方を提示している。そしてその土台には、私たちがチンパンジーと同様に階層的な性質を受け継いでいる一方、弱者が連合して恥をかかせたり、除け者にしたり排除したりして強者による支配を常に抑制することで平等性が達成されるという、クリストファー・ボームの主張がある。だが、そのような支配者平準化モデルの他にも、ボノボ社会モデルや協力的育児モデルによって平等性を説明する見方もある。またG&Wは、平等主義というものを重要だと合意された特定の方法における「同一性」と見なしており、(しかし異なる個々人の間で同一性を達成することなど不可能に近いので)平等主義という概念に難儀しているが、小規模社会における平等な関係とは、同一性ではなく補完性と依存性に基づいており、異なる個々人の能力への敬意と評価によって成り立っている。平等主義社会では、適性のある個々人がそれぞれの役割を担うことが可能であり、その能力への敬意が多様性への寛容を生み出す。これは平等主義についての最良の人類学的定義でもある。そしてすべての人間社会には平等主義的要素と階層的要素が併存しており、前者は信頼に基づき、社会的および経済的な遣り取りの取引コストを削減する利点があり、後者は制度化された統制によって、集団行動の効率的組織化や対外競争における協調を容易にする利点がある。もちろん両者ともに抑圧や緊張をもたらす欠点もあり、前者は生産性の高い個人が努力の成果を共有しなければならず、その意味では自由ではなくなり、後者は上位層が権力を濫用して、下々の人々を利用するようになる。しかし双方の便益と負担を考慮すれば、小規模社会では他者を支配するのではなく、自発的な追従者を作り出して物事を成し遂げる影響力こそが重要になる。

  • G&Wは、先史時代から繰り広げられてきた平等と階層との間のダンスが「行き詰まった」と主張している。だが、近現代の革命や公民権運動、ヨーロッパにおける社会保障などはどうだろうか。それは行き詰まっておらず、今もなお続いているのではないだろうか。

 この書評は全体的には、平等と階層という単純化された二分法を批判するG&Wに対して、その二要素に関する彼らの見方それ自体が単純化されているという、文化人類学の知見に基づいた批判になっている。その一方で冒頭において、不必要に退屈な人類史を改訂するという試みは成功していると評されており、読むのが楽しかったとモリスが評したのと同様、『万物の黎明』はその娯楽性については、批判的な学者からも非常に評価が高い。

 次に歴史学者のウォルター・シャイデルの書評を取り上げる。シャイデルは古代史・比較史・経済史が専門であり、特に古代ローマの社会経済史、人口統計学的な歴史分析、長期的な経済不平等の動向などを研究しているようだ。シャイデルによれば、『万物の黎明』は文字発明以前の文明形成過程に重きを置いている点、世界的な視座、国家権力と文明との結び付きに対する懐疑といった長所も持っているが、深刻な欠点も抱えているという。ただしG&Wの取り扱う題材はあまりにも多岐にわたり、また競合する見解に言及せずに主張を展開することがあまりにも多く、その詳細を逐一精査するには多様な専門家集団が必要になるので、細部には立ち入らず、方法論や情報提示の仕方といった根本的な問題に焦点を絞ると宣言する。とはいえ、かなり気合いの入った長大な(そして非常に読ませる)書評となっており、論点ごとに区切って批判がなされている。以下もその区切りに従う。

採食(Foraging)

  • G&Wは、現代のカラハリ砂漠のような周縁の土地の狩猟採集民とは異なり、祖先の採食民(狩猟採集民と大まかには同義だが、漁労なども含む野生食で生きる人々全般を指す広範な用語)は生態学的制約がはるかに少なく、必ずしも貧しく小規模であったとは限らないこと、更新世と完新世初期の豪華な埋葬がそれを示唆する証拠であること、完新世に入ってから現れたギョベクリ・テペなどの記念碑的建造物には階級社会や農耕の痕跡がないゆえに、その社会的協力の規模の大きさは食料生産様式には還元できないことを主張している。とはいえ、いずれも専門家にとって目新しい知見ではなく、ポヴァティ・ポイントなどの遺跡が広く知られるべきという彼らの意見はもっともだが、大学で使用されるような世界史の教科書にはすでに定期的に登場している。

  • G&Wは採食民の季節性の集合と分散のパターンから、先史時代の人々が小規模なバンドと大規模な国家のような属性との間を柔軟に行き来していた可能性を提起しており、さらには、そのような季節性の柔軟な行き来を習慣としている集団は、バンド・部族・首長制・国家という典型的な発展段階から外れていると主張している。だが、いくつかの事例において季節性のパターンが記録されていたり、あるいは推測したりできるからといって、人類が過去数万年間の大半、様々な社会組織の形態を行き来していたという仮定に至るのは、相当の飛躍が必要になる。さらに言えば、そのような行き来のパターンは過渡的な過程であって、発展が徐々に進行していったと見ることができる。実際、社会発展の様々な段階に共通する属性が初期のうちから認められるということは、長期的には、より大きな安定した段階へと進化する可能性を示しており、むしろ初期の季節性の集合は、のちに階層的な支配へと向かう要素が最初からあったことを意味する。G&Wは、季節性の行き来がどのような特定の生態学的条件や資源獲得戦略に依存するかを探究しない。しかしそれが現代では失われた特定の条件に依存しているなら、歴史を啓示とするためにも、その条件を理解することが重要になる。

農業(Farming)

  • G&Wは、農業は数千年間、狩猟採集や漁労と併存しており、初期は狩猟採集の文化的価値観が優勢であっただろうこと、農業は緩やかに拡大していったこと、逆戻りすることもあったこと、採食民と農耕民とを対極の存在として描くのは誤解を招くことなどを妥当に指摘している。だが、ほとんどの学者がそれと異なる単純な「農業革命」的見解を持っているという彼らの批判は学術界の現状を反映しておらず、単なる藁人形論法にすぎない。また普及に数千年を要したからといって、長期的な農業と社会的・政治的発展との関係についての理解は変わらず、仮に農業が社会的階級・不平等・私有財産の直接の始まりではなかったとしても、それらの触媒・促進剤として機能した。

  • G&Wは大規模社会と栽培化が出現した地域が重なっているという考えを否定しており、その根拠として、世界各地に独立して栽培化が始まったことを提示している。だが、最初の主要な大規模社会の大半は早期に栽培化が始まった地域に確かに出現しており、それは『万物の黎明』に掲載された地図でも確認できる。初期の栽培化地域のうちで大規模社会が出現しなかったのは、地場作物に低保存性・低収奪性・低生産性といった特徴がある地域だった。G&Wは「食料生産から国家形成への単線的な軌跡」を否定するが、耕作・栽培化・都市化・国家形成の間には大きな時間差があったとはいえ、有用で保存可能な作物が栽培化された地域で、そのような発展が数千年の間に実現しなかった事例はなく、それは非常に長期的に見れば「単線的な軌跡」だった。

  • G&Wは農業の出現と拡大において、環境・人口動態・戦争などが果たした役割にほとんど触れない。定住・設備・貯蔵への依存は組織的略奪に対する反応を促進した。人口増加は農業以外での食糧供給を不可能にした。地場作物の性質が発展を左右したのと同様、彼らが「真剣な農業」の拡大例としたナイル渓谷と「遊びの農業」の実践例としたアマゾンでは、前者はサハラの乾燥、後者は豊富な熱帯雨林資源といった環境の制約の違いがある。彼らはそのような多因子間の相対的重要性を考慮せず、「説明」を排他的な単一因子に帰する修辞を用いるうえに、環境要因を「決定論」として退ける傾向にある。彼らは直接的な原因を神格化して、広範なパターンは無関係で理解不能なものとして扱う。たとえば農業の特性だけが官僚帝国を可能にしたことを認めながらも、その事実は広範に及びすぎてほとんど説明力がないと述べたり、定住人口・生産力・物質的余剰・階層的構造の間に関連があることのメカニズムが「全く不明」だと述べたりする。だが、これは高次の説明と低次の説明を区別する気がないだけであり、複雑で多様な繋がりがどのような連鎖を形成したかについて、完璧な説明には到達不能であっても、一般的な傾向に対する観察は無効にはならない。強力な相関関係さえ認めないこのようなG&Wの方法を普遍的に適用した場合、学術分野全体が廃業に追い込まれるだろう。

都市(Cities)

  • G&Wは、初期の都市化が必ずしも中央集権的な階層構造を生み出さなかったとして、様々な初期都市の事例を挙げながら、それらに見て取れる平等主義的な痕跡が「従来の物語を覆す」と主張する。この議論を以下に見ていく。

  • G&Wは最大の初期都市は、技術や物流において優位なユーラシアではなく、車輪や役蓄や文字などが存在しなかったメソアメリカに出現したという根拠のない主張をして、技術や環境の役割を軽視する。だが、年代としてはバビロンのような巨大都市はテオティワカンよりもはるかに古く、南アジアや東アジアの大規模な都市遺跡も同様であり、人口規模としてはテオティワカンは15世紀にテノチティトランが台頭するまで、アメリカ大陸では孤立した例外だった。これは旧世界と新世界とでは技術や環境の前提条件が異なっていたからだ。

  • G&Wの特徴は、証拠が乏しいほど主張が大胆になるという点にある。彼らは、紀元前4千年紀後期のウルクのものとされる特定の構造物が、もともとは民主的な集会所であった可能性があり、その後、それが祭司や王族の存在を示すと思われる門付きの中庭やジッグラトに建て替えられたという推測を展開するが、その明確に「推測的な」考察がほどなく「少なくとも7世紀にわたる集団的な自治」という、それがあたかも事実であるかのような記述に変貌する。

  • 紀元前3千年紀のインダス文明についても、王や戦士階級の存在を示す証拠がないことから、秩序を維持するカースト制度が存在した可能性を述べた上、さらに推測に推測を重ねて、異なるカースト間には明確な階層があるが、内部組織においては必ずしも階層的ではなく、上位のカーストが必ずしも統治の決定権を持っていたわけでもないという、矛盾したような制度を想像する。これは社会階層と地域統治との間に必然的な対応関係はないという彼らの主張に沿った推測であり、たしかに両者の結びつきは絶対ではないが、しかし共通性・パターン・傾向はある。

  • さらに驚くべき推測として、西ウクライナのトリピッリャ文化時代の楕円形の巨大遺跡を取り上げた際、世帯の平等を重視する現代のバスク地方の集落では、自分たちの共同体を円形としてイメージするという逸話を持ち出して、それゆえに両者には共通性があり、前者もまた平等主義的だったという可能性をG&Wは語る。だが、このバスク地方の集落は物理的に円形ではなく、遺跡のようにまとまった場所でもなく、単に風光明媚な田園地帯に数マイルにわたってゆるやかに広がった共同体でしかない。6000年前の遺跡の空間的な円形性と現代の別地域の精神的な円形性を結びつける飛躍は息を呑むほどだが、彼らはそれが「高度に平等主義的な組織が都市規模で可能であったことの証拠(proof that highly egalitarian organization has been possible on an urban scale)」だと述べる。

  • 結局、中央集権化の明確な痕跡がない大都市の唯一の実例として残るのは、メキシコのテオティワカンだけであり、紀元前1千年紀の前半に約10万人の住民を誇り、文字による記録はないが、王権を示す証拠もない。膨大な労働力を必要とする宗教的建造物などの初期の活動は、紀元後300年頃(あるいはもっと早く)に放棄されて、その代わりに高品質の多世帯集合住宅が大衆を収容するようになり、数世紀後に状況が崩壊して大部分が遺棄された。その中期において、宗教的権威による包括的統治があったのか、より分散型の管轄だったのかは不明だが、非王権的な統治の可能性が高く、例外的な特異な都市であったことは確かだ。

  • ところがG&Wは、こうした事例すべてから「支配層の手に富や権力を集中させることなく(with no resulting concentration of wealth or power in the hands of ruling elites)」規模の拡大が起こった「驚くほど共通のパターン(a surprisingly common pattern)」を見出す。どこが「共通の」なのか分からず、そのうえ実際には、これらは富や権力の集中を前提条件にしている事例が多い。彼ら自身の説明でも、テオティワカンは元々は権威主義的に始まった都市のようであり、後でさえエリート集団によって維持されていた可能性がある。中国山西省の陶寺で紀元前2000年頃に「社会革命」が起こったという彼らの推測もまた同様に、数世紀にわたる初期の階層的統治を前提としたものだ。ウルクの初期に宗教的権威がいなかったかどうかは定かではなく、ウクライナの巨大遺跡についてはなおさら分からない。加えて彼ら自身も指摘しているように、これらの遺跡はすべて劇的に失敗し、それに匹敵するものに置き換えられることはなかった。

  • 総合すると、彼らの考察は都市化と階層化および中央集権化とを結びつける標準的なパラダイムへの強力な反論にはなっておらず、何にせよ「従来の物語を覆す」ものではない。

国家(States)

  • G&Wは「国家に起源がない理由」と称する広範な議論において、彼らの言う「国家」には単一の「起源」はなく、いつでも多様な起源があるという非常に狭い意味でそれを主張している。だが、誰も起源が単一でなければならないとは考えてはおらず、それに異議を唱える者はいない。

  • 彼らは冒頭から19世紀のドイツ理論に根ざした「国家」の定義にこだわり、その定義は領土内での主権および合法的な暴力の独占という概念を中心としている。だが、政治学者をはじめとした専門家たちは、ここ数世紀の(特に1648年のウェストファリア条約以降の)ヨーロッパ国家に限定してそのような概念を適用する傾向があり、『万物の黎明』で取り扱われているような前近代以前の国家に対しては、それを一般的に適用しない。学者たちは前近代の国家の性質についてより包括的な定義を発展させてきたが、G&Wはそうした膨大な文献をろくに提示せず、それらをひとからげに「全く無意味なほど」広範なものだと一蹴するので、読者はその詳細を知らされないまま、G&Wの見方とそれ以外という、単純な二分法を提示されることになる。競合する見方に言及する際も、ある理論には軽く触れる一方、同様に重要な理論にはまったく触れず、持論に都合のよい軽率な取り扱いしかしない。

  • G&Wは初期国家形成に対する見方として、社会権力の三つの異なる基盤(暴力の管理・情報の管理・カリスマ的政治)という、ヴェーバーを真似たようなモデルを提起するが、これは目新しいものではなく、優れて確立されたマイケル・マンのIEMPモデル(イデオロギー的権力・経済的権力・軍事的権力・政治的権力)などが既にある(考古学者ティモシー・アールもかつて軍事・経済・イデオロギーからなる三つの枠組みを提示している)。こうした社会権力の異なる源泉がどこでも常に同じように構成されるわけがないので、当然ながら国家形成の動態には多様性があるが、それも目新しい話ではない。

  • マンのモデルのような国家形成の多様性を説明する枠組みが既にあるにもかかわらず、G&Wは、様々な社会がやがてアメリカとフランスの近代国民国家が取ったような特定の形態に行き着くという仮定が信じられていると主張しているが、これはとんでもない藁人形論法であり、むしろ国家形成の研究では、ヨーロッパや西洋は特異な例外であるという見方が主流となっている。

  • この藁人形論法を前提とした上で、G&Wは、紀元前2千年紀の古代中国の殷について、それは近代的な政府形態へと進化していく胎動という意味での「国家の誕生」とは言えないと述べる。だが、過去に対してそのような特定の形態を終着点とする見方は誰もしておらず、殷は繰り返される国家建設の試みの最初のものであり、そうした一連の試みがやがて、より持続可能で適応力のある統治システムを生み出すことになった。彼らは古代の考古学的遺跡に近代国家のイメージを投影すべきではないと的外れな主張をするが、誰がそんなことをしているのだろうか。

  • G&Wは、古代メソポタミアの都市について、王朝に統治されていても実際の領土主権を達成していた証拠はないだとか、インカ帝国について、それが「国家と見なされるならば、まだまだ全然形成途上の国家だった( “is to be considered a state, it was still very much a state in formation)」だとか、まだ発展の途上にあるから、それは実際の国家性を十分に獲得していないといった見方をする。だが、国家形成は非常に長期にわたる過程であり、今現在も進行中で、さらには「国家変形」とでも呼ぶべき中央集権的な調整能力の低下、つまり発展の遠回りや崩壊すらもそれに含まれる。彼らは「国家」とその概念以前の王国・帝国・共和国を最大主義的に区別しており、たとえば16世紀のスペインの征服者は「国家」という言葉を持たず、新世界の政体をそのように見なさなかったという些細なことに重要性を与えているが、それは言葉遊び以上のものではなく、社会科学者が国家形成について語る際、王国・帝国・共和国にも国家という分析概念を適用することには何の問題もない。

  • さらなる藁人形論法として、G&Wは「国家は、政府の特定の重要な機能――軍事・行政・司法――が専門家の手に完全に委ねられた時に始まると、しばしば単純に仮定されている(it is often simply assumed that states begin when certain key functions of government—military, administrative and judicial—pass into the hands of full-time specialists)」と述べる。しかし前近代の役人は多くの場合、有産階級のエリートで、所有地の管理などに携わっていない時間、地位と収入を高めるために、副業的に職務を遂行していた。また歴史上、常備軍は稀だった。しかも彼らは、初期の専業専門家だった書記には言及していない。

  • G&Wは国家形成を人類史の主要な特徴から外そうと意図するあまり、過去5000年間の大半、都市・帝国・王国は政治的階層において例外的な孤島のようなものであり、それらは権威体系を避けた遙かに広い領域に取り囲まれていたと主張する。だが、これは人口数よりも領土を優先した誤解を招く見方であり、見積もりができる限りでは、私たち人類の大多数は過去数千年にわたって、確立された政治的階層を持つ政体に支配されてきた。紀元初頭には地球の全人口の最大四分の三がわずか四つのユーラシアの帝国に住んでいた。

  • G&Wは君主政の欠如を民主政治と同一視して、16世紀メキシコの四頭制共和国トラスカラの事例を持ち出す。エルナン・コルテス(アステカ帝国を征服したスペイン人)の言葉では、その統治形態は「ほぼヴェネツィアやジェノヴァ、ピサのようなものであり、最高支配者は存在しない。この都市には多くの領主が住んでおり、農民は彼らの家臣だが、各自が自分の土地を持っており、ある者は他の者よりも多くの土地を所有している。戦争を始める際には、彼らは全員集まり、その上で戦争を決定し計画する(is almost like that of Venice, or Genoa, or Pisa, because there is no one supreme ruler. There are many lords all living in this city, and the people who are tillers of the soil are their vassals, though each one has his lands to himself, some more than others. In undertaking wars, they all gather together, and thus assembled they decide and plan them)」と語られているのだが、G&Wはこのうちの最初の一文だけを引用して、トラスカラを「成熟した都市議会(mature urban parliament)」を持つ「民主制(democracy)」と表現している。だが実際にはトラスカラは民主制ではなく、その評議会は主として世襲制(一部は非世襲)の貴族階級で構成されており、四人の領主が主要な指導者としてそれを調整していた。G&Wはそのことには触れずに、1519年、スペインを支持するか否かの評議会の審議において行われたとされる、支持に反対する演説を引用して、それを民主制における理性的な議論だと賞賛しているが、その演説は約40年後、第三者の学者が書いた言い伝えであり、真偽の疑わしい内容にすぎない。

  • G&Wはときおり譲歩して、「全体として、歴史は一様に権威主義的な方向に進んでいると考えても差し支えないだろう。長い目で見ればそうだったわけであり、少なくとも、有史時代になる頃には、領主や王や世界皇帝になろうとする者たちが、ほとんどどこにでも現れていた(Overall, one might be forgiven for thinking that history was progressing uniformly in an authoritarian direction. And in the long run it was; at least, by the time we have written histories, lords and kings and would-be world emperors have popped up almost everywhere)」「都市が勃興した地域のほとんどにおいて、やがて強力な王国や帝国が誕生したことに疑いの余地はない(There is no doubt that, in most of the areas that saw the rise of cities, powerful kingdoms and empires also eventually emerged)」などと述べた上、「農業の罠がどのように機能するかについての説得力のある叙述(compelling description of how this agricultural trap works)」をしたジェームズ・スコットの、国家形成と穀物農業を結びつけるモデルにも共感を示す。これらの見解は正しいが、何ら目新しくもなく、何十年もの間、他の研究者たちが言い続けてきたことでしかない。G&W自身も「ほとんどの場合、自分たちは同じ古い物語を語っている(for the most part, we are telling the same old story)」と述べている通り、彼らは古い社会進化論の段階モデルから、彼らが批判する目的論を取り除いた見方をしているだけだが、彼ら自身も『万物の黎明』の終盤において認めるとおり、その目的論自体がすでに廃れている。結局のところ、初期国家の形成に関する彼らの説明の大枠は、従来の見解と何が違うのだろうか。

代替案(Alternatives)

  • G&Wは結局のところ、ゴールポストを移動させる。表向きには、長期間を経て穀物国家が成長した結果、人口増加や地域を超えた相互連結性によって他の組織形態を凌駕したことを認めつつも、その結果としての現在の政府の形態(領土主権・強力な行政・競争的政治)は本当に避けられなかったのだろうかと疑問を呈する。つまり標準的な物語と同じ結果に至ってしまったことは否定できないので、その結果が本当に不可避なのかという問いに後退して、偶然性に焦点を移す。とはいえ反実仮想は遊びに過ぎないと切り捨てて彼らは事実上、旧世界の歴史に見切りをつけ、その視線を新世界に向ける。アメリカ大陸は1492年まで独自の世界体系を保っており、「唯一の真に独立した比較対象(the one truly independent point of comparison)」なので、そこにおいては自分たちが諦めた旧世界とは別に、君主制が本当に不可避だったのか、農業は本当に罠なのかを問うことができる。そしてアステカやインカには専制政治があったので中南米は排除しなければならないが、少なくとも先コロンブス期までの北米については、その問いに対する答えは否だとする。

  • G&Wは北米の過去の軌跡を辿り、紀元後1千年紀の前半、農業にさほど依存していなかったホープウェル文化が相当な土木工事を行えたこと、その衰退の後、トウモロコシ栽培と戦争が頻繁になったこと、次いで11世紀に15,000人の住民を抱えたカホキアにおいて、記念碑的建造物・社会階層・大量殺戮・都市とその後背地に対するエリート支配・他地域への広範な文化的影響が見られたこと、言い換えれば萌芽的な穀物国家が出現したこと、しかしそのカホキアも14世紀には放棄されて、後継のより小規模な政体も失敗したことを語り、それらの失敗とそれに伴う北米東部での穀物農業からの離脱を重く見る。だが、『万物の黎明』の文脈においてそれらは特筆すべき事例ではなく、より強大で影響力のあったテオティワカンも他の中南米の都市と同様に失敗したこと、ヨーロッパでも穀物栽培が中断されたり放棄されたりしたこと、アマゾンでも何千年にもわたって農業の盛衰が繰り返されたことを彼ら自身が語っている。北米ならではの事情もあり、人口が比較的疎らだったので、農業の中心から分散して採食に戻ることができたことは彼ら自身が指摘している。もう一つには、馬がいなかったゆえに、権力を行使する余地が狭まり、組織的暴力による不平等や支配規模の拡大が抑制されたことが挙げられる。この二つの要因によって北米では国家や農業への強い推進力や関与が不足していたが、それ以上に説明できることはあまりない。さらにその後、むしろヨーロッパからの征服と疫病こそが、農業や国家形成への阻害要因となり、南米では約5000万ヘクタールの耕作地が野生に戻り、北米では細々と存続していた「小王国」がやがて破綻したと考えられている。これらを総合すると、北米先住民における発展が従来の傾向に対する代替案になりうるかは疑わしい。

  • G&Wはそこで最終手段として、それらの要因ではなく、14世紀以降、カホキアにおいて人々が経験した支配に対する「反動」が起こり、それによって北米先住民は、農業から国家や帝国の台頭へと至る進化の罠を回避したという、彼らなりの物語を信じることになる。しかもその「反動」が遠く離れたイロコイ族の政治哲学の発展を促進して、それが後に先住民の仲介者を通じて、ヨーロッパの啓蒙思想にまで影響を与えたと主張する。だが、このカホキア後の脚本は推測の連続に依存しており、さらに加えて、農業の普及や階層的国家の確立のような、大きな歴史的過程の進行の遅さ、漸進性、頻繁な回り道を強調してきた彼ら自身のそれまでの見方と齟齬をきたしている。そのうえ北米は他地域よりも作物栽培化の始まりが遅く、そのぶん持続可能な穀物国家の形成も遅れただろうことを考えれば、植民地化以前にそのような国家が存在しなかったことは不思議ではない。このカホキア後の脚本が彼らの思いつく最善の代替案だとするなら、従来の理論が覆されることはないだろう。

診断(Diagnosis)

  • G&Wは『万物の黎明』において、穀物の栽培化が階層的な政体の出現に繋がらなかった5000年間の重要性を示すことに成功しており、人類の過去の大部分が歴史において、少数の研究者以外には見えなくなってしまうという危険性も思い出させてくれる。自由や実験といった見方よりも国家権力や安定性や美術品を尊ぶ古典的な見方への批判も美徳であり、世界的な視座、とりわけ北米に対する詳細な関与も強みと言える。

  • だが、そうした努力をいくつかの欠点や性癖が台無しにしている。彼らは過度の観念論的アプローチに傾倒しており、物質的条件・環境的または技術的な誘因と制約を重視せず、思想・熟慮された討論・自由選択を歴史的結果の最重要の決定要因に据えている。自分たちに都合のよい場合には生態学的要因を持ち出すこともあり、環境や技術の重要性を認めることもあるが、ほとんどの場合、地理・生態学・人口統計学・技術を軽視して、唯物論的な議論や説明を避けている。だが少なくとも、初期の歴史に関する妥当な説明では、自然や技術の影響を適切に重視する必要がある。

  • 環境や技術を重視した説明は「我々がすでに、事実上、行き詰まっていることを前提にする。だからこそ、自己決定の概念をこれほど強調するのだ(presume that we are already, effectively, stuck. This is why we ourselves place so much emphasis on the notion of self-determination)」と彼らは自分たちの立場を明かす。つまり唯物論的な要因を十分に考慮すると社会政治的な変革が困難であるという結論に傾きかねないので、むしろ自分たちのイデオロギーを前提として、科学的議論から目を背ける。そうした立場は歴史に対する解釈を歪める恐れがあるが、彼らはそれを「主として好みの問題(largely a matter of taste)」だとして、「自由と決定論との間のダイヤル(dial between freedom and determinism)」を自由寄りに設定すると宣言する。しかし学者にとっては、そのダイヤルの設定をできるだけ正確に評価する方法を探究することこそが知的挑戦であり、万人が同意する完璧な設定ができないからといって、それを「好みの問題」にしていいはずがない。そしてダイヤルの設定の適切なバランスを見つけるためには、G&Wがまさに避けている類の学問的作業――相関関係などの統計学的調査が必要であり、それは特定のパターンや傾向の強さと限界を理解し、特殊要素の影響を評価するのに役立つ。

  • G&Wは(リンディスファーン&ニールにも批判されているように)階級および階級闘争を軽視している。彼らは王や官僚制の存在ばかりを気にしているが、むしろ重要なのは、上流階級の集団がどのようにして、どの程度まで権力を行使し、構造的な特権を享受したかであり、結局のところ、支配者に納められる税や貢物も、生業を管理する者に支払われる地代も、大多数が生み出す資源に対する少数者間の争いを反映している。彼らは戦争を社会発展の力として見る議論にも乏しい。

  • G&Wはまず批判対象の主張を単純化したのち、その単純化された主張から逸脱した事例を示すことで、その主張自体を無効と見なすという論法を用いる。彼らは自説の議論も簡略化しており、広範にわたる大衆向けの説明なので、学術論文の文献精査基準に従えないのは仕方がないとしても、読者に負担をかけるという言い訳のもとに、注釈を用いて異なる見解を紹介することさえ疎んじる。そうして彼らがさも斬新そうに提示する見解をすでに支持している学者たち、地理・生態・技術・戦争といった要因の影響を重んじる文献群を暗黙のうちに排除している。さらに時代遅れの立場を支持する非専門家たちからの引用を選び抜き、それらが現代の学問の一般的な欠点を代表しているかのように提示する。(ハラリ以外の)歴史学者・考古学者・人類学者に対してまともに反論する代わりに、生理学者のジャレド・ダイアモンドや心理学者のスティーヴン・ピンカーなどをこき下ろしてみせるが、自分たちと同じ分野の学者に対しては、そこまで露骨な侮辱はしない。

現状改革主義(Activism)

  • G&Wは、我々が「行き詰まって」おり、何かが「人類の歴史においてひどく間違って(terribly wrong in human history)」しまったと確信しているが、何が間違っているのかについては、「世界がひどく間違っているのは間違いない。ごく一部の人々が、他のほぼすべての人々の運命を支配しており、それをますます悲惨なやり方で行っている(There is no doubt that something has gone terribly wrong with the world. A very small percentage of its population do control the fates of almost everyone else, and they are doing it in an increasingly disastrous fashion)」としか述べていない。読者は後期資本主義であれ植民地主義の負の遺産であれ環境悪化であれ、何でもそこに読み取ることができる。その一方、彼らはこの数世紀で民主主義社会に暮らす人々が増加したことも、繁栄・健康・長寿・知識が増大したことも考慮しない。

  • G&Wは、今でも人間の介入には大きな可能性があると述べるが、それについて具体的に述べることはなく、過去に対する解釈と同様に観念論的に、「おそらく人々が他の社会的存在の形態を想像し実現する自由を失い始めた時にこそ、間違い始めたのだ(perhaps it began to go wrong precisely when people started losing that freedom to imagine and enact other forms of social existence)」として、より自由な想像力に可能性があることを示唆している。だが、彼らが唯物論的な視点を認識すれば、過去と現在とをより有意義に結びつけることができただろう。もし移動可能なライフスタイルとハイブリッドな生業のおかげで、完新世の採食民が本格的な農耕民よりも自由だったとするなら、私たちはそれを現代とどのように比較できるだろうか。

 以上のように、藁人形論法をはじめとして、環境や技術の軽視、過度の推測や類推、既存の知見の斬新ぶった提示など、ここまでに出てきた批判が勢揃いしており、前述のモリスの書評はかなり甘かったことが窺える。たとえば、G&Wが平等主義的な初期都市に見出した「共通のパターン」について、モリスは全体的な傾向をくつがえすものではないにせよ、一部のパターンとして(おそらくある程度)認めていたが、シャイデルはそもそも「共通の」パターンなどないと詳細に批判している。批判対象の主張を単純化するのみならず、自分たちの主張も単純化しているというのも重要な指摘だろう。単一の近因を重視して多因子的な複雑な説明に取り組まず、相関関係や全体的な傾向といった高次の説明を広範すぎるものとして無視すれば、自分たちの単純な見方にそぐわない場合、相手の議論をすべて退けることができる。しかも競合する見解はろくに提示せず、自説は飛躍した解釈に基づくことが多い。

 そして真打ちとして、特定地域の専門性も有する考古学者二人に移る――のだが、この二人のうち、古代メキシコや初期国家形成の研究などを専門とするゲイリー・ファインマンの書評はかなり否定的な論調とはいえ、全体として淡泊な短評であり、批判の際、具体的に論じずに他の文献を提示して済ませるだけなので、ここでは紹介を省く。

 そういうわけで最後の一人、メソアメリカ(時にアステカの社会経済組織)や古代都市社会の比較分析などを専門とするマイケル・E・スミスの書評を取り上げる。スミスは古代国家社会に対する科学的・唯物論的・政治経済学的アプローチを重視すると共に、考古学を比較社会科学および歴史社会科学と見なしている。つまりG&Wの観念論的・非社会科学的アプローチとは相容れない学問的姿勢を持った学者である可能性が高い。実際、書評の題名は『万物の黎明における初期都市:ありきたりの結論を支持する粗雑な学識(Early Cities in The Dawn of Everything: Shoddy Scholarship in Support of Pedestrian Conclusions)』であり、これだけでも酷評であることが分かる。スミスによれば、全体を通じて『万物の黎明』には杜撰な立論があり、その解釈は裏付けが乏しく、時には誤っているという。そしてこの書評では初期都市と都市化の扱いに焦点を絞ると述べた上で、G&Wの初期集落に関する記述は妥当ではあるが、独自性の主張は誇張であり、学術における基本的な文書作成と論証の手法に従っていないとする。以下もシャイデルの書評と同様、項目ごとに区分けして紹介する。

巨大遺跡と誤った類推(Mega-Sites and Faulty Analogies)

  • G&Wは、都市と国家の起源が連動しているという従来のモデルを覆したと主張しているが、『万物の黎明』は証拠と論証に問題を抱え、引用や立論の誤りに満ち、彼らが学術的・科学的な分析と論証よりも、過去についての特定の見方を推し進める説得に関心があることを示唆している。都市が国家よりも先に発展したという同様の主張を展開する書籍としては、ジャスティン・ジェニングスの『Killing Civilization』(2016年)があり、ジェニングスは標準的な考古学的手法を用いているが、G&Wはそうではない。

  • G&Wは、都市と国家の起源の結び付きを覆すために、ウクライナのトリピッリャ文化の「巨大遺跡」の事例を取り上げる。この遺跡は新石器時代の集落の中では規模が大きく、家屋が同心円状に配置されるなど、高度な計画性を示している。ウェングロウは2015年の単著論文において、考古学者の大半がこの遺跡を都市と見なさないことに不満を漏らしており、当時「世界最大の連続した集落」だったという主張に基づき、この遺跡を「都市」だと見なしている。また『万物の黎明』においても、この遺跡を「高度に平等主義的な組織が都市規模で可能であった証拠(proof that highly egalitarian organization has been possible on an urban scale)」としている。だが、G&Wは「都市(city)」「都市的(urban)」といった用語を明確に定義しておらず、定量的データも示していない。その一方、ほとんどの考古学者は二つの標準的な社会科学的定義のいずれか、すなわちルイス・ワースの社会学的定義(恒久性・人口規模・密度・社会的異質性に重きを置く)、または機能的定義(後背地に影響を与える集落内の活動や制度の存在に基づく)を用いており、トリピッリャの遺跡はどちらの定義にも適合しない。最近ではこの遺跡を都市的集落と見なす研究者は他にもいるが、その場合は都市の新しい定義を別に提起している。

  • G&Wのトリピッリャに関する議論には二つの難点がある。第一に、学術的議論においてこの遺跡がほとんど取り上げられていないと述べているが、Covid-19パンデミック前の5年間、スミス自身、多くの学会でトリピッリャに関する議論に出くわした。彼らはもしかしたら、ハラリやダイアモンドやピンカーなどがこの遺跡を無視していると主張したいのかもしれず、G&Wの初期都市に関する見解はたしかに(それに価値があるかどうかは別として)そうした非専門家たちを上回ってはいるが、考古学者や歴史学者の標準的な学識を超えるものではない。

  • 第二の難点として、この遺跡の集落が平等主義的だったという主張をするために、考古学的解釈には不適切な類推(アナロジー)を用いている。フランスのバスク地方では、社会が平等な家庭の輪(つまり円形)として存在するという信念が共有されているという1981年の民族誌を引き合いに出して、それをトリピッリャが「高度に平等主義的」だったことを支持するものとして提示するのだが、遺跡の同心円状の集落とは異なり、バスクの村々はまったく円形ではなく、分散した集落にすぎない。形式的な考古学的類推は帰納論理の一種であり、その種の推論や論証は専門的に分析されているが、対象との類似性が確立されていない単一の民族誌事例を使用することは、帰納論理の規則に反しており(なるべく参照事例を増やして、なおかつ適用範囲を狭め、類似点と相違点に注意を払う必要がある)、学術的論証の形式として許容できるものではない。グレーバーは『負債論』の第6章においてもこの不適切な類推を繰り返し用いており、自身の見方を裏付ける考古学的・歴史的証拠がなかったゆえに、20世紀の民族誌事例(ティブ族とレレ族)を持ち出して、それが遠い過去に起こったことを表していると暗示した。考古学的証拠に欠けるか乏しい解釈を推進したい場合、G&Wは「考古学だけに頼ることはできない(we cannot rely on archaeology alone)」として、民族誌事例を類推に用いるが、それは歴史学や社会科学の方法論に照らしても適切ではない。

  • G&Wは、同様に都市が国家に先行したという議論を行っているジャスティン・ジェニングスの著作を引用していないが、ジェニングスはより多くの事例を提供し、より詳細に記述し、より多くの文献を引用している。ジェニングスの本を引用すれば、『万物の黎明』の議論は強化されただろうが、その一方、従来の常識を覆すという独自性を誇示することは困難になっただろう。彼らは厳密さよりも偽りの新規性を選んだと見なさざるをえない。

規模の問題(Size Matters)

  • より深刻に関連する先行研究を無視している例として、人口規模が社会制度・都市制度の数や複雑さにほとんど影響を与えないというG&Wの主張がある。絶対的な人口規模がまったく違いを生み出さないというわけではないが、必ずしも常識的な仮定のようには重要ではないという、分かりにくい言い方をしているが、つまり彼らは、小集団や小規模社会に見られる分散型意思決定と社会的自由が、都市規模でも機能することを確立したいという意図がある。だが、人口規模と密度が都市社会と組織に強い影響を与えるという見方は単なる仮定ではなく、多くの学術分野の都市研究において強く支持されている実証的発見であり、豊富な証拠と分析に支えられている(実際に様々な分野の多数の文献が列挙されている)。

  • これを示す具体的な一例として、G&Wが共鳴するようなアナーキズムの原則(ラディカルな自立・包摂・自己表現、贈与・脱商品化・共同努力など)に沿って組織されてきた年次集会、バーニング・マンがある。この祭典は1986年に35人の参加者から始まり、2019年には約80,000人の規模に達した。1996年には1ヘクタールあたり870人のキャンプという、マンハッタンの三倍を超える高密度になり、参加者が不快な感情をぶつけ合う事態に陥ったゆえに、この後、当初の自由を制限して、計画された空間配置、規制と取り締まりによる秩序が導入された。

  • こうした実証的・理論的に圧倒的に確立された知見に対立する大胆な主張を行う場合、学術的には、既存の文献を認識して、それに応答する必要がある。過去にはアナーキスト学者による都市の生成過程に関する研究もあるが、G&Wはそれすらも引用していない。

テオティワカン(Teotihuacan)

  • G&Wのテオティワカンについての議論は悪くはない。他の初期都市よりも平等主義的であり、集団的な政府を持っていたという彼らの結論は、今日の多くの専門家の見解と一致している。だが重大な欠陥もある。まず第一に、より専制的な統治形態を主張する考古学者たちの文献を無視している。また第二に、テオティワカンの政府に関する最も重要な研究を引用していない。この研究は両者(集団的統治派と専制的統治派)の論争に関する専門文献を引用・分析している。そして第三に、いくつかの空虚な引用を行っている。空虚な引用(empty citations)とは、考察中の現象についてのオリジナルのデータを含まない著作物への参照のことであり、実際には何の経験的(実証的)裏付けも含まれていないにもかかわらず、単に議論に裏付けのオーラを添えるために、その著作物は引用される。体系的に確認してはいないが、第9章には四つの空虚な引用(注釈9、16、60、61)が見つかり、他の章でもいくつか見つかった(たとえば第10章の注釈95)。参考文献の中のスミス自身の文献には、表記の誤りもあった。

  • 『万物の黎明』は空虚な引用に満ちていると共に、事実として提示された多くの記述に引用の裏付けがまったくない。これらは著者たちの学術的信頼性に疑念を抱かせる。

学問的技法(Scholarly Mechanics)

  • 論評者たちは『万物の黎明』における学識と論証の欠陥を数多く指摘している。たとえば哲学者のクワメ・アッピアは書評において、G&Wが用いる「二分法の誤謬」(選択肢が相互に排他的な二つの可能性のみであるという人為的な主張)と「誤謬の誤謬」(結論を支持するための議論が貧弱な場合、その結論を必ず誤りと見なす)を特に取り上げている。その他の欠陥のある学問的技法としては、藁人形論法、証拠の欠如を現象の欠如の証拠として解釈すること、広く受け入れられている結論をあたかも斬新なアイデアであるかのように表現すること、自説と相反する見解の度外視、空虚な引用などが挙げられる。この本では「信じるに足る十分な理由がある(there is every reason to believe)」という言い回しがしばしば用いられるが、これは著者たちが特定の主張について、何にせよほとんど証拠を提示できないことを示すしるしである。

  • 学術的な誤りは、修辞的説得に重きを置く特徴と相まって、グレーバーの『負債論』に対する批判を思い出させる。政治経済学者のマイク・ベッグスは『負債論』の書評において、グレーバーが的外れにも、貨幣と負債に関する社会科学的な問題に対して、貨幣の本質に関する「形而上学的な考え」で答えようとしていると指摘した。これはピエール・ブルデューがミシェル・フーコーを批判して、基本的に経験的(実証的)な社会科学的問いに対して「哲学的手法」を用いたと指摘したことに通ずるが、この批判は『万物の黎明』にも当てはまる。G&Wは明確に社会科学からも自然科学からも距離を置いており、とりわけ定量的研究を軽んじている。科学や定量的推論に関する知識に乏しい人文学者の中には、数値的尺度を用いることでその現象のすべてを説明しようとしていると誤解する人もいるが、社会科学や自然科学からみれば、それは馬鹿げた結論だ。

  • 集落の規模に関する議論の誤りを除けば、G&Wの初期都市に関する取り扱いはかなり平凡であり、トリピッリャ遺跡の比較考古学における重要性の明確化、テオティワカンにおける集団的支配に関する見解、その他の初期都市遺跡の記述は大部分が専門家の見解と一致している。だが、彼らの考えが斬新であるという主張は間違っており、その他の結論は類推・論証・証拠の誤った使用に基づいている。

  • まず詳細な学術的議論を査読付きの専門誌に発表して、その後にそれに基づいて一般向けの著作を書くという慣行に従っていれば、これらの問題は回避できたかもしれない。G&Wは『万物の黎明』に含まれる幾つかの論点を論文として発表しているが、それらは査読を通じて徹底的に精査されたものではない。たとえば先に触れたウェングロウの2015年の単著論文は講演のテキストにすぎず、査読付き学術誌には発表されていない。G&Wはこの本で「歴史の新しい科学(a new science of history)」を創造したいと述べているが、それを実現するためには、論理・証拠・論証のより厳密な使用が必要となる。

 このスミスの議論は初期都市に関する話題を中心として、他の書評と重なる論点も批判しながら、非常に根本的な欠陥を指摘している。すなわちG&Wは、少なくとも『万物の黎明』においては、社会科学的にはおろか、考古学的にさえも標準的な手法や規範に従っていないところがあり、さらには基本的な学術の基準に照らしても、それに従っていないところが散見されるという。このスミスの指摘にはなかなか説得力があり、ここまでの書評を振り返ってみれば、たしかに「著者たちの学術的信頼性に疑念を抱かせる」点は少なからず見受けられた。

 あるいは学術的な場では通用しない議論だからこそ、(スミスの書評では非専門家扱いの)ハラリなどと同様、一般向けの「ビッグヒストリー」という形態を選んだのかもしれない。だからこそ、古い社会進化論、ダイアモンドやピンカーといった古代史・考古学の非専門家を藁人形論法で攻撃して、そちらに読者の目を逸らしつつ、専門家水準では既に受け入れられているか、先行して提起されている見解をさも斬新そうに持ち出すという手法をとった。しかもそれを土台にして、根拠薄弱な飛躍した解釈に依存した物語を語り、自分たちが非専門家である政治学や啓蒙主義などに関しては、定説や議論の蓄積を正当にも妥当にも扱わず、定量的データや相関関係を考慮に入れた社会科学的議論をする素養もなく、自分たちが専門とする分野でさえ、自説に都合が悪い見解や証拠は無視したり軽視したり、時には歪曲したりする。その結果としての欠陥を指摘されても、一般向けの広範にわたる大著であれば、読者に負担をかけないためだとか、一部の誤りは避けられないだとかの言い訳が成り立つ。批判者がG&Wの逃げ道を塞いで、むしろ『万物の黎明』自体を根本からくつがえすには、全体をくまなく精査する徹底的な批判が必要になるが、シャイデルが述べたとおり、それには多様な専門家集団が必要になり、しかし本来の学究を犠牲にしてまで、そんな非生産的な作業に従事する者はまずいない。たとえば空虚な引用は場合によっては、学術文献なら不正に相当するものだろうが、スミス自身、体系的には確認していないと述べている。もし体系的に確認するなら、おそらく膨大な時間を取られてしまうだろう。だからこそスミスが指摘したとおり、査読付きの専門誌などで精査された研究の蓄積に基づくことが重要なわけだが、彼ら自身の主要な主張については、それが十分になされている形跡はない。

 ただしウェングロウの場合、学術的信頼性への疑念を著者の学識全体に向けていいのか、さしあたり『万物の黎明』のみに留めておくべきか、迷うところではある。たとえば物理学などでも、高名な学者が一般向けの書籍を使って、まったく検証されていない仮説をあたかも有望であるかのように一般に広めるということは行われてきた(たとえばスティーヴン・ホーキング、ロジャー・ペンローズ、レオナルド・サスキンドの著作など)。それと同様、ウェングロウもより狭い専門領域における実地の学術研究では、従来の規範を守っている一方、学術的には無理がある大風呂敷を広げる手段として、この本に限定して羽目を外しただけかもしれない。さすがにグレーバー以外にも手を広げるのは面倒なので、体系的どころか少し覗いただけだが、ウェングロウは『万物の黎明』とは無関係の査読付き考古学共著論文(おそらくグレーバーとは違ってエッセイではないもの)や書籍(おそらく大衆向けではないモノグラフ)も相応に発表しているようであり、それらは地に足のついた仕事なのかもしれない。初期都市に関しても、自説に沿った解釈や類推は欠陥を指摘されているとはいえ、そうではない事実的記述や標準的見解については、おおむね妥当であるとスミスも認めている。多くの場合、学術は地味な研究の地道な積み重ねであり、個々人に可能な貢献はごく一部であるゆえに、それに縛られずに壮大な「理論」を唱えたり、飛躍した「物語」を語ったりしたいという誘惑、あるいは、あわよくば「公共知識人」の座におさまって、独自の粗雑な思想や奔放な解釈を広めたり、大衆からの評判を高めたりしたいという野望などは、どんな分野にも潜んでいるのだろう。それこそが人文社会系の一部にかつて「思想家」や「批評家」が蔓延っていた理由でもあり、実際、それを求める一般読者や文化産業の需要もあり、紙面・誌面・画面を埋める必要性と話題を提供する役割に従って、それを仲介し拡散する商業メディアがある。そのようにして今もなおハラリのような人物が出現する。モリスは前述の書評において、『万物の黎明』を「出版イベント(a publishing event)」と表現しており、しかも現在では旧来の出版メディアのみならず、大衆の話題を可視化することで、時としてより強い拡散性を発揮するソーシャル・メディアもある。

 その種のソーシャル・メディアであるTwitter(現X)において、ウェングロウはスミスの書評に対して、なぜか画像に文章を載せて、以下のように簡単に反論している。(1)スミスはジェニングスの著作についてはその全体を考慮している一方、比較対象の『万物の黎明』については第8章しか考慮していないが、他の章においても関連する話題を議論している。(2)テオティワカンの政府に関する最も重要な研究を引用していないと指摘しているが、当該の著作は引用しているうえに、同著者の他の三つの論文も引用している。(3)G&Wが「社会科学に対する軽蔑」を持っていると示唆しているが、自分たちは「科学主義」を攻撃しているだけだ。(4)査読付き学術誌で議論を発表していないと示唆しているが、以前にスミス自身から、グレーバーとの査読付き共著論文に対する肯定的なメールを受け取っており、そうした論文の存在を認識しているはずだろう。そしてウェングロウは、短い書評においてこれほど多くの誤りを犯した人物が「学問的技法」について、よくも他人に説教できるものだと非難している。だがこれに対して、スミスは以下のような再反論で応答している。(1)一部しか比較していないという点を責められているが、ジェニングスの方が5年も早く同様の主張をより詳細に展開しているのだから、先行研究を引用すべきというのが批判の趣旨である。(2)書評では、当該の著作自体を引用していることは述べた上で、しかしその著作のうち、テオティワカンの政府に関する研究とは無関係な部分しか引用していないことをきちんと指摘している。(3)自分には科学的・学術的な規範を重視するバイアスがあることは認めるが、そのバイアスに従えば『万物の黎明』に好意的な見方はできない。(4)『万物の黎明』における主張の多くの根拠が先行する査読付き文献に基づいていないという趣旨であり、そのような文献がひとつもないということではない。そして最後にスミスは、もし自分の書評に誤りが多いと思うのなら、査読付き論文で反論すればいいはずだが、ウェングロウは『Cliodynamics』から書評集に対する応答の論文を依頼されたにもかかわらず、それを拒否したではないかと述べている。

 改めて見てみると確かに、書評集の編集者による序文の末尾において、グレーバーは先だって亡くなってしまったという言及と共に、「デヴィッド・ウェングロウには、本特集に掲載された論評への応答を求めたが、残念ながら応じてもらえなかった(we invited David Wengrow to provide a response to the commentaries published in this special issue, but he was unfortunately unable to do so)」とある。またスミスが肯定的なメールを送ったというG&Wの共著論文は、前出の季節性の切り替えについてのものだろうが、たしかに査読付き学術誌に発表されたものとはいえ、それも講演を元にしており、論証的な内容にはなっていない。とはいえモリスも書評において、季節性を重視した視点は評価しており、おそらく『万物の黎明』のその部分はそれなりに興味深いところもあるのだろう。スミスも書評において、たくさんの興味深いアイデアが含まれているにもかかわらず、十分な文献の裏付けがないゆえに、『万物の黎明』には苛立たしさを覚えたと述べている。そして言うまでもなく、何らかの着想や視点を評価することと証拠や論証の欠陥を批判することは両立する。さらにウェングロウは結局、新規性を偽っていること、および空虚な引用に対しては、何の反論もしていない。

 そうは言っても、ウェングロウにはあまり厳しい目を向けにくい理由は他にもある。スミスの書評には『万物の黎明』のみならず、グレーバーの『負債論』に対する批判も含まれており、その両著の欠点の共通性が指摘されている。となると、やはり『万物の黎明』の欠点の多くは、グレーバーに由来するものなのではないかという疑念が高まってくる。たとえば『万物の黎明』において、特定の主張にほとんど証拠が提示できない場合、「信じるに足る十分な理由がある」という言い回しが出てくるとスミスは指摘しているが、これは『ブルシット・ジョブ』において、それを支持する実証的根拠をまったく示していないにもかかわらず、グレーバーが「クソどうでもいいと考える仕事の全体的な割合が、近年急速に増加していると信じるに足る十分な理由がある」と述べているという前述の指摘とぴったり符合する。あるいはポーリーン・ヴィスナーの書評においては、平等主義というものは『万物の黎明』の見方とは異なり、「同一性」ではなく補完性と依存性に基づいているという批判があるが、これはジェフリー・フンメルが『負債論』の書評において、グレーバーは物々交換を価値の「等価性」に基づくものと見なしているが、それは誤解であり、むしろ交換を行う各人にとっての価値の不等価性に基づくと指摘されていたことに通じるところがある。フンメルはグレーバーが経済学を戯画化した藁人形論法を用いているとも批判していたが、この論法は『万物の黎明』に対して寄せられた最も代表的な批判でもある。ノア・スミスは『負債論』の書評において、グレーバーは自らの主張が通説を覆すと考えているようだが、専門家たちはそのような見方を既に知っていると指摘している。これも同様の指摘が『万物の黎明』に向けられた批判に多く見受けられる。あるいはヘンリー・ファレルが『負債論』の書評において述べた批判も思い出される。グレーバーは『負債論』執筆にあたり、「学術的厳密さを犠牲にしない大著」を意図して、「自分の主張を、実際に自分が考えている通りのことを述べている広範かつ詳細な参考文献で裏付ける」ことを学んだと述べているが、それが守られていないとファレルは指摘した。この指摘もまた大なり小なり、ここまでの書評の多くに見受けられるものであり、こうした指摘のすべてが向かう先は結局のところ、実際には『万物の黎明』は何も覆してはいないという一点に収束する。

 専門家の見解を覆したのではなく、あくまで非専門家や一般大衆のうちに根強く残る古い見方を覆したのだと言い訳するかもしれないが、もしそうであれば、自分たちの主張の大半は他の専門家たちの既存の見解に基づくこと、専門的な学術界においては何ら斬新でもない主張であることを明示しているはずだろう。しかしそうした点を明示しているなら、モリスやシャイデルやスミスの書評に見られるような、強い批判が行われているのは不可解としか言い様がない。グレーバーは『負債論』においても、貨幣の物々交換起源説という神話を覆す主たる根拠として、キャロライン・ハンフリー、マイケル・ハドソンといった他の学者の先行研究を援用して革新ぶっていたが、それは詰まるところ、仮に何かを覆している部分があったとしても、それはグーレーバーの著作が覆しているわけではなく、それ以前に別の学者の学術研究によって、すでに覆されていたことを意味する。

 スミスの書評で引用されたマイク・ベッグスによる『負債論』の書評には、「この本を通して、グレーバーは彼自身を通念をくつがえす破天荒な人物として表現している(Throughout the book, Graeber presents himself as a maverick overturning convention)」とあり、さらに以下のような興味深い指摘がある。(1)社会史を語る際、多くの社会理論家はそれを構造として、個々人の意図や実践には還元できない複雑で進化する関係のパターンとして扱うのに対して、グレーバーは意識的実践の水準に留まり、倫理的な歴史観を提示して、大きな変化は現実に対する見解の変化の結果であるという立場を取る。(2)市場と資本主義について語る際、グレーバーは社会史家のフェルナン・ブローデルを引用しているが、ブローデルの著作にはデータ・図表・地図が満載であり、読者に物質的条件や経済ネットワークについての実感をもたらす一方、グレーバーは道徳的世界観と言説の領域に留まっている。(3)現在のグローバル経済におけるドルの地位を理解するには、国際マクロ経済学・金融・政策の理解が必要であり、米国債は世界で最も安全で確実で、最も流動性の高い価値の保存手段と見なされているが、グレーバーはドルの地位について地政学的な見方しかしておらず、米国債は「誰もが守らないと知っている約束」であると信じている。これらのベッグスの批判は、観念論的・主意主義的な見方に基づき、定量化・多因子的説明・広範なパターン分析といった科学的議論をせず、環境や技術といった物質的条件を軽視すると共に、専門外の領域に対する理解が浅薄でもあるという、ここまでに見た『万物の黎明』に対する批判と共通している。大きな違いが一つあるとすれば、考古学者との共著であるゆえに、飛躍した解釈から切り離した標準的な考古学的知見に関しては、妥当な記述を提示している可能性が高いという点だろう。ベッグスは『負債論』について、こうも述べている。

 もちろん、細部には多くの洞察があり、商人や政治哲学者の著作についての魅力的な解釈もある。グレーバーは素晴らしい物語の語り部だ。しかし、逸話の積み重ねは説明にはならず、従来の、あるいはそれ以外の、この主題に関する既存の知識を覆すようなものでも決してない。これはほとんど政治哲学と道徳哲学の領域で語られた物語であり、本質的にはポピュリスト的なリベラル、あるいはそれどころか、リバタリアンの視点から語られている――国家と大企業が、小市民と彼らの純粋な交換関係を踏みにじったのだ。

     Of course, there is a lot of insight in the detail, fascinating interpretations of the writings of merchants and political philosophers. Graeber is a wonderful storyteller. But the accumulation of anecdotes does not add up to an explanation, and certainly not one that would overturn the existing wisdom on the subject, conventional or otherwise. It is a story told almost entirely in the realm of political and moral philosophy, and told essentially from a populist liberal or even libertarian perspective: it was the state and big business stepping all over the little guys and their purer exchange relationships.

https://jacobin.com/2012/08/debt-the-first-500-pages

 この引用文の「商人や政治哲学者の著作」を「先史時代や部族社会の人々」などに入れ替えて、さらに「国家と大企業が、小市民と彼らの純粋な交換関係を踏みにじったのだ」を「国家と失われた想像力が、私たち人類の純粋な自由選択を行き詰まらせたのだ」などに入れ替えれば、これはそのまま『万物の黎明』の書評にも使えそうではないだろうか。ちなみにベッグスの書評によれば、グレーバーは『負債論』において、唯物論的な経済史の代わりに、人類が紙幣と信用貨幣の時代(グレーバーの用語では「仮想通貨」の時代)と金属貨幣の時代との間を絶えず揺れ動いていたという歴史のサイクルを提唱しているらしい。これは『万物の黎明』において提示された見方、すなわち人類が平等と階層構造との間を絶えず揺れ動いていたという主張と酷似している。おそらくグレーバーには元からの思想の型があり、その主題が何であるにせよ、歴史の断片をその型にはめ込むという手法を取っているのだろう。しかし自身は歴史の専門家ではなく、『負債論』ではそもそも主題についての誤解や理解不足を指摘されたゆえに、『万物の黎明』では主な舞台を先史時代や初期都市に移して、専門家である考古学者を引き込んだのかもしれない。

 さらにより深刻な問題として、グレーバーの場合、専門分野であるはずの人類学においてさえ、その学術的信頼性に疑念を抱かされるという点が挙げられる。『万物の黎明』における人類学的知見に対する批判としては、これまでにウィル・サハール・パトリックによるシャイアン族やイヌイットなどに関するもの(ただしこの批判は根拠となる文献の幾つかがネット上では読むことができず、詳細は未確認)、あるいはまさに人類学者であるナンシー・リンディスファーンやポーリーン・ヴィスナーによる指摘を見てきたが、この点はもう少し取り上げる余地がある。

『万物の黎明』に先立つG&Wの査読付き共著論文としては、前出の季節性の切り換えに関するもの以外にもう一つ、おそらく『万物の黎明』のごく一部の元になっていると思われるが、北米太平洋沿岸の先住民についての論考がある。この論文は考古学的知見よりも、どちらかと言えば人類学的知見に依拠した主張となっており、その内容は以下のようなものだ。

  • 人類学では伝統的に、北米太平洋沿岸の先住民を「ノースウェスト・コースト」と「カリフォルニア」の二つの文化圏に大別してきた。前者はサケなどの豊富な水生資源に依存する階層的社会であり、大規模な余剰となる干しザケの加工の必要性、およびその貯蔵の収奪性に伴って、戦争や防御要塞、捕虜の奴隷化と労働力の集約、さらには物質主義的で派手な文化、階級に応じた埋葬の格差といった特徴があるのに対して、後者はドングリなどの多様な陸生資源をより優先する平等主義的社会であり、一部の例外を除いて極端な格差や争いの痕跡は見られず、温暖な気候と多様な地形の密集により、部族間でそれぞれの資源を交換する補完性が生まれたほか、物質的および芸術的には質素で、勤勉や自律といった精神性を美徳とする特徴がある。かつて人類学では、前者の貴族階級はレヴィ=ストロースによってヨーロッパの宮廷貴族になぞらえられた一方、後者の美徳はウォルター・ゴールドシュミットによってヴェーバーの「プロテスタント倫理」との類似性が指摘された。

  • 両者の違いは環境への適応や生存戦略といった行動生態学の視点から説明されるが、しかしそこには不可解な謎がある。食用の実をつけない針葉樹を主としたノースウェスト・コーストとは異なり、たしかにカリフォルニアは木の実を収穫できる落葉樹を主としている。また遡河性魚類などの水生資源に関しても、ノースウェスト・コーストの方が密度や多様性において勝っている。しかしそれでも、カリフォルニアにも沿岸や河川には豊富な漁場があり、行動生態学の「最適採餌理論」に基づけば、タンニンの苦味や毒素を除去するために粉砕や浸出といった処理が必要な「高コスト低ランク」食品であるドングリよりも、大量に獲れて栄養価の高い「低コスト高ランク」食品であるサケの方が優れているはずだが、化石や人骨の同位体研究といった考古学的証拠によれば、なぜかカリフォルニアにおいては、魚の集中的な採食よりも遙かに古くからドングリが主食になっていたことが示されている。

  • この疑問に対して、修正された行動生態学的説明も提起されている。サケを主食とする場合、それを大量に捕獲するための網・罠・堰堤などを製造・維持する作業に加えて、腐らせずに貯蔵するための洗浄・切り身・乾燥・燻製といった熟練した加工作業も重要であり、詰まるところ、漁労および保存処理に費やされる多大な労働力が必要になる。これは略奪・窃盗をする側からすれば、楽をしてすぐ食べられる保存食品(その他、サケから取れる油脂もある)を得られる誘惑となり、収奪・盗難をされる側からすれば、事前に費やした労力が無駄になるリスクとなる。その一方、ドングリは収穫が非常に容易であり、保存処理は乾燥させるだけで、大した労力は必要ではなく、粉砕や浸水といった加工作業は通常、それを調理する前に時間をかけて行う。従って、それを略奪・窃盗する魅力も、収奪・盗難される可能性も低い。ひいては不平等が生じる余地も、争いに備える必要性もない。木の実を生産する落葉樹が豊富なカリフォルニアでは、このような違いによって、ドングリが主食となった。

  • だが、この修正された行動生態学的説明にも疑問が残る。ノースウェスト・コーストにおける集団間の襲撃の主な動機は、むしろ奴隷化のための人間の捕獲だったという見方もあり、実際、徒歩にせよカヌーにせよ、干しザケを略奪できる量は限られている。ノースウェスト・コーストの文化では、貴族階級は労働を忌避しており、平民階級は過度に労働を強いられると他の集団のところへ逃げてしまうゆえに、家事奴隷が重要だった。従って、集団間の襲撃の主目的はおそらく、干しザケそのものではなく、収穫の時期にサケを大量に加工するための労働力だったと考えられる。

  • 政治学者・人類学者のジェームズ・スコットは、東南アジア高地の狩猟採集民および園芸民が近隣の低地国家への対抗手段として、見えない地中で育ち、国家が定量化・課税・収奪をしにくい根菜類などを栽培するようになったことについて、それを「逃避作物」と呼んだ。カリフォルニアの先住民はノースウェスト・コーストの先住民と定期的に接触していた可能性があり、その好戦的かつ搾取的な社会を知っていたがゆえに、略奪を避ける「逃避作物」として、意識的にドングリや木の実を主食として選んだ可能性も考えられる。

  • こうした可能性も踏まえた上、カリフォルニアの先住民がより陸生資源に依存して、階層的社会や奴隷制を発展させず、ノースウェスト・コーストとは異なる文化を築いたのは、生態学的・実用的な要因というよりも、むしろ社会的・政治的な要因に基づいており、近隣社会の好戦的かつ搾取的な統治原理を意識的に拒絶したという説を主張したい。これは人類学者グレゴリー・ベイトソンの提唱した「分裂生成(schizmogenesis)」の概念に依拠した見方であり、論旨としては、カリフォルニアの先住民が文化的差異化の過程として、隣接する社会を自覚的に反転させて、積極的に相手の文化を拒否すると共に、自分たちはそれとは異なる文化を選択したというものだ。

  • この説を支持する「動かぬ証拠(smoking gun)」として、19世紀の地理学者が植民地化で村を追われたチェトコ族から聞き取った「ウォギーズ(Wogies)」の物語が挙げられる。この物語によれば、チェトコ族の先祖はかつて北の果てからカヌーでカリフォルニアにやって来て、元々住んでいた二つの部族のうち、自分たちと同じ好戦的な部族はすぐに戦って滅ぼしたうえに、戦うことを拒否した小柄で温厚な白人の部族は奴隷にした。この小柄な白人部族は自分たちを「ウォギーズ」と呼んでおり、狩猟や漁労の知識や技術に長けていたことから、怠けて肥え太るばかりのチェトコ族の先祖に使役されていたが、ある夜、盛大な宴会の最中にこぞって逃げ出して、二度と姿を現さなかった。この伝承があったゆえに、やがて入植者の白人がやって来た時、チェトコ族はあの「ウォギーズ」が帰ってきたと思ったが、すぐに間違いだと気づいた。それでもチェトコ族や近隣の部族の間では、この伝承の影響により、白人の入植者は「ウォギーズ」と呼ばれるようになった。このような史実性の疑わしい物語を根拠として持ち出すのは軽薄に思えるかもしれないが、しかし北からやって来た好戦的な部族と奴隷化された温厚かつ勤勉な部族という対比はまさに、ノースウェスト・コーストとカリフォルニアの先住民の特徴と一致しており、チェトコ族は元々はその両方の文化が接触する中間地帯に住んでいたので、実際に侵略があったことは十分に考えられる。さらに加えて、まさに奴隷を持つことで怠け者になり、奴隷化した部族に逃げられてしまうという結末は、勤勉や自律といった美徳、略奪の誘惑への戒めを表しており、カリフォルニア先住民の道徳観と通じている。

  • 近年の行動生態学の見方では、たしかに採食民の社会を「スペクトラム」として捉えて、その多様性を認めてはいる。だが、その多様性は主として環境要因(季節に応じた移動や資源の豊富さなど)によって説明されたり、農耕民や国家との関係において位置付けられたりするだけで、近隣する採食民集団間の歴史的な相互分化はほとんど考慮されていない。もちろん証拠は断片的であり、時代的背景も明らかではないが、この「分裂生成」の過程は、環境への適応という観点には十分に還元できない政治的側面を持っており、この見方は、採食民の多様性を新たな形で理解するための基礎を示唆している。

 この共著論文にも『万物の黎明』と共通する欠点が見受けられる。上記の要約のうち、環境要因を重視する生態学的説明は考古学的証拠にも支えられており、それなりに説得力がある一方、生態学的説明を重視することに反対するG&Wの主張においては、単なる伝承の物語が「動かぬ証拠」となり、また「分裂生成」という概念に依拠した主意主義的な解釈が提示される。自給様式や社会構造が主として環境の制約に基づくという見方よりも、それらが意識的な社会政治的選択に基づくという見方を推し進めたいという意図が透けて見える。だが、そのために「ウォーギーズ」の伝承を根拠として持ち出すのは、『万物の黎明』において、トラスカラをどうしても民主主義的な政体として描きたいあまり、それに反する証拠を無視して、その代わりに真偽の疑わしい伝承から演説文句を引用したという、シャイデルの書評で批判されていた点に通じる。信憑性や関連性の不確かな、間接的な伝承の言葉や逸話をあたかも重要な証拠のように扱う姿勢はむしろ、主張の説得力を損なう。また「分裂生成」のような、何かに対しての自己差異化という現象それ自体は普遍的に起こりうるものだろうが、その場合も、環境の制約に基づく前提としての差異がまず存在するわけであり、土台となるその差異に基づく自文化の個性や特徴をより強調する形で、さらなる自己差異化が進展するという見方の方が妥当だろう。ポーリーン・ヴィスナーも書評において、同じような環境の採食民であってもその社会には多様性があるが、その多様性の根底にはやはり環境の制約があると指摘している。

 関連して、この共著論文には他にも重大な問題点がある。「修正された行動生態学的説明」として引用されている論文を読むと、引用の仕方が非常に恣意的であることが分かる。G&Wの論文では、サケは貯蔵前の捕獲準備・保存処理に手間がかかり、調理は簡単である一方、ドングリは収穫と保存処理は簡単だが、調理前のタンニン除去に時間がかかるので、後者は奪っても大した労力の節約にはならず、ひいては奪われるリスクも生じなかったこと、それゆえに落葉樹の豊富なカリフォルニアでは、ドングリが古くから長期貯蔵される主食となり、不平等や戦争もほとんど生じなかったことが「修正された行動生態学的説明」として引用されていた。そしてそれに対してG&Wは、略奪や窃盗の魅力に富んだ干しザケであっても、一度にそんなに大量に持ち去ることはできないので、そのような説明では十分ではなく、襲撃の目的はむしろ人的資源としての捕虜だったという反論を述べていた。ところが引用元の論文では、たしかに略奪・窃盗のリスクについての言及もあるが、それよりも別の説明の方が主たる理由として提起されている。(1)温暖なカリフォルニアの気候では、より北方のノースウェスト・コーストよりも、サケを腐らせずに加工するのが難しい。(2)移動性の高い採食民だった頃には、採食圏内に幅広く、比較的少量の食料を分散させて貯蔵する戦略を取っていた可能性が高く、その場合、無駄になってしまう死蔵場所も生じるゆえに、事前処理に多大な労力が必要なサケは適さない。(3)中期完新世の北西カリフォルニアでは、ドングリの実をつけるオークの森は広範囲にわたり、(沿岸部から離れた)高地にも存在していたうえに、多くの異なる種が生息していたので、ある種のドングリが不作の年であっても他の種に頼ることができる。(4)タンニン除去などの加工処理は時間が掛かるとはいえ、大規模な協力の必要はなく、ドングリを主食にする場合、女性が労働力となって、主に自分の家族のために採集・加工・調理をするだけで十分だった。以上のような要因に加えて、前述の盗まれるリスクが低かったことも相まって、カリフォルニアではドングリが主食となり、また人口が多かったにもかかわらず、社会集団は小規模で高度に自律していた。やがて定住化が進むにつれて、大きなドングリの穀物庫をそなえた集住が起こった結果、カリフォルニアでもサケの集中的利用が始まり、さらにその後、ヨーロッパ由来の白人が先住民の土地に侵入するにつれて、伝統的な陸生資源を自由に利用できなくなり、よりいっそうサケへの依存が進んだ。このようにして、20世紀の民族誌では、カリフォルニア先住民もサケに依存していることが報告されている一方、考古学的証拠では、古くからドングリを主食にしており、サケの利用はかなり後期になってからしか出現しないという謎が生まれた。

 要するに、やはり主として環境の制約によって、カリフォルニアではドングリが主食となったという生態学的説明が相応の説得力を持って展開されている(この論文では述べられていないが、別の論文によれば、カリフォルニアではドングリを何十年も貯蔵した例もあったらしく、またタンニン除去も兼ねて、水中に一年間保存されることもあり、そのような貯蔵の保存性や柔軟性も重要な要因だったと思われる)。だがG&Wは、おそらく社会政治的・主意主義的な「分裂生成」を重視する自分たちの主張と相反するゆえに、上記のような要因は無視して、非常に恣意的な引用を行っている。これは『万物の黎明』と共通する環境要因の忌避であり、皮肉にもむしろ、彼らの反生態学的・反唯物論的な姿勢こそが、意識的な自己差異化としての「分裂生成」に当てはまっており、それが学究を歪めてしまっている。ちなみに「修正された行動生態学的説明」の論文の著者二人は人類学と考古学が専門だが、G&Wよりも論理的で内容の濃い記述をしており、より引用も多く、その中に一般に知られている著名な学者の文献は一つもなく、これまでの論争や異なる見解、考古学的証拠、地図や自説のモデルなどを豊富に提示している。その一方、G&Wの共著論文はよりエッセイ寄りで、レヴィ=ストロース、ヴェーバー、ベイトソンといった過去の著名人の見解を持ち出してくるところが特徴となっている。季節性の切り替えの共著論文と同様、この共著論文も第一筆者はウェングロウであり、グレーバーの単著論文に比べれば遙かに明晰なので、文章はおそらくウェングロウが書いているのだろうが、主張は主として人類学的知見に依拠している。加えてグレーバーの単著論文を三つ引用しており、それらが「分裂生成」をはじめとした社会政治的要因を強調するために提示されてもいる。従って、おそらく主張それ自体はグレーバーの見方に強く依拠しており、生態学の軽視や恣意的な引用もその影響下にある可能性が示唆される(とはいえ同時に、やはりウェングロウも真っ当な学者とは言い難いのではないかという疑念も高まるが)。G&Wの二つの共著論文はいずれも人類学系の学術誌に掲載されているが、このような恣意的な引用をして、なおかつ主要な根拠が伝承の物語であっても掲載されるということは、社会文化人類学の場合、査読付きという条件もさほど信頼性を担保するものではないという可能性さえも示唆するのかもしれない。

 もっとも、この共著論文にコメントを寄せた人類学者・考古学者の論評は総じて批判的だった。人類学者のレス・フィールドは、ひとくちにカリフォルニア先住民と言っても、沿岸および内陸のポモ族・ウィントゥ族・マイドゥ族・オローニ族、中央部のミウォーク族、北西部のユーロク族・フーパ族・トロワ族・ウィヨット族・カルーク族、南部のチュマシュ族・ガブリエリーノ族、その他の民族など多様性があり、その中には装飾的な物質文化や事実上の階層社会も見られることから、その社会文化を一括りにはできないことを指摘した。人類学者のベン・フィッツヒューは、G&Wが「複雑狩猟採集民」といった類型を批判する一方、カリフォルニア先住民とノースウェスト・コースト先住民という類型を用いている矛盾を指摘すると共に、生態学的説明を軽視しながら、少数の民族誌的記述だけに依拠して、その二つの文化領域を仮定していることを批判した。複雑狩猟採集民の研究者である考古学者のコリン・グリアは、G&Wによる「分裂生成」の主張は十分な証拠に欠けていることを批判すると共に、ノースウェスト・コーストでもコースト・セイリッシュ族はむしろ「プロテスタント倫理」に近い価値観を持ち、分散型の自治を行っていたこと、ノースウェスト・コースト社会の特徴とされるポトラッチ(競って財物を贈答する儀式)はかつて「財産による闘争」と見られていたが、ヨーロッパとの接触に伴う人口減少の結果としてそのように過激化したこと(これはリンディスファーン&ニールの書評でも指摘されている)、コースト・セイリッシュ族においてはポトラッチは「証人制度」として機能していたことなどを指摘して、ノースウェスト・コースト先住民社会に対する過度の一般化を批判した。

 そして『万物の黎明』においても、人類学的知見の記述に関して、ある種の恣意的な引用の疑惑がある。これはとある教養系YouTuberの、『万物の黎明』を章を追って詳細に批判していくシリーズ動画の一つの中で指摘されているもので、その動画は第3章の季節性の社会構造の切り換えを主な論点としている。概要欄には、文字起こしされたブログ記事文献リストへのリンクも付いていて、それなりに根拠を踏まえて制作されているようであり、どうもかなり人類学に詳しい人物らしい。この動画の批判は多岐にわたるのだが、ここではレヴィ=ストロースに依拠したG&Wの主張の問題に絞って、以下に要点を紹介する。

  • G&Wは、レヴィ=ストロースの文献に依拠して、アマゾンのナンビクワラ族が季節に応じて社会統治の形態を切り換えていたと主張している。その主張によれば、レヴィ=ストロースの見解では、(1)ナンビクワラ族は一年のうち、雨季は村に集住して園芸(焼畑のような小規模かつ素朴な作物栽培)に頼り、乾季は小集団に分かれて非常に厳しい条件下で狩猟採集を行ったという。また(2)ナンビクワラ族の酋長は、乾季の「遊動的冒険」の最中は「他の時期であれば容認されないほど権威主義的なやり方で振る舞った(behaved in what would at any other time be considered an unacceptably authoritarian manner)」が、その一方で、より安楽で豊かな雨季には何も押しつけずに、模範的指導と穏やかな説得のみを行ったという。つまり定住的園芸(小規模な農業)と遊動的採食を季節に応じて切り換えており、酋長の政治的リーダーシップは前者では平等主義的である一方、後者では権威主義的なので、これはG&Wにとっては、古い社会進化論的な見方(狩猟採集から農業へという不可逆の発展段階、狩猟採集は平等主義的で農業は階層的という特性)をくつがえす事例となる。ところが調べてみると、レヴィ=ストロースがナンビクワラ族の酋長やリーダーシップについて書いた論文やそれを元にした『悲しき熱帯』の記述には、(2)のような内容はまったく含まれていない。レヴィ=ストロースによれば、ナンビクワラ族の酋長には強制力はなく、一年を通して説得を用いるだけだった。つまり季節に応じてその政治的権限が変化するというような記述は一切ない。

  • さらに加えて、数十年後にそれぞれ別個にナンビクワラ族と何年も暮らした人類学者、デヴィッド・プライスとポール・アスペリンは両者ともに、(1)ナンビクワラ族が定住的園芸と遊動的採食を季節に応じて切り替えていることを否定した。レヴィ=ストロースはナンビクワラ族の長期の狩猟遠征に同行していただけで、実際に村の生活や園芸の実践を観察してはいなかったらしい。またデヴィッド・プライスの研究では、(2)ナンビクワラ族の酋長が権威主義的か否かは、季節や生活様式ではなく、地域によって異なっていた。プライスが調べた70人の酋長のうち、大半は規範を示して先導する非権威主義的なタイプで、実際には酋長というよりも、仲間から尊敬される兄貴分のような存在だった。それ以外の少数は強制力こそ持っていないが、実際に命令して、他の人々に何をすべきか指示を出していた。そして後者の比較的「権威主義的」な酋長は全員、ナンビクワラ族が頻繁に攻撃を受ける北部地域に住んでおり、これがその地域において、人々が命令を容認する理由だとプライスは考えた。

  • おまけにG&Wは、レヴィ=ストロースの初期のナンビクワラ族についての論文は忘れ去られてしまって、アマゾン研究の分野以外ではほとんど知られていないと述べている。だがプライスによれば、その論文は「比較政治学の文献の中で中心的な位置を占めている。原始的なリーダーシップの古典的な研究となり、学生に課され、世界で最も単純な政治制度の例が求められる時にはいつでも他の論文に引用される(a central place in the literature of comparative politics. It has become a classic study in primitive leadership, assigned to students and cited in other articles whenever an example of the world’s simplest political institutions is called for.)」という。

  • G&Wがこの季節性の切り替えを持ち出す理由の一つは、それが行動生態学者や唯物論的人類学者の採用する狩猟採集民・園芸民・牧畜民・定住農民といった人工的な分類から逸脱するものであり、そのようなカテゴリー分けが間違っていることを示したいからだ。だが、そうした批判は藁人形論法であり、そもそもあらゆるカテゴリーは不完全な、あくまで便宜上の区分けにすぎず、たとえば採食民を即時リターン型(資源を入手後にすぐ消費)と遅延リターン型(資源を計画的に貯蔵)に区別したりするのは、前者は平等主義的である一方、後者は階層的であるというような傾向があるからだ。こうしたカテゴリーの使用は、なぜ遊動的な牧畜社会は男性優位で血の復讐や名誉規範の文化を持つことが多いのか、なぜ園芸社会では互いに魔術を使われていると非難し合うのかなど、特定のカテゴリーに見つかるパターンや類似点の要因を分離することに役立つ。ポスト構造主義・ポストモダニズム(英語圏では両者はほぼ同義として用いられることが多い)は、一般化・唯物論的な答え・カテゴリーなどを攻撃する傾向があり、グレーバーはポストモダニズムには批判的だが、皮肉にも『万物の黎明』はその種の傾向を強く帯びてしまっている。既存のカテゴリーよりも優れた代替案、より詳細な説明が必要であることは確かだが、カテゴリーをすべて捨て去る必要はない(そもそもカテゴリーなしにはほとんど何も記述できない)。

  • G&Wは狩猟採集から農業へ、平等主義的社会から階層的社会へといった段階的な見方を否定する反例としても、この季節性の切り替えを持ち出しているが、それも古く単純な見方を攻撃対象とした藁人形論法にすぎない。現代の社会進化論は悪いものから良いものへ、単純なものから複雑なものへといった段階や進歩ではなく、生物学的進化論と同様に、環境や状況への適応に基づいており、農業・採食・牧畜といった異なる生業を行き来する人々の多種多様な事例も認めている。1970年代後半には、狩猟採集から農業への移行はほとんどの場合、生活の質の低下を招いたことも分かり、社会構造の複雑化が進歩に繋がるという単純な考えは見られなくなった。

 上記の批判のうち、カテゴリー分けに関して言えば、G&Wは採食民・牧畜民・農耕民といった分類に綺麗に当てはまらない事例としてナンビクワラ族を提示して、そのようなカテゴリーは単純すぎる戯画的なものだと主張しているようだ。だが、むしろ彼らの藁人形論法こそが戯画的であり、こうしたカテゴリーは便宜上のもので、当然ながら絶対的なものではなく、また各カテゴリーに付随する特性などもあくまで傾向にすぎないということになるだろう。前出のquilletteの書評においても、ダイアモンドやピンカーが用いるバンド・部族・首長制・国家といったカテゴリーはあくまで記述のための分類でしかないという指摘がある。この手の藁人形論法は、科学的知識は常に暫定的で修正されていくものという常識に対して、科学も絶対ではないだとか完全な客観性はないだとか、的外れな批判をするポストモダニズム流の論法に確かに通じている。

 そしてより特定の論点に的を絞った批判として、(1)G&Wがレヴィ=ストロースの文献には存在しない見解をレヴィ=ストロースのものとして提示しており、なおかつ、(2)レヴィ=ストロースの文献のナンビクワラ族に関する記述それ自体も間違っているという問題が提起されている。まず前者に関して、レヴィ=ストロースが1938年のフィールドワークに基づいて著したナンビクワラ族のリーダーシップに関する論文から、実際の見解を引用する(ちなみに『悲しき熱帯』のナンビクワラ族の酋長に関する部分は、この論文をおおよそ転載したものなので、ほぼ内容は変わらない)。

 個人としての威信および信頼を喚起する能力が、ナンビクワラ社会におけるリーダーシップの基盤となっている。実際のところ、その両方が冒険的な実験、すなわち乾季の遊動生活を導く者に必要とされる。6〜7ヶ月の間、酋長は自分のバンドの管理を完全に任される。彼は放浪の期間の開始を命じ、ルートを選択し、停泊地点と各地点における滞在期間、それが数日なのか数週間なのかを決定する。さらに狩猟・漁労・収穫・採集の遠征を指示および組織し、隣接する集団に対する部族の行動を決定する。バンドの酋長が同時に村の酋長でもある場合(ここで言う村とは、雨季の半永久的な住み処という限定的な意味である)、彼の職務はそこでは終わらない。彼は集団が定住する時期と場所を決定し、園芸を指導し、栽培する植物を決め、そして一般的に言えば、季節の必要性や可能性に応じて活動を組織する。
 最初に指摘しておくべきこととして、これらの多様な職務は、固定された権力や認められた権威によって容易に遂行されるものではない。リーダーシップの根源は同意にあり、また同意が正当性の唯一の尺度となる。一人か二人の不満を抱いた個人による(現地の基準での)秩序を乱す行為や働く意欲の欠如は、酋長の計画と彼の小集団の福利を深刻に脅かす可能性がある。しかしながら、このような場合、酋長は強制力を行使できない。問題のある人物を追放できるのは、酋長が人心を自分の意見に一致させることができる場合に限られる。従って、彼は圧倒的な支配者というよりも、絶えず変動する多数派を維持しようと努める政治家のような手腕を発揮しなければならない。さらに、彼は単に集団をまとめるだけでなく、他の集団の存在も忘れてはならない。遊動期間中、バンドはほぼ単独で生活しているが、他のバンドの存在も忘れられてはいない。単にうまくやるだけでは十分ではなく、人々がそれを期待しているように、酋長は他のバンドよりもうまくやろうと努めなければならない。

     Personal prestige and the ability to inspire confidence are thus the foundations of leadership in Nambikuara society. As a matter of fact, both are necessary in the man who will become the guide of this adventurous experiment: the nomadic life of the dry season. For six or seven months, the chief will be entirely responsible for the management of his band. It is he who orders the start of the wandering period, selects the routes, chooses the stopping points and the duration of the stay at each of them, whether a few days or several weeks. He also orders and organizes the hunting, fishing, collecting and gathering expeditions, and determines the conduct of the band in relation to neighboring groups. When the band's chief is, at the same time, a village chief (taking the word village with the restricted meaning of semi-permanent dwelling for the rainy season), his duties do not stop there. He will determine the moment when, and the place where, the group will settle; he will also direct the gardening and decide what plants are to be cultivated; and, generally speaking, he will organize the occupations according to the seasons' needs and possibilities.
     These rather versatile duties, it should be pointed out from the start, are not facilitated by any fixed power or recognized authority. Consent is at the origin of leadership, and consent, too, furnishes the only measure of its legitimacy. Disorderly conduct (according to the native standards) and unwillingness to work on the part of one or two discontented individuals may seriously jeopardize the chief's program and the welfare of his small group. In this eventuality, however, the chief has no coercivitive power at his disposal. The eviction of the bad people can take place only in so far as the chief is able to make public feeling coincide with his own opinion. Thus, he must continuously display a skill belonging more to the politician trying to keep hold of his fluctuating majority than to an over-powering ruler. Furthermore, he does not only need to keep his group together. Although the band lives practically alone and by itself during the nomadic period, the existence of the other bands is not forgotten. It is not enough to do well; the chief must try-and his people count on him for that-to do better than the others.

 ナンビクワラ族のバンドほど社会構造が弱く、脆弱なものはない。酋長の権威が厳しすぎると思われたり、彼が多くの女性を保持していたり(のちに酋長の一夫多妻制の特殊性について分析する)、食糧問題をうまく解決できなかったりすると、不満が生じる可能性が高くなる。その場合、個人や家族は集団から離脱して、より良く管理されていると考えられる別のバンドに加わるだろう。例えば、そのバンドは新しい狩猟や採集の場所を発見してより良い食事を得ているかもしれないし、近隣集団との交易を通じて装飾品や道具が豊富になっているかもしれないし、あるいは、成功した戦争遠征の結果としてより強力になっているかもしれない。酋長が、日常生活の問題に対処するにはあまりにも小さな集団を率いることになり、他のバンドの強欲から自分の女性を守ることができなくなる日がやってくることもある。そのような場合、彼は指揮を放棄し、最後の支持者と共に、より幸運な派閥に合流するしかないだろう。

     No social structure is weaker and more fragile than the Nambikuara band. If the chief's authority appears too exacting, if he keeps too many women for himself (I shall later analyze the special features of the chief's polygamy), or if he does not satisfactorily solve the food problem in times of scarcity, discontent will very likely appear. Then, individuals, or families, will separate from the group and join another band believed to be better managed. For instance, this band may get better fare from the discovery of new hunting or gathering emplacements; or it may have become richer in ornaments or implements, through trade with neighboring groups, or more powerful as a result of a successful war expedition. The day will come when the chief finds himself heading a group too small to face the problems of daily life, and to protect his women from the covetousness of other bands. In such cases, he will have no alternative but to give up his command and to rally, together with his last followers, a happier faction.

 しかし、ナンビクワラ族の酋長の手腕と独創性は、より積極的な方向に向けられているとはいえ、驚くべきものだ。彼は自集団や他集団が頻繁に訪れる地域について完璧な知識を持ち、狩猟地、果実をつける木の位置、その成熟時期について詳しく知っていなければならず、敵対的であれ友好的であれ、他のバンドが辿る行程についてもある程度把握していなければならない。そのため、彼は自集団の構成員よりも多く、そして速く移動し、優れた記憶力を持ち、時には外国人や物騒な人々との危険な接触において自分の名声を賭けることもある。彼は常に偵察や探索の任務に従事しており、自分のバンドを率いているというよりも、むしろその周りを飛び回っているように見える。

     But although they are oriented in a more positive direction, the Nambikuara chief's skill and ingenuity are none the less amazing. He must have a perfect knowledge of the territories haunted by his and other groups, be familiar with the hunting grounds, the location of fruit-bearing trees and the time of their ripening, have some idea of the itineraries followed by other bands, whether hostile or friendly. Therefore, he must travel more, and more quickly, than his people, have a good memory, and sometimes gamble his prestige on hazardous contacts with foreign and dangerous people. He is constantly engaged in some task of reconnoitering and exploring, and seems to flutter around his band rather than lead it.

https://doi.org/10.1111/j.2164-0947.1944.tb00171.x

 上掲の通り、レヴィ=ストロースは乾季の狩猟採集の間、ナンビクワラ族の酋長(この文脈ではバンドのリーダー)が雨季であれば容認されないほど権威主義的に振る舞うだとか、その手の内容は一切述べていない。レヴィ=ストロースの見解では、酋長は乾季も雨季も同様に、積極的に指導力や決定力を発揮する。とはいえ強制力は持たず、メンバーに尽くすことで人心掌握をして、彼らの支持や同意を得る必要がある。厳しすぎたり何人も女性を囲ったりすると自集団から離脱されてしまって、その地位を保てなくなる可能性が高い。つまり乾季であっても強制力はなく、むしろ権威主義的ではない指導力を発揮するのが優れた酋長だと説明されているわけであり、G&Wは勘違いをしているか、もしくは、残念ながら故意に捏造をしている。

 これに加えて、デヴィッド・プライスによるナンビクワラ族のリーダーシップに関する論文においても、まさにナンビクワラ族は、権威主義的リーダーシップなしで秩序を維持することができる社会の一例であり、その社会においてリーダーシップが権威主義的になるのは、常に攻撃の脅威がある状況に限られること、権威主義的に命令を下している様子があるリーダーも少数いたが、その場合は支持者を失うか、もしくは北端地域に住んでいるかのいずれかだったことが述べられている。ただしプライスは、上掲の引用のとおり、レヴィ=ストロースが酋長は強制力を持たないと述べている一方で、ナンビクワラ族の家族と社会生活についての別の文献において、「各バンドは酋長のリーダーシップを認めており(Each band recognizes the leadership of a chief)」「彼こそが集団、より正確に言えば、彼の“仲間”である成人男性の集合を指揮する者である(it is he who commands the group, or better, the assemblage of adult men who are his "companions ")」「彼らは、自分たちの命令が妻たちに尊重されるように取り計らうが、妻たちはほとんど意見を求められない(these see to it that their orders are respected by their wives, who are rarely consulted)」とも書いており、この文章はそれ以外の記述とやや矛盾して、権威主義的な酋長を描写しているようにも見えるとは付記している。とはいえ、季節性の文脈は示されておらず、これはむしろ、男性集団が女性集団に対して権威主義的であるという文脈に見える。いずれにせよ、酋長が乾季の狩猟採集生活においては、雨季なら容認されないほど権威主義的に振る舞うというような、G&Wの主張を明確に裏付けるレヴィ=ストロースの記述は見当たらず、むしろそれに反する記述が圧倒的に多い。仮にこれ以外の何らかの文献において、レヴィ=ストロースが乾季の酋長の権威主義を明確に描写している箇所があったとしても、それは上掲の引用における説明と明らかに矛盾しているので、そのような不確かな記述を根拠として重視すること自体が不適当だろう。

 次にもう一つの論点として、そもそもレヴィ=ストロースの見解それ自体が間違っているという批判がある。つまりレヴィ=ストロースの見解では、ナンビクワラ族は雨季には定住的園芸、乾季には遊動的採食と生活様式を切り換えており、G&Wもその見解に従っているのだが、実際には切り換えてなどいないという批判が別の人類学者から提起されている。これは最初にポール・アスペリンが提起したようで、1976年の論文において、レヴィ=ストロースは最も食料が乏しい時期(乾季の終わりから雨季の始めにかけて)にのみ滞在しており、ナンビクワラ族の独立した村や園芸の実践を実際には見ていない可能性が高いこと、宣教師から聞いた間接的な情報に多くを依存していることを指摘したうえで、1968年から1971年にかけて行った自身の現地調査の結果、ナンビクワラ族はレヴィ=ストロースの言うような雨季の園芸で食料を補う季節性の遊動民ではなく、実際には一年を通して定住する村を持ち、農地に大きく依存していることを報告した。ナンビクワラ族はたしかにタンパク質や新鮮な果物を狩猟採集に負っているが、基本的な主食は農地で栽培しているキャッサバであり(乾季はヤムイモも重要)、村の家は雨季の間の一時的なものではなく、劣化するまで少なくとも数年は用いられる。多数の村を訪れたアスペリンは定量的な調査・分析に基づき、雨季も乾季もほぼ同じくらい人々が入れ替わりに狩猟採集を行っていること(雨季の方が獲物や採集食料が豊富)、乾季にも村に滞在するどころか、むしろ乾季の方が滞在日数が多いこと(乾季の方が狩猟採集の成果が望めないゆえ)、乾季にも雨季の三分の二ほどの時間、農地での活動が行われていること、乾季の終盤には食料が不足するものの、全体として見れば雨季よりも乏しくはないこと、雨季と乾季それぞれの食料生産における性別ごとの労働量がレヴィ=ストロースの見解とは正反対の傾向を持つこと、トウモロコシに依存する南部を除き、方言グループによる違いは見られないことなどを報告した。レヴィ=ストロースが訪れたのは1938年なので約30年が経過しており、それ以前から導入されていた鋼鉄製道具の普及、伝染病による人口減少、農地の減少といった変化もあるが、アスペリンはそれらは大きな影響はもたらさなかったとも考察している。そしてレヴィ=ストロースは過去に他の人類学者から事実・理論・モデルの区別を明確に行わないことを指摘されている点も鑑みて、レヴィ=ストロースがあくまで彼なりのモデルとして、雨季の定住的園芸と乾季の遊動的採食といった二重性のパターンを提起しているのならいいが、そうではなく、事実の記述としてそれを提示しているとするなら、その記述の多くは事実誤認であると見なさざるをえないと結論した(人類学研究が理論的論説に偏向しており、その理論の基盤となるデータの取得・精緻化・確認・公開を疎かにしていることも批判している)。

 レヴィ=ストロースはこの批判に対して、自身の訪問時には電信線が通る道以外はほとんど手付かずの土地だったが、その後、飛行場や高速道路が建設されたり、土地会社が無慈悲に活動したり、壊滅的な疫病が発生したりしたことによって生活様式が変わった可能性、さらには当時、現地に政治的不安があったことから従来よりも遊動期間が長くなった可能性、あるいはナンビクワラ族には地域差があり、自身が多くを観察した北部では乾季には主に遊動生活をしていた可能性などを見解の不一致の要因として列挙した。このコメントはアスペリンの論文の末尾に収録されている。この応答に対してその後の1978年、デヴィッド・プライスが妥当性を吟味する論文を発表して、レヴィ=ストロースのコメントはどの点を取っても、それを裏付ける確たる根拠がないことを指摘した。そして誤りの可能性を認めず、自説を再検討しないレヴィ=ストロースの態度は科学よりも芸術を特徴付けるものであり、芸術としての評価に基づいてゴンクール賞に『悲しき熱帯』を推薦した人々を手本に取り、レヴィ=ストロースのナンビクワラ族についての描写は情報ではなく、あくまでインスピレーションとして取り扱えばよいと結論した。

 だがアスペリンは1979年の別の論文において、プライスによるその批判は不十分だと指摘したうえで、ナンビクワラ族における農耕の質および重要性に焦点を絞り、1908年から1973年頃までの歴史的記述を包括的に調査した民族誌分析を行った。その結果、レヴィ=ストロース以前も以後も、ほとんどの報告はナンビクワラ族の農耕文化の豊かさを支持しており、狩猟採集が基本でそれを雨季の園芸が補うというレヴィ=ストロースの見解は、それらの中で異常なものとして際立っていた。レヴィ=ストロースの見解とは相反する内容を報告した著者はいずれも、ナンビクワラ族の土地でかなりの時間を過ごしたという共通点がある一方、レヴィ=ストロースと同様の見解を報告した著者はいずれも、ごく短期間しかナンビクワラ族と接触しておらず、そもそもナンビクワラ族の土地の外で書かれた報告もあった。しかしながら、レヴィ=ストロース自身は4ヶ月間とはいえ、領域内を旅しており、なぜ彼の報告だけが他と異なるのか疑問が残る。この点に関してアスペリンは、1976年の自身の論文は一部間違っており、レヴィ=ストロースは実際に農地を見ていたこと、その農地の写真も一枚あったこと、しかしその辺りは他の報告書において、ナンビクワラ族の中でもあまり農耕に依存していないと述べられている地域であったこと、写真に撮影された農地は貧弱に見えることを述べたうえで、通常、ナンビクワラ族は不作への備えや作物の種類に応じて複数の農地を持っており、そのうちの生産性の低い一つしか見なかった可能性、レヴィ=ストロース自身の推測では、彼が同行したバンドはより大きな集団から分裂した一派閥のようであり、元の仲間との関係が芳しくなかったゆえに、本来の村ではなく、もはや居住していない旧村の農地に連れて行かれた可能性などを挙げた。つまりレヴィ=ストロースはたしかに農地を見たことは見たが、それはナンビクワラ族の農耕文化を代表するようなものではなかったと結論した。レヴィ=ストロースが同行していたバンドは、彼から与えられる美味しい食べ物を独占したかったゆえに、キャッサバが豊富な農地に帰ることを止めていたという可能性も指摘されている。

 最後に1991年、デヴィッド・プライスはこの件に関して短い論文を発表した。プライスは前述のレヴィ=ストロース批判をした当時、自分とアスペリンが見落としていたドイツの地質学者カール・カルニエ(1908年にナンビクワラ族の土地を旅した探検隊の一人)による1909年と1911年の論文を最近読むことができたとして、その中の記述を引用しており、そこではナンビクワラ族の生活様式の特徴として、よく建てられた小屋と村落、その近くの至る所にある常に手入れの行き届いた新旧の農園が定住傾向を示していること、その一方、多くの遊動の形跡もあり、狩猟遠征中のキャンプとしては粗末なあばら屋が使われるようであること、定住と放浪を交互に過ごしているようであり、定住民であり遊動民でもあることなどが語られている。この二つの属性の同居は一見、矛盾しているようで奇妙にも思えるが、プライスによれば、これはカルニエが社会進化論的見解を持っていたことで説明できる。カルニエは1908年の論文では、ナンビクワラ族が「すでにある程度の文明を達成している(already attained a certain degree of civilization)」と述べており、1911年の論文では、ナンビクワラ族を進化段階の過渡的な位置にいると見て、彼らが定住する「傾向(Neigung)」を持っていたと述べている。またカルニエの論文の記述は一見、レヴィ=ストロースの見解を支持しているようにも解釈できそうだが、季節性の切り換えや村を放棄しての総出の狩猟採集に関する記述はないことから、自分やアスペリンの見解を支持するものだと結論付けている。

 以上から判断するに、ナンビクワラ族が雨季の定住的園芸と乾季の遊動的狩猟採集という、季節性の切り替えを行っていたという見解はかなり疑わしいことが分かる。仮にレヴィ=ストロースの(解釈ではなく)観察それ自体は正確だったとしても、それはナンビクワラ族の中では比較的特殊な一団に依存してしまった可能性が高いだろう。ちなみに両者ともに季節性の切り換えを否定する論陣を張っていたにもかかわらず、アスペリンの論文にもプライスの論文にも、乾季に酋長が権威主義的になるというような主張をレヴィ=ストロースが行ったという記述は一切含まれていない。もしどこかでそんな主張をしているなら、両者の格好の批判対象になったはずであり、このこともG&Wが虚偽の見解をレヴィ=ストロースに帰しているという疑惑を強める。さらに加えて、実はG&Wは季節性の切り換えについての共著論文においても、レヴィ=ストロースのナンビクワラ族に関する見解を引用しており、その脚注において、上述のアスペリンの1976年の論文を異論として紹介している。するとそこで、もう一つの疑惑が生じることになる。アスペリンとプライスは互いの論文で互いに言及し合っており、それゆえに当然ながら、アスペリンの批判を読んでいるなら、プライスの批判も知っているはずだろう。しかしそうした異論を知っているなら、『万物の黎明』の季節性の切り換えの議論において、レヴィ=ストロースの見解を強い論拠として持ち出すことはできないはずであり、むしろ強い異論が存在することを読者に必ず提示して、レヴィ=ストロースの見解はあくまで参考程度に留めるといった扱いをすべきだろう。だが、もしそのような妥当な扱いがされているのなら、前出のYouTuberの批判は不可解であるとしか言いようがなくなる。つまりここまでの検討から、存在しない虚偽の見解をレヴィ=ストロースに帰しているという空虚な引用の一種、言うなれば「腹話術人形論法」の疑惑がまずあり、さらに加えて、レヴィ=ストロースの見解を揺るがす異論を紹介していない可能性という、もう一つの知的不誠実の疑惑が生じることになる。

 もし仮に『万物の黎明』において、アスペリンやプライスの異論が紹介されておらず、文献一覧にその二人の論文が掲載されていないとしたら、個人的な基準ではこの本の著者二人、とりわけ人類学が専門のグレーバーは、学者としてはまったく信頼できないという印象になる。明らかに意図的に、自分たちに不利な文献を読者から隠しているのだから。

 ここまでに指摘されてきた『万物の黎明』の(あるいは以前の著作も含むグレーバーの)主要な欠点、すなわち定量化や統計の軽視、社会科学や自然科学からの距離、科学的手法の欠如、科学的議論よりも政治的(道徳的)説得、唯物論よりも観念論、論理よりも修辞、事実に基づくよりも思想に沿った解釈、学術論文よりも一般向け書籍といった特徴を振り返ってみれば、それらはある意味での「文系」の特徴と重なる。もちろん人文学も通常は実証的志向を持っており、より確からしい知識や推論のために必要であれば、可能なかぎり科学的知見にせよ科学的手法にせよ取り入れようと努めるだろうから、ここで言う「文系」とは学問的な属性や範疇を意味するものではない。たとえば心理学は時代を遡れば概ね人文学と見なされていたが、次第に科学的・実証的なアプローチを重視するようになり、今では多くの場合、社会科学と見なされている。その一部が神経科学と重なっているように、必要であれば自然科学にも通じる。歴史学にも同様の傾向があり、モリスやシャイデルなどの書評からも分かるとおり、とりわけ定量的・統計学的研究も重視する場合、それは社会科学と見なされることが多い。あるいは考古学は広義の歴史学の一分野に位置付けられるが、放射性炭素年代測定法やDNA解析など、物理化学や遺伝学が重要な役割を果たしており、天文学や気候学も遺跡の分析に重要であり、ピラミッドなどの記念碑的建造物を分析する場合にも、物理学や数学は必須だろう。経済学も初期は思想的・哲学的だったが、学問として確立されるにつれて数理的・実証的になり、おそらく現代の主流派経済学を学んだり研究したりする際、アダム・スミスやマルクスの原著を有り難がって読む人は非常に僅少だろう。こうした学問の現代化、広義の科学化傾向とは正反対の現象として、その非科学的傾向ゆえに前世紀後半、主流の心理学において無視されるようになった精神分析がその後も、文芸批評においては根拠はないにもかかわらず有名な属人的思想として、大きな影響力を持ち続けた例がある。つまりここで言う「文系」とは大まかには、学術に接する際の非学術的な傾向や指向、検証され更新される知識よりも属人的な思想や根拠薄弱な解釈を重視する態度などを意味する。これは学問分野としての「文科系」ではなく、慣習的・宗教的・芸術的な(あるいは学問ではない意味での「文学」的な)様式としての「文化系」と言ってもいいかもしれない。

 そしておそらくは人類学にも科学化の傾向があり、実証的・科学的アプローチを重視する学者は唯物論的・生態学的・進化的な見方をより重視するようになった一方、グレーバーのような学者はそうではなかったのだろう。もちろんグレーバーは「文系」的な傾向が見受けられるとはいえ、その種の文芸批評ほど観念論的でもなければ、無根拠な思想に多くを依拠してもおらず、『負債論』のくだりで触れたように、ポストモダニズムの蒙昧主義的な文章を忌避しており、経験的(実証的)証拠を引用する姿勢もあり、むしろ『万物の黎明』においては共著者に頼って、考古学という「科学」への依拠さえ顕示している。では、それは時として「文系」と同一視されることもある人文学者からみて、どのように評価されるだろうか。

 その一例として、スミスの書評でも触れられていた哲学者、クワメ・アンソニー・アッピアによる書評がある。アッピアは主として倫理学・政治哲学などの領域で活動しており、ニューヨーク・タイムズにコラムを持つなどして、広く公共知識人と見なされているようだ。とはいえ初期には言語哲学・心の哲学・確率意味論といった分析哲学系の研究をしていたようで、おそらくは標準的な訓練を受けた英米系の哲学者だと思われる。アッピアの書評は『万物の黎明』出版後の最初の直截な批判だったようで、その後、ささやかな論争に発展した。

  • G&Wは、17世紀以前のヨーロッパ知識人には社会的不平等という概念がなく、それは新世界から輸入されたもので、とりわけ北東アメリカ森林地帯の先住民の価値観こそが啓蒙思想家たちを啓発したと主張している。彼らはそれを代表するものとして当時、北米のフランス植民地に軍人として派遣されたラオンタン男爵が帰欧後の1703年、先住民と交わした会話をもとに発表した対話編の中の、アダリオという登場人物によるヨーロッパ批判を挙げており、このアダリオは、カンディアロンクという実在したウェンダット族の政治家をモデルにしているとされる。G&Wによれば、登場人物のアダリオはカンディアロンクと同一と見なしてよく、アダリオは対話編の中でヨーロッパ社会の教義・支配・不平等を批判して、彼らが「先住民批評」と呼ぶべきものを体現していたという。だが主流の歴史学者たちは、登場人物のアダリオの声と実在したカンディアロンクの声をそのまま同一とは見なしておらず、ラオンタンはアダリオを通じて、部分的に自分の考えを述べていると見なす傾向にある。実際、アダリオは自身の部族について、財産の概念も不平等も法もなかったと述べているが、これはウェンダット族には当てはまらない。またアダリオは反教権的なラオンタンの理神論思想を代弁しているかのように、キリスト教神学に対するピエール・ベールなどの哲学者の見解に基づく具体的な批判、フランス司法制度に対する著しく詳細な批判を展開している。

  • ラオンタンの思想のような時代背景をもっと踏まえれば、啓蒙時代以前のヨーロッパ人には社会的不平等の概念が欠けていたというG&Wの主張は放棄せざるをえなくなるだろう。たとえばフランシスコ・デ・ヴィトリア(1486年頃~1546年)は、他のサラマンカ学派の人々と同様に、社会的不平等について多くを語っており、すべての人は本質的に平等であると6世紀に主張したグレゴリウス1世の言葉を引用することができた。あるいはドイツの急進派トーマス・ミュンツァーは1525年、農民の蜂起を煽り、支配者からの救出を命じる神の言葉を旧約聖書から引用した。支配と社会的不平等に対する激しい反対は急進的な宗教改革の一部であり、同時期、アナバプティストのフッター派は私有財産を「共有財産」に置き換え、権威ある地位は選挙で決定した。

  • G&Wは1580年のモンテーニュの有名なエッセイにさえ踏み込まない。そのエッセイでは、探検家が南米からフランス宮廷に連れてきた三人のトゥピナンバ族の逸話が語られており、この三人は、フランス人が自分たちの中から選んだ者ではなく、小柄なシャルル9世に従うこと、あらゆる物資で満たされた人々がいる一方で、物乞いをする飢えと貧困で痩せこけた人々もいること、そのような大きな不平等と不正に耐える不幸な人々が、他人の喉をつかんだり放火したりしないことに驚愕した。もしこの逸話をきちんと紹介したら、カンディアロンクによる先住民批評がヨーロッパ社会に大きな衝撃を与えたという、自分たちの主張が損なわれることを恐れたのだろうか。

  • G&Wは、ルソーは国家出現以前にはすべてが素晴らしかったと考えた一方、ホッブズは国家出現以前にはすべてが腐っていたと考えたという、お馴染みの見解を踏襲している。だがこの二人が実のところ、国家の台頭に直接先行する時期には事態が酷かったという点において一致していたことを見逃している。ホッブズが「万人の万人に対する闘争」について語る段階において、ルソーは「互いに危害を及ぼし合う悪しき性向」について語る。ルソーはホッブズよりも物語を早い段階から語っているだけで、両者は結局は同じところを通っている。

  • G&Wは「人類文明の両義的進歩についての標準的な歴史のメタナラティヴ(our standard historical meta-narrative about the ambivalent progress of human civilization)」が「主として先住民批評の脅威を無力化するために発明された(invented largely for the purpose of neutralizing the threat of indigenous critique)」と主張している。彼らによれば、農業から政府へという段階的な社会進化論は、先住民批評に啓発された自由の声に対する「保守的な反動」を代表しており、中央集権的権威なしでは生きていけないと私たちを説得するための物語だという。だが実際には、かつての著名な社会進化論者たちはむしろ、それとは反対の立場を取っていた。ルイス・ヘンリー・モーガンは中央集権を批判しており、解放の政治・民主主義・権利の平等などを支持していた。ソースタイン・ヴェブレンは、一部の学者にはアナーキズムと見なされる非国家主義的な社会主義を支持した。ゴードン・チャイルドは労働組合主義の傾向を持つ社会主義者であり、根本的に異なる政治体制への希望を持っていた。20世紀中頃、社会進化論が人類学者の間で不評になった時、それを最も熱心に擁護したのはレスリー・ホワイトであり、ホワイトは国家主義を警戒する社会主義者だった(ホワイトはマーシャル・サーリンズの指導教官であり、サーリンズはグレーバーの指導教官だった)。近年最も注目すべき穀物から国家への物語を提示したのは、ジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史』であり、彼にはアナーキズムに関する著作もある。つまりこのメタナラティヴの代表的な提唱者たちは、現状への批判を無効化するどころか、総じて政治的変革を志向していた。

  • G&Wの議論はいくつかの修辞的戦略に大きく依存している。一つは二分法の誤謬であり、互いに排他的な二つの選択肢が示される(それ以外の可能性が誤って排除される)。もう一つは誤謬の誤謬であり、結論を支持するために悪い論拠が示されたという理由で、その結論は間違っていると決めつけたり、結論に反対する悪い論拠が示されたという理由で、その結論は正しいと決めつけたりする。しばしば証拠の不在が証拠の欠如として扱われたり、ある主張が不可能ではないという議論が、その主張が真実であるという議論に変換されたりもする。

  • G&Wはメソポタミアのウルクの初期について、君主制ではなかったとしか言えず、それ以外のすべては推測にすぎないと最初は適切に述べる。それは有力な一族や軍人や司祭による支配など、その他様々な政治体制の可能性を排除するものではない。だが100ページ後には、王のような支配者がいたか、支配者がまったくいなかったかという二分法の誤謬が発動して、読者は「少なくとも7世紀にわたる集団的自治」と断言されることになる。

  • G&Wはウクライナのトリピッリャの巨大遺跡に関して、最大の集落だったタリャンキには1000以上の家が発見されていることから、その人口が10,000人を大きく超えていた可能性があると述べたうえで、それは「都市」と呼ぶべきであり、「高度に平等主義的な組織が都市規模で可能であったことの証拠」だとする。だが、彼らの説明の大部分において引用されている考古学者のジョン・チャップマンは、その人口数の見積もりは信頼性の低い「最大主義モデル」だとして、1000戸の家が同時期に使われていたことには懐疑的な立場を取っている。チャップマンは少なくとも九つの独立した証拠から、これらの集落は都市には程遠いと結論付けており、タリャンキはむしろ祭りの会場のようなものだったかもしれないと推測している。

  • G&Wは、考古学者ジョナサン・マーク・ケノイヤーの研究を引用して、紀元前2600年頃のインダス文明の集落、モヘンジョダロについて「時間とともに、専門家たちはインダス渓谷の都市文化において、祭司王や戦士貴族、あるいは我々が“国家”と認識するようなものの証拠はないという点でほぼ一致するようになった(Over time, experts have largely come to agree that there ’ s no evidence for priest-kings, warrior nobility, or anything like what we would recognize as a ‘ state ’ in the urban civilization of the Indus valley)」と述べている。だが実のところ、ケノイヤーはモヘンジョダロは都市国家として統治されていた可能性が高いと結論付けており、G&Wはそれには言及していない。

  • G&Wは4千年前に繁栄したイラクのマシュカン・シャピルについて、考古学的調査が「著しく均等な富の分配を明らかにした(revealed a strikingly even distribution of wealth)」うえに、そこには「明白な商業的または政治的権力の中心がない(no obvious center of commercial or political power)」と述べている。だが実のところ、G&Wが依拠している文献には、世帯間の富の格差や行政の中心だったと思われる区画についての言及があり、その区画は考古学者たちから、宮殿と同様の行政機能を持っていた可能性があると見なされている。その文献は、マシュカン・シャピルの商業中心地と行政中心地が別々だったと述べているだけで、それらが存在していないとは述べていない。

  • G&Wは、約9000年前に定住が始まった古代アナトリアの原始都市(proto-city)、チャタル・ヒュユクには中央権力が存在したことを示す証拠がない一方で、女性の小型像が男性のそれよりも数多く発見されていることから、それが新しい社会形態における新しい女性の地位を示すものだと主張している。だが、彼らは見つかった小型像の大多数がむしろ動物であることに言及しておらず、女性像が女性の権限の確立を示しているかどうかは、慎重に判断する必要がある。裸の女性像が女性中心の社会を示唆するという見方に読者は説得力を感じるかもしれないが、G&Wが青銅器時代のミノア文明クレタ島の文化について議論する際には、裸で描かれているのが男性だけであるという事実が、女性中心の社会の証拠として扱われている。そもそもチャタル・ヒュユクの大部分はまだ発掘されておらず、その社会構造はよく分かっていない。

  • G&Wは、とある美術史家がひと昔前、テオティワカンを「都市生活におけるユートピア的実験(utopian experiment in urban life)」だったと提起したことには触れても、その後、考古学者たちによって導き出された異なる結論については触れない。読者に提示される展望は心躍るものだが、その証拠が明瞭に思えるのは都合よく濾過されているからだ。

  • G&Wが主流の先史学を攻撃した後、その埃がおさまってみれば、実は『万物の黎明』は彼らの批判する「標準的な歴史のメタナラティヴ」と大きく対立するところはない。彼らも「確かに、歴史には傾向がある(There are, certainly, tendencies in history)」と述べているとおり、現代の標準的な説明は不可避の法則ではなく、ある発展が別の発展に有利な条件を作り出すという、まさに傾向に関するものだ。それゆえに長期的にみれば農業の後には集落・都市・政府が続き、彼らも認めるとおり、現代の生活は穀物なしには考えられず、また狩猟採集社会は定住農耕社会よりも資本蓄積と不平等が少ない傾向がある。

  • 『万物の黎明』には、至極もっともらしい洞察も満ちている。人間が支配を求める一方で、支配されることに抵抗すること、自己組織化・自発的結社・相互扶助が我々の社会史における重要な力であること、これらを読者は容易に受け入れることができるだろう。だが、G&Wはそれらを提示するだけでは満足せず、支配者や規則のない大規模で密集した都市のような集落の存在を確立しようとする。ところが推測の煙が晴れてみると、明確な事例は一つも残らない。

  • とはいえ実証的な欠陥はあるにせよ、この本は想像力豊かな成功作と見なされるべきだ。マルクスの『資本論』も推測の歴史の積み重ねの上に成り立っていたが、マルクス主義の中核的教義は、立証も反証もされるものではない。『万物の黎明』も同様に、考古学的証拠や民族誌的証拠とは独立した主張を持っている。社会批評が平等の名の下に進行する時代にあって、この本は社会予言の形で、我々の関心事は自由であるべきだと主張している。グレーバーは生前、まさにそのような予言者だった。従ってこの本には、ルソーによる次の言葉が相応しい。「我々が取り組むような研究は、歴史的真実の追求ではなく、仮説的かつ条件付きの推論として捉えるべきであり、物事の実際の起源を明らかにするというよりも、その本質を明確にするのに適している(One must not take the kind of research which we enter into as the pursuit of truths of history, but solely as hypothetical and conditional reasonings, better fitted to clarify the nature of things than to expose their actual origin.)」

  • 私たちはワールド・ワイド・ウェブ、同性婚、人工知能、気候危機の時代に生きている。これらについて考える際、先史時代の過去を覗き込む必要はない。アナーキストの伝統における社会予言者たちは、社会的および政治的想像力を広げるという重要な貢献をしてきた。ならば私たちは未来を見据えて、そこに次の段階を考えることができる。ルソーもまた『社会契約論』を出版するまでに、原始的なユートピアに依拠した考えを放棄しており、より良い社会契約を通じて社会を再編成することを志向していた。私たちは過去に未来を見つけることはできない。

 主たる批判としては、哲学者らしく論理的な誤謬の指摘、人文学者らしく文献を踏まえてのチェリー・ピッキングの指摘があり、実際にアッピア自身が書評内で実践しているとおり、「巻末注を掘り下げる机上の考古学を行う読者は、本書の主張とその出典の内容との間の不一致に繰り返し遭遇するだろう(A reader who does the armchair archaeology of digging through the endnotes will repeatedly encounter this sort of discordance between what the book says and what its sources say.)」と述べている。また賞賛の体裁を取りながらもおそらくは皮肉を込めて、『万物の黎明』を実証的な学術書とは別枠の、予言者的な社会批評が持ち味の思想書としてその洞察や想像力を評価しており、そして最後に、これからの未来を考える際に先史時代は参考にならないという、根本的な批判で締めくくられている。とはいえ「机上の考古学」を行ったアッピアはもちろん考古学に関しては非専門家であり、それゆえか、書評の掲載されたThe New York Review of Booksに対して、ウェングロウから以下のような反論が寄せられた。

  • アッピアは、『万物の黎明』におけるウクライナの巨大遺跡(神殿・宮殿・中央管理・豊かな埋葬などの社会的不平等の証拠が見られない巨大な先史時代の集落)の議論に関して、考古学者ジョン・チャップマンの論文を引用しながらも、チャップマン自身は支持していない、信頼性の低い最大主義的な人口の見積もりが過大に提示されていると主張している。またチャップマンはこの巨大遺跡を都市ではなく、季節性の祭りの場だと主張しているという。だが実際には、チャップマンは居住モデルを季節的なものから比較的恒常的なものまで三つ提案しており、どれも否定してはいない。さらにどのモデルを採用するにせよ、巨大遺跡は「都市」と見なすことができると論じている。しかも『万物の黎明』で提示された人口はむしろ、他の考古学者の最大主義的な見積もり(4万人以上)よりも少ない。

  • アッピアは、モヘンジョダロの議論に関して、インダス文明の青銅器時代の専門家、ジョナサン・マーク・ケノイヤーの研究が誤解されていると主張している。その理由は、ケノイヤーはモヘンジョダロの古代遺跡について「おそらく都市国家として統治されていた」と述べている一方、ケノイヤーを引用している『万物の黎明』では、それとは正反対の見解が主張されているからだという。だが、その議論においてはケノイヤーの、モヘンジョダロの政治組織に関する見解を引用しているのではなく、都市における工芸の専門化に関する研究を引用しているだけだ。さらに言えば別の専門家であるグレゴリー・ポセールは、インダスの都市がより平等主義的な路線で組織されていたと論じており、最新の学術研究もそれを支持している。

  • アッピアは、メソポタミアの初期ウルクの議論に関して、君主制の証拠の欠如から集団的自治の実例へと、100ページの間に話が飛躍していると批判している。だがそれらのページの間、アッシリア学者・古代史学者・考古学者によるこの主題に関する研究を取り上げており、そうした研究によれば、より後の君主制と帝国の時期でさえ、メソポタミアの都市は近隣住民の集会・地方区・評議会を通じて、驚くべき自治の程度を示していた。

  • アッピアは、テオティワカンの議論に関して、その政治構造に関する美術史家エスター・パストリーの見解を受け入れる考古学者はほとんどいないだろうと示唆している。だが実際には、最新の考古学研究は、テオティワカンは王朝的な人格崇拝を否定し、富や資源、質の高い住居がより平等に分配される社会を築いたというパシュトリーの見解を支持している。反対意見をすべて列挙することも可能ではあるが、それをしない理由は『万物の黎明』で以下のように述べている。「もし私たちが取り上げた題材に関する既存の解釈のすべてを概説したり、反論したりしようとしていたら、この本は二倍か三倍の大きさになっていただろう(Had we tried to outline or refute every existing interpretation of the material we covered, this book would have been two or three times the size)」

  • アッピアは、チャタル・ヒュユクの議論に関して、そこに「女性中心の社会(gynocentric society)」が見られるという主張が行われていると解釈している。だが実際には、そのような主張はしておらず、新石器時代初期の社会における女性の知識や役割の重要性に注目しているだけだ。

  • アッピアは、ヨーロッパ人が啓蒙時代以前には社会的な平等・不平等の概念を欠いていたという主張が『万物の黎明』において提起されていると解釈している。だが実際には、それに反する一連の事例が提示されていることからも分かるとおり、『万物の黎明』はより特定の別の問題を提起している。すなわち、文明を持たない人間が「平等な社会」に生きているというコンセンサスがヨーロッパ知識人の間でどのように形成され、「不平等の起源」を探求することが意味を持つようになったのか、ということだ。アッピアはグレゴリウス1世、トマス・ミュンツァー、モンテーニュなどを引き合いに出しているが、いずれも平等と不平等について強い感情を示しているだけで、その起源を探ることを深く考えてはいない。

  • ルソーが1754年に「不平等の起源は何か」という斬新な問いに対して出した答えは、ヨーロッパ社会に対するアメリカ先住民批評によって形作られた人間の自由の理想、およびジャック・テュルゴーの著作によって当時広まりつつあった技術的進歩の段階としての歴史の概念、この二つの統合であったと自分たちは主張している。ルソーによって語られた物語では、文化的進歩(農業・冶金・文字・都市・芸術の発明・哲学の発明など)の各段階には、自由の喪失がつきまとう。『万物の黎明』は、この物語が現代の考古学や人類学の事実と食い違っていることを示している。

 ウェングロウは、「人類の過去とより大きな自由への展望を人工的に薔薇色に描くために、情報源を歪曲している(distort our sources in order to present an artificially rosy picture of our species’ past and its prospects for greater freedom)」とアッピアの書評が主張しているとして、それに対する反論を列挙している。とはいえ、ラオンタン男爵とカンディアロンク、社会進化論者たちの政治的姿勢、イラクのマシュカン・シャピルについての批判は素通りされている。そしてこの反論に対して、今度はアッピアが反論を寄稿した(記事としては、二人の遣り取りがまとめて掲載されている)。

  • 『万物の黎明』では、「専門家たちは大筋において、証拠がないことに同意するようになった……インダス渓谷の都市文明には、それを”国家”として認識するようなものが何もないことに(Experts have largely come to agree that there’s no evidence for…anything like what we would recognize as a ‘state’ in the urban civilization of the Indus Valley)」と述べられている。だが原資料を見れば、専門家の間でもこの論点についてかなり意見が分かれていることが判明する。自分の指摘は、モヘンジョダロの政治組織に関するケノイヤーの見解を誤って提示しているという意味ではなく、むしろ(工芸の専門化に関する研究は引用しているにもかかわらず)政治組織に関する見解は引用していないという意味であり、自説に反する見解は取り上げないというパターンの一例を示したまでだ。「最新の学術研究」がポセールの見解を支持しているとも反論しているが、ウェングロウが「最新の学術研究」として念頭に置いているアダム・S・グリーンの論文を見てみると、たしかに平等主義の証拠を強調しているとはいえ、ケノイヤーの「管理エリート」モデルとポセールの「無国家パラダイム」の両方に慎重に異論を唱えており、その暫定的な見方から、インダス政治についてはいまだ論争の的であることが分かる。

  • 『万物の黎明』では、テオティワカンは紀元300年頃から平等主義と集団統治を受け入れて、支配者はおろか「強力な指導者たち(strong leaders)」さえも拒絶したという見解に考古学研究が収束してきたと述べられている。それは「すべての証拠が示唆する(all the evidence suggests)」ことであり、「他の学者たちも事実上、その他のあらゆる可能性を排除して、同じような結論に達した(other scholars, eliminating virtually every other possibility, arrived at similar conclusions)」とされ、またテオティワカンの自覚的な平等主義は「その遺跡を最もよく知る人々の間での一般的な合意(general consensus among those who know the site best.)」になっているという。しかし純粋に専制的であったか、純粋に集団的であったかという選択を強いるのは二分法の戦略であり、自分の主張は、パストリーの見解を支持する考古学者がほとんどいないということではなく、それ以外の結論に達した考古学者も多いということだ。その中には『万物の黎明』がパストリーの見解を支持する証拠として引用した権威、たとえばテオティワカンの階層制と軍国主義の証拠を目録化して、その統治が寡頭制になった可能性があると考えたルネ・ミロン、パストリーの「ユートピア的」説明に異論を唱え、総督の下にある共和国だったルネサンス期のヴェネツィアをモデルとして提案したジョージ・カウギルなども含まれる。碑文学者のデヴィッド・スチュアートは、4世紀末から5世紀初頭、フクロウのような象形文字で表現されている人物がテオティワカンの王であったと考えた(この象形文字は人物ではなく役職を表していた可能性もある)。君主ではなくエリート議会または貴族制が存在したかもしれないと推測する他の学者もいる。テオティワカンが「都市生活のユートピア的実験」だったという可能性もあるだろうが、それが専門家の合意を代表しているとは言えない。

  • 『万物の黎明』で提起されるウルクの「少なくとも7世紀にわたる集団的な自治」という見解についてだが、その証拠が本当に君主制時代の区や評議会に見出されるのだろうか。その見解が正しいとも間違っているとも言わないが、「集団的な自治」という言葉が非常に寛容な意味合いで使われているのではない限り、それを確立された事実として提示するのは無理がある。

  • 『万物の黎明』ではたしかに、チャタル・ヒュユクの議論に関して「女性中心的(gynocentric)」という言葉は使われていない。実際には「母権的(matriarchal)」という言葉が使われており、その中に含まれる「-archy(支配)」という意味との関連を避けるために、その言葉は何段落もかけて、注意深く特別に定義されている。だからこそ、自分はその言葉を使うのを避けて別の言葉を使ったのだ。そして『万物の黎明』ではそこから、垂れ乳の太った女性の小型像について、それはエロスや多産とは関係がなく、「おそらく何らかの母権者であり、その形態は年長の女性への関心を示している(quite possibly matriarchs of some sort, their forms revealing an interest in female elders)」ことが明らかだとする。自分の批判の趣旨は、もし発掘された小型像の大半が四足動物(またはその角)であることに言及していれば、読者の証拠に対する評価が変わった可能性があるということだ。G&Wは自分たちの仮説を扱う際、過保護な親のように、不利な証拠を遠ざける傾向がある。

  • ウクライナの巨大遺跡に関して、ジョン・チャップマンは2017年の論文において「何千人もの人々からなる恒久的で長期的な定住地」という見方に意義を唱え、この見方を最大主義モデルと標準モデルに分類したうえで、「唯一の論理的な対応は、標準モデル(最大主義モデルは言うまでもない)を、より恒久的でない季節的な居住様式を想定する最小主義モデルの見解、または遙かに少数の人々の共同生活を伴う、より小規模な恒久的居住の見解に置き替えることである(the only logical response is to replace the standard model (not to mention the maximalist model) with a version of the minimalist model that envisions a less permanent, more seasonal settlement mode, or a smaller permanent settlement involving coeval dwelling of far fewer people.)」と述べている。この説明では、巨大遺跡は「都市」の辞書的定義や一般的な意味から懸け離れている。G&Wは、考古学者の大半が150ヘクタールや200ヘクタールの「密集した居住地」を都市と呼ぶだろうと述べるが、その一方、チャップマンは「巨大遺跡は低密度の集落だった」と考えている。たしかに現在では、考古学者は異なった「都市」の定義を用いることもある。この定義は、小村のように見えるものも含めて、集落がその辺りで最大のものであれば、都市として機能する可能性があるという見方に基づいている。そしてウェングロウが引用した論文は「都市」を明確に定義することを意図的に避けているが、その前提条件としては、絶対的な規模を除外している(従ってこの定義では、小さな村や祭りの場であっても「都市」になりうる)。だが、G&Wの都市に関する主張においては、絶対的な規模を除外することはできない。なぜなら、多数の人々が規則や支配者なしに密集した居住地で生活できるかどうかを彼らは問題にしており、しばしば都市が「大規模な市民的実験」として出現したと述べているのだから。

  • 『万物の黎明』では、中世において「”社会的平等”――ひいてはその反対としての不平等――は概念として、単純に存在しなかった(‘social equality’—and therefore, its opposite, inequality—simply did not exist as a concept)」と述べられている。だが当時の多くの人々は、かつてのグレゴリウス1世と同様に、人間は原初の楽園の状態ではその自由において平等を享受しており、その後、罪深い行いによって主人と奴隷が生まれたと考えていた。そのような議論は現実においても反響を呼んだ。だからこそ1381年のイギリスの農民反乱の際、司祭のジョン・ボールは「アダムが耕し、イヴが紡いだ時、誰が貴族であったか?」という格言を演説で引用して、原初の階級のない社会を武力によって取り戻すべきだと主張したのだ。そのような中世の、社会的不平等の性質や起源に関する議論を無視すべきではない。

 アッピアは以上のような反論を述べた上で、ガートルード・スタインの「本当なら興味深い(Interesting if true)」という言葉を引用して、読者に慎重な態度を促しながらも、取って付けたような賞賛を添えて論争を収めている。つまりこれ以上のウェングロウの反論はないわけだが、本当のところ、どちらの主張が妥当なのだろうか。あくまで大まかにではあるが、ここから少しばかり検討する。

ラオンタン男爵とカンディアロンク

 この論点は、(1)基本的に著者ラオンタンの思想を代弁したものと解釈されることが多い対話編の中のアダリオの主張や見解を、むしろカンディアロンクのものと見なすのに十分な根拠はあるのか、(2)この対話編に含まれる「先住民批評」が本当に啓蒙主義にそこまで大きな影響を与えたのか、という二つがある。

 まず(1)について、G&Wによるルソーと啓蒙主義の議論を「学術的不正に危険なほど近い」と評した近世フランスが専門の歴史学者、デヴィッド・ベルの書評によれば、専門家の主流の見解では、登場人物のアダリオは部分的にはカンディアロンクに基づいているものの、対話編それ自体は基本的にフィクションであり、非ヨーロッパ社会の観察とヨーロッパの知的伝統から得た議論を融合させた作品だと考えられているという。その根拠として、アダリオによるヒューロン族(ウェンダット族やワイアンドット族とも呼ばれる)の宗教の説明が同時代のヨーロッパの理神論に似ていること、ヨーロッパの結婚習慣に対する批判が初期のフェミニスト哲学者フランソワ・プーラン・ド・ラ・バールなど同時代の作品を反映していることなどが挙げられている。その一方、G&Wが議論において引用する情報源を見てみると、実のところ、彼らの主張を裏付けていないものが多い。たとえば、カナダの学者ジョン・ステックリーは引用された文献において、いくつかの言い回しは先住民のそれに聞こえるが、アダリオの批判的な声はラオンタンのものであり、男爵がヨーロッパ社会で経験した苦い経験を反映していると述べている。G&Wが最も依拠している文献は、セネカ族の血を引く学者バーバラ・アリス・マンの著作であり、マンは対話編がカンディアロンクの生の声を記録したものだと主張している。だが、マンの根拠は何かと言えば、北米滞在中にカンディアロンクの主張を書き留めたと語る対話編それ自体の序文の言葉にすぎない。そしてこの時代のヨーロッパの作家にとって、フィクションの作品を実際の出来事の体験談として紹介するのはありふれたことだった。また(2)については、先住民に関する文献が啓蒙主義の勃興に影響を与えたのは確かだが、科学革命、古代人と近代人という論争、スピノザの急進的な宗教的思想、定期刊行物の台頭、絶対君主制批判など、他にも様々な事柄が影響を与えており、その中で「先住民批評」の際立った影響、それもカンディアロンクという特定の一人の影響を強調する見方は、あまりにも無理筋だという。加えてベルは、ルソーに関するG&Wの記述には、ウィキペディアをちょっと読めば誰でも分かるほどの多くの誤りが含まれていることも指摘している。

 上に出てくるカナダの学者ジョン・ステックリーはウェンダット族の言語および文化の専門家であり、ウェンダット語を話すこともできるという。ウェンダット族はワイアンドット族とも呼ばれるが、ワイアンドット族の部族政府が運営するwyandot.orgには、ステックリーの書いたカンディアロンクの短い評伝が掲載されており、ベルが言及したステックリーの文献はおそらくこれだと思われる。以下にその一部を引用する。

 17世紀後半におけるヨーロッパ人の先住民についての認識や記述には、基本的に鋭く対立する二つの種類、すなわち「卑劣な野蛮人」と「高貴な野蛮人」があった。卑劣な野蛮人は動物のようで、狡猾で、残忍で、論理よりもむしろ本能や情熱に従っていた。高貴な野蛮人は、文明の堕落した影響から自由な自然状態で生きることを通じて、純粋さを身につけた。これらの特徴は、先住民文化の真の側面からというよりも、ヨーロッパ文化に対する著述家の批判的な感情から生じている。カンディアロンクの関心と行動がフランス人のそれと一致し始めると、フランス文学における彼の描写は、卑劣な野蛮人から高貴な野蛮人へと変化していった。
 カンディアロンクの新しい人物像の最も極端な例は、ミチリマキナックでワイアンドット族の指導者に出会って、親しい友人であると主張したルイ=アマンド・ド・ラオンタン男爵の著述に見られる。「アダリオ」という偽名のもと、高貴な野蛮人カンディアロンクは、男爵の急進的で政治的に危険な見解を安全に表現するための藁人形として使われた。ラオンタンの『著者と野蛮人の間で有名なアダリオとの会談または対話』の中で、アダリオはフランスの法制度や医学界、戦争、教皇、イエズス会といったヨーロッパの諸制度について批判的に語っている。いくつかの言い回しは先住民のように聞こえ、カンディアロンクの発言から引用したのかもしれないが、アダリオの純粋な批評の声は、ラオンタンの色褪せた知的なアクセントで語られている。それはミチリマキナックのワイアンドット族とは無縁の生活領域であるヨーロッパ社会において、男爵が経験した数々の苦い経験を反映している。

     European perception of and writing about Native people in the late 17th century came in basically two sharply~opposed varieties: nasty savage and noble savage. The nasty savage was like an animal: possessing cunning, being vicious, and following base instincts or passions rather than logic. The noble savage partook of purity through living in a state~of-nature free from civilization's corrupting influences. Its characteristics stem more from the author's critical feelings towards European culture than from genuine aspects of Native culture. As Kandiaronk's interests and actions began to dovetail with those of the French, his portrayal in French writing shifted from nasty to noble savage.
     The most extreme example of Kandiaronk's new characterization appears in the writing of the Baron Louis-Aamand de Lahontan, who met the Wyandot leader at Michilimakinac, and claimed to be a close friend. Under the pseudonym "Adario", the noble savage Kandiaronk was used as a straw man for the safe articulation of the Baron's radical, politically- dangerous views. In Lahontan's "A Conference or Dialogue between the Author and Adario, A Noted Man among the Savages", Adario spoke critically of such European institutions as the French legal system and medical profession, war, the Pope, and the Jesuits. Although some turns of phrase sound Native, and may have been lifted from Kandiaronk's speeches, Adario's critical voice of pristine purity spoke with Lahontan's jaded intellectual accent. It reflects a wealth of embittering experiences the Baron had had with European society in areas of life that had not touched the Wyandot of Michilimakinac.

https://www.wyandot.org/kandiaronk.htm

 このようにウェンダット族(ワイアンドット族)の専門家の見解では、ベルやその他の主流学者の見解と同様に、アダリオは主としてカンディアロンクではなく、ラオンタンの声を代弁していると考えられている。同様の見解からの『万物の黎明』に対する批判は、学術論文においても確認できる。18世紀フランス語圏の文学・芸術を対象としたオープンアクセスの査読付き学術誌『Le Monde français du dixhuitième siècle(18世紀のフランス世界)』は2024年、「Rousseau, la critique autochtone, et The Dawn of Everything(ルソー、先住民批評、そして『万物の黎明』)」と題した特集を組んだ。この特集は5人の人文学者の論文を掲載しているが、そのうちの『Was Kandiaronk in France?: Kandiaronk, Adario, and “Indigenous Critique”(カンディアロンクはフランスに行ったのか?:カンディアロンク、アダリオ、“先住民批評”)』という論文では、G&Wの主張に対する異議が唱えられている。

  • G&Wは、対話編がフィクションであり、アダリオの意見が著者ラオンタンの意見を代弁しているという、主流の学術的見解に対して不満を表明している。そして「先住民学者たちは、カンディアロンク自身について分かっていることに照らして資料を再検討した――そしてまったく異なる結論に達した(indigenous scholars returned to the material in light of what we know about Kandiaronk himself—and came to very different conclusions)」と述べたうえ、対話編の中の「基本的な主張がカンディアロンク自身のものであると信じるに足る十分な理由がある(every reason to believe the basic arguments were Kandiaronk’s own)」と宣言して、アダリオの見解とカンディアロンクの見解を同一視する。そのようにして従来の定説(対話編はあくまでラオンタンの文学的創作であり、実在のカンディアロンクの見解の記録ではない)を覆そうとする。これは対話編を先住民によるヨーロッパ批評として読むことができるという、魅力的な示唆でもある。

  • だが、18世紀の専門家を含む学者たちは、彼らのデータや文脈の提示に批判を加えている。G&Wはラオンタンに関する二次文献を用いて、「主流」の歴史学者たちが先住民知識人による知的貢献を抹消しているという主張を展開しているが、「圧倒的多数の歴史学者たち」がそれを行っているという彼らの一般化を裏付ける文献はほとんど提示していない。彼らが重要な文献を提示するのは、アダリオがラオンタンなのかカンディアロンクなのかという問題について議論する時だけであり、しかもその際、G&Wが引用するほとんどの情報源が、実際には彼らの主張を支持していない。たとえば引用されるシウイ・ジョルジュの1999年の著作は「ラオンタン男爵の思想についての簡単な考察を提供する」章において対話編に言及している(つまり対話編はラオンタンの思想の表現として取り扱われている)。実のところ、G&W以前に対話編をカンディアロンクの考えの記録と見なすべきだと主張した学者はバーバラ・アリス・マンだけであり、マンはその議論を非常に断定的な言葉で進めている。そしてG&Wの解釈はマンの解釈に密接に従っている。

  • 対話編の中で、アダリオは自身がフランスを旅行して、その社会を実際に観察した経験があると述べており、この記述もまた学者たちは、(著者ラオンタンの見解を代弁するアダリオによる)フランス生活の詳細な批判を可能にする虚構として解釈してきた。実際、アダリオは対話編の中でフランスの司法制度や法律、様々な習慣、キリスト教の教義、体液病理説など、その多くはフランスの生活に関する直接の知識が必要である事柄について語っている。だが、G&Wは(アダリオのモデルの)カンディアロンクが実際にフランスを訪問しており、それゆえに対話編は文字どおり「先住民批評」の表現として読むことができると主張している。

  • しかし実際のところ、カンディアロンクがフランスを訪れた可能性はきわめて低い。カンディアロンク訪仏の証拠としてバーバラ・アリス・マンおよびG&Wが引用する唯一の資料は、1703年の英訳版を原本として1905年に編集された対話編において、編者のルーベン・ゴールド・スウェイツがつけた脚注であり、その脚注には「ラオンタンは、この興味深い野蛮人の旅行について語っている唯一の当時の著者である。だが、1691年のとある手紙には、フランスに渡って王に会いたいと願っている一人のヒューロン族への言及がある。ひょっとしたら、これは彼の部族で最も有名なアダリオであったかもしれない。1885年のカナディアン・アーカイヴのp. lviを参照のこと(Lahontan is the only contemporary author who speaks of the travels of this interesting savage; but a letter of 1691 mentions a Huron who is about to pass into France, and wishes to see the king. Possibly this may have been Adario, the most noted of his tribe. See Canadian Archives, 1885, p. lvi)」と記されている。ここで触れられている1691年の手紙、および1885年のカナディアン・アーカイヴを見つけることはできなかったが、スウェイツの「ひょっとしたら……かもしれない(possibly…may)」という推測とG&Wの「カンディアロンクが実際にフランスに行ったと信じるに足る十分な理由がある(there is every reason to believe that Kandiaronk actually had been to France)」という確信の間には、相当な距離がある。マンは確信的に、もしウェンダット族が1691年に誰かをヨーロッパに送っていたのなら、それはカンディアロンクだっただろうと主張しているが、カンディアロンクは当時、フランスにとって非常に重要な政治的・軍事的な役割を果たしていたにもかかわらず、訪仏を裏付ける歴史的記録はない。ラオンタン自身の言及はなく、カンディアロンクの生涯に関する他の主要な一次資料の著者、バックヴィル・ド・ラ・ポトリーやシャルルヴォワも同様であり、歴史学者キャロライン・ドッズ・ペンノックの最近の研究では、近代初期のヨーロッパへのアメリカ先住民訪問者の中にカンディアロンクがいた証拠は見つからなかった。重要な同盟国を代表する外国高官が訪仏したにもかかわらず、フランスで誰もそれを書き残さなかったとは考えにくい。さらにラオンタンは1689年の春にカンディアロンクの村に滞在した後、1690年の秋にフランスに戻り、1691年8月に再び北米を訪れたが、この1691年の短期滞在の間の手紙にはカンディアロンクについての記述はない。つまりもし仮に1691年にカンディアロンクが訪仏していたとしても、その旅行に基づく議論をラオンタンと交わす機会がそもそもない可能性が高い。

  • G&Wは、対話編が古代ギリシャの風刺作家ルキアノスの著作から影響を受けている可能性を認めているが、ラオンタンが他の著作でルキアノスをお気に入りの作家として挙げていること、ルキアノスの著作と対話編は特定の議論を共有していることには触れない。またG&Wは、対話形式のフィクションとルキアノスが当時どれほど人気があり、認識されていたかにも触れない。ラオンタンの対話編よりも20年ほど前、ベルナール・フォントネルはルキアノスの著作を真似た対話編を発表して成功を収めている。その中には、エルナン・コルテスとアステカの王モクテスマの対話が含まれており、のちのラオンタンの対話編と同様に、ヨーロッパ文明の道徳的優位性の仮定を覆す内容が含まれている。ラオンタンは『回想録』という著作においても、「野蛮人」に宗教に対する反論を述べさせているが、その部分はイエズス会の批評家によって、ヨーロッパの理神論者やソッツィーニ派が述べていることの要約だと評された(つまり先住民の登場人物の口を借りて、キリスト教批判をしていると受け取られた)。

  • とはいえ、ラオンタンの著作には風刺的批評に加えて、多くの民族誌的記述も含まれている。アダリオの社会経済的不平等に関する議論が近代初期の先住民の言説と呼応しているという見方には妥当性があり、歴史学者のドッズ・ペンノックも、訪欧した先住民の歴史的記録において最も頻繁に現れる主題の一つが、富と財産に対するヨーロッパと先住民の対照的な態度であることを指摘している。アダリオの言葉が、ラオンタンがカンディアロンクや他のウェンダット族、あるいはアニシナベ族との交流で聞いた内容に大いに触発されていることは確かだろう。

 G&Wによれば、彼らの主張を「信じるに足る十分な理由がある(there is every reason to believe」そうだが、それを信じるに足る十分な証拠はどこにもないようだ。これはスミスの指摘した通りであり、またシャイデルはG&Wの特徴として、証拠が乏しいほど主張が大胆になることを指摘していた。G&Wは自分たちの議論を支持するものであるかのように様々な文献に依拠しながら、「先住民学者たち(indigenous scholars)」がアダリオとカンディアロンクの考えを同一視するようになったと大胆にも複数形で述べているようだが、どうも『万物の黎明』では実際のところ、そのような学者はバーバラ・アリス・マンだけしか引用されていないらしい。そしてマンの主張にもそれを支える根拠はほとんどない。

 ちなみに『Le Monde français du dixhuitième siècle』の特集にはその他、『万物の黎明』におけるルソー関連の議論は粗雑な単純化や大幅な歪曲に満ちていると指摘する論文、『万物の黎明』はそれが批判する『人間不平等起源論』と実は同じジャンルに属しており、しかしルソーの方が認識論的に周到で洗練されていると指摘する論文などがある。ルソーに興味がある人なら面白いかもしれない。

ヨーロッパ社会における平等・不平等という概念の起源

 この論点は、(1)17世紀の啓蒙時代以前、より特定の条件としてはG&Wの言うところの「先住民批評」以前に、ヨーロッパ社会に平等・不平等の概念は本当になかったのか、それと密接に関連して(2)平等・不平等の概念はラオンタンの著作に代表される「先住民批評」を起源とするのか、という二点がある。これは(1)が否定された場合、(2)も否定されるので、(1)に焦点を絞ることができる。

 ただしこの議論は前提が少しややこしい。まずアッピアが17世紀以前にはヨーロッパ社会には不平等の概念がなかったという『万物の黎明』の主張に反論したのだが、その後、ウェングロウが『万物の黎明』ではそのような主張はしていないと否定して、それに対してアッピアは、中世において「“社会的平等”――ひいてはその反対としての不平等――は概念として、単純に存在しなかった(‘social equality’—and therefore, its opposite, inequality—simply did not exist as a concept)」という文句を実際に『万物の黎明』から引用してみせている。つまりこの時点で、ウェングロウの「そんな主張はしていない」という反論は砕かれているように見える。とはいえ実のところ、以前に取り上げたウィル・サハール・パトリックの書評において、アッピアとウェングロウの論争を踏まえて、この論点についても具体的な批判が行われているので、以下に紹介するその批判が判断材料になるだろう。

  • アッピアに対する反論として、ウェングロウは修正された『万物の黎明』の論旨――文明を持たない人間が「平等な社会」に生きているというコンセンサスがヨーロッパ知識人の間でどのように形成され、「不平等の起源」を探求することが意味を持つようになったのかという問題を提示している。G&Wによれば、その鍵となる出来事は、社会的不平等の起源とその正当性について議論することを求めた1754年のエッセイ・コンテストであり、その議論自体の起源としては、対話編を含むラオンタン男爵の著作、およびイエズス会書簡集を通じてヨーロッパに伝えられた「先住民批評」が挙げられている。だが、啓蒙時代以前の中世ヨーロッパ人がすでにそうした議論を行っていたという証拠は数多くある。

  • たとえば1381年のイングランドの農民反乱の際、反乱者の司祭ジョン・ボールは農奴制を非難して、原初における人間の平等を主張した。この挑発は権力者たちにとって衝撃であり、反乱が鎮圧されるとボールは処刑された。チャールズ1世の処刑、議会への権力委譲、イングランド共和国の樹立によって頂点に達した第一次および第二次イングランド内戦(1642~1648年)の間、初期の平等派の指導者たちもまた原初の平等を強調して、統治権は支配によって押し付けられるのではなく、被支配者の同意に基づくものであり、貴族の専制政治とその統治機構を解体することによってのみ、人間の平等性を取り戻すことができると主張した。より急進的な真正水平派、別名ディガーズは『イングランドの貧しい被抑圧民からの宣言』(1649年)などのビラを流布して、自然状態における平等を持ち出して財産制度を攻撃した。ボールと同様にディガーズは、権力によって強制された経済的階層が不平等の発端であると主張した。要するに、ヨーロッパ人が平等について考える「起源の物語」に関して、『万物の黎明』が重要な出来事と見なすルソーの『人間不平等起源論』の1世紀前、ラオンタンの著作が出版される50年以上前に、すでにイングランドでは平等を求める大規模な社会的動乱が勃発していた。ところがG&Wは「民衆的平等主義(folk egalitarianism)」と軽く言及するだけで、それらの存在を片付けてしまっている。

  • ヨーロッパ大陸の知識人もまた、先住民の論評が広まる遙か以前から、社会の平等、不平等の起源、不平等が正当化されるかどうかについて考えていた。フランスの裁判官エティエンヌ・ド・ラ・ボエシは『自発的隷従論』(1574年)において、自由と平等が人類の自然な状態であると論じた。ラ・ボエシは不平等の原因として、征服による専制支配と政治的欺瞞を挙げ、専制はエリートによって固定される財産階層のせいで維持され、それが「富を得るために隷属を受け入れる」人々によって永続されると主張した。ラ・ボエシは、自然な自由とそれに伴う平等を歴史的に実現可能な条件として考え、特にヴェネツィアの都市国家の成立と発展に注目した。初期のヴェネツィア人は、アレンゴと呼ばれる民衆集会を通じて自治を行っており、アレンゴは定期的に終身の指導者であるドージェを選出した。さらに毎年2人の「護民官」も選出して、ドージェの権力乱用を防ぐ権限を与えた。権力掌握は危険な試みであり、自治の最初の世紀の間、ほとんどのドージェが暗殺・失明・追放に処されるほどで、この時期のヴェネツィア共和国は浄化を伴う急進的な民主主義を実施していた。ところが『万物の黎明』では、中世ヨーロッパにおける民衆の「権力の転覆」の唯一の現れは、民俗祭における「謝肉祭の王」の戴冠と廃位の儀式だけだったと推測されている。

  • 民主的なヴェネツィアはしばらくは繁栄したものの、徐々に貴族階級の参政権が拡大されていき、それに伴って権限が縮小されていったアレンゴは1421年には廃止されてしまう。16世紀には、ヴェネツィアは支配エリートによる寡頭制に変貌しており、非公開の審議会や討論を経て、既成事実化された決定を一般市民に宣言するだけだった。『自発的隷従論』の著者ラ・ボエシは自由を愛するヴェネツィアの創設者たちに思いを馳せて、平等な民主主義の衰退を嘆いた。16世紀のスペイン人征服者、エルナン・コルテス(1485~1547年)はメキシコの都市国家トラスカラの政治制度をこの時期のヴェネツィア、ジェノヴァやピサなどイタリアの共和国になぞらえて、「最高指導者は存在しない(no supreme overlord)」寡頭制として描写しており、実際、トラスカラには4人の指導者のほかに、貴族階級で構成される評議会があった。ところが『万物の黎明』では、それが「民衆都市評議会(popular urban council)」と同一視されており、それと共に、討論や演説が直接民主制の指標であることが示唆されている。だが、そのような見方は事実から懸け離れている。

  • ヴェネツィアの堕落と類似した例はルソーの出身地、ジュネーヴにも見られる。『万物の黎明』における描写では、ルソーは平等な価値観に出会ったことがない若いフランスの廷臣であり、貴族の庇護下で生活していたとされている。だが実際には、『人間不平等起源論』の著者はジュネーヴ生まれの、長年にわたって使用人として貧困生活を送った中年哲学者だった。ルソーの父は貧しい時計職人だったが、それでもジュネーヴ共和国の総評議会の市民権を持ち、投票権もあった。しかしルソーが生まれた頃には、それが貴族の支配に取って代わられつつあり、彼の青年期には、平等の名の下に参政権を拡大しようとする派閥の運動が起こり、時には寡頭政治に対して武器が取られることもあった。平等の理論家となる前のルソーの交友関係には、そのような民主主義志向の政治家が含まれており、ルソーは出身都市のジュネーヴに言及しながら、経済発展や商業が人々を腐敗させたと論じた。ルソーはかつてのジュネーヴの政治について以下のように述べている。「市政は可能なかぎり民主的であった。人々は階級も特権も、構成員の間のいかなる不平等も認めなかった。市政は総評議会において執行されるか、あるいは毎年選出され、その行政について人々に説明責任を負うシンディックと呼ばれる行政官を通じて執行された。市民と市政の間には、いかなる中間的な秩序も介在せず、これこそが民主主義の真の特徴である(municipal administration was as democratic as possible. The people acknowledge neither classes nor privileges nor any inequality amongst its members; it acted either by itself in general council, or by its procurators called Syndics whom it elected annually, and who accounted to it for their administration; no intermediary order interposed itself between them and it, and that is the true characteristic of Democracy.)」

  • G&Wは、ルソーの『人間不平等起源論』の着想をラオンタンの著作の中の先住民批評に帰しているが、その時、彼らは『万物の黎明』全体に染み渡る偏見を露呈している。

 前述のスミスの書評では、G&Wは社会科学からも自然科学からも距離を置いていると指摘されていた。それに加えて、ここまでのラオンタンとカンディアロンク、平等・不平等の起源とルソーに関する論点では、文献や歴史に基づく人文学の見地からも引用の不備、誤解や誤りを指摘されている。しかしそうなると、彼らの学問は一体どのような分野に属するのだろうか。

机上の考古学

 それでも『万物の黎明』において、その議論を最も支えているのは考古学だろう。アッピアは考古学に関しては、(U)ウルク、(Tr)トリピッリャ、(I)インダス、(M)マシュカン・シャピル、(C)チャタル・ヒュルク、(Te)テオティワカンに関する記述を取り上げて、それらに大なり小なり疑問を呈している。以下、順不同で検討する。

(U)ウルクが「少なくとも7世紀にわたる集団的な自治」を行っていたという、G&Wの推測に依存した明言は、モリスやシャイデルの書評でも苦言を呈されていた。相応の証拠に基づく明言ならそこまで批判されないわけで、つまりは説得的な議論は提示されていないのだろう。モリスの書評によれば、『万物の黎明』では、紀元前3300年頃のウルクが「民主的な自治(democratic self-governance)」を享受していたという推測的な示唆が述べられているという。それを踏まえた上、専門家による2020年の総説を読んでみると、ウルクは親族集団を超えた分業や「首長制」形式の統治を特徴付ける部族構造に基づいており、「これまでのすべての証拠は、高度に階層化された社会を示している(All the preceding evidence testifies to a highly stratified society)」とある。また初期の社会では、食料が階層に応じて分配されていたことも示唆されている。ウルク中期後半(紀元前3300年頃~)には統治者としての司祭がいたとも言われるが、しかしウルクの統治体系は多元的な要素、多頭的階層構造(heterarchy)の要素を含んでいたと考えるべきだとも述べられている。さらにウルクは東地区と西地区に分かれており、東地区には(儀式的機能を必ずしも排除しない)巨大な「集会所」だった可能性がある建物が見つかっている一方、西地区には高台にある小さな白色神殿が見つかっており、前者はエリート層を形成する大規模な「貴族」集団、後者はより少数の選ばれし者の存在を示唆しているかもしれないという。もっとも、文献資料が利用できるのはウルク後期以降であり、初期のことは不明な点が多いようだ。

 以上から、現時点で妥当な考古学的見解としては、ウルク初期にある種の「集団的な自治」が行われていた可能性は十分にあるが、仮にそうだったとしても、それは民主的な自治ではなく、エリート層による自治の可能性が高く、同時に宗教的権威がいた可能性もあるといったところになるだろう。

(C)チャタル・ヒュルクに関しては、垂れ乳の太った女性の小型像がある意味で「母権的」な、新石器時代初期の社会における女性の新たな重要性を示しているのか否かが論点となっていた。英語版ウィキペディアでは、情報源付きの記述として、この遺跡を長らく発掘してきた考古学者イアン・ホッダーの2009年の言葉が引かれており、科学的研究によって母なる女神を想定するような以前の見解が覆されて、チャタル・ヒュユクには女性を基盤とした母権制の証拠はほとんどないことが示されつつあるという。またアッピアの指摘したとおり、出土した小型像の大半は動物や動物の身体の一部であり、その知見を含む論文によれば、小型像は動物のそれも人間のそれも副葬品ではなく、典型的にはゴミ捨て場で発見されており、粘土製で焼成されてはおらず、未完成の物もあり、長期保存を意図していないことから、製作行為自体に意味があったのではないかと推測されている。素朴に考えれば、落書き感覚で造形を行っていたような、趣味としての文化だったのかもしれない。「Çatalhöyük figurines」などで画像検索して実際に小型像を見てみれば分かるが、その多くは大した完成度ではなく、ろくな根拠もなくそこに過大な意味を見出すのは、先史時代に対する一種のエキゾチシズムではないだろうか。

 とはいえ、2024年の論文では、近年発展してきた遺伝学的データに基づく分析の結果、チャタル・ヒュユクは母系居住の傾向があること、次第に近親交配を意図的に避けるようになった可能性があること、文化として養子を取るようになった可能性もあること、さらに女性の新生児や幼児の埋葬は同年齢の男性の埋葬よりも副葬品が多い傾向が示唆されることなどが報告されている。その一方、2022年の論文では、性別または社会的役割によって、埋葬時に異なった塗料が付着している可能性が報告されている。このような研究がより進展すれば、もう少し根拠に基づいた推論がされるようになるかもしれない。ちなみに2024年の別の論文では、チャタル・ヒュユクのこれまでの推定人口は非常に過大であり、最大10000人と言われていたが、実際には1000人以下しか住んでいなかったという推定が提起されている。こうした大幅な下振れがもし仮に妥当だとしたら、原始都市どころか大規模集落ですらなくなり、ひいては大規模な平等主義の事例には当てはまらなくなるだろう。

(M)マシュカン・シャピルに関しては、顕著な富の不平等がなく、商業的または政治的権力の中心がない都市だった可能性があるという記述が論点となっていた。この論点についてはアッピアの批判が正しく、おそらく『万物の黎明』の記述はかなりの部分、間違っている可能性が高いだろう。まず1980年代後半の現地調査に基づく1995年の文献には、「運河の合流点の二箇所には広い港があり、それらは商業の中心地だったに違いない(Broad harbors occupied two of the canal junctions; they must have been centers for commerce)」「都市内の第三の特徴的な地域は、西側にある壁に囲まれた地域で、行政の中心地であったと考えられる(A third distinctive region within the city was the walled-off enclosure in the west, which we believe was an administrative center)」とあり、アッピアの指摘通り、商業中心地も行政中心地もその存在が指摘されている。ただし明確な権力の中心地はなく、石鉢や金属製品や印章がかなり均等に散らばって発掘されたことから、居住区は富や地位によって分離されていないとも述べられており、この点に関しては『万物の黎明』の記述が一見、支持されているかに思える。

 だがその文献の筆者の一人が2012年、別の論文において、高解像度の衛星画像の利用により、以前の研究時には発見されなかった建築の痕跡を分析した結果、新たに宮殿の位置が特定されたことを報告した。宮殿は遺跡の最北部にあり、それを含む北部地区には王に直接関係する人々が住んでいたエリート住宅地区の存在も示唆された。さらに南部に墓地と神殿、西部に貿易拠点、その他に製造中心地なども推定された。「これらのデータから、マシュカン・シャピルでは、王権行政、宗教、製造、商業、都市間貿易といった都市の様々な役割が、それぞれ都市の異なる場所に位置していたことが示唆される(These data suggest that at Mashkan-shapir, the different roles of the city—royal administration, religion, manufacturing, commerce, and intercity trade—were each located in a different part of the city)」と著者は結論づけている。引用するにあたって、なるべく新しい研究を調べないはずがないので、これは不利な証拠を読者から隠蔽している可能性が高い。考古学者のウェングロウがこの論点に関して敢えてアッピアに反論しなかったのは、知的欺瞞を自ら正す気がないからだと思われても仕方ないだろう。

(I)インダス文明に関しては、モヘンジョダロが「国家」か否かという論点だったが、これはアッピアの批判の方がやや無理があるように思われる。モヘンジョダロの工芸に関するジョナサン・マーク・ケノイヤーの研究を引用している一方で、ケノイヤーがモヘンジョダロを「都市国家」と見なしていることには言及していなくとも、それ自体は別におかしくはない。しかし仮に専門家の見解が大きく分かれているなら、異論も紹介すべきだろう。そのうえで言及されていたアダム・グリーンの近年の論文を見てみると、たしかにインダス都市の遺跡には、支配者の存在や富と権力の不平等を示す明確な証拠が見つかっておらず、社会階層はあったかもしれないが、平等主義的な都市だった可能性が高いことが述べられている。とはいえグレゴリー・ポセールなどの「無国家」派も、ケノイヤーなどの「国家」派も、いずれも不十分な議論と見なされており、グリーンはそもそも従来の「国家」か否かという見方それ自体に否定的な態度を取っている。グリーンによれば、モヘンジョダロなどのインダス都市は、共有財産へのアクセスを享受する人々によって構成される共同集団(corporate group)の集合体から生じたもので、時間の経過と共に、より専門性の高い団体に分化していった可能性があるという。そして専門分化につれて各団体の相互依存が進んだゆえに、むしろ平等主義が維持された可能性も示唆されている。洗練された工芸技術を持ち、広範な多地域間の交流があり、都市が近隣集落を支配していた証拠もない。エジプトやメソポタミアとは違って戦争を主題にした芸術が見られず、近隣諸国との関係は比較的平和だったか、戦争が起こらなかったという説もあるようだ。つまり広範囲の交易と平等主義によって、対外的な争いからも免れていたゆえに、支配者や中央集権の必要性が生じなかったのかもしれない。ただしその政体については様々な見解があるとも言及されており、大規模な労働力が必要とされる高度な都市計画、規格化された工芸品の生産、インダス文字の刻まれた印章や度量衡といった標準化された情報技術(課税に用いられた可能性がある)が中央集権なしに、どのような統治形態によって実現されたのかについて、具体的な説明はまったくない。

 インダスの人々が支配階級なしにどのようにして世帯を超えた統治を調整したのかというこの疑問について、グリーンは別の論文において、市民による審議と官僚制、職業別組合のような組織がインダス統治の顕著な特徴であったと主張している。しかしそれはもっぱら推測に基づいており、その統治形態を具体的に裏付けるような明確な証拠はほぼ何もない。インダス文字が解読されれば大きな進展があるかもしれないが、現時点では、明確な中央集権や支配階級の証拠がないだけであって、それ以外の統治形態の具体的な証拠があるわけではないようだ。証拠の欠如は現象の欠如の証拠にはならないので、平等主義的な統治形態であったことが示唆されるものの、色々と異説もあり、具体的にはよく分かっていないといった結論になるだろう。異説としては、商人エリートによる統治なども提唱されているようだ。ちなみにグリーンは論文において、明確に反社会進化論を標榜しており、その点ではウェングロウと非常に近い立場を取っている。しかし平等主義的な例外として最も有望な古代都市はここかもしれない。

(Te)テオティワカンに関しては、前出のスミスの書評において取り上げられており、大多数の専門家が集団的統治を支持しているという記述は妥当だが、異論として専制的統治派の見解を引用していないこと、最も重要な研究を引用していないことが批判されていた。従ってアッピアとウェングロウの論争においても、この裁定を踏襲できるだろう。とはいえスミスの書評では実のところ、引用していないという指摘があった最も重要な研究のほかに、おそらく『万物の黎明』には間に合わなかったかもしれないものとして、より最新の文献も紹介されている。その2020年の総説では、(1)テオティワカンは比較的包摂的で多元的な社会として始まり、紀元1世紀のメキシコ南部の火山活動により、大量の移民を統合して都市化された可能性が高く、(2)神権政治から軍事政治へという古い見解はもはや支持されず、しかし約600年にわたる歴史の間に統治形態の変化はあり、(3)初期の大規模な記念碑的建設・格子状の都市計画・中央メキシコの主要交通路を押さえた活動などが強力で中央集権的な国家を示唆しており、この時期に強力な支配者が現れた可能性があるが、しかし必ずしも専制支配ではなく、共同統治や貴族評議会のような多元的な意思決定に基づいていた可能性もあり、(4)その後、4 世紀初頭から中頃にかけて支配者の存在を示唆する羽毛の生えた蛇のピラミッドに対して偶像破壊が起こり、これを転換点として、より都市大衆中心の多世帯集合住宅と包摂的経済による絶頂期を迎え、(5)やがてエリート層分裂の可能性により、政治的分散化と人口減少が起こり、ほどなく終焉に至ったという流れが大まかに仮定されている。その他、アッピアの指摘したフクロウの象形に関する記述もあり、このフクロウはアトラトル(投槍器)を持っていることから「槍投げフクロウ」と呼ばれるらしく、そのフクロウの図像は、テオティワカン出身者が侵攻したとも言われる(異説もある)マヤでは特定の支配者を表していたようだが、テオティワカンにおいては広く軍事的秩序の象徴だった可能性が示唆されるという。

 この2020年の総説では、テオティワカンの都市経済は平等ではなかったものの、比較的包摂的であり、定量的研究によって推定された不平等の度合いは君主制の範囲よりも遙かに低いことも指摘されている(この定量的研究はスミスらによる)。もっとも、G&Wは社会科学から距離を置き、不平等の定量化を完全に否定しているので、これを自説の論拠としては使えないだろう。総説と同著者の別の論文からも引用すれば、「テオティワカンは決して平等主義的な社会ではなく、社会階層の痕跡は世帯の規模や詳細、埋葬品の分布、そして都市の豊かな壁画芸術の伝統に見られる服装や象形文字の役職名などに明らかに表れている(Teotihuacan was in no way an egalitarian society and signs of social hierarchy are readily apparent in the size and elaboration of households, the distribution of mortuary furnishings, and the attire and hieroglyphic titles of office seen in the city’s rich tradition of mural art.)」とある。とはいえ独裁的な政体ではなく、寡頭制共和国に類似するものだった可能性が強調されてもいる。そのような政体が生まれた要因として、メソアメリカではユーラシアとは違って、青銅技術が軍事利用されなかったこと、鉄鋼技術が存在しなかったこと、武器に用いられた黒曜石や角岩は豊富に分布していて独占が困難であったこと、馬の不在により騎兵もいなかったこと、ひいては要塞化や軍拡競争が進まなかったことなどから、軍事力による絶対主義的な支配が生まれにくく、より多元的または非階層的な政体が促進された可能性も指摘されている。G&Wは技術や環境に基づく説明も避けているので、これも彼らの論拠には使えないかもしれない。

 以上をまとめれば、現時点での専門家の主流の見解では、テオティワカンはたしかに紀元300年前後から、何らかの集団的統治形態をとっていた可能性が高く、経済的不平等の度合いが低かったことも支持されるが、その一方、最終的にエリート層の分裂が示唆されていることから、エリートによる集団的統治だった可能性があり、また経済的格差は小さいながらも社会階層は存在したようだ。これを「都市生活のユートピア的実験」と見なせるか否かは、どのような政体と比較するかによるだろう。上段で引用した論文には、テオティワカンとある程度類似するものとして、トラスカラの政体についての記述もあるが、役職者の交代による行政権の分配、非エリート層の一定水準の参加を含む評議会による統治、宮殿と呼べる住居の不在などの特徴が指摘されているとはいえ、それはやはり貴族階級を中心とした寡頭制共和国であり、民主主義社会とは異なる。その一方、中央集権的な王政や同時期同地域の他の政体に比べれば、より多元的な特徴を持っている。王のような支配者がいたか、いなかったかという二分法に基づき、階層的な支配か、平等主義的なユートピアかという振り分けをしても、それは過度の単純化にすぎない。そして何より、資金不足からテオティワカンはまだ3%ほどしか発掘されていないという話もある(考古学の発掘調査は遺跡の都市部に偏り、それゆえに郊外との格差を見逃してしまう傾向もあるらしい)。

(Tr)ウクライナのトリピッリャの巨大遺跡に関しては、その推定人口の提示が過大か否か、その巨大遺跡を「都市」と見なせるか否か、この二つが争点となっていた。まず論争に出てきたジョン・チャップマンの2017年の単著論文を見てみると、たしかに推定人口の最大主義モデル(最大46000人)と標準モデルは放棄すべきであり、それに代わってより小規模な二つの見解、すなわち(1)小集団のみの定住を伴う季節性の巡礼や祭りの集会場だったという最小主義モデル、(2)推定初期人口2~3千人が年間を通じて定住する「中道」モデルが提起されている。また放棄すべきとされる最大主義および標準モデルも含めて、どのモデルであっても、遺跡は「低密度の集落」であったことが明らかだと述べられており、季節的または中道的な新しい見解は、よりいっそう低密度の、巨大遺跡に広く分散した居住を想定しているという。以上から、アッピアの最初の書評における批判はこの論文に依拠しており、最大主義モデルの中には『万物の黎明』よりも遙かに多い推定人口を主張する考古学者もいるという点を除けば、その批判は妥当だったと言える。とはいえチャップマンはこの巨大遺跡に関して、従来の都市の定義には当てはまらないという議論を展開する一方、人口規模という指標を捨てた新たな都市の定義が必要とされることも示唆しており、とりわけ中道モデルの場合、遺跡は「大規模村落」の概念を超えて、異なるアイデンティティを持った近隣同士からなる多頭的階層構造(heterarchical)の都市の中心を示唆すると述べてもいる。

 実際にその後、チャップマンは2019年の共著論文においては、都市を政治的・経済的中央集権化と同一視する従来の見方、そしてトリピッリャの巨大遺跡を「大規模集落」と見なす大半の学者に対して異議を唱えて、中央集権化の形跡に欠けるこの遺跡を世界最古の低密度の都市的集落と見なすべきであり、特定の文脈においては、この遺跡は「都市」と呼びうるという主張を展開している。これは都市を普遍的・本質主義的に定義するのではなく、特定の時代と地域という文脈における比較、つまり周囲の小規模集落との関係において、質的にも量的にも異なる大規模遺跡であれば、それを都市として捉えられるという見方のようだ。さらにこの論文では、トリピッリャ遺跡群の中のネベリフカという集落を取り上げて、その同心円状の空間配置は一見、トップダウン型の規則的な計画を示しているように見えるが、最新の地球物理学的調査はむしろ、異質な要素の混合したボトムアップ型の計画の発展を示唆していること、しかも遺物の大半が日常生活を直接反映していないようであること、出土した大量の動物の骨が大規模な宴会を示唆していること、活動圏内に肥料散布や農業集約化の痕跡が見られないこと、森林伐採や土壌浸食や水質など環境への影響が予想されるほど顕著ではないことなど、大規模で恒久的な集住という従来の見解とは相反する多くの証拠があることから、実際には小規模で、あまり恒久的ではなく、場合によっては季節性の居住地だったという可能性を改めて提起している。そしてその可能性に基づき、(1)集落ネットワークから地域連合が出現して、それに所属する各集団が持ち回りの管理および代表合議によって小規模な恒久的定住を行ったという分散型統制モデル、(2)少数の「守護者」だけが定住しながら年に一度、一ヶ月以上にわたる交流や共同宴会に参加する人々が集まったという集会モデル、(3)一年のうち八ヶ月ほどの巡礼シーズンの間、宗教的体験や治癒のために人々が代わる代わる訪れて短期滞在したという巡礼モデル、この三つが提示されている(ただし各モデルの内容に関しては、ほぼ完全に想像にすぎない)。チャップマンはそれらのうち(3)の提案者として記名されており、いずれのモデルにも共通して、従来の見解よりも遙かに少ない推定人口、中央集権的ではない多頭的階層構造といった特徴があるとされる。以上から、ウェングロウの反論は主としてこの論文に依拠していることが分かる。

 もっとも、この2019年の論文で提示された三つのモデルは、2017年の論文で提示された最小主義モデルと中道モデルのうち、前者の季節性の集合を集会モデルと巡礼モデルの二つに細分化して、合計三つにしたものでしかない。そしていずれのモデルにせよ、従来よりも遙かに小規模な人口を主張しており、分散型統制モデルは低密度の集住、集会モデルと巡礼モデルは少数以外の恒久的な定住を否定して、やはり低密度の季節性の集合場所を想定している。従って、この見解に依拠する場合、巨大遺跡は『万物の黎明』で主張される「高度に平等主義的な組織が都市規模で可能であったことの証拠」には当てはまらないだろう。なぜなら前述のスミスの書評が指摘したところによれば、G&Wは「都市」という言葉を新たに定義しておらず、つまりは従来の、または辞書的な定義の「都市」としてこの遺跡を捉えており、しかし小規模かつ低密度の集住や季節性の集合はそのような意味での「都市」とは言えないからだ。従ってこの論点に関しても、どちらかと言えばアッピアの反論の方が妥当だろう。ウェングロウはおそらく、大規模で密集した居住地という点については標準モデルに依拠しており、巨大遺跡を「都市」と見なすという点についてはチャップマンらの論文に依拠しているのだろう。ところが、チャップマンらのモデルは小規模かつ低密度な定住、または季節性の低密度の集合を支持しているので、その新しい「都市」の見方に依拠する場合、それは大規模で密集した居住地という見解とは両立しなくなる。つまり大規模で密集した居住地をモデルとして巨大遺跡を「都市」と見なす場合、G&Wはチャップマンらとは別の根拠に基づき、別の「都市」の定義を提起する必要がある。だがスミスの指摘によれば、『万物の黎明』ではそれは行われていない。ちなみに考古学にもポストプロセス考古学というポストモダニズム的な立場があるらしく、チャップマンらの論文では一部、そのような立場に依拠して相当に粗雑な観念論的主張が展開されており、少なくともそうした「理論的」側面については、あまり信用できない学者という印象を受ける(単著論文ではそのような主張はなかったので、共著者がその手の学者なのかもしれない)。

 さらに言えば、トリピッリャの巨大遺跡を「都市」として捉えるチャップマンらの見方は、(彼ら自身も述べているとおり)大半の考古学者の見解とは異なっているだけではなく、より最新の、より科学的な研究では否定される傾向にある。巨大遺跡では近年、明らかに住居とは異なる「大規模建造物」が見つかっており、それについて分析した2019年の論文によれば、大規模建造物は巨大集落の公共空間に位置しており、様々な儀式的・非儀式的活動の場、共同の意思決定の場、食料の貯蔵・加工・消費の場など、恒久的に集住する人々にとっての社会政治的統合施設として機能することで、非階層的かつ協調的な社会組織を形成していたとされる。そして集落の規模拡大、それに伴う社会的複雑性の増加につれて、中央広場にある中央機関としての大規模建造物のほかに、より小さめの公共建造物も広く分布するようになり、それらはおそらく、より下位の分散された統合の役割を担っていた。だが巨大集落の後期段階になると、おそらく中央集権化の進展に伴って、中央広場の大規模建造物はより面積が広くなっていった一方、集落に分散していた下位の建造物が消失していった。これが示唆する集団的意思決定の機能不全、中央主権化に対する不満や不承認こそが、気候変動や伝染病などと並んで、トリピッリャの巨大集落が崩壊した主因として考えられるという。この見方に基づけば、規模の拡大に伴って避けられなかった政治経済的な中央集権化によって社会的緊張が高まり、人々が離脱して巨大集落が崩壊したことになる。規模の拡大に基づくこの見方は言うまでもなく、「低密度の集落」というチャップマンの見解を受け入れてはおらず、たとえば巨大集落の一つのマイダネツケ(紀元前3990年から約350年間存続)の人口は最大10000~20000人と推定されている。

 2022年の別の論文では、巨大遺跡群の包括的・科学的分析により、チャップマンらの低密度集落というモデル、その杜撰な方法論や検証不能な主張が否定されており、季節性の移動の証拠もないことから、気候変動によって巨大集落への集約化が起こった結果の、恒久的な大規模集落という見方が支持されている。規模が拡大するにつれて密度が低下する傾向はあるが、低密度と言えるのは巨大遺跡の最終段階のみだという。またチャップマンらは、集落がその地域において特別に大きい場合、それを「都市」と見なすべきだと提案しているが、トリピッリャの遺跡群では、巨大集落にも小規模集落にも同様の大規模建造物が見つかっており、都市と農村を機能的に区別する証拠がないことから、低密度「都市」という見解も否定されている。とはいえ、巨大遺跡には初期の都市化過程の特徴である「集積(agglomeration)」の証拠があり、これは集落内部の成長ではなく、余所からの移動による人口増加を特徴とするもので、「村と都市との間に位置する現象」と定義されることもある。従ってトリピッリャの巨大集落は、チャップマンらの提案する低密度「都市」ではなく、農業移行後の早期に出現する大規模村落として位置付けられるという。

 こうした論文を踏まえれば、トリピッリャの巨大遺跡はウェングロウの主張する平等主義的な「都市」というより、むしろ(おそらくは平等主義ゆえに)中央集権的な都市化が頓挫した大規模村落だったと見なせるだろう。同様の見解を踏襲するその他の論文においても、推定人口は10000人や15000人としながら、巨大遺跡は「原始都市」「原始都市的集落」などと表現されており、都市以前の段階に位置付けられている。巨大遺跡を「原始都市」とする論文では、文字体系が発明されなかったゆえに集団コミュニケーション能力の発展が頭打ちになった可能性などが示唆されており、「原始都市的集落」とする論文では、柵で囲った牧畜の牛の糞を肥料にした豆類をよく食べていた(サイゼリヤの青豆の温サラダの源流かもしれない)ことが示されている。メソポタミアの初期都市との違いは、そのような点に見出せるかもしれない。

 以上から、チャップマンの論文に依拠する限りの議論では、どちらかと言えばアッピアが妥当であり、ウェングロウはトリピッリャの巨大遺跡を大規模で密集した居住地としての都市と見なしているにもかかわらず、それとは相容れないチャップマンらの、比較的小規模かつ低密度な、場合によっては季節性の集合地である「都市」という異端的な見解を都合よく持ち出しているようだ。しかも最新の研究では、チャップマンらの低密度「都市」という見方は否定される傾向にある。とはいえ、それゆえに推定人口に関しては、ウェングロウの見解は妥当と言えるだろう。

 こうしてアッピアが机上の考古学を行った争点を調査してみると、控えめに言っても、必ずしも『万物の黎明』における主張、あるいはウェングロウの反論ばかりが支持されるわけではない。そこにはチェリー・ピッキングや情報源の歪曲、それどころか情報源の隠蔽の可能性さえも浮かび上がる。そのような情報の取り扱いの非一貫性から、むしろ見て取れる一貫性は何かと言えば、自説に沿う情報は取り上げるが、自説と相反する情報はそうではないという姿勢だろう。それは結局のところ、読者を欺くことを辞さない姿勢であり、やはりウェングロウの学術的信頼性にも改めて疑念を抱かされる。いくつかの書評でも指摘されている通り、努めて不利な証拠を遠ざける手口も問題であり、アッピアのように巻末注を掘り下げる一般読者がいたとしても、そもそも異論が紹介されていないのだから、情報を比較する適切な道が塞がれていることになる。仮にここで取り上げた都市すべてについて、異論となる文献を紹介したところで、せいぜい数ページ増える程度であり、それを『万物の黎明』のすべての題材に拡大したとしても、本の厚さが二倍や三倍になるとも思えない。あるいはウェングロウは比較考古学ではなく、比較させない考古学が専門なのかもしれない。

総評

『万物の黎明』の場合、予想以上にネットで読める充実した書評が多かったので、めちゃんこ長大になってしまったが、主たる学術的な批判はこんなところだろう。そして『万物の黎明』に対して、一線級の学者や分量のある論文形式の批判も少なくない理由のひとつは、それがあまり見当たらなかった『負債論』との比較によって説明できるかもしれない。以下はAI検索の最中に引っ掛かった掲示板をざっと読んでいた時、目に付いた『負債論』についての書き込みを抜き出したものだ。

 残念ながら、ほとんどの学術的な経済学者はこの本に触れようとはしない。これはマルクス主義人類学者による、広範かつ非常に論争的な著作である。この本の大部分は、歴史を一連の正義と不正義、抑圧者と被抑圧者として描写する様々な道徳的問題に焦点を当てており、最後に協調的な債務免除への呼びかけもある。
 それは定量的または実験的な研究に集中する必要があり、こうした議論に介入しても何も得られない学術的な経済学者にとって、あまり魅力的ではない。
 それゆえに経済学の訓練を受けた者でこの本に触れるのは、学術界の外か周縁にいる人々になる。以下にいくつかの例を挙げる。
*https://www.econlib.org/archives/2012/07/hummel_on_graeb.html
* http://noahpinionblog.blogspot.com/2014/11/book-review-debt-first-5000-years.html
* https://jacobinmag.com/2012/08/debt-the-first-500-pages/
* https://crookedtimber.org/2012/02/25/too-big-to-fail-the-first-5000-years/
 これらの書評の一般的な合意は、「ああ、彼は多くのことを間違えているし、中心となる主張には同意できないが、この本には実に豊富な例と興味深い洞察が含まれている」というものである。

     Unfortunately most academic economists are not going to touch it. It's a sprawling, highly polemic work by a marxist anthropologist. Much of the book focuses on various moral issues portraying history as a sequence of just and unjust acts, oppressors and oppressed, and finally there are some call for coordinated debt forgiveness.
     That's not really inviting for academic economists that need to focus on quantitative or experimental research and would get nothing by wading into these debates.
     So those with economic training who do touch it will be outside Academia or on the margins. Here are some:
(※URLは省略)
     The general consensus of these reviews is "man, he gets a lot of stuff wrong, and I don't agree with the central thesis, but boy what rich examples, and interesting insights are in this book."

https://news.ycombinator.com/item?id=29194975

 実際にはグレーバーはマルクス主義者ではないと思うが(むしろ『万物の黎明』はマルクス主義の観点からも説得力のなさを指摘されており、その中には一般的な書評としても非常に優れたものがある)、それでもこの書き込みは示唆に富んでいる。つまり『負債論』は学術的な経済学の領域外を射る矢だったが(グレーバーは物々交換神話の否定が経済学の根本を覆すものだと信じていたようだが、主流派経済学にとってそれは重要ではなく、そもそも的外れだった)、ウェングロウと共著した『万物の黎明』は歴史学や考古学の縄張りにおいて論争的な主張をしており、また啓蒙主義に関する議論はその領域に恐ろしく杜撰に踏み込んでいたゆえに、それらの専門家から批判を寄せられたのだろう。もちろんベストセラーの「出版イベント」となり、大きな注目を集めたことがその前提としてある。

 ただし論争的な主張といっても、大半の批判的評者から藁人形論法や新規性の偽装を指摘されていることから、それは疑似論争的と言った方が適切かもしれない。この『万物の黎明』の個性に関しては、登山家の栗城史多の手法が思い出される。栗城は「日本人初となる世界七大陸最高峰の単独無酸素登頂に挑戦している」と標榜していたが、それは実際には、アルピニズムにおける通常の「単独」「無酸素」とは意味合いが異なっており、サポート隊を編成してルート工作などに頼り、そもそも「単独」とは言えないこと、エヴェレスト以外では酸素ボンベを用いないのが当たり前であり、その「無酸素」は何ら突出した挑戦でもないことをしばしば批判された。つまり単独ではないにもかかわらず「単独」を標榜したり、それが標準であるにもかかわらず「無酸素」が大きな挑戦であるかのように見せかけたりした。そしてそれを専門的知識のない大衆向けの自己宣伝として用いて、マスメディアでも取り上げられて著名な登山家となった。同様にG&Wは『万物の黎明』において、従来の物語を覆してはいないにもかかわらず、あたかも覆しているかのように標榜したり、そもそも専門家の間では目新しくない見解であるにもかかわらず、それが革新的なものであるかのように見せかけたりした。そのような宣伝文句を様々なメディアが無批判に拡散すれば、専門的知識のない一般読者の中には、その手法に乗せられてしまう人もいるだろう。

 とりわけ何かを「くつがえす」かのような修辞や喧伝は魅力的であり、世に広く見受けられる扇動や詐術の特徴でもある。たとえば小泉純一郎は「自民党をぶっ壊す」と旧来の秩序をくつがえす謳い文句を唱えて、かつて多くの大衆に支持された。STAP細胞は生命科学の従来の常識をくつがえす研究として、多くの一般メディアに取り上げられた。世に蔓延る陰謀論や歴史改ざん主義、疑似科学やオカルトの多くもまた従来の見解を「根本からくつがえす」ものが多い。ほとんどの場合、それらには貧弱な根拠しかないが、そうではないように見せかけるゆえに、それに乗せられてしまう信奉者にとっては「信じるに足る十分な理由がある」ということになる。チェリー・ピッキング、情報源の歪曲、恣意的な解釈などもそれらに顕著な特徴として挙げられる。もちろん『万物の黎明』はそちらの方向に突き抜けてはおらず、観念論的主張や啓蒙主義に関する議論を除けば、おそらくは非常に学術寄りであり、シャイデルやアッピアの指摘では、結局のところ、従来の見解とほとんど変わらない物語の枠内に収まっている。しかしだからこそ、厄介な代物になっているのだろう。陰謀論や「トンデモ」歴史本のような、あからさまに荒唐無稽な「くつがえす」物語とは違って、『万物の黎明』の場合、そもそも「くつがえす」それ自体が見かけ倒しにすぎないのだから。

 現生人類は数十万年前にアフリカにおいて進化して、長きにわたり、小規模かつ平等主義的な狩猟採集生活を送ってきたというのが定説だが、G&Wはその期間に関する科学的議論をする素養に欠けているので(あるいは取り入れると自説がの前提が崩壊してしまうので)、姑息にも人類史の大部分を切り捨てて、定住や作物栽培が始まる少し前の、数万年前から物語を始める。そして長期的にみれば穀物の栽培化と定住、人口増大と農業によって、中央集権的かつ階層的な国家へと進化したことを実は認めているのだが、それが進展するまでの過渡期、一部の例外、一時的な権力の転覆や分散化などに焦点を絞り、そうした事例ばかりを取り上げて読者を説得しようとする。たとえば「脱サラして飲食店開業に挑んでも大抵は失敗する」という常識的な物語に対して、兼業時代の週末の間借り営業の好評、例外的な大成功、数年で廃業に至るまでの間の一時的な好調期間といった事例ばかりを取り上げた本を読めば、自分も成功できると説得されてしまう人もいるだろう。そのようにして定住と遊動、採食と農耕の併存事例、狩猟採集から農業へ、集落から都市への移行期、平等と階層の混在事例などを列挙しながら、大胆な推測や細部の歪曲、環境的・技術的要因の軽視または無視などを駆使して、それらの事例を主意主義的な自由選択の結果として提示する。だが、人々がそれを選択したからそうなったという説明は、明らかに説明になっていない。たとえば、マルクス主義の観点から『万物の黎明』を批判するまた別の書評には、以下のような指摘がある。

『万物の夜明け』は、より広い意味でマルクス主義に対する間接的な攻撃でもあり、著者らは社会発展の唯物論的説明、すなわち人間が生存手段を生み出す際の物質的条件から始まる説明をことごとく拒絶して、常に文化や思想に基づく説明を好んでいる。たとえば「イヌイットがそのように生きたのは、人間はそのように生きるべきだと感じたからだ」とか、「農業をするかしないかは、すべて頭の中にある」だとか、「都市は心の中で始まる」といった具合である。哲学的には、G&Wは一貫してブルジョア思想の中に常に流れてきた急進的な「観念論」への選好を示している。だが、それは著者らのアナーキズムとも結びついており、バクーニンからウォール街占拠運動に至るまで、アナーキストたちは常に客観的条件を強調する「退屈な」マルクス主義に苛立ち、革命を個人の意志の力と大衆の自発性の組み合わせだと見なしてきた。とりわけG&Wが強調したいのは、「単一のパターンはない」または「一貫したパターンはない」ということである。人間の自由は、人々がそれを「選択」すれば、歴史上のどんな場所、どんな時代においても、ただ出現する可能性があるのだ。
 このアプローチの大きな弱点は、人々の文化・思想・選択が常に歴史的説明の一部をなすことは間違いないにしても、それらが説明の始まりであり終わりでもある場合、なぜ特定の人々の文化や思想がそのようであったのかについての答えがないままに、ただ単にそれらが宙に浮いてしまうことだ。G&Wが取り上げたものよりも最近の例を挙げれば、アメリカ南北戦争において南部が奴隷制を支持し、北部が反奴隷制を支持した理由をどう説明すればいいのだろうか? 単に北部と南部の「文化」や道徳観が違うから、聖書の解釈が異なっていたからだとでも言えばいいのだろうか? あるいはマルクス主義者が主張するように、その違いは北部と南部の異なる経済条件――(「自由な」)賃金労働を必要とする産業資本主義と奴隷制に基づくプランテーション生産――に根ざしていたのだろうか?

     The Dawn of Everything is also an indirect attack on Marxism in a broader sense in that at every turn they reject materialist explanations of social development i.e. explanations that begin with the material conditions in which human beings produce their means of subsistence [17], always preferring explanations based on culture and ideas. For example that ‘Inuit lived the way they did because they felt that’s how humans ought to live’ (p. 108); or ‘To farm or not to farm: it’s all in the head’ (p. 242); and ‘cities begin in the mind’ (p. 276). In philosophical terms GW exhibit a consistent preference for radical ‘idealism’ which has always been a strand in bourgeois thought. But it is also linked to the authors’ anarchism in that anarchists, beginning with Bakunin and continuing all the way through to the Occupy movement have always been irked by the ‘boring’ Marxist emphasis on objective conditions and seen the revolution as some combination of individual will power and mass spontaneity. Above all GW want to emphasise that ‘there is no single pattern’ (p. 115) or ‘no consistent pattern’ (p. 116); human freedom can just erupt in any place and at any time in history if people ‘choose’ it.
     The great weakness of this approach is that while people’s culture, ideas and choices must always be part of any historical explanation, if they are the starting point and the finishing point then they are just left hanging with no answer to why that was a certain people’s culture or ideas. To give a more recent example than those given by GW, how do we explain why, in the American Civil War, the South was pro-slavery and the North was anti-slavery? Can we just say it was their different ‘cultures’ or their different morality or their different interpretations of the bible? Or did those differences, as Marxists argue, have their roots in the different economic conditions in the North and the South – industrial capitalism requiring (‘free’) wage labour versus plantation production resting on slavery?

https://www.marxists.org/history/etol/writers/molyneux/2022/06/dawn.htm

「イヌイットがそのように生きたのは、人間はそのように生きるべきだと感じたからだ」「農業をするかしないかは、すべて頭の中にある」「都市は心の中で始まる」といった文言はいずれも、専門的な学者による合理的・経験的な推論や説明ではなく、むしろ大衆的な思想家による霊感や信念に満ちた詩を思わせる。G&Wはどうやら、我々が自由を想像する力を喪失してしまったせいで、国家や階層構造にはまり込んでしまったと示唆しているようだが、そのメッセージ性は学術的な啓蒙書よりもむしろ、ジョン・レノンの「イマジン」の歌詞に相応しい。

 想像してごらん、国家など不要だと
 選択すれば難しくないさ
 中央集権も階層構造もない
 必ずしも農業をする必要もない
 想像してごらん、古代の人々が
 大規模で密集した都市に平等に暮らしていたと

 しかしさすがに、このようなアナーキストの夢想に説得される読者が多いとは思えない。高度に平等主義的な古代の集落や都市の幻影に入れ込むのも、かつての左翼が(よく知らないものを美化するという意味で)ソ連や北朝鮮を共産主義の楽園と見なしたり、諸条件の違いや実情を無視して北欧の福祉国家を賛美したりするのと似たような、繰り返される言説の類型だろう。従って一般読者の大半はおそらく、先史時代の遺跡や初期都市の豊富な事例、様々な民族誌的逸話などを物珍しく興味深いものとして提示されながら、古い社会進化論を「くつがえす」物語を一連の反進歩史観の変奏として受け取るくらいだろう。そしてもしその物語に説得される読者がそれなりに存在するとしたら、G&Wの仮定とは違って、実際には社会進化論には大した現代的影響力はなく、なぜなら大衆的な知名度がないからであり(歴代の社会進化論者の著作はおろか、ルソーやホッブズの古典さえ現代人の大半は読んでいないだろう)、よく知らないからこそ、有名な学者が言うのだからそうなのだろうと思ってしまうゆえだろう。一般的な人々が現代の生活と過去の生活を比べて、そこに進歩を感じるのは、バンドから国家へだとか、狩猟採集から農業へだとか、そのような学者の見方ではなく、医学や科学技術や教育や公衆衛生や料理や娯楽の発展、つまり健康や利便性や知識や清潔さや食事や趣味といった生活水準の向上、さらには職業選択や人付き合いや移動などについての、まさに自由の増大に関してだろう。もちろんそのような自由を十分に享受できない人々もおり、それはまさに不平等が存在するからだろう。

 興味深いことに、『万物の黎明』はラオンタンの創作文学と非常によく似た手法をとっている節がある。つまりラオンタンがアダリオに自らの思想を代弁させたように、G&Wは様々な民族誌に登場する先住民や部族、原始都市や初期都市に示唆される社会形態を材料として用いて、自らの政治的思想を表現している。アダリオが自由で平等な社会に住む「高貴な野蛮人」として描かれるのと同様に、様々な先住民や部族が物質的条件に縛られずに政治的選択をする自由な人々として、様々な原始都市や初期都市が高度に平等主義的なユートピア的実験として、エキゾチックに提示される。ラオンタンが虚構の対話編という形式を用いてヨーロッパ社会やキリスト教を批判したのと同様、G&Wは「ビッグヒストリー」という形式を用いて現代社会や古い社会進化論を批判している。

 だが、これまでも指摘されている通り、様々な先住民や部族に見られる生業や生活様式、その季節性の変動は『万物の黎明』の説明とは異なり、主意主義的な政治的自意識などよりも、主として生態学的要因に基づいている。たとえばイヌイットは入手可能な食糧資源や気候に応じて、季節によって住居や集落の構成が変化した。典型的には、夏と秋にはトナカイ(カリブー)狩り、沿岸の海洋資源、鳥の卵やベリー類の採集をして、厳しい冬には協力してアザラシ狩りを行った。イヌイットでも地域によって物質的条件に基づく社会構造の違いがあり、大型の獲物(ホッキョククジラ)に依存する地域の場合、大規模な狩猟の統率者が必要であり、それが政治的指導者の出現につながり、階層的な構造を持つ傾向があった一方、より小型の獲物(シロイルカ)に依存する地域の場合、狩猟は個々の狩人の競争なので強い指導者は生まれず、酋長や家長の社会的統制力は低く、政治的にはより平等主義的な構造を持つ傾向があった。内陸部では深刻な飢餓が発生して、人口が激減することもあった。厳しい環境ゆえに男女はそれぞれ不可欠の役割を担って相互依存しており、ある意味では男女平等であり、多くの成人男性が狩りの最中に死亡することから、性比の偏りを調整すべく女児が殺された。たしかに「イヌイットがそのように生きたのは、人間はそのように生きるべきだと感じたからだ」と非常に大ざっぱには言えるかもしれないが、そのように生きるべきだと感じたのは、そう感じさせる生態学的条件に適応してきたからだろう。あるいは大規模かつ平等主義的だったと推測される社会はいずれも、比較的平和な原始都市や初期都市、階層的権力が一時的に転覆された時期、軍事力の拡大が抑制された新世界など、特定の状況や物質的条件が示唆されるものだ。

 もっとも、批判的書評ばかり見てきたので、欠点ばかりが目に付いているところもあるだろう。『万物の黎明』と同様、他の「ビッグヒストリー」系書籍も探せば欠点はいくらでもある。たとえばピンカーの著作にあるような、遠い過去に発生した暴力の推定値に対して、強い説得力を感じるのは難しいだろう。仕方がないとはいえ、暴力以外の歴史的な統計の数値もまた過去に遡るほど不確かになる。あるいはジャレド・ダイヤモンドの著作もまたチェリー・ピッキングや過度の一般化を批判されており、事実の誤りも多くあるだろう。しかしこれらの著作とG&Wの著作では、寄せられる批判の性質が異なる傾向がある。

 たとえばダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の場合、発表当初は証拠やそれに基づく立論といった学術的問題を多く指摘されていたようだが、いつしか「環境決定論」「ヨーロッパ中心主義」「見せかけの反人種差別主義(a sham sort of anti-racism)」といった批判を一部の文化人類学者から受けるようになり、果ては学術誌に『ファック、ジャレド・ダイアモンド』と題した論文を発表する者さえ現れて、その中では明確に「人種差別主義」だと評されている。だが、すべてではないにせよ、それらは多分にイデオロギー的な批判、または感情的な人身攻撃であり、それを裏付ける証拠もなく人種差別的だと非難していることその他の論点も藁人形論法であることを逆に批判されている。前述のQuilletteの書評によれば、ピンカーも『万物の黎明』において白人優位、西洋中心主義といったイデオロギー的な藁人形論法で批判されていた。つまりピンカーやダイアモンドの著作は、グレーバーのような人類学者から、学術的な批判よりも、政治的(道徳的)な批判を受ける傾向を持っている。その一方、人類学者のグレーバーが(共著者と)書いた『万物の黎明』の場合、政治思想的な説得に偏向して、証拠やそれに基づく立論が歪められていたり、疎かになっていたりするという、学術的な欠陥を主に批判されている。双方ともにイデオロギー的な問題を指摘されているが、ピンカーやダイアモンドは文化人類学者からイデオロギー的な批判(政治的・道徳的に正しくない)を受ける傾向があり、グレーバーとウェングロウは社会科学者から学術的な批判(学問的・知的に正しくない)を受ける傾向がある。

 もちろん、たとえばピンカーもイデオロギー的な主張が優先されて、きちんと証拠に基づかない(あるいは基づけない)議論に関しては、学術的な批判を強く受けている。デヴィッド・ベルは『万物の黎明』のみならず、ピンカーの『21世紀の啓蒙』における啓蒙主義の取り扱いの浅薄さも酷評しており、おそらくその批判は大いに妥当だろう。啓蒙思想は数値化できず、進歩への影響を統計的に分析することも不可能に近い。『21世紀の啓蒙』では「その議論はほぼグラフに集約されて(the argument of the book is almost entirely contained in the graphs)」おり、自殺率・殺人率・所得・平均寿命・識字率などの72のグラフが全体として人類の進歩を示しているが、「グラフ(またはその他の種類の証拠)によって裏付けられていない唯一の主要な主張は、この進歩がすべて啓蒙主義と関係があるという主張である(The only major claim not supported by a graph (or indeed much evidence of any kind) is the assertion that all this progress has something to do with the Enlightenment.)」という批判もある。ベルによる『21世紀の啓蒙』の書評は「パワーポイント哲学」と皮肉たっぷりに題されているが、それこそ単にパワポのプレゼン的に、グラフとその解説だけで済ませておけば良かったものを、それに馴染まない啓蒙思想に取り組んでしまったゆえに、その部分に関してはいくらか悲惨な事態に陥ってしまったものと思われる。おそらく多くの読者がピンカーの大著に期待するのは、秀才のまとめた分厚い社会科学的ノートのようなものであって、生半可な思想談義など余計だろう。

 そうとはいえ、もう一つの重要な性質の違いは、ピンカー(の啓蒙主義以外の部分)やダイアモンドの主要な主張は、社会科学的な議論として検証や反論が可能であるのに対して、おそらく『万物の黎明』はそうではないということだ。前出のモリスの書評では、『万物の黎明』は観念論的・主意主義的な代替案と事例の集積に留まっており、その中核となる主張は検証不能だと指摘されていた。たとえばピンカーの統計に基づいた主張は、まさに統計学者のナシム・ニコラス・タレブから批判されており、その後、様々な学者によっても検証されている。あるいはダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の主要な主張の一つに対しては、それを否定する定量的研究が発表されてもいる。しかし『万物の黎明』は「主として好みの問題」だとして観念論的・主意主義的な見方を取るうえに、ろくに根拠もなく「信じるに足る十分な理由がある」と自説を推し進めるゆえに、その中核となる主張は、学術的な議論の土俵に乗りようがない。「イヌイットがそのように生きたのは、人間はそのように生きるべきだと感じたからだ」「農業をするかしないかは、すべて頭の中にある」「都市は心の中で始まる」といった命題を検証することは不可能であり、そもそも個人の主観的な「好み」や「信じるに足る十分な理由」には反論できず、また反論する必要もないだろう。一見、考古学や民族誌に依拠した学術的議論のように見えて、実のところ、G&Wの最も主要な主張は曖昧な「自由」の喪失を憂う信念の吐露にすぎない。

 全体として、グレーバーは学者として見れば山師の横顔を持っており、むしろそれ以外の何か、たとえば思想家・活動家・著述家として見た方が適切であるように思われる。従って個人的には、優れた学者の本を読みたいなら、デヴィッド・グレーバーの本は読む価値がないと信じるに足る十分な理由がある。しかし2010年代の思想家という文脈では、もしかしたら非常に興味深い存在かもしれない。

デヴィッド・グレーバーはポスト・ポストモダン思想家か?

予言者グレーバー

 クワメ・アッピアは前出の書評において、マルクスと類比しながら、グレーバーを予言者的思想家と見なしていた。これはグレーバー自身の洞察を通して見ると、なかなか慧眼に思えてくる。『万物の黎明』では、後期旧石器時代の豪華な埋葬に関連して、南スーダンのヌエル族についての民族誌的知見が持ち出されていた。以下にモリスの書評から引用する。

 ここでも著者らは「王様ごっこ」を見て取り、先植民地時代の南スーダンのヌエル族との類比として、時として「我々の社会では、極度に風変わりな人、反抗的なクィア、神経多様性のある人、精神疾患を抱える人など」が「神に触れられた者」として解釈されることがあると指摘する。彼らの説明では、危機的状況において、「そうでなければ、村の馬鹿者のような人生を送っていたかもしれない人物が、突如として驚くべき先見性と説得力を持つことが判明する」。そのような人物は「ヌエル族の社会がどうあるべきかについて、まったく異なる見通しを提案する」ことさえある。

     Here too they see “play kings,” and make an analogy with the precolonial Nuer of South Sudan, who sometimes interpreted people “who in our own society would likely be classified as anything from highly eccentric or defiantly queer to neurodivergent or mentally ill” as “being touched by God.” In moments of crisis, they explain, “a person who might otherwise have spent his life as something analogous to the village idiot would suddenly be found to have remarkable powers of foresight and persuasion.” Such a one might even “propose entirely different visions of what Nuer society might be like”

https://doi.org/10.21237/C7clio0057261

 要するに、そのような予言者的人物が後期旧石器時代にも出現して、それゆえに豪華な埋葬をされたという推測であり、それは季節性の大規模な狩猟、それに伴う宴会や宗教的儀式のために多くの人々が一時的に集合した際の、仮初めの指導者のようなものだったのかもしれない(ただし骨盤が変形した12000年前のシャーマンの埋葬が発見されたという2010年の記事において、考古学者ブライアン・ヘイデンが「精神的または身体的に障害を持つ人々が並外れた超自然的パワーを持っていると考えられることは珍しくない(It's not uncommon that people with disabilities, either mental or physical, are thought to have unusual supernatural powers.)」と述べていることから、このような見方は特に目新しいものではないようだ)。

 そして興味深いことに、このヌエル族に関する記述は、グレーバー自身にも当てはまるように思える。イェール大学から任期更新を拒否された後、アメリカとカナダの大学に何度応募しても決して採用されなかった「風変わりな人」が、金融危機とその余波という「危機的状況」において、「突如として驚くべき先見性と説得力」を発揮して、ウォール街占拠運動に主導的な役割を果たした。そこから広まった「私たちは99%だ」という啓示は、「社会がどうあるべきかについて、まったく異なる見通しを提案する」ものだった。占拠運動で有名になった直後の記事では、記者が取材に先立ってグレーバーの仕事に関する情報をネットで調べたものの、活動家としての記事数件などしか見つからなかったと述べられている。つまり占拠運動以前には学者として無名だったわけであり、あくまで活動家として世に知られるようになったことが分かる。

 ヌエル族の間では、時として「神に触れられた者」は「驚くべき先見性と説得力」を持つ「予言者」と見なされるが、この文化は植民地支配を背景として19世紀に出現したようだ。スーダン南部の「シャーマン・呪医」的な宗教職能者は「クジュール(魔術師・ペテン師というような意味合い)」と呼ばれており、植民地政府は当初、政府任命首長による統治の障害と見なして、彼らを討伐しようとしたが、首長は統治力を発揮できず、クジュールの方が住民に大きな影響力を持っていたことから、むしろ彼らを統治に利用することにしたという。そうして権力を与えられる中で一部のクジュールが「予言者」として台頭していくことになった。最も有名な「予言者」はングンデン・ボン(1906年没)であり、当初は気が狂った「愚か者」と見なされていたが、次第にその言動が「神」に憑依されたせいではないかと噂されて指導者的存在となり、平和主義者だったらしく、部族内および部族間の紛争を調停したり、植民地政府との戦いを避けたりしたようだ。とはいえ、生前よりもむしろ死後に名声が高まり、生前の言葉がその後に起こる様々な出来事を言い当てていると解釈されるようになったという。そしてその後の内戦の中でも、平和の到来を説く指導者が「予言者」と見なされた。

 ここに見て取れるのは、争いやその脅威への対応として予言者的指導者が出現したという文脈であり、これはナンビクワラ族において攻撃を受ける最北部にのみ権威主義的な指導者がいたというデヴィッド・プライスの研究、さらには大規模な狩猟を行う場合には指導者が生じるという知見などにも通じる。死の危険を伴う狩猟は自然や獲物との戦いであり、部族内や部族間の抗争も含めて、平等主義的または非階層的な傾向を持つ社会であっても、集団として敵や脅威と対峙する状況においては指導者が生じやすいのだろう。これが興味深いのは人間の場合、物理的な争い以外にも、文化や価値観の闘争があるという点であり、グレーバーのような活動家はそのような道徳的闘争において、まさに指導的な立場になりうる。さらに言えば、ウォール街占拠運動が起こった2010年代初頭から急速に広く普及していった結果、そのような闘争を好む類の人々を尖鋭化させた場として挙げられるのが、ソーシャル・メディアのTwitter(現X)だろう。

 これまた興味深いことに、様々な部族社会の季節性の集合と分散どころか、Twitter(現X)社会の場合、話題が沸騰してはそれに人々が群がり、ほどなく沈静化したかと思えば、また別の話題が沸騰してそれに人々が群がるという、話題性の集合と分散が絶えず巻き起こっている。そして闘争を好む類の人々の場合、その話題は政治的・道徳的な性質を持っており、時事性の悪行や不届き者をこぞって非難することもあれば、特定の問題について対立する論陣を張って言い争うこともある。そうした喧噪の中で、たまたま予言者的な鋭い発言をしたゆえに一時的に祭り上げられる者もいれば、日々の話題に次から次へと道徳的な観点から批評や批判、さらには非難や断罪を加えて御意見番と化す者もおり、相容れない党派同士の終わりなき戦いに身を投じて名を揚げる者もいれば、元から有名であるか、有名になりやすい属性を持つ者がそうした論争に参加して、瞬く間に重鎮のように支持者を増やしていくこともある。とりわけ党派的対立において明確に一方の側に立つ場合、カルト的な指導者の地位を確立していくこともあるだろう。そのようにして影響力を発揮する者は、言論系インフルエンサーと呼ぶことができる。その肩書きが学者の場合、インフルエンサー学者ということになる。真っ当な分野で研究に専心する場合、Twitter(現X)で日々忙しく社会批評や時事論争をしている暇などはないだろうから、そのようなインフルエンサー性は、学術的には信頼できない人物の指標にもなりうる。これは一般向けのポップ書籍を精力的に発表しながら、マスメディアにおいてコメンテーターや評論家を担う旧来のメディア学者(日本らしく言えばタレント学者)の、より現代的および大衆的な進化形態と見なすことができる。もし仮にTwitter(現X)に公共的役割があるとするなら、インフルエンサー学者はソーシャル・メディア時代の「公共知識人」と見なすこともできるかもしれない。

 グレーバーの場合、かなり活発かつ戦闘的にTwitter(現X)を利用していたようであり、たとえば追悼文の一つでは、グレーバーに実際に会ってみると「Twitter戦士」の印象とは異なり、非常に優しく親切だったと述懐されている。あるいはノア・スミスは『負債論』の書評において、グレーバーとTwitter上で遣り取りをした結果、「ちょっとした批判にも激怒するタイプの公共知識人(Public Intellectual - the type who bristles with anger at the mildest criticism)」という印象を抱いたと述べている(ピーター・ターチンもTwitter上でグレーバーと遣り取りした後、このノア・スミスの見解に同意している)。また前出のHAU騒動では、明らかに批判対象に非がある問題ではあったが、方法として問題があるやり方(セクハラ疑惑を誇張など)によって、グレーバーはTwitter上での、総編集長ダ・コルの糾弾に関与したとされる。グレーバーはその他のネット上の議論においても悪口態度の卑劣さを諫められるなど、一般的な学者よりも戦闘的な印象が見受けられるが(グレーバーは批判に対して、自分は決して間違っておらず、相手が誤読しているという強硬な姿勢を貫くタイプだったようだ)、そうした姿勢は、しばしば「議論に向かない」と評されるTwitter(現X)にはむしろ向いているとも言える。戦闘的な姿勢は支持者と不支持者をはっきりと分けるので、政治的・道徳的な闘争の場合、目立ちさえすれば、より偏向した熱心な支持者を集めやすいからだ。そしてグレーバーの場合、ウォール街占拠運動で知られる活動家的有名人であり、国家や市場、資本主義や新自由主義といった旧来の左翼好みの敵を持っている。

 もっとも、グレーバーは「公共知識人」としては、新しい部分と古い部分を併せ持っている印象がある。「私たちは99%だ」という言葉で表現された富の集中と不平等、あるいは「ブルシット・ジョブ」で取り上げられた労働問題などは現代の大衆の関心と合致しており、そうした視点を難解ではなく平易な言葉を用いて、ネットも巻き込んで広めるという側面では新しいタイプだったかもしれないが、国家やら官僚制やら資本主義やらを観念的に論じるという、浮き世離れしたアナーキズム思想家の側面はかなり古めかしく、その界隈の学生や院生、同様に古めかしい思想趣味を持った読者にしか興味を持たれないだろう。たとえば2014年のピケティとの対談を読んでみても、グレーバーは「99%」という言葉に代表されるような経済的な格差や不平等の問題について、具体的にはほとんど考えたことがないように見える。ピケティが資本の大部分が一部の富裕層にますます集中しているという現状と困難を説明しながら、累進富裕税や相続税の強化を主張して、債務帳消しは有効的ではなく、むしろ資本家を利する可能性が高いことを指摘しているのに対して、グレーバーは累進課税や再配分には懐疑的であり、資本主義や新自由主義はイデオロギー的な覇権であるだとか、債務帳消しには概念的転換の意味があるだとか、ふわっとした観念論的な主張に終始している。ピケティが紳士的に『負債論』を褒めつつ、その内容の問題点を指摘しても、グレーバーは答えを逸らしたり話題を変えたりして、ほぼ対話が成立していない。少し下で触れるが、グレーバーは経済学の専門知識を持たないにもかかわらず、経済学について語る地位に祭り上げられてしまったようで、これは古いタイプの「文系」知識人によく見られる特徴だ。何らかのきっかけでマスメディアを通じて有名になり、大衆向けの書籍を書いたり、コメンテーターや評論家の仕事を請け負ったりするうちに、専門外のことも軽々しく語るようになる。専門外のことなので生半可な知識で語ったり、詳しい分野に強引に関連付けることで、それらしい見解をまぶして学者らしく取り繕ったりもする。

 とはいえその一方、グレーバーの用いる平易な言葉は適用範囲が広く、観念論的な主張は意味が曖昧であるゆえに、そのぶんだけ受け手の解釈の余地が大きく、それこそ予言者の予言のように、様々な事柄に当てはめることができるだろう。たとえば「私たちは99%だ」という謳い文句はあまりにも単純で、実際には99%の中にも様々な階層があり、「ブルシット・ジョブ」の主張の多くは前述の通り、学術的な検証によれば妥当性が低いが、それらの平易な文句は多くの人々にまるで「予言」のように、時に自分事として、時に現代社会に当てはまる啓示として解釈される。あるいはグレーバーは以前にも触れた記事において、ドゥルーズやボードリヤールなど、その時々に流行するフランス・ドイツ・イタリアの理論家たちを「学術界の外の、大抵は芸術趣味や文化産業従事者の間で信奉者を獲得する(who gain followers outside of academia, usually in bohemia or among those working in the culture industry)」存在だと述べたうえで、そうした人々の用いる不明瞭な文体を「神託様式」と的確に表現しているが、その種の文章は不明瞭さゆえに、まさに「予言者」を通じた神のお告げのように、信奉者たちから様々に解釈される。そして実のところ、過度に不明瞭な文章を書いたりはしないという違いこそあれど、グレーバーはそれらの思想家たち(次の段落に列挙するような特徴から、実際には理論家というよりも思想家という呼称が相応しい)と非常に似通っており、曖昧な観念論を主軸として、社会批評をしたり権力の問題を語ったりするタイプだろう。

 英語圏で主流の学術的な分析哲学と対比された時、それら大陸系の思想家たちが持つ特徴は何かと言えば、科学との懸隔または断絶、文化や歴史性の重視、道徳的・政治的な関心といった傾向であり、その他にも、本質的に不明瞭な蒙昧主義、哲学よりも文学に近い、論証・区別・例示・分析の欠如、哲学的問題よりも思想家や学派の研究(哲学研究というよりも哲学者・哲学史研究)、テキスト解釈や美学的疑問への取り組み(文学や芸術との親和性)、論文よりも書籍、学術的議論ではなく自己表現の一形態(個人の思想や世界観の表現)、観念論への傾倒、メディア露出などが挙げられる。分析哲学者は数学者や科学者を規範としているが、大陸哲学者は詩人や予言者を規範としているという指摘もある。さらに20世紀後半の大陸哲学として有名なポストモダン思想は、北米の大学では主要な哲学科ではなく、英語学科、あるいは文学・美術・映画・社会学・政治理論といった分野において主に取り扱われる傾向があり、上に列挙したような特徴と合わせてみれば、それは「文系」の傾向と見なせる。また最初の方で触れたとおり、ポストモダン思想はかつて社会文化人類学にも大きな影響を与えたようだ。こうした特徴を眺めてみれば、少なくない部分において、これまでに見てきたグレーバーの個性と通じる点が見出せるだろう(もちろん相違点もあり、平易な言葉遣いや豊富な民族誌の事例提示、芸術への関心の低さといった特徴がグレーバーにはある)。

 ポストモダン思想の悪しき蒙昧主義として、その不明瞭な文体と共に広く有名なのは、少なからぬ思想家たちが著作において、きちんと意味を理解しないまま、別の意味を明示することもせずに、科学用語・数学用語を濫用・誤用していたことだろう。その知的欺瞞は物理学者のソーカル&ブリクモンの著作『「知」の欺瞞』によって暴かれて痛烈に批判された。同様にグレーバーも他分野の用語を駆使した文章について、専門的理解の乏しさを批判されることがある。グレーバーは2019年、主流派経済学を全面的に攻撃する記事を発表しているが、それは経済学への無理解に基づいていることを指摘されたり、紳士的かつ詳細に論駁されたりした。

 ここで思い出されるのは、前出のマイケル・スミスの書評において、グレーバーの手法とミシェル・フーコーの手法との類似性が指摘されていたことだ。それは社会科学として実証的アプローチを適用すべき対象に対して、哲学的なアプローチを取っているという批判だった。この二人にはより具体的な類似点もあり、双方ともに歴史学者ではないにもかかわらず、一種の歴史研究を著作として発表しており、そしてそれに対して、専門家から証拠の扱いや解釈を批判されている。フーコーは一般にポストモダン思想に含まれることが多いが、その影響はおそらく他のポストモダン思想家たちよりも社会科学寄りであり、人類学において、社会科学よりも人文学寄りのグレーバーとちょうど重なり合うような位置にいるのかもしれない。そうだとすればこの類比から、グレーバーが思想家として、どのようなところに位置付けられるのかを考えることができる。

進化したフーコー

 ポストモダン思想とはどのような分野なのかを定義する場合、その代表的な思想家たちの思想の内容はさほど重要ではない。当の思想家たちもその分類に含まれることを大抵は拒否していたらしく、実際におそらく一括りにはできないからだ。しかし形式的な特徴としては、上述したような大陸哲学伝統の大まかな共通性があり、そうした特徴が20世紀半ば以降の現代哲学として、英語圏において確立した学術的な分析哲学と対比されるということは、詰まるところ、時代を経ても学術志向が生じず、それゆえにガラパゴス化した非学術的な慣習や傾向こそがその特徴ということになる。従って、そのような特徴を有する20紀半ば以降の、フランス語圏を中心とした思想をポストモダン思想と呼ぶことができる。これは学問的分類ではなく、むしろ社会文化的分類と言えるだろう。非学術性はそもそも学問の特性ではないわけだから。

 どんな学問でも通常、その教育課程や訓練過程において、できるだけ明晰かつ論理的な文章を書くこと、特定の文脈や説明の目的に応じて言葉の意味や定義を明示すること、あるいは主張を根拠付けたり先行研究への依拠を示したり異論を紹介したりするために、引用をしてその出典を明記することなどを最低限の規範として身につけることが求められる。しかし何よりもまず、ポストモダン思想は著しく不明瞭な文章を書くことで名高く、グレーバーも「神託様式」と評したように、その蒙昧主義の様式は難読の前衛文学やノストラダムスのような予言者に近い。思想家たちの一部にも自覚はあったようで、フーコーはかつて「フランスでは、10%は理解不能にしなければならない。そうでなければ人々はそれを奥深いとは思ってくれず、あなたを深遠な思想家とも思ってくれないだろう(In France, you gotta have ten percent incomprehensible, otherwise people won’t think it’s deep–they won’t think you’re a profound thinker.)」と語り、自分よりも遙かに曖昧模糊とした文章に耽溺した思想家のジャック・デリダを「蒙昧主義テロリズム(terrorism of obscurantism)」と評したとされる。そのデリダはかつて学術的規範を重視する哲学者たちから、明晰さや厳密さの欠如ゆえに、まさに哲学者ではなく前衛詩人のような存在だと批判された。そうした学術的な哲学者による批判からも分かるとおり、人文学においても、その分野が現代的な規範をそなえている場合、極端に不明瞭な蒙昧主義は、学者の文章ではなく、芸術性を重視する作家の文章の特徴と見なされる。科学用語や数学用語の濫用・誤用もそれ単独の問題ではなく、全体として文章が明晰で、文脈や用法も明快に示されていれば、それが比喩なのか勘違いなのか、はたまた非常に特殊な使われ方なのかといった解釈が限定されるが、そうですらないゆえに、往々にして意味不明な濫用と見なされる。たとえば哲学者のトマス・ネーゲルは『「知」の欺瞞』の書評において、「専門用語を意味も知らずに用いて、まったく理解していない理論や公式に言及する(use technical terms without knowing what they mean, refer to theories and formulas that they do not understand in the slightest)」ポストモダン思想家たちについて、「どこまでが無敵の愚かさによるもので、どこまでが詐欺的に理論的洗練を誇示して読者を威圧したい欲望によるものなのかを見分けるのは、必ずしも容易ではない(It is not always easy to tell how much is due to invincible stupidity and how much to the desire to cow the audience with fraudulent displays of theoretical sophistication)」としながらも、「ラカンとボードリヤールは完全なペテン師、イリガライは馬鹿者、クリステヴァとドゥルーズはその二つが混ざったような感じだ(Lacan and Baudrillard come across as complete charlatans, Irigaray as an idiot, Kristeva and Deleuze as a mixture of the two)」と評している。あるいは精神分析系思想家のジャック・ラカンは初期の論文において、空虚な引用をしたうえ、その出典の明記すらしていないことなどを半世紀以上経ってから、心理学者によって指摘された(古い心理学の先行研究から着想を盗用した疑惑も指摘されている)。このような思想家たちは明らかに最低限の学術的規範を身につけていない。

 しかし重要なのは、それは思想家としては必ずしも問題ではないということだ。学術的な欠陥も、前述のヌエル族の文脈を踏まえれば、予言者的な思想家としては非常に優れた魅力になりうる。つまりポストモダン思想家たちはそもそも学者ではなく、シャーマン的な宗教職能者に近い存在として祭り上げられたと見なすことができる。たとえばラカン派はラカンを教祖としたカルト宗派のようなものであり、レヴィ=ストロースは文化人類学の視点から、ラカンにシャーマニズム的な力を見出した。そしてラカンは国際精神分析協会と対立しており、つまり他派と争っていた。ポストモダン思想家たちの不明瞭な文章で書かれた著作は解読の必要な「聖典」のようなもので、様々な解釈を生み出すことで、それぞれの読者に恣意的な啓示を与えることができる。それらの思想家たちは大抵、読み手に開かれた多義的な解釈をむしろ奨励しており(従って解釈を限定していく知的探究とは相容れない)、明確に定義されない用語や概念はその曖昧さゆえに、現代社会の様々な現象や出来事に都合よく当てはめることが可能だ。ひいては予言のように機能することもあるだろう。そして思想家たちの多くは知識の生産には従事せず、むしろ学術界における反知性主義の傾向があり、近代合理主義やら客観的真実やら二項対立やら権力やらを観念論的に批評・批判することで、それらと戦うポーズを取っていた。彼らはいかにもフランス的なサロン文化圏における「シャーマン・予言者」的な存在であり、その不明瞭な難読の文章は、まさに前衛詩のように高尚そうな深遠そうな魅力をたたえ、文化人や批評家を気取りたい人々の虚栄心をくすぐり、その言説がメディアを通じて広まることで、「知的」な雰囲気を味わわせてくれる権威的商品としても流行した。従って文学や芸術に近い領域において、それらの人物やその著作が、思想家や思想として高く評価されることに不思議はない。

 分析哲学との対比として、「大陸哲学は理論的な争いに勝ったことはないにもかかわらず、まさにそれゆえでもあるのだが、フィユトンにおいて最も繁栄しながら、制度的にも文化的にも勝利を収めてきた(CP has triumphed institutionally and culturally even though, and indeed in part because, it has never won any theoretical battles, flourishing best in the feuilleton)」という指摘もある。フランス語のフィユトン(feuilleton)とは、新聞のニュース紙面とは別の文芸欄・文化欄のことで、より広くは雑誌も含めて、大衆向けの評論記事などのことも意味するようだ。日本の新聞雑誌においても、社会科学的な専門性を持たない文芸批評家などが有識者面して、時事批評や社会批評をしたり、政治問題について対談したりする記事があるだろう。芸術作品や虚構作品の論評を通じて、時代精神や社会問題についての見解を述べたりもする。そうした大衆向けの記事においては、統計的分析や制度設計に関する議論などよりも、もっともらしい印象論に思想家の独自用語を織り交ぜるような、雰囲気重視の言説の方が好まれる。そうしたメディア文化と「公共知識人」の高尚ぶりたがる悪癖が相まって、おそらく蒙昧主義がファッショナブルなものになってしまったのだろう。

 ところが現代の学術の場合、通常はそのような文化とは正反対の規範を持っており、それに従って実践される。仮説や理論を検証して、集団的営為として根拠に基づく精査や批判を繰り返していくことで、知識や解釈の信頼性や妥当性を高めたり、方法論を洗練させたりしていく。理論や手法の発案者の名前こそ残るにしても、知識や方法論は繰り返し集団的に修正されるうちに属人的ではなくなり、広義の思想とも言える机上の空論としての仮説や理論がやがて、より客観性・確からしさ・妥当性の高い根拠に裏付けられたものになっていくか、裏付けに欠けるものとして棄却されていく。そのような実践のためには、なるべく明晰かつ論理的な記述や定義を行うこと、主張が検証可能な方法論を探究すること、解釈を事実や根拠に基づいて限定していくことなどが要求される。さらに通常は学術論文が最も重視され、一般向けの新聞雑誌や書籍ではなく、専門的な学術誌を主たる発表媒体とする。実際に『万物の黎明』もそのような観点から批判されていた。とりわけポストモダン思想の場合、上述したような学術的欠陥がその分野の内部からではなく、分野外の学者から批判されるまで、長ければ数十年以上も放置されて広く露見せず、また露見した後も修正されないという点において明らかに、有効な相互批判・相互審査の欠如、学術的倫理の欠如が認められる。それゆえに『「知」の欺瞞』に代表される他分野からの批判は、ポストモダン思想家たちがようやく学術的規範を教示された出来事、その著作がようやく(明晰な文章を書くといった非常に基礎的な点について)査読された出来事と見なすことができる。しかしその欠陥が立派な学術的不正とも言い難いのは、あまりにもそれが基礎的な部分すぎて、通常の学問分野なら、学者になるには不適格という烙印を押されるか、最低限の明快な文章を書く能力を身につけてから学者になるかの、いずれかだからだろう。

 もっとも、そのような欠陥は必ずしも思想としての価値を下げるものではない。エリファス・レヴィやアレイスター・クロウリー、ネルソン・マンデラやダライ・ラマ、サイババやスティーヴ・ジョブズ、マハトマ・ガンディーや加藤鷹、相田みつをや司馬遼太郎、アイン・ランドやL・ロン・ハバード、タモリや叶姉妹など、特定の時代や特定の人々にその言葉で多大な影響を与え、時として偉大な思想家と見なされる人物には、肩書きが学者ではない者も多い。そうした人物は通俗的な意味で「哲学者」と呼ばれることもある。また科学用語を濫用・誤用して思想を語るという様式もかつて、量子力学を神秘主義的に解釈したニューエイジ思想・ニューサイエンス、あるいは誤用ではなく比喩としてだが、電磁波のスペクトルを意識のモデル化に援用したトランスパーソナル心理学系の思想家ケン・ウィルバーなど、いわゆる「スピリチュアル」系の分野によく見受けられたものだ。それらは20世紀半ばから後半にかけて、主にアメリカにおいて発展した反近代主義的なカウンター・カルチャーであり、もちろん学問分野からはほとんど無視されたが、フランスでは『「知」の欺瞞』で批判されたように、同時期にそうした形式が学問分野において持て囃されてしまったことになる。

 似たような比較は精神分析にも見て取ることができる。科学的心理学・生物学的精神医学が主流になっていった英米では、1970年代80年代頃までに精神分析はそれらの学問分野において周縁化されたが、それ以降もフランスでは、ラカンに代表される精神分析文化の根深い影響でそれが大学や医療機関において支配的な勢力を保ち、政府もそれを黙認し続けた。そしてその結果、自閉症児に対する非倫理的な「治療」として誤適用されて、おそらく少なく見積もっても数十万人規模と思われる深刻な人権侵害を引き起こした。フランスの心理学や精神医学においては、フロイトの権威もまだ残存し続けているようだが、フロイトの精神分析理論が英米の心理学において廃れたのは、(主張それ自体が曖昧すぎることも含めて)その主張の大半を証拠で裏付けることができなかったからであり、なおかつ、より科学的に妥当な理論や方法論が出現して、その分野が更新されたからでもある。その一方でポストモダン思想の場合、たとえ精神分析を批判するにしても、それを学問としてではなく、あくまで思想として批判する程度だろう。しかしフランスの自閉症児の事例のように、問題は学問として不適当な思想が学問として残り続けてしまったことであって、それは思想としての問題ではない。ただ単に一時代に大きな影響を持った思想として、フロイトやラカンの著作がこれからも読み継がれていくだけなら、たとえその思想の内容に様々な異常性があるにしても、そこに問題はない。それが思想として流通することは自由だからだ(ただしあくまで思想にすぎないことを一般読者に明示する必要はあるだろう)。もちろん過去の様々な思想家たちと同様、フロイトにも歴史的重要性はあり、その点では学問分野で今もなお取り扱われるべきかもしれないが、しかし現代に近づくにつれて、思想だけでは学問にはならなくなり、ただの思想家は学者ではなくなった。ポストモダン思想もそのような流れの中に位置付けられるだろう。もちろんだからといって、彼らが思想家として色褪せるわけではない。

 今世紀初頭までには代表的なポストモダン思想家たちは没したので、その時代は終わったとも言えるが、ポストモダン思想に融和的なアメリカの哲学者ゲイリー・ガッティングによる2012年の記事においても、もはや「分析哲学」と「大陸哲学」という用語は相当に曖昧化していることを踏まえながらも、やはり「多くの大陸哲学の著作の不明瞭さとは対照的に、分析哲学の著作のほとんどは比較的明快(the relative clarity of most analytic writing in contrast to the obscurity of much continental work)」であるという非対称性が指摘されている。

 最も顕著に不明瞭な大陸哲学の著作(たとえば後期ハイデガーや1960年代以降の主要なフランスの哲学者たちの著作)は、文学的表現の一形態であり、哲学的概念の創造的変形から抽象的な詩を生み出しているのかもしれない。これは、そうした著作への学術的関心が英語学科やその他の言語学科に移行していることを説明するだろう。

     It may be that the most strikingly obscure continental writing (e.g., of the later Heidegger and of most major French philosophers since the 1960s) is a form of literary expression, producing a kind of abstract poetry from its creative transformations of philosophical concepts. This would explain the move of academic interest in such work toward English and other language departments.

https://archive.nytimes.com/opinionator.blogs.nytimes.com/2012/02/19/bridging-the-analytic-continental-divide/

 その著作が哲学というよりも抽象的な散文詩だとすれば、その手の大陸系の思想家たちは哲学者というよりも文学作品の作者ということになる。そして文学作品の作者は現代の学者とは違って、著しく不明瞭に書かれた著作を生み出しても何ら問題はない。しかしその場合、それを哲学ではなく、明確に文学作品として扱う必要があるだろう。そうでなければ、英語学科やそれに属する文芸批評や文化研究などは、文学作品を哲学と混同していることになる(北米の大学では一般的に英語学科をはじめとした言語学科に文学や文化教育が含まれていることが多いらしく、これが専門分野としての哲学とは別の領域において、文芸批評やカルチュラル・スタディーズなどに援用される「哲学」としてポストモダン思想が隆盛してしまった一因のようだ)。そのような学科は、もし学問をしたいのであれば、そうした思想を批評に援用するのではなく、むしろそうした思想家の著作を文章表現として取り扱って、その蒙昧主義がどのような効果を持ち、どのように読者に作用するのかについてなどの批判的分析を行うべきだろう。ガッティングは上の記事をこう結んでいる。「大陸哲学と分析哲学の溝が埋まり始めるのは、代表的な大陸思想家たちがより明快に書き始めた時だけだろう(The continental-analytic gap will begin to be bridged only when seminal thinkers of the Continent begin to write more clearly.)」

 だが、こうしたポストモダン思想の文化において、フーコーは他の思想家たちとは比較的別物と見なされることが多い。端的に言えば、他よりもまともだと評される傾向にある。

 たとえば言語学者ノーム・チョムスキーはかつて、ポストモダニストの知識人サークルをカルトと表現しながらも、フーコーだけはその他の思想家たちとは少し違うと評した。チョムスキーによれば、フーコーの場合、少なくともいくらかは理解できる書き方をしており、また特権的なエリート・サークルに閉じこもってもいなかった。権力についてのフーコーの「理論」は「他の多くの人々が、深遠な何かが含まれているというふりをせずに非常にシンプルに表現してきたことを、きわめて複雑かつ大げさに言い直したにすぎない(merely an extremely complex and inflated restatement of what many others have put very simply, and without any pretense that anything deep is involved)」ものであり、そのような見せかけは「パリの腐敗した知的文化の一部として深く根付いているので、彼はごく自然にそれに陥ったが、しかし彼の名誉のために言えば、彼はそこから距離を置いた(it's such a deeply rooted part of the corrupt intellectual culture of Paris that he fell into it pretty naturally, though to his credit, he distanced himself from it)」として、他の思想家たちに比べれば、蒙昧主義に耽溺しなかったことを示唆している。さらに18世紀の刑罰の技法など、フーコーが著作で取り上げた特定の具体例については興味深く、(フーコー自身は信用できないので、別に独立して)調査する価値があると述べている。

 この具体例についての興味は、チョムスキーが『万物の黎明』に推薦文を寄せた理由の一つを説明するかもしれない。チョムスキーはジョー・バイデンよりも14歳上であり、90歳超えで『万物の黎明』を読んだ計算になるので、残された人生を何に使うのかを考慮すれば、批判的精査をする余裕などないだろう。またグレーバーと同様にアナーキストなので、その点で共感する部分もあったのかもしれない。しかしそれ以外にも、『万物の黎明』は考古学的・民族誌的な具体例が豊富という特徴があり、そこが興味深かったのかもしれない。つまり文献に基づいた具体例があれば、それは知的興味を引く要素になりうる。

 フランス国内における2010年の批判書『Longévité d'une imposture: Michel Foucault, suivi de "Foucaultphiles et foucaulâtres"(『詐欺の長寿:ミシェル・フーコー、続いてフーコー愛好者と崇拝者たち)』の冒頭においてさえ、フーコーは以下のように、その他の思想家たちよりも優れた点をまず挙げられている。

 フーコーの思想は、デリダの「グラマトロジー」やドゥルーズ=ガタリの「分裂分析」とは異なり、無根拠な概念化として提示されているわけではないので、同業者たちの思想よりも、明らかに妄想的ではない。実際、彼の著作の大半は、明白に興味深い歴史的・社会的な問題を扱っている――精神医学制度の起源(『狂気の歴史』1961年)、近代医学の起源(『臨床医学の誕生』1963年)、「人間」の近代的概念(『言葉と物』1966年)、刑務所制度(『監獄の誕生』1975年)、あるいは「セクシュアリティ」の概念(『性の歴史』)。

     Les idées de Foucault sont moins manifestement délirantes que celles de ses confrères parce qu’elles ne se présentent pas, à la différence de la « grammatologie » derridienne ou de la « schizo-analyse » deleuzo-guattarienne comme des conceptualisations gratuites. La plupart de ses écrits, en effet, traitent de questions historiques et sociales d ’un intérêt évident : les origines de rinstitution psychiatrique (Folie et Déraison : histoire de la folie à V âge classique, 1961), de la médecine moderne (Naissance de la clinique : une archéologie du regard médical, 1963), de la conception moderne de « l’homme » (Les Mots et les Choses : une archéologie des sciences humaines, 1966), de l’institution pénitentiaire (Surveiller et Punir : naissance de la prison, 1975), ou encore de la notion de « sexualité » (Histoire de la sexualité).

 上記に加えて、フーコーがフランスで最も権威ある知的機関コレージュ・ド・フランスに所属していたこともあり、その著作は「極めて綿密で文書に裏付けられた歴史分析(une analyse historique extrêmement approfondie et documentée)」だと受け取られていること、自明とされていた諸制度が実際には「自然」ではないことを示すなど「各分野の研究を根本からくつがえした(bouleversé de fond en comble l’étude de chacun des domaines)」とされていること、刑務所への反対や人権擁護など「彼の活動家としての行動(son activité militante)」が広範な社会政治的影響を与えたことなどが、フーコーの永続的な名声の理由として挙げられている。つまり根拠のない妄想的な思想とは異なり、フーコーの「理論」は歴史的な資料に基づいている。それが他の思想家たちとの違いであり、また奇しくも、それまで語られてきたことを根本からくつがえす性質、活動家としての側面なども含めて、その特徴はグレーバーと非常に似通っている。

 では、そうしたフーコーの「歴史分析」は実際のところ、通俗的な権威や名声を無視して判断した場合、どのように評価されているのだろうか。まずは掲示板型ソーシャル・メディアのRedditから、それなりに見識を持った一般読者によるものと思われる書き込みを取り上げる。以下はフーコーの学識に対して、歴史学者がどのような弱点を見出しているかという質問に対する答えだ。

 フーコーは歴史学者ではなかった。彼は歴史学の研究法を用いず、一次資料に依拠せず、証拠を選択的に読み、歴史的な根拠ではなく、哲学的・認識論的な根拠に基づいて結論を下す。彼の議論は循環論法であり、現存する歴史的な記録および議論の扱いはせいぜい軽視的で、社会における権力構造や言説関係についての彼の理論は、読む作品によって常に移り変わる。彼の後期の著作は初期の著作と矛盾しており、多くの明白な歴史的不正確さや貧弱な研究を指摘されると、「私はプロの歴史学者ではない――しかし完璧な人間などいない」と軽薄に答えた。
 とはいえ、これは彼がまったく無益という意味ではなく、彼の研究は新たな学問の道を開き、実際の歴史学者たちに、権力構造や権力とアイデンティティの言説関係に目を向けて資料に取り組むように働きかけ、またポストコロニアリズム、ポスト構造主義、カルチュラル・スタディーズ、ジェンダー史、脱構築主義といった分野にとっては大きな恵みだった。しかし、彼をプロの歴史学者と混同してはならない。

     Well Foucault was not a historian. He doesn't use historical methodology, he does not rely on primary sources, he selectively reads his evidence and makes conclusions based upon philosophical and epistemological, not historical, grounds. His arguments are circular, his treatment of extant historical records and arguments is, at best, dismissive, and his theories of power structures and discursive relations in societies constantly shifts and changes depending on the work you're reading. His late works contradict his early works, and when confronted with his many glaring historical inaccuracies and poor research, he flippantly replied with "I'm not a professional historian — but nobody's perfect."
     Now, none of this means he is not extremely useful, and his work did open a new avenue of scholarship, and encouraged actual historians to engage source material with an eye towards power structures and discursive relations of power and identity, and he was really a boon to the field of postcolonialism, poststructuralism, cultural studies, gendered history, and deconstructionism. But he should never be confused with a professional historian.

https://www.reddit.com/r/AskHistorians/comments/1edywk/comment/c9zbgps/

 同じスレッドには別の投稿者による書き込みとして、もちろん歴史学者ではなく、あくまで哲学者としてフーコーを捉えながらも、多大な影響力を持った思想家であったゆえに、その思想と方法論は事実上、疑似知識と疑似歴史を生み出したという批判もある。思想家としての評価は脇に置くとして、こうした現代の読者による応答は、次のようなことを示唆している。すなわち、フーコーの「歴史分析」は歴史学の標準的な方法に則っておらず、その意味では自他共に認めるアマチュアであり、にもかかわらず思想家として多大な影響力を持ってしまったゆえに、それをまともに歴史学的な著作だと受け取ってしまう読者も少なからずいた。

 フーコーはフランスにおいて、1966年の『言葉と物』がベストセラーになったことで名声を得て、1970年にコレージュ・ド・フランスの教授に選出されたことで権威を確立したようだ。だが、その著作は歴史学者の大半からは評価されなかった。たとえばアメリカの歴史学者ジョージ・ハッパートは1974年の論文において、フランスで流行した本として『言葉と物』を取り上げながら、フーコーには、サン=ジェルマン=デ=プレ(パリの文化的中心)の指導者になる資質があると皮肉った。フーコーは「何か根本的に新しいことを言っているような印象を与えるが、同時に彼の“発見”は、若い読者を満足させるべく、目下流行の一般的な思想の趨勢に見事に適合していることが分かる(gives the impression of saying something radically new while, at the same time, his "discoveries" turn out, to the young reader's satisfaction, to fit supremely well into the general movement of ideas currently in vogue.)」として、そのように「新しさと流行を調和させるには、要所要所で難解な言い回しを用いて、できれば誰もその意味を確信できないような専門分野から借用した特殊な語彙で造語することだけが必要とされる(to reconcile the new with the fashionable, all that is required is a hermetic turn of phrase at crucial points, and the coining, preferably, of a special vocabulary of terms borrowed from some technical discipline whose meaning no one can be quite sure about)」と評した。ハッパートは初期近代ヨーロッパ史が専門であり、その立場から『言葉と物』の16世紀の議論について、実証的な裏付けの乏しさ、事実や解釈の誤りを列挙して、フーコーの見解を否定した。そしてフーコーはレヴィ=ストロースと同様の「社会科学の詩人」であり、その意味では称賛に値するかもしれないが、事実と詩を区別することを学ぶ必要があると指摘した。

 あるいはアメリカの歴史学者アラン・メギルは1979年の論文において、(1)フーコーの研究は一見、歴史学者のそれに酷似しているが、英語圏の正統派の歴史学者がその著作を読む場合、通常の歴史学と同様に歴史的知識を与えてくれることを期待するにもかかわらず、理解できない文章、まことしやかな記述(最良の場合でも鋭い洞察)、誤っているとしか思えない見解に出くわすゆえに、ほとんど無視されているという学術界の現状を指摘した上、(2)フーコーの提示しているものは科学としての歴史ではなく、過去を神話化した代用現実であり、それ自体は歴史学者として真剣に受け止めるべきではないが、しかし同時に、それが現代思想の潮流を代表するものとして非常な影響力を持っていることから、科学としての歴史が「高級」文化においては価値が低くなり、また「低級」文化には届かないものになっているという文化的な症候だとして、その点については無視せずに真剣に受け止めるべきだと結論した。

 そしてメギルの言うとおり、フーコーの影響力の大きさを無視できなかったゆえか、1980年頃から次第に、特に『狂気の歴史』に対して、様々な学者たちからの批判が目立つようになった。アメリカの歴史学者エリック・ミデルフォートは1980年の論文において、フーコーの主張する「阿呆船」の実在、17世紀後半からヨーロッパでは貧困者・犯罪者・知的障害者・狂人といった雑多な人々が施設に収容されるようになったという「大監禁(大いなる閉じ込め)」の時代、精神医学の先駆者フィリップ・ピネルに対する見解などを俎上に載せて、「その主張の多くは経験的証拠に反しており、その最も広範な一般化の多くは過度の単純化である(many of its arguments fly in the face of empirical evidence, and that many of its broadest generalizations are oversimplifications)」と批判した。精神医学に造詣が深かったイギリスの政治学者ピーター・セジウィックも1981年の論文において、単純な合理的進歩史観への批判としては評価しつつも、事実関係の誤り、社会的・文化的文脈および権力関係の過度の重視、それと表裏一体の生物学的基盤および科学的・医学的進歩の軽視など、実証的欠陥や観念論的傾向を批判した。また『狂気の歴史』が1960年代後半における「反精神医学」のカルト的流行、狂気の美化と科学的論理の否定に調和するものだったことも指摘している。統合失調症の研究者でもあった心理学者のマーハーらも1982年の論文において、フーコーが主張した「阿呆船」の実在を裏付ける歴史的証拠はないことを指摘した。その他の著作、たとえば『監獄の誕生』に対しても、多くの批判が寄せられたようだ。犯罪学者・社会学者のデヴィッド・ガーランド(現在では刑務所の歴史の専門家でもある)は1986年の論文において、フーコーの思想や方法論は主に社会学者に取り入れられた一方、より慎重かつ実証志向の歴史学者たちからは歴史的な不正確さ、証拠の乏しさ、定量的データの欠如などを批判されていることをまとめた上、権力という観点を過大評価した一面的な説明、理論的先入観の強さと循環論法(権力の重視が仮説ではなく前提になっている)、曖昧な記述、現実世界と可能性との混同などを指摘して、広範な歴史的資料を用いているにもかかわらず、『監獄の誕生』は歴史的テキストとは言えず、むしろ権力に対する独自の視点こそが影響力を持っていることから、新しい考え方を提示する社会理論および文化批評として捉えるべきだと評した。

 フランス国内では、歴史学者ピエール・ヴィラールが1973年のエッセイにおいて、フーコーの芸術的様式、すなわち歴史学や考古学ではなく文学としての性質を指摘した上で、『狂気の歴史』および『臨床医学の誕生』について、「最初に独断的な仮説がある。続いて論証が行われ、明確になったいくらかの点に関しては、年代の取り違え、テキストの恣意的な解釈、わざとやっているとしか思えないほど重大な無知、繰り返される歴史的な誤解(恐るべき部類のもの)が見つかる(Au départ, des hypothèses autoritaires. Vient la démonstration, et, sur les points où l'on a quelques clartés, voici qu'on découvre les dates mêlées, les textes sollicités, les ignorances si grosses qu'il faut les croire voulues, les contresens historiques multipliés (catégorie redoutable).)」と評した。また精神科医グラディス・スウェインと歴史学者マルセル・ゴーシュ1980年の共著そのにおいて、『狂気の歴史』の中心的な見解に異議を唱え、その歴史的不正確さ、フィリップ・ピネルに対する解釈などを批判した。

 より包括的な評価として、ブラジルの外交官・博学者・文芸批評家のホセ・ギリェルメ・メルキオールは1985年の著作(邦訳『フーコー:全体像と批判』)において、フーコーの仕事を全般的に批評・批判した。メルキオールはレヴィ=ストロースの下で学んだ経験もありながら、レヴィ=ストロースの仕事を全般的に否定する著作を発表するなど、批判精神に富んだ人物だったようだ。メルキオールも先行する多くのフーコー批判に依拠しながら、思想や批評としては一部評価しつつも、学問としてみた場合の証拠や解釈の問題を指摘した。

 確かに、フーコーは自分が通常の歴史を書いていることを繰り返し否定していた。最後に(おそらくは)『快楽の活用』の序文で、彼はふたたび自分の研究が「歴史の」ものであって「歴史学者の」ものではないと警告した。だが、どれほど曖昧に誤魔化そうとも、この点に関して彼を免責することはできない。歴史学者であろうとなかろうと、彼は常に、関連する各主題(狂気、知識、刑罰、性)についての各時代の見方に忠実であり、彼の資料(たとえば、医療や行政の記録、様々な分野の古い論文、刑務所ファイル、性倫理の文献など)が自分の正しさを証明してくれるはずだという前提で仕事を行っていた。彼が(『快楽の活用』の冒頭で最後にそうしたように)「文書」という言葉を使用したという事実そのものが、客観的真実に対する「ニーチェ的」な軽蔑を気取りながらも、彼が従来の歴史家と同様に、真実に代弁させるのを好んでいたことを示している。言い換えれば、彼がどのような種類の歴史記述を行っていたにせよ――歴史学者のものであれ、他のどのようなものであれ――フーコーこそが証拠は自分の側にあると最初に主張したのだ。従って、我々は彼の歴史分析をそのような研究の標準的評価から免除することはほとんどできない。それゆえ、我々には次のように問う権利がある――彼の解釈は記録によって裏付けられているのか、それとも牽強付会なのか、あるいは空想の度が過ぎるのか? 中には実に示唆に富み、歴史的証拠に真に新しい光を投げかけているものもあるが、その他の多くは、これまでに見てきたように、事実によってほとんど裏付けられていない単なる無理筋の主張にすぎない。それ以上でもそれ以下でもない。

     To be sure, over and again Foucault kept denying that he was writing normal history. The last time (I think) was in the introduction to L'usage des plaisirs, where he once more warned that his studies were 'of history', not of 'a historian'. However, no amount of equivocation can get him off the hook on this point. Historian or not, he constantly worked on the assumption that he was being faithful to each age's outlook on each relevant subject (insanity, knowledge, punishment, sex) and that his documents (e.g., medical and administrative records, old treatises of many a discipline, prison files, the literature of sexual ethics, etc.) could prove him right. The very fact that he used words like 'documents' (as he last did at the outset ofL'usage des plaisirs) shows that for all his 'Nienschean' affectation of contempt for objective truth, he liked to have it speak for him as much as any conventional historian. In other words, whatever kind of historiography he was up to—the historians' one, or any other—Foucault was the first to claim that the evidence was on his side. Therefore, we can hardly exempt his historical analyses from the standard assessment of such studies. Hence our right to ask: are his interpretations borne out by the record, or are they too strained or too fanciful? Now while some of them are truly suggestive and even cast a genuinely new light on the historical evidence, many others are, as we saw, just tall orders largely unsupported by the facts. No more, no less.

Merquior, José Guilherme (1985). Foucault. Berkeley: University of California Press.

 また別のアプローチとして、アラン・メギルは1987年の論文において、「私はプロの歴史学者ではない。完璧な人間などいない(I am not a professional historian; nobody is perfect)」というフーコーの発言を冒頭で引きながら、歴史学とその他の分野とを比較して、フーコーがどのように受容されているかを調査した。(1)社会科学および人文・芸術分野における引用数や書評数を定量的に分析した結果、フーコーの著作は歴史学よりもそれ以外の分野において遙かに強い影響力があり、社会科学よりも人文・芸術分野において多く引用されていた。ただし文芸批評の著作『レーモン・ルーセル』が最も影響力が低かった。(2)『狂気の歴史』は発表当初、知識人の世界ですら無視されており、その後に『言葉と物』が売れたことでフーコーは知名度を獲得したが、その売れ行きと名声にもかかわらず、フーコーはフランス国内ですら歴史学者の大半に無視されており、英米でも主流の歴史学からは無視されていた。アナール学派などによって稀に好意的に取り上げられることもあったが、あくまで「非歴史学者」「哲学者」と見なされたり、歴史的主張ではなく理論的主張として扱われたりした。(3)おそらく五月革命以降のフランス旧体制の揺らぎ、フーコーがコレージュ・ド・フランスに所属したことなどから、フランス国内では1970年頃、さらに『監獄の誕生』が注目を浴びたことで国外でもそれに少し遅れて、次第に歴史学者たちからも論じられるようになった。とはいえ、答えを示さない、証拠の乏しさ、歴史というよりも「メタヒストリー」に近い、過度に抽象的、独断的な仮説といった様々な欠点を指摘されて、「通常の歴史学の基準」には当てはまらないものと見なされた。(4)メギルの見解では、このような反応はフーコーが学際的な学者だからではなく、むしろあらゆる学問分野の外に立ち、それを反学問的に覆そうとしているからであり、ニーチェや後期ハイデガーと同様、フーコーは予言者たちの論争に属しているという。

 以上のような批判や分析から、フーコーは歴史に基づく体裁を取りながらも真っ当な学術的方法に従ってはおらず、自分でもそれを認めてこそいたが、それは異端を気取ることで歴史学の基準から逃げていたという側面を持っており、それゆえに歴史学においては否定される一方、それ以外の分野、とりわけ人文・芸術分野においては、おそらく著者の知名度や蒙昧主義の文学性などが相まって、学際的な印象を醸し出す歴史批評や社会理論、あるいは文学的な思想書として、広く受容される傾向にあったことが窺える。

 だが、この頃までの英語圏における批判には一部、見過ごせない問題もあった。というのも、特に批判を受けた『狂気の歴史』の当時の英語版は全訳ではなく、大半の注や文献の省略も含めて半分以下の長さに縮約されており、しかも誤訳のせいで生じた批判もあった。フランス語の原文では、中世の狂人たちは「たやすく放浪する生活」を送っていたというニュアンスの記述だったところが、英語版では「気楽に放浪する生活」を送っていたと解釈できる誤訳になっていた。フーコー研究者のコリン・ゴードンは1990年の論文において、ミデルフォートが一部、その誤訳に依拠した批判を行っていたこと、そしてセジウィックは抄訳の英語版しか参照していないことなどを指摘して、英語圏では『狂気の歴史』はまだきちんと読まれておらず、実際には十分に歴史学と言える著作だと主張して、「阿呆船」や「大監禁(大いなる閉じ込め)」に関する主要な批判点についてもフーコー擁護の論陣を張った。このゴードンの論文とそれに対する多数の学者たちの応答、さらにゴードンの再応答は当時、学術誌『History of the Human Sciences』の1号3号にまとめて掲載されたが、結果として、歴史学者たちの大半はフーコーへの批判を維持した。たとえばミデルフォートは誤訳に依拠した部分については誤解を認めながらも、それ以外の論旨は変わらないと反論した。アメリカの思想史家ドミニク・ラカプラはフーコーに対しては中立的だったが、「阿呆船」についてはミデルフォートの批判の方が妥当であり、ゴードンの擁護は無理筋だと指摘した。この頃からフーコー批判の先鋒になるイギリスの社会学者アンドルー・スカル(精神医学史の専門家でもある)も原著に基づき、「大監禁(大いなる閉じ込め)」についてのゴードンの擁護には無理があると指摘した。医学史が専門のイギリスの歴史学者ロイ・ポーター(『狂気の社会史』の著者でもある)は『狂気の歴史』の洞察力を賞賛しながらも、フーコーの「大監禁(大いなる閉じ込め)」についての見方はイギリスには当てはまらないと批判した。アラン・メギルはプロの歴史学者たちがフーコーを受け入れない最大の要因として、その曖昧な文章が非常に「文学的」であり、芸術家や作家の象徴主義に近いことを指摘しながらも、その反学問的な曖昧さにこそ最大の価値があり、それが硬直しがちな既存の学問的枠組みに対する刺激になるとして、フーコーを従来の歴史学に組み入れようとするゴードンの姿勢を否定した。アメリカの思想史家ヤン・ゴールドスタインはゴードンとは別の視点からフーコーを評価して、その文章や叙述の曖昧さ、事実の誤りとして批判される部分はむしろ大胆な知的プロジェクトにおける修辞的戦略であり、従来の分析カテゴリーを打破するために、フーコーは意図的に過去を曖昧にしていると解釈した。しかしこれは相当に奇妙な解釈であり、このような読みは文芸批評ならともかく、少なくとも学問的な基準では通用しないだろう。とはいえその一方、蒙昧主義の曖昧さは幅広い解釈を可能にする魅惑であり、独自の考察をする余地を与えて、そこに読者を引き込む性質があることも示唆している。

 その後も実証的な歴史学からは批判された。オーストラリアの歴史学者キース・ウィンドシャトルは1994年の著作『The Killing of History: How a Discipline is Being Murdered By Literary Critics and Social Theorists(歴史の殺害:学問分野が如何にして文芸批評家と社会理論家によって殺されつつあるか)』において、フーコーやポストモダン思想の相対主義に対して、客観性と事実の真実性を擁護する論陣を張り、その一部を元にした1998年の論文において、それまでのフーコー批判と同様、多数の事実の誤り、証拠の捏造や歪曲、客観性を否定しながら歴史的記録によって客観性を装う矛盾などを批判すると共に、フーコーの主張する「大監禁(大いなる閉じ込め)」の時代区分の不正確さが新たにフランスの歴史学者たちによって明らかにされたことなども指摘した。また1998年には古典学の立場から『性の歴史』を批評・批判する書籍も出ており、やはり実証的見地からデータの杜撰さ、資料の貧弱さや偏った解釈などを批判されているようだ。

 その一方、実証的見地からの批判は認めながらも、観念論的歴史学として評価する向きもあった。前出の哲学者ゲイリー・ガッティングはフーコー研究者でもあり、2005年のフーコー入門書の第2章において、『狂気の歴史』は歴史学者たちから、狂気を社会的構築物として扱うメタ的アプローチとしては評価される傾向を持つ一方、歴史的事実とその解釈という通常の歴史学の基準による判断では、事実の誤りに満ち、根拠が希薄な「悪い歴史」と見なされる傾向が強く、好意的な歴史学者でさえ、その欠点については同意するか、せいぜい両義的な反応だと述べている。そのうえでガッティングは、そもそも『狂気の歴史』におけるフーコーの主張は誤解されており、それゆえに実証的な批判は無効だとして、特にミデルフォートの批判が的外れであることを指摘していくが、仮にガッティングの解釈が妥当だとしても、そうして救ったフーコーの主張を裏付ける証拠はほとんど示さない。またロイ・ポーターによる「大監禁(大いなる閉じ込め)」に関する批判については、フーコーの主張を実証的に論駁するものだと認める一方、フーコーは事実ではなく事実を可能にする条件、実際の出来事や制度ではなく時代の匿名的な意識に関心を持っているので、たとえ事実の誤りがあっても、それはフーコーによる分析の解釈力を損なうものではないとする。これは事実上、実証的根拠を提示していなくても、また主張を実証的に反駁する証拠があっても、フーコーの歴史分析には問題がないという立場であり、ガッティングはその理由として、ポーターのような標準的な歴史学者の場合、事実は主に解釈の枠組みを裏付けるものであるのに対して、フーコーの場合、事実は主に解釈の枠組みを例示するものにすぎないからだとする。つまりフーコーは事実の提示によって何かを証明しているわけではなく、自身の解釈に沿った事例を提示しているだけであり、焦点は事実ではなく解釈の方にある。従って、フーコーは自身の見解を立証する十分なデータを提供しないことが多い。ガッティングはそれさえも認めた上で、フーコーは歴史に対して、実証的ではなく、観念論的なアプローチを取っていると述べる。そしてそのような観念論者の歴史構築の正当化は、データとの対応よりも、解釈の首尾一貫性によって判断されるべきだという。プロの歴史学者からみれば、フーコーは自身の観念論的な解釈に囚われるあまり、それに沿わない事実や可能性を無視しており、その主張は歴史的現実に適合していないということになるが、ガッティングによれば、それはむしろ、乱雑な歴史に秩序を与える包括的かつ統一的な解釈の枠組みを示している。そして観念論者の歴史と実証主義者の歴史は連続体の両極をなしており、フーコーは観念論側の端に位置しているが、だからといって、それが歴史学から除外されるべきではないという。

 だが、贔屓目なしに見れば結局のところ、フーコーは十分な証拠に裏付けられていない観念論的な解釈を提示しているだけということになる。しかも事実で解釈を裏付けるのではなく、事実はあくまで解釈の例示にすぎないという手法を認めるなら、それはすなわち、自説ありきの証拠の選択的使用(チェリー・ピッキング)を暗に認めてしまっている。さらにフーコーは事実ではなく、事実を可能にする条件や時代の匿名的な意識を分析していると言うが、観念論的な枠組みにおいて、そのような曖昧な解釈にどうやって学問的な妥当性を付与できるのか不明だ。上記のようなガッティングの見方は明らかに、歴史の歪曲や改ざん、さらには陰謀論や否定論と同様の形式に近接しており、また包括的かつ統一的な解釈の枠組みを与えると言うが、証拠に支えられていなければ、それは大雑把かつ一面的な単純化、さらには大それた空想にもなりかねない。しかしこのガッティングの分析は、フーコーの歴史分析を論理的に擁護する場合、支持者ですら、このような非常に苦しい方向でしかそれを救えないことを見事に示している。

 やがて2006年には『狂気の歴史』の英語全訳版が世に出たが、それに対する反応も相変わらずだった。フーコー支持の筆頭であるコリン・ゴードンは書評において、前述の誤訳が修正された一方、別の誤訳がいくつも生じており、必ずしも翻訳の質が向上していないことを指摘しながらも、その広範な洞察や影響力に言及して『狂気の歴史』は「若き天才の仕事であり、見事な達成と驚異的かつ豊かなエネルギー、把握力、大胆さを示す作品(the work of a young genius, a work of masterful accomplishment and prodigious and prodigal energy, grasp and daring)」だと称賛した。ひるがえってフーコー批判の先鋒であるアンドルー・スカルは書評において、同様に翻訳の質の悪さを指摘しつつも、事実誤認や証拠の乏しさ、利用した資料の古さや貧弱さ、解釈の不適切さ、誇張された空想的記述など、全訳になっても変わらない欠陥を批判して、『狂気の歴史』を通じて「事実と学問の世界からフーコーが孤立していることは明らかだ(Foucault’s isolation from the world of facts and scholarship is evident)」と酷評した。ゴードンはスカルの書評に対して反論を書き、スカルはそれに対してまた反論した。こうした論争の一因はフーコーの書き方がやはり「文学的」な曖昧さに満ちており、受け手によって非常に異なった見方をさせてしまうところにもあるのだろう。より中間的な立場としては、イギリスの心理学者・社会史家のピーター・バーハムの書評があり、多くの批判が縮約された翻訳の産物であるという考えは誤りであり、全訳版はむしろ歴史学者たちの指摘した欠陥を確認させるものだが、しかしフーコーが前世紀半ばに取り組んだ際、精神医学の歴史はほぼ完全に未知の領域だったこと(奇しくも同時期、他の著者たちによって類似した主題の数冊が出ていることも言及されている)、その後の著作や講義においてフーコー自身、過剰な反精神医学的見解を修正していることなどを指摘した上で、『狂気の歴史』はもはやインスピレーションを与える作品ではないかもしれないが、精神医学の全体的な恣意性と脆弱性を強調する点において、その重要性は続いていると評価した。

 アンドルー・スカルはその後の2015年、古代から現代に至るまでの狂気の歴史を辿る著作『Madness in Civilization: A Cultural History of Insanity from the Bible to Freud, from the Madhouse to Modern Medicine』(邦訳『狂気:文明の中の系譜』)を発表した。これは『狂気の歴史』の英語版の題名「Madness and Civilization」を明らかに意識しており、スカルはフーコーとは異なり、17世紀からではなく、18世紀と19世紀に始まったものとして「大監禁(大いなる閉じ込め)」に言及している。つまり必ずしも批判一辺倒ではなく、フーコーの見方を修正して取り込んでいる部分もあると言えるだろう。ちなみにフランスでは2009年、歴史学者クロード・ケテルがフーコー史観を修正する意図から、敢えて『Histoire de la folie(狂気の歴史)』という題名にした著作を発表しているようだ。

 さらにスカルは2020年のエッセイ(前年にフランスの雑誌に発表した記事の英語版)において、最初の刊行から半世紀上経過した視点から、フーコーと『狂気の歴史』の影響を振り返っている。フーコーは当初、フランスでも無名であり、その文体によって『言葉と物』が注目されて(レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』と比較されたりもしたという)、ほどなくコレージュ・ド・フランス所属となった頃から名声が高まったが、しかし英語圏ではまさにその文体、異質な言葉遣いによって、なかなか受容されなかった。これは当時の翻訳者が読者に譲歩しなかったからでもある。『狂気の歴史』の英訳が縮約版になったのも、それを読み通す読者はいないだろうと思われたからだった。とはいえ、英米での初期の受容には二つの例外があった。ひとつはフーコーが招聘講演を行ったり客員教授として赴任したりしたアメリカの比較的無名の大学の、フランス語学科や文学研究の分野であり、つまり哲学科や社会科学分野ではなかったが、これは20世紀終盤に英米の文学部門に広く影響を与えた「French Theory(アメリカの人文学科の一部におけるポストモダン思想のブランド化)」への関心を高めるきっかけにもなった。もう一つは1960年代に台頭した反精神医学の潮流であり、その中でスカルは『狂気の歴史』を英訳で読み、退屈な行政史家や老精神科医の著作とは異なる挑発的な魅力を感じて、精神医学史の研究に駆り立てられたという。だが、自身で研究をするうちに、フーコーの多数の事実誤認が見つかり、その歴史的正確さへの疑問が積み重なり、スカルは検証のために脚注が省かれていないフランス語の原著を読んだ。その結果、フーコーは20世紀の学者をほとんど引用しておらず、とっくに更新された時代遅れの研究ばかりに依存しており、現代の学問から懸け離れていることが判明した。さらに加えて、もともとはフーコーが文化外交官としてスウェーデンの大学に赴任中、博士論文として提出された『狂気の歴史』は推測に基づく一般化が多すぎて、歴史学の博士号の基準には達していないと即座に却下されたものだった(英語版ウィキペディアの記述によればその後、フランスでは受理されたが、それは留保付きであり、その際の査読者も不十分な議論と大ざっぱな一般化を指摘した上、フーコーは明らかに「寓話的に思考して(thinks in allegories)」おり、従来の歴史学とは異なるという評価を下していたようだ)。結局のところ、『狂気の歴史』はその中心的な論点の大半において、歴史としては歪曲されているか間違っているが、その知名度と影響力によって幅広い分野の学者の想像力を引きつけたことは確かであり、専門外ではなおも多くの人々に読まれている。しかし専門家の間では、精神医学の社会史という分野の黎明期に重要な推進力を与えた貢献はあるにせよ、それから長い時間が経過しており、代表的な学術誌、毎年刊行される専門書や論文を精査すれば分かるように、フーコーの研究が言及されることは少なくなり、その影響力は低下している。フーコー信奉者たちは師の著作について議論と解釈を続けるだろうが、歴史学者たちにとっては、その発見的価値は遠い過去のものになっているとスカルは結んでいる。

 博士論文として提出された時、すでに『狂気の歴史』は歴史学としては不適当という評価を獲得しており、なおかつ英米では最初期には、フーコーは文学部門および反精神医学運動において受容された。つまり「私はプロの歴史学者ではない」と自認していたとおり、そして多数の歴史学者たちからの批判のとおり、フーコーの歴史分析は専門的な仕事とは言い難いようだ。では一体、それは何なのだろうか。その答えはフーコー研究者の見解を参考にすれば明らかになるかもしれない。

 個人崇拝的な誌名だが、その名も『Foucault Studies(フーコー研究)』というオープンアクセスの学術誌においても2008年、英語全訳版の『狂気の歴史』に対する書評論文が掲載されており、当然ながらフーコーの思想や影響力を高く評価する一方、平易な英訳は、フーコーの文体に対する不満を和らげようとするあまり、原文の劇的な調子を抑えるなどして、テキストの力を奪ってしまっていると文学的な不平を漏らしている。このような見方から示唆されるのは、やはりフーコーはあくまで思想家であり、またある種の魅力的な文体を持った著述家であったということだろう。この書評論文では実際、歴史学者たちからの積年の代表的な批判を無視せずに、むしろそれらを脚注でまとめており、しかもそうした批判に応答する一節を設けて、フーコーの仕事が歴史学であることを実質的に否定している。そこでは興味深いことに、次のようなフーコーの発言が引用されている。

 私がフィクション以外のものを書いたことがないのは十分に自覚している。だからといって、フィクションが真実の外にあるとは言いたくない。フィクションが真実の中で機能すること、フィクションの言説の中に真実性効果を導入すること、そして何らかの仕方で、言説を刺激し、まだ存在しない何かを「でっち上げる」こと、そのようにして何かを虚構することは、私には妥当に思える。それを真実にする政治的現実から出発して歴史を「虚構」したり、歴史的真実から出発してまだ存在しない政治を「虚構」したりするのだ。

     I am fully aware that I have never written anything other than fictions. For all that, I would not want to say that they were outside the truth. It seems plausible to me to make
fictions work within truth, to introduce truth‐effects within a fictional discourse, and in some way to make discourse arouse, ‘fabricate’ something which does not yet exist, thus
to fiction something. One ”fictions” history starting from a political reality that renders it true, one ”fictions” a politics that does not yet exist starting from a historical truth.

Michel Foucault in Hubert Dreyfus and Paul Rabinow, Michel Foucault: Beyond Structuralism and Hermeneutics (Chicago: University of Chicago Press, 1983), 204.

 これは「私はプロの歴史学者ではない」という発言と同様、フーコーが自身の非学術性、言い換えれば作家性を自覚していたことを示唆している。そしてこの書評論文では、この発言を踏まえた上、それでは『狂気の歴史』において展開されるフーコーの見方は作り事なのかという疑問に対して、少なくとも部分的にはそう認めざるをえないとする。しかしフーコーの目的は知識を蓄積することではないので、フーコーを評価する唯一の方法は、そのような「虚構化」を受け入れることであり、それによって読者は先見の明を得ることができる。フーコーの目的は普遍的な真実を明らかにすることではなく、真実性効果を生み出すことで、読者の態度や信念を変えることにある。フーコーの教説の主要な目的は歴史的正しさではなく、別の見方を提示および主張することにある。そのように解説した後、この書評論文では、それを裏付けるフーコーの別の言葉が引用されている。

 実際のところ、私がやりたいこと、それをやろうとすることに伴う困難は、次のような問題を解決することにある――特定の現実についての解釈、読み方を打ち出すことで、その解釈が一方では、いくらかの真実性の効果を生み出し、他方では、そうした真実性の効果が可能な闘争の中で道具になりうるような[...] 私が明るみに出したいのは、可能な闘争の現実性なのだ。それが『狂気の歴史』で私がやりたかったことだ。

     In reality, what I want to do, and here is the difficulty of trying to do it, is to solve this problem: to work out an interpretation, a reading of a certain reality, which might be such that, on one hand, this interpretation could produce some of the effects of truth; and on the other hand, these effects of truth could become implements within possible struggles. […] It is the reality of possible struggles that I wish to bring to light. That is what I wanted to do in History of Madnes.

Michel Foucault in Sylvère Lotringer (Ed.), Foucault Live (New York: Semiotext(e), 1996), p. 261.

 これはフーコーが何よりも政治思想家、または思想活動家として、フィクションを書いていたことを示唆している。歴史分析を装って独自解釈を真実らしく「虚構」することで、政治的・イデオロギー的な闘争に現実性を与えることが目的であり、従って重要なのは事実ではなく、まことしやかな真実性ということになる。とはいえそれゆえに、フーコーは信奉者からは偉大な思想家という評価を得るだろうが、歴史分析を装ってフィクションを書いたという点では、批判的立場(つまり学問的見地)からすれば、詐欺的な似非学者でしかないという側面を持っているだろう。歴史を利用して真実らしく特定の見方や解釈を提示するという様式はすなわち、歴史の歪曲や改ざんと同様であり、その意味では偽史に通じている。それが政治的な闘争の喚起を目的としているなら、各種の陰謀論や否定論などにも通じている。しかし政治的(道徳的)言説としては、権力や抑圧などの「問題」に取り組む態度を取るゆえに、人文・芸術分野や社会科学分野の思想寄りの人々には、支持・信奉・崇拝される傾向がある。だが、それと表裏一体の学問的な問題もあり、先述のとおり、ポストモダン界隈は学術的な相互批判・相互精査に乏しいので、そうした分野や文化圏においては、事実の誤りがなかなか周知も修正もされず、フィクションが事実面して流通してしまう。『「知」の欺瞞』においても、フーコーは取り上げられてこそいないが、この問題について歴史学者エリック・ホブズボームの次のような言葉が引用されている。

……西欧の大学で、特に文学部と人類学部で、客観的な実在についてのすべての「事実」は単に知的構築物にすぎないとする「ポストモダン的な」知的潮流が広まった。簡単にいえば、事実ファクト作り話フィクションには明確な区別はないというのだ。しかし、違いはある。そして、歴史家にとっては、たとえもっとも過激な反実証主義者にとっても、両者を区別する能力こそが根本的に重要なのである。

『「知」の欺瞞』文庫版307頁。原文はhttps://www.nybooks.com/articles/1993/12/16/the-new-threat-to-history/

 フーコーの歴史分析は(認識段階にせよ提示段階にせよ)この「事実ファクト作り話フィクションを区別する能力」に問題を抱えているという点において、とりわけ『万物の黎明』と共通しているだろう。それも含めてその他、ここまでに見受けられるグレーバーと共通する特徴をざっと眺めてみれば、証拠の乏しさ、実証的欠陥、通常の学問からの逸脱、ベストセラーとなったポップ書籍の著者、一般的な知名度や影響力、過去の神話化、反進歩史観、観念論的傾向、洞察や想像力への高評価、予言者性などが挙げられる。あるいは人類学者クリフォード・ギアツは1978年の書評において、フーコーの『監獄の誕生』は「不自由の台頭」と「自由のどうしようもない後退」を辿る逆ホイッグ史観だと評しているが、これも『万物の黎明』に対する評として書かれていてもおかしくない。

 しかし思想家として見た場合、一種の「歴史フィクション」を用いて別様の真実らしい見方を提示するという手法には、陰謀論や否定論に通じる負の側面のみならず、批判者の学問に刺激を与えるという、副次的な効果もありうるとは言える。たとえばアンドルー・スカルはフーコーに対して非常に否定的だったが、自身が大きな影響を受けたこと、精神医学の社会史が進展した要因の一つだったことは認めている。あるいはロイ・ポーターは実証的根拠に基づいてフーコーの「大監禁(大いなる閉じ込め)」の主張に異議を唱えたほか、過去の狂気に対するロマン主義なども批判したが、その一方、社会文化的言説に注目する重要性などは認めて、より複雑かつ微妙な見方をするための洞察とした。アラン・メギルもフーコーの仕事が学問であることは否定したが、まさに既存の学問に対する刺激になりうることは認めていた。批判や否定をするためにはその対象に取り組む必要があり、それが自身の見解と相互作用して、それまでとは違う思考を誘発されるといった影響があるのだろう。

 そして実のところ、グレーバーを批判した学者の中にも後年、直接的なものではないにせよ、その影響を認めた人物がいる。かつて『負債論』の現代に関する章を痛烈に批判した政治学者のヘンリー・ファレルはグレーバーの死後、その事件を振り返る記事を書いた。ファレルの厳しい批判に対して、激怒したグレーバーは反論するうちに取り乱した挙げ句、ファレルを不誠実な嘘つき呼ばわりして、それを意見の相違を含む真っ当な議論として扱わなかった。

 それ以来、私は彼について多くの話を聞いてきた――見下されたと感じた時の彼の鋭敏な感受性、(キャリア初期の経験によって強化された)不満の感覚、そして恨みを持ち続ける性向について聞いたこともあれば、彼に恩返しをすることはないだろうと思われる人々に対して、彼がみせた大きな、思いがけない親切について聞いたこともあった。そしてもちろん、彼はその後も単著や共著を書き、それらは有益な思索を刺激してきたが(その一例)、一方では『負債論』と同様に、証拠の使い方について多くの批判を浴びている。
 グレーバーが生きていた頃なら、私はこのようなことは言わなかっただろう。なぜなら彼はほぼ間違いなく、これを複雑な賛辞であるとは受け取らず、確執を再燃させるまた別の、意図された悪意のある中傷と解釈してしまっただろうからだ。私が思うに、グレーバーを理解する最善の方法は、彼を思索的ノンフィクション作家として理解することだ。彼はしばしば事実誤認を犯し、さらに多くの場合、事実を本来そうあるべき以上に押し広げようとして、皮相な証拠の基盤に、非常に強く断言された理論的主張の重荷を負わせる。しかし思索には価値がある――社会科学者はそれを十分に行っていない。時として正しくあることは、認識される社会的・政治的可能性の幅を広げることよりも、重要ではない場合もある。そしてそれは、グレーバーが非常に長けていたことだ。

     I’ve heard many stories about him since – some about his exquisite sensitivity to perceived slights, his sense of grievance (reinforced by his early career experiences), and his willingness to bear grudges; some about his great and unexpected kindnesses to people who would be unlikely to be ever to repay him. And of course he has written and co-written books since, which have stimulated useful thought (e.g.), while also, like Debt, getting a lot of criticism for their use of evidence.
     I wouldn’t have said this when Graeber was alive, because he almost certainly would have interpreted it as another deliberate and vicious putdown, rather than the somewhat complicated compliment that it is, restarting the feud. I think the best way to understand Graeber is as a writer of speculative nonfiction. He is often wrong on the facts, and more often willing to push them farther than they really ought to be pushed, requiring shallow foundations of evidence to bear a heavy load of very strongly asserted theoretical claims. But there is value to the speculation – social scientists don’t do nearly enough of it. Sometimes it is less valuable to be right than to expand the space of perceived social and political possibilities. And that is something that Graeber was very good at doing.

https://crookedtimber.org/2023/07/08/debt-4102-days-later/

 そしてファレルは『負債論』を批判した当時、グレーバーの考えがいかに間違っているかという反論をしたことがおそらく、今になって振り返れば、自分が最近書いた共著の主題について、考え始める契機だったと思われることを告白する。とはいえ、グレーバーから何か具体的な着想を得たわけではなく、もしグレーバーがその共著を読んだら気に入らないだろうが、しかしその問題について最初に考えたのは、間接的にせよ、グレーバーに刺激されたからだったと。

 何とも良い話であり、ファレルは文章から知性のみならず人柄も伝わってくるタイプなので、胸を打つところもあるのだが、しかしそれよりも膝を打つのは、グレーバーは思索的ノンフィクション作家だったという指摘であり、それは言い換えれば、実質的には学者とは言えなかったという示唆でもある。以前にも触れたとおり、グレーバーは『ブルシット・ジョブ』という根拠薄弱な、まさに思索的なエッセイを書き、労働社会学者たちの定量的研究を触発した。その研究者たちは『ブルシット・ジョブ』を「非学術的な商業出版物」と呼んでいたが、それもすなわち、グレーバーが学者というよりも思想家兼作家であったことを示唆する。しかしその「思索的ノンフィクション(ファレルの原文ではspeculative nonfictionであり、おそらくspeculative fictionと掛けている)」が学問に刺激を与えた。

 もっとも、その事例にせよファレルの事例にせよ、あるいはスカルやポーターの事例にせよ、あくまで訓練を受けた専門家が自分よりも杜撰な学識の持ち主の、それゆえに野放図な洞察や想像力に対して、批判的思考を働かせた結果として知的に触発されるという、そのような経緯であることを忘れてはならないだろう。つまりグレーバーの「思索的ノンフィクション」にせよ、あるいはフーコーの「歴史フィクション」にせよ、それがあくまで思索や虚構の性質が強い「作家的」なもので、事実面に関しては脆弱であることを踏まえていれば、砂上の楼閣に深く迷い込んでしまうことはないが、そうではない一般読者がそうした著作を読んで、その主張を額面通りに受け取った場合、事実よりも思想に基づく疑似知識を信じ込まされてしまう恐れがある。もっともらしく深遠そうな「言説」が権威的なメディアに乗って拡散された結果、その権力のネットワークによって名声や知名度が確立されて、事実に基づかない疑似知識が影響力を行使するようになり、見かけの権威になびく人々、根拠を問わない人々に信奉されることでその疑似知識が権力を持ち、場合によっては長年にわたって、人文・芸術分野などにおいて蔓延し続けてしまうかもしれない。それは根拠に基づく更新可能な知識が正当に権力を持つ場合とは異なり、その分野を時として、取り返しが付かないほどに知的に腐敗させるだろう。

 しかしながら、上述のような共通性が認められる一方で、フーコーとグレーバーには思想家・作家として明確な相違点もある。まず第一に、みずから大陸系の理論家とは異なる書き方をしたと述べていたとおり、グレーバーは平易な文体を好んでおり、専門用語もあまり頻用しないようだ。また第二に、自身の著作をフィクションと認めたフーコーとは異なり、グレーバーは歴史的記述に関しては、実態はともかく、考古学者との共著も含めて、事実を重視する姿勢を示している。関連して、著名人としてのあり方にも違いが認められる。難解めかした文体の『言葉と物』が知的風ファッションとしてベストセラーになったフーコーとは異なり、グレーバーはウォール街占拠運動の「私たちは99%だ」という平易な謳い文句で有名になった。そしてフーコーは蒙昧主義の文章を駆使して、精神医学批判や権力の問題などを分かりにくく観念論的に語り、当時のメディア状況も相まって、おそらく信奉者からみて距離のある崇拝対象だったと思われるが、グレーバーは同様に観念論的であっても分かりやすく、資本主義や新自由主義などを批判しており、Twitter(現X)でも精力的に活動するなど、信奉者との距離が近く、より親しみやすい存在だったはずだ。こうしたグレーバーの個性は時代の変化に対して、かなり適応的だった可能性がある。つまりグレーバーは、一方ではフーコーと共通する思想家文化の特性として、反学問性(不十分な証拠や議論によって定説や従来の学問を覆そうとする)や予言者性(独創的な洞察や想像力によって信奉者を獲得する)を持っており、他方では変化する「公共知識人」の生態系において、より最近の潮流に適した個性を持ち合わせていた。注目されて有名になったのは、あくまで時の運だったとしても。

ソーシャル・メディア以前のソーシャル・メディア、思想家以後の思想家

 前出のアラン・メギルの1987年の定量的調査では、フーコーは社会科学分野からも1970年代半ば以降、かなり引用されるようになったが、1980年以降はむしろ人文・芸術分野からの引用数が急増して、突出した影響力を誇るようになったことが示されている。これはおそらく、アメリカの人文系におけるポストモダン思想の人気を反映しているのだろう。実際、より広範な計量書誌学的研究として、フーコーを含む1960~70年代の主要なフランスの思想家たち、すなわち「フランス理論(French Theory)」の「スターたち(その人気はハリウッド俳優になぞらえられている)」がアメリカの人文学、とりわけ文学分野に対して、1960年代初頭から2010年までの約50年間、どれほどの影響を与えたのかを調査分析した2012年の論文では、(1)それらの思想家たちに言及する文献数は、各人の違いこそあれど、おおよそ1980~90年にかけて目立ち始めて、その後、特に1990年代半ばから大幅に増加しており、(2)英語の文献の方が言及数が多く、フランス語の文献ではほとんど言及されていない思想家もいることから、ポストモダン思想家たちはフランス本国よりも、むしろ英語圏において強い影響力を持つようになったことが示唆されている。

 では、なぜ前世紀の終わり頃から英語圏の文学を中心とした人文系において、ポストモダン思想家たちが多大な影響力を持つようになったのだろうか。この疑問に対しては、1978~1987年および1998~2007年を対象とした各10年間の引用データを比較して、主にアメリカの、文学研究における学際性と知的基盤の変化について調査分析した2011年の論文が参考になる。この論文によれば、文学研究は過去数十年の間に(A)理論化および(B)学際化の傾向を強めており、ひいては(C)理論化における社会化の傾向も見受けられるという。その他には(D)新旧混在の著作の「正典」化、(E)曖昧な学術性なども文学の知的基盤の特徴として指摘されている。

(A)理論化については、実践的な読解から認識論的な分析・解釈へ、文学テキストそれ自体から文学に関するテキストへ、文学作品の精読から文学研究の文化・方法・理論へといった焦点の移行が示唆されている。要するに作品それ自体よりも、それを解釈する際に援用される「理論」が重視される傾向が強まっている。そしてこの理論化に大きな役割を果たしたのが、1970年代に文学部門を通じてアメリカに入り込んだ「フランス理論(French Theory)」であり、その主要な性質は、ポストモダン思想家たちの著作を引用することにあるとされる。特にデリダとラカンの特定の著作の引用が多く、フーコーの引用はアンソロジーを含めた複数の著作に分散されているが、最も長期的な影響力を持っている。それらの著作の引用は、文学という「ソフト」な学問分野が記述的な営みから理論的な営みへと転じるにあたって、その正当化のために用いられたという。ただし文学研究においては、作品的文献と理論的文献の区別が曖昧であり、理論的文献も作品として読まれたり、作品的文献も別の解釈に援用されたりするゆえに、一次資料(研究対象)と二次資料(先行研究や理論)は明確に分けられないことも付記されている。
(B)学際化については、文学の分野内よりも社会科学分野からの引用が増加しており、これは文学が美学的な研究よりも、社会的・文化的な研究を重視するようになったことを示唆している。この下地としては、英米の文学部門において最も雑多で幅広い研究が行われる比較文学、および英文学が社会学に傾倒することで出現したカルチュラル・スタディーズがあり、それらが高尚な文学作品への集中から文化現象全般への拡散、作品それ自体を研究対象とすることから作品を社会文化的な文脈に位置付けることへの移行を引き起こしたとされる。この「社会学的転回」により、人種差別や男女間の不平等といった社会的な「問題ベースの研究」に関心が移り、ジェンダー研究、ポストコロニアル研究、階級研究など特定の社会集団についての著作の引用が増加した。そのような研究領域では、少数の知的リーダーの見解や思想に従属する傾向があり、その分野での評判を得るには、経験的(実証的)な事柄に関する能力よりも理論的能力の方が高い地位を占める。その結果、文学作品の「正典(文学史上の名作)」の重要性が低下して、その代わりに理論的な「正典」の重要性が高まったという。つまり「社会科学」からの引用といっても、経験的(実証的)な研究ではなく、それ自体が作品的文献にもなりうるような社会理論や文化理論の著作が重視されており、厳密には社会科学者というよりも、社会文化的な主題を扱う思想家や批評家が多く引用されている。具体的には、古くはマルクス、そしてベンヤミン、アルチュセール、スピヴァク、バトラー、アガンベン、レイモンド・ウィリアムズ、ポール・ギルロイ、マイケル・ハート、フランツ・ファノン、クリフォード・ギアツ、ジェームズ・クリフォードといった著者が挙げられており、ここにフーコーも含まれる(これらは文学を介して社会文化を論じる際、理論的体裁を付与するために引用されるという、基本的には(A)と同様の潮流と見なせるだろう)。
(C)そしてそこから理論化における社会化の傾向が浮かび上がる。(A)の理論化の潮流としては「言語学:哲学と理論」に分類されるデリダの著作が代表的なものとして挙げられており、それが文学研究の人気を集めたのは、デリダの「理論」が哲学よりもむしろ文学に向いていたからだとされる。しかしデリダの著作の被引用数は1978~1987年と1998~2007年を比較した場合、前者では首位だが、後者ではその数が半減しており、代わりに(B)の学際化の潮流を代表するジェンダー研究のバトラーの著作が目立って台頭している。全体的な傾向としても、社会問題に関する引用が増加する一方、言語カテゴリーの引用が減少しており、これは文学研究の焦点が内向きから外向きへと移り変わり、テキストの言語学的・記号論的な側面に取り組むことよりも、社会的な意味合いやアイデンティティの問題などを扱うことが重視されるようになったという知的基盤の変化を示唆している。言い換えれば「言語・修辞」から「社会・文化」へと関心が移行して、「文学」を社会現象として研究する傾向が強まり、文学的・修辞的側面を超えた理論の役割が求められるようになったと解釈できる。
(D)その一方、アリストテレスの『詩学』やジョイスの『ユリシーズ』など、一部の古典や「正典」化された文学作品はなおも頻繁に引用されており、人文学の知的基盤においては、著作の年代と陳腐化との関連性は弱い傾向もある。つまり古い著作と流行の著作の両方が混在しているが、これは文学を主とした人文学では、社会科学や自然科学とは異なり、いまだに論文よりも書籍が重視されていること、それゆえに理論的著作と作品的著作、学術的出版物と文化的出版物の区別が曖昧であることも関係している。
(E)それでも次第に文学作品の「正典」の影響力が低下しているのは、学問としての文学が社会化している傾向のほかに、社会における文学それ自体の評価の低下、教養ある読者層の不足なども関連している可能性がある。文学研究は学問の枠内のみならず、広くはその外においても、ジャーナリスト・批評家・教師・司書・一般の人々によって、批評や読書会といった形式で実践されており、つまり非専門家と共有されている側面を持っている。それゆえに文学の場合、学術界と一般の社会・文化圏との境界が曖昧になる傾向がある。

 この分析は非常に興味深く、ポストモダン思想が英米では哲学ではなく、文学部門において「フランス理論(French Theory)」として受容された理由、さらにはその破れ目を通じて、社会学や政治学や文化人類学などの思想寄りの領域においても広まった理由をそれなりに説明している。特に重要なのは、ポストモダン思想の「理論」が「“ソフト”な学問分野が記述的な営みからより理論的な営みへと移行することを正当化する(legitimate the transition of ‘soft’ disciplines from being descriptive enterprises to more theoretical ones)」ために用いられたという指摘だろう。つまり主として実証的・定量的な方法に基づく「ハード」な学問分野(代表的には自然科学や工学)との対比として、より解釈的・定性的な方法に依存する「ソフト」な学問分野(文学や人文社会系の思想寄りの領域)があり、前世紀中頃から、様々な学問分野が現代化・科学化していく趨勢の中、おそらく最も「ソフト」な分野の一つである文芸批評がどうにかして学術的体裁を取り繕おうとした結果、上辺は難解そうだが、実のところ生硬粗雑な、ポストモダン思想の「理論」を取り入れてしまった。この「フランス理論」の輸入が如何に軽率な破滅の道であったのかについては、まさに「ハード」な自然科学の用語や概念を理解せずに濫用・誤用していた多くのポストモダン思想家たち、英米の科学志向の心理学や精神医学から精神分析が無視されるようになったのと前後してフランスでは時代錯誤にも祭り上げられたラカン、事実を重視する標準的な歴史学者たちから批判された「歴史フィクション」作家のフーコー、明晰さや厳密さを重視する学術的哲学者たちから前衛詩人扱いされたデリダなどの事例から推し量ることができるだろう。それらを文学研究者たちは「心理学」「社会科学」「言語哲学」の「理論」として引用したのかもしれないが、実際にはその当時から英米においては、ラカンやフロイトなどの精神分析は科学的心理学から無視されており、フーコーは通常の学問から逸脱した「社会科学の詩人」であり、上記の分析において最も文学への影響力が強かったデリダもまた哲学者とは見なされないか、その評価は非常に低かった。

 言語哲学と心の哲学が専門の分析哲学者ジョン・サールは1994年の論文において、こうした文学研究の難点に触れている。サールは「言語学や言語哲学の問題について著作を発表し、これらの問題に関する権威と見なされている文学研究者の中に、実際にはこれらの主題についてあまり知識がないように見える人々がいるという事実によって、学問分野の境界に起因して生じる標準的な無知はさらに深刻化している(the normal ignorance due to disciplinary boundaries is aggravated by the fact that among the people in literary studies who have written on issues in linguistics and the philosophy of language and have been taken as authorities on these issues, there are some that don't seem to know very much about these subjects)」と指摘したうえで、デリダや文学理論におけるデリダ派(脱構築主義派)の欠陥として、「デリダをはじめとする脱構築主義派の著者たちは、過去1世紀ほどの間になされた進展や確立された区別に精通していないため、現代の哲学や言語学において信頼性を欠く傾向がある(because of their lack of familiarity with the advances made and the distinctions drawn during the past century or so, Derrida and other deconstructionist authors tend to lack credibility in contemporary philosophy and linguistics)」と評した。つまりポストモダン思想にかぶれた文学研究者たちは時代錯誤にも、言語学や言語哲学の進展に無知なデリダの「理論」を取り入れてしまっており、その理由は、まさに文学研究者たちが他分野の進展に無知だからということになる。だからこそ心理学の進展にも気づかずに、フロイトやラカンなど、同様に時代錯誤の精神分析を「理論」として批評に援用し続けた。

 このような潮流の背景にはおそらく、1970年代に「フランス理論」が導入される以前、20世紀中頃にアメリカの文学研究で隆盛したとされるニュー・クリティシズムの頓挫・衰退・反動もあるのだろう。ニュー・クリティシズムの特徴は、客観性や形式主義を重視してテキストの精読および分析に焦点を当てるというものであり、文学史や作者の伝記的背景といった歴史的・文化的文脈、道徳的問題や政治的批評など従来の文学研究の関心から作品を切り離して、自律したテキストの普遍的かつ時代を超えた意味や主題を分析するといったものだったようだ。方法論としては、とりわけ作者の意図の重要性の否定、さらには読者の感情的反応や個人的解釈の価値も否定して、その代わりに、作品それ自体の構造や形式的要素と意味や主題との結び付きを重視したらしい。その中には批評を「科学的」にすることを標榜した学者もいたというが、科学の「客観性」とは対照的に、実際には多くの場合、各人が理論的美学を概説するだけに終わったという。ニュー・クリティシズムが失敗した理由の一つはおそらく、構造や形式に焦点を当てても、それを結局は意味や主題の解釈に帰してしまったという点にあるのだろう。意味や主題というのは主観的・社会文化的・時代的な文脈に多くを依存するので、ただ単に構造や形式の客観的特徴を分析する方法論を研ぎ澄まして、それを知識化することに集中すべきだった。またテキストの読み方は多様になる一方、特定のテキストの書き方は通常は一様になるので(読者は多数存在するが、多くの場合、作者は単独なので、書き方は人それぞれになりようがない)、テキストそれ自体よりもむしろ作者の書き方に焦点を当てるべきだった。たとえば何らかの創作料理を分析して知識化する場合、出来上がった料理それ自体の批評よりも、材料や道具や調理法に精通することの方が遙かに必要不可欠だろう(それらを生み出した背景や土台として社会・文化・歴史に注目するのは重要だが、それが主眼になってしまうと社会研究・文化研究・歴史研究になってしまう)。つまり専門的な読み方とは、どのような材料や道具を使っているかも含めて、作者の書き方や手法を読み取ることであり(換言すれば生成過程を技術的・実践的に理解することであり、それを専門的に理解しているか否かは、分析対象と同様の形式的特徴を再現できるか否かによって検証できる)、意味解釈や美学的評価(より素朴には道徳的評価)が中心の批評という営為には、そもそも専門性など生じえないということに気づいていなかった。端的に言えば、作者の意図というのを文章の書き方や手法、そこから現れた形式的特徴ではなく、意味や主題に誤帰属してしまったことが失敗の要因と見なせるだろう。アメリカ以外も視野に入れれば、20世紀前半にロシアで隆盛したとされるロシアン・フォルマリズムが文学研究史上、最も良い線を行っていたようであり、こちらは形式的特徴を重視するのみならず、技法にも重点を置き、客観的かつ科学的な分析を目指したと言われるが、政治的弾圧などにより衰退してしまった。またニュー・クリティシズムと同様、分析対象が詩に偏重する傾向もあったらしく、どうやら形式や技法それ自体の知識化よりも、それを美学的分析に帰してしまう傾向もあったようだ。そしてそれ以後、形式や技法に焦点を当てた実践的な知識化の隆盛などは起こっていない。科学的な方向性としては認知主義の認知文学理論があるが、主に読者の反応に焦点を当てており、これも美学的分析と同様の副次的な志向に留まる。このように客観性や科学性を標榜した専門化が頓挫したという事実は、(文学史研究・作者研究・書誌学的研究などではない)文学研究という分野は結局のところ、現代的な学問になることができず、ほとんど専門知識を生産できていないことを示唆している。

 そうした失敗とその反動も相まって、テキストや文学作品それ自体に取り組むことが疎かにされるようになり、まず「理論」ありきでそれに作品を当てはめたり、恣意的な解釈を「理論」で粉飾したりすることが流行するうちに、分野自体の専門性の乏しさから、作品を介して文化的な文脈や社会問題を語ったりするという、さらなる脱専門化の傾向が強まっていったのだろう。内向きに分析と知識化に取り組んで「ソフト」な学問分野にどうにかして核となる硬い芯を作り出そうとはせずに、上辺だけを「理論」で取り繕って観念論的に「問題」意識を語り、実質的には学際化というよりも、その分野自体が外向きに拡散していった。ポストモダン思想それ自体が哲学よりも「文学」と見なされる傾向も鑑みれば、その「理論」を文学研究に援用することは一種の近親交配のようなものであり、他分野からは非学術的という意味合いで用いられる「文学」性、すなわち蒙昧主義や恣意的な解釈といった性質が、より濃厚になっていったとも見なせる。加えて「社会学的転回」による社会化の傾向については、知的探究よりも道徳的問題に焦点を当てる方が、学術性の低い「ソフト」な分野においては、動機付けになりやすいという側面が大きいのだろう。学問としては「ソフト」なままでも、道徳的に「ハード」な社会問題に結びつけさえすれば、その営為に一般的な価値や意義を感じることができる。それは学術性や専門性を放棄する傾向を強く帯びてしまうのだが、他方ではその社会性によって、一般向けの社会批評や時事評論などにはうってつけの言説となり、文化産業の「フィユトン」においては繁栄する。そうした言説の主要な場が旧来のメディアからTwitter(現X)へと移行すれば、それはソーシャル・メディアの強力な社会性によって政治的(道徳的)論争を尖鋭化させて、活動家的学問や道徳主義的誤謬の傾向も強まっていくだろう。実際、そうした場の論争では事実や知識よりも、政治的(道徳的)な姿勢の方が往々にして影響力を発揮する。

 1970年代から現在に至るまでの、そのような流れの中にフーコーとグレーバーを位置付ける際には、いくつかの点を踏まえておく必要があるだろう。まず前提として、二人とも「歴史フィクション」や「思索的ノンフィクション」の書き手であり、つまり学者というよりも作家であり、その著作も一種の文学作品として受容される傾向を持っている。そして名目上は社会科学に分類される分野であっても、その中には思想寄りの人文系領域もあり、そこでは過去の著名な社会理論家(マルクスやヴェーバーなど)の「正典」を解釈したり、その「理論」を援用して観念論的に「問題」を語ったりするという、ほとんど文学研究や文芸批評と変わらないような営みも残存している。おそらくフーコーやグレーバーはそのような、言うなれば社会系人文学、または文学的社会学とでも呼ぶべき領域において、同様に社会理論家(現代的には思想家)として受容される性質を持っており、文学研究は社会化の傾向を強めたことで、その領域に重なっていった。そうした文学研究の学際化の場合、他分野に目を向けた際、フーコーやグレーバーの著作のような、厳密には学術的出版物とは言えないものを有り難がってしまう傾向があり、それは上記分析のとおり、学術的出版物と文化的出版物の区別が曖昧であるうえに、経験的(実証的)な事柄に関する能力を軽視しているせいで、根拠の裏付けに乏しい「理論」が流行しやすいからだろう。そして他分野においては、そのような「理論」は往々にして「文学」と揶揄される。従って、その種の「理論」的な思想家は学者というよりも作家であり、その意味で「文学」に含まれることになる。

 そのうえでまず(A)の理論化の潮流に対しては、フーコーの蒙昧主義はそれなりに適応的だったと言えるだろう。とはいえフーコーの場合、デリダのように修辞的・言語的な観点からの解釈に応用できる類のものではなく、おそらくはその著作自体が作品として読まれたり、社会文化的な見方を補強するために援用されたりしたものと思われる。次いで(B)の学際化、さらに(C)の理論化における社会化に対しては、フーコーの「ソフト」な学際性、社会における権力や言説関係について観念論的な思想を展開するその「理論」は非常に適応的だったに違いない。さらに(B)および(C)の潮流においては、文学研究に引用された人類学系の理論家として、クリフォード・ギアツやジェームズ・クリフォードが挙げられており、グレーバーも広くはその系統に位置付けられるだろう。そして上記(A)(B)(C)の潮流を提示した論文は1978~1987年および1998~2007年を対象とした分析だったが、その期間が終わった少し後、2011年にウォール街占拠運動が起こってグレーバーは著名人となり、またそれに前後してTwitter(現X)の普及が進んで、それが活動家的言説において大きな影響力を持つようになっていく。そうなると(C)の理論化における社会化の、その後の流れとしてこの頃から、思想や批評に依拠した人文学的言説において、より分かりやすい社会化が始まったのではないだろうか。つまり難解そうなジャーゴンまみれの観念論で権力やジェンダーの問題を語るポストモダン様式よりも、どちらかと言えばより具体的かつ身近な実際問題として、より平易な言葉を用いて、経済や労働、性差別や人種差別などの問題について語る傾向が(特に「フィユトン」やソーシャル・メディアといった一般社会向けの言説において)強まっていったように思われる。この流れは実際に占拠運動に参加したり、より一般向けの謳い文句や言説を駆使したりするグレーバーにとって、おそらくは非常に適したものだっただろう。またその際、人類学においてグレーバーが属する領域が社会科学側ではなく、過去にポストモダン思想に強く影響を受けた人文学側であり、学問的に「ソフト」な性質を持っていることも大きかったはずだ。グレーバーの場合、いわゆる「左翼」や「文系」に受ける通俗的要素を色濃く持っており、定番の資本主義や新自由主義に加えて、数理に偏重した偉そうな主流派経済学や古い社会進化論の進歩史観も批判したり、あるいは「ブルシット・ジョブ」や「経営封建主義」といった造語も繰り出したりして、それらに反対する姿勢を打ち出した。つまり特定の聴衆に敵や脅威として認定されるような「問題」を設定することで、政治的(道徳的)指導力を示すことができた。特に「ブルシット・ジョブ」という用語はキャッチーであり、日本で言えば「社畜」や「ブラック企業」のような通りのよさを持っている。

 しかしながら、そのようにして文学を中心とした思想・批評に近い人文系が「社会学的転回」に耽る一方で、当の社会学を含む学術的な社会科学はむしろ正反対に、思想・批評に近いような「理論」は「ソフト」なものとして退けて、より「ハード」な実証研究や科学的研究を志向するようになっていった。おそらくは哲学においても、分野内文化に限定された興味ではなく、純粋に哲学的好奇心がある場合、従来の心の哲学や言語哲学への関心が薄れて、より認知科学・神経科学・進化学的な方向へと関心の焦点が移行していった。たとえば認知科学や進化生物学を積極的に取り入れた哲学者のダニエル・デネットは生前、哲学的な事柄は哲学者の専売特許という見方は「よくある幻想(a common enough illusion)」であり、「明白な事実として、どの学問分野も進歩につれて哲学的な問題を生み出すものであり、それらの分野において出くわす事実(知見、方法、問題)に無知な思想家によって、そうした問題が責任を持って取り組まれることはありえない(the plain fact is that every discipline generates philosophical issues as it advances, and they cannot be responsibly addressed by thinkers ignorant of the facts (the findings, the methods, the problems) encountered in those disciplines.)」とした上で、次のように述べている。

 楽譜を読むことも楽器を演奏することもできず、世界の様々な音楽に詳しくもない美学の下位分野の哲学者が音楽の美について論じても、注目に値しないだろう。シリアの歴史、文化、政治、地理に無知な倫理学者が、シリアで何をすべきかについて意見を述べるのも同様だ。道徳、自由意志、意識、意味、因果関係、時間と空間といった中心的な哲学的主題について探究をする際、真剣に受け止めてもらいたいのであれば、それらについて近年の様々な科学から得られた知識を十分に知っておいた方がいい。残念ながら、人文学の多くの人々は旧態依然とした方法、つまり新しい発展に無頓着な、肘掛け椅子に座った机上の空論家として、これらの事柄に取り組み続けることができると考えている。

     A philosopher in the sub-discipline of aesthetics who held forth on the topic of beauty in music but who couldn't read music or play an instrument, and who was unfamiliar with many of the varieties of music in the world, would not deserve attention. Nor would an ethicist opining on what we ought to do in Syria who was ignorant of the history, culture, politics and geography of Syria. Those who want to be taken seriously when they launch inquiries about such central philosophical topics as morality, free will, consciousness, meaning, causality, time and space had better know quite a lot that we have learned in recent decades about these topics from a variety of sciences. Unfortunately, many in the humanities think that they can continue to address these matters the old-fashioned way, as armchair theorists in complacent ignorance of new developments.

https://www.edge.org/conversation/daniel_c_dennett-dennett-on-wieseltier-v-pinker-in-the-new-republic

 ところがポストモダン系の「理論」は事実には無頓着であり、科学に関してはその用語を詩的に濫用するだけで、心と言えば精神分析、言語と言えばソシュールやら何やらの独自解釈に耽り、基本的には20世紀前半までの知的文化から脱しておらず、ポストどころかモダン以前の様式に取り残されていった。それにもかかわらず、文学においてポストモダン思想が影響力を持ち続けた一因としては、上記分析の(D)の著作の「正典」化という文化が大きく影響しているだろう。つまり文学的な領域では何らかの著作がいったん権威視されると、それが陳腐化せずに根付いて、他分野からみれば学問の水準に達していなくても、いくら時代遅れであっても、しばしば崇められ続けてしまう。特に文芸批評の一部の場合、その学術性の低さゆえに学際の障壁も低く、ポストモダン思想が蔓延してしまうことになり、蒙昧主義の深遠そうな文体と解釈誘発性により、その著作が場合によっては「正典」どころか「聖典」と化して、まさに「シャーマン・予言者」の神託のように有り難がられた(極端に意味不明瞭な文章がおそらく、シャーマンのトランス状態に類似した効果を帯びたのだろう)。

 アラン・メギルがフーコーの影響力を定量的に調査した1987年の論文においても、社会科学および人文・芸術分野それぞれが引用した学者のランキングを分析した結果、(1)社会科学では専門性が重視される一方、人文・芸術分野では独創的で挑発的な世界観が支持されること、(2)社会科学の被引用数ランキングはその分野でのみ知られている学者が大半を占めており、比較的新しい学者も多いのに対して、人文・芸術分野では教養人なら誰もが知っているような有名人ばかりであり、比較的古い学者が多いことが指摘されている。これは文学に代表される人文・芸術分野においては、専門性や知識の更新を重視する広い意味での科学性が希薄であり、それゆえに高度な専門知識よりも、属人的な権威や思想が重視される傾向が強く、それが崇拝され続けることで、特定の人物の著作が「正典」化されていく現象として解釈できる。この傾向によって、歴史的にはハイコンテクストになっていく一方、知的には時代遅れになり、科学的知識の進展から取り残されやすい文化が醸成される。この点に関しては『「知」の欺瞞』においても、哲学や文学の伝統が科学とは齟齬をきたす要因として言及されている。

 第一に、文学や哲学では原著者や原典を重視するが、科学ではそういうことはない。ガリレオやニュートンやアインシュタインの著作をまったく読まなくとも物理を学ぶことはできるし、ダーウィンの書いたものを一行も読まずに生物学を研究することもできる。重要なのは、これらの科学者が提示した事実や理論についての議論であり、彼らが用いた言葉ではないのだ。その上、分野のその後の発展のために、彼らの考えは根本的に修正されたり、くつがえされさえしたかもしれない。さらに、科学者の人間的な質や科学以外の信念は彼らの理論の評価とは無関係なのである。たとえば、ニュートンの神秘主義や錬金術は、科学史や人類の知にとっては重要な素材だが、物理学にとっては重要ではない。
 第二の問題は、実験よりも理論が優位におかれている(これは、事実よりもテクストが優位にあることにも関係している)ことからくる。科学の理論とその実験的な検証を結ぶ道は、たいていの場合、こみ入っていて間接的である。そのために、哲学者が科学について考えるときは、できる限り理論的な側面から近づこうとする。(実をいうと、われわれもそうなのだが。)しかし、経験的な側面を同時に考えない限りは、科学の論説は本当に単なる「神話」、「物語」等々に成り下がってしまう。これこそが、すべての問題の源なのだ。

『「知」の欺瞞』文庫版291–292頁。

 このような違いによって、常識を「くつがえす」ような独創的で挑発的な思想家の言説が人文学において流行した場合、フーコーの著作がまさにその悪例だが、経験的(実証的)な側面が非常に怪しくても、時代を経てその主題に対する知識が更新されていっても、その「神話」や「物語」はくつがえされず、むしろ「哲学」や「理論」として信奉され続けるという因習化が生じる。これは「正典」化された著作が文化的出版物として、さらにはベストセラーになった場合は商業出版物として、一般読者にも受容されることも一因だろう。つまり上記分析の(E)の曖昧な学術性のせいで、文学やそれに近い人文社会系の場合、学術界と一般の社会・文化圏との落差があまりなく、ひいては専門的基準や学術的精査よりも、社会的潮流や文化的流行の方が影響力を持ちやすい傾向があり、専門的な研究者というよりも、一般的な知識人や文化人に近い属性の学者が権威化されてしまう。まさにグレーバーがポストモダン思想家など大陸系の「理論家」たちは「学術界の外の、大抵は芸術趣味や文化産業従事者の間で信奉者を獲得する」と指摘したとおり、一般の「文化産業従事者」によって、典型的には新聞雑誌の「フィユトン」において取り上げられることを通じて、その手の思想家や批評家、その著作は大衆的な知名度や名声を獲得していき、一般の社会文化との境界が曖昧な「ソフト」な領域ほど、学術界までもがその知名度や名声に影響を受けてしまう。そのような文化産業の仕組みを利用して、ほとんど学術界には参加していない類の名目学者がしばしば、通俗著作を連発することで「公共知識人」になり、世の中に誤った学問の印象を広めていくという事態も発生する。こうして一般読者やそれと地続きの人文系においては、ポストモダン思想が高級な「哲学」として流通する文化圏が形成される。そしてそのような文化圏では大抵の場合、ほとんど真っ当な批判は流通せず、いつまでも信奉者の目は醒めない。

 もうひとつグレーバーの指摘に倣って付け加えれば、ひと昔前までは「芸術趣味」による受容もまた重要だったのだろう。というのも、ポストモダン思想の蒙昧主義は前衛詩、あるいは芸術家の象徴主義になぞらえられている。つまり思想家たちの著作はジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』やベケットの諸作などと同様に、本棚の一角を飾る難読作品でもあり、特にソーシャル・メディア以前の共有性・親近性よりも顕示性・優越性に文化的価値があった時代、そうした著作やその著者は、芸術的な趣味の良さや高尚さを競う自意識の闘争において、今よりも遙かに崇められる対象だった(その意味でも「シャーマン・予言者」だったと言える)。おそらく2010年代初頭くらいまでは、まだ前衛芸術に対する憧れが残存しており、それこそ「難解」なフランス文学やフランス映画などが人文系学生や芸術愛好者の気取りとして一定のニッチを占めていたことだろう。ポストモダン思想はその種の文化圏とも重なっていた。

 しかしソーシャル・メディアの時代に入れば、ポストモダン思想家のような芸術家に類似した蒙昧主義の知識人よりも、より親しみやすく、より分かりやすい言い回しで刺激を与えてくれる知識人の方が遙かに適応的になる。ポストモダン思想家がTwitter(現X)で支持者たちと気軽に遣り取りする光景は想像しづらく、何より、物言いが意味不明すぎてコミュニケーションが成立しないだろう。その一方、グレーバーはより現代向きの特徴を持っており、どうやら「Twitter戦士」として強い言葉を使う傾向があったらしいことも、政治的(道徳的)闘争の指導者としては相応しい素質と言える。とはいえ当然ながら、そのような側面ばかりでは、学者としての威信が保てない。何よりグレーバーの場合、主意主義的な思想に依拠して、自然科学からも社会科学からも距離を取っており、進化学や生態学、経済学や定量化に否定的な見解を持っている。つまり根っからの「ソフト」な学者であり、問題について「ハード」な議論はできない。しかしそうなると平易な言葉で語るだけでは、一般人の主張とほとんど変わらなくなってしまう。そこで第一に、アナーキズムにせよ文化人類学にせよ、社会理論にせよ政治理論にせよ、古典的で著名な、あるいは知る人ぞ知るような、思想家や理論家を引用して箔を付けることが役に立つ。これはグレーバーのエッセイ系論文によく見受けられた手法であり、Twitter(現X)やブログ記事などにおいても、人文系の聴衆に対しては有効だろう。そして第二に、著作においては骨太な学術に基づいているという姿勢を示すことも重要であり、グレーバーの場合、大著の『負債論』や『万物の黎明』において、専門分野の民族誌や共著者の学識に基づく考古学文献、その他、様々な歴史的記録などを引用して、巻末注や文献リストの分厚さを誇ってみせた。ポストモダン思想の蒙昧主義の場合、容易には理解できない見せかけの奥深さを醸し出す効果があり、その煙幕によって中身のなさを誤魔化せたが、グレーバーのように平易な文体の場合、明示的に中身を詰め込むことが必要になる。もちろん一般読者の大半は分厚い巻末注や文献リストを精査したりはしないので、証拠の選択的使用や歪曲をする余地は十分にある。

 ソーシャル・メディアの特性に関して言えば、とりわけ興味深いのは、人文学における「フランス理論」の受容とTwitter(現X)におけるインフルエンサーの受容には、非常に似通った点があることだ。思想史家フランソワ・キュセは『FRENCH THEORY: Foucault, Derrida, Deleuze & Cie et les mutations de la vie intellectuelle aux Etats-Unis』(邦訳『フレンチ・セオリー:アメリカにおけるフランス現代思想』)の中で、アメリカの人文学ではポストモダン思想家たちが象徴的資本として「スター」となり、文芸批評一般のほか、カルチュラル・スタディーズなど学術文化の「ニッチ市場」において、ブランド化したその「フランス理論」が「濫用」されたことを指摘している。キュセによれば、それは「引用の政治(politics of quotation)」と呼ぶべきものであり、アメリカのポストモダン思想の支持者たちは、自分たちの政治的な議題に合わせて思想家の「理論」を作り変えながら、同時にそれを引用することで、自分たちの仕事を正当化または権威付けることができた(面白いのは、これは当のポストモダン思想家たちによる科学用語の濫用とそっくりであることだ)。また大学のサービス産業化により、学生という顧客の関心に応える分野(カルチュラル・スタディーズなど)を提供する必要性が生じた結果、その分野の題材を「真面目な」学術的言説の体裁で論じて、学生を専攻に惹きつけたり本を売ったりするためにも「フランス理論」のブランドが用いられたという。このようなポストモダン思想のスター性、ブランド性、市場性は日本の場合、人文社会系の商業知識人や商業文化人の間で人気を博したようであり、そのような生態系における「引用の政治」として、タレント学者や批評家が「ラカンによれば……」「これがフーコーの言うところの……」などと顕示的に引用してみせることで、その商業圏の読者には通用する高尚そうな雰囲気を醸し出すことに利用されたようだ(新興国では舶来ブランドのロゴが高級の証として顕示的消費の対象になるようなものだろう)。こうした「引用の政治」はまさにTwitter(現X)において、インフルエンサーの言葉をリツイート(現リポスト)するという様式で盛んなものであり、もちろんその際、グレーバーのような知名度の高い学者の言葉を引用すれば、それはその引用者にとって、正当化または権威付けの効果を持つだろう。そうした学者の方もブランディングやマーケティングとして、支持者や聴衆の関心に応えるような投稿をすれば、学術文化の「ニッチ市場」において注目を集めたり、自著を売ったりするのに非常に効果的だろう。もっとも、そのようにインフルエンサーと化していく学者はポストモダン思想家とは異なり、芸術家やスターというよりも、日本で言えばやはりタレントやアイドル、もしくはタイムライン上のコメンテーターや雛壇芸人のような存在に近いかもしれない。つまり聴衆との距離が縮まった分、よりライトに大衆化していく趨勢にあるのだろう。

 このような見方から、なぜポストモダン思想のようなものが文学を中心とした人文系、とりわけ「ソフト」な学問分野において流行したのかを類推するに、それは学術界から旧来のメディア、そして一般読者に至るまでを含むその文化圏がおそらく、現在のソーシャル・メディアと非常によく似た特性を持っていたからではないだろうか。つまりそれはソーシャル・メディア以前のソーシャル・メディアだった。

 上述の「引用の政治」は著作や論文において、当時のインフルエンサー学者と言えるポストモダン思想家たちの「理論」が引用されるという文化現象であり、もちろんポストモダン思想家のみならず、グレーバーがよく引用するような広義の社会理論家、つまりマルクスやヴェーバーやクロポトキンやベイトソンやレヴィ=ストロース、あるいは他にも、その手の人文社会系の文化圏で好まれた思想家、たとえばアーレントやサイード、ポストモダン様式を受け継いだバトラーやジジェクなどもその文化圏では人気だったことだろう。それらは文学における学際化・社会化の範囲に含まれると同時に、経済学・社会学・人類学・政治学など、現代では社会科学化した他分野における「文学」でもある。そうした思想家たちに依拠した「引用の政治」は前述の通り、主として(知名度に依拠した)権威付けに用いられるのが特徴であり、通常の学問のように、根拠付けるために引用されるわけではない。たとえ「理論」という名で呼ばれていても、思想は主張の裏付けにはならず、その議論を根拠付けるものではないからだ。それにもかかわらず、それらの思想は権威付けの引用によって拡散されていく。これはグレーバー自身にも見られる現象であり、実証的根拠をほとんど示していないにもかかわらず、『ブルシット・ジョブ』は2000回以上も引用されており、それをTwitter(現X)のリツイート(現リポスト)になぞらえてみれば、まさに「バズった」ということになる。Google Scholarなどでちょっと調べてみれば分かるとおり、フーコーをはじめとした代表的なポストモダン思想家の被引用数も凄まじく、個人の総数ではおそらく、自然科学系のノーベル賞受賞者のほとんどを優に上回っているだろう。彼らはネット時代以前のインフルエンサーであり、学術研究の根拠として不可欠ゆえに引用されるわけではなく、ついリツイート(現リポスト)したくなるような、洞察や独自用語を提供しているゆえに引用される。

 この見方を一般読者にまで敷衍して、その見地からネット時代以前、ソーシャル・メディア時代以前のインフルエンサー学者のあり方を素描してみるとどうなるだろうか。少なくとも当時、文学を主とした人文系文化圏の一般読者は当然ながら、読書に占める文学作品の割合が大きく、おそらくは多くの場合、それは幼少の頃に絵本や児童文学などに親しんだ延長だろう。ひいてはその種の「本好き」「読書好き」にとっての「本」「読書」とは、文学作品やその周辺の芸術文化に関する書籍、それ以外では漫画などが主になるだろう。そうした一般読者が思春期の自意識を強くしたり、大学に入ったりした頃には、背伸びをして知的文化に触れるべく、あるいはまさに人文系の専攻を選んだ結果として、色々と学者の書いた本でも読んでみるかということになる。しかしその際、文学やそれに近い出版文化の影響を強く受けていて、それこそが知的文化の代表のように思い込んでいると、それまでの読書傾向の延長として、(日本で言えば岩波文庫の青色や白色に典型的な)大陸哲学や社会理論や政治理論の古典、あるいは精神分析やポストモダン思想関連の著作、ひいてはそうした文化を受け継ぐ流行の批評家や思想家(俗に「哲学者」とも呼ばれる)の話題の本などに視野狭窄にはまり込んでしまう。人文学では主に論文よりも書籍が重視されるゆえに、学術的出版物と文化的出版物、ひいては商業出版物との境界が曖昧になりやすく、とりわけ批評や思想という分野を通じて、ほとんど学術界には参加していない学者の著作が売り出される。そうした学者は新聞雑誌の「フィユトン」の常連になり、文化批評や時事評論、それに類する対談、より大衆性が強い場合には人生相談を受け持つことになる。そのようにして形成された文化圏はアナログ時代のフィルターバブルかつエコーチェンバーと化して、読者の多くはその外の、分析哲学や科学的心理学や社会科学には触れないまま、ポストモダン思想や精神分析や評論系社会学に染まっていき、まさにインフルエンサーをフォローするように、思想家や批評家や商業社会学者の著作を本棚に並べたり、メディア上での発言を追ったりする。感銘を受ければアナログ時代の「いいね」として、傍線を引いたり抜き書きをしたり、記事を切り抜いてスクラップしたりもしたかもしれない。とりわけ新聞雑誌の影響は大きく、それは投稿欄以外、聴衆が直接参加できない形式のソーシャル・メディアだったと見なせるだろう。

 ところが、大陸哲学や社会理論などの古典は多くの場合、歴史的意義は非常に大きいものの、内容的には現代の学問から懸け離れていかざるをえない。ましてフロイト発の精神分析は倫理的に取扱注意の「神話」「物語」であり、ポストモダン思想に至っては、そもそも反学問的な傾向が非常に強い。その手の著作をいくら熱心に読んだところで、人間や心や言語や社会や政治についての、そうした思想家の考えを知ることはできても、それらについての根拠付けられた知識に出会うことはできない。端的に言えば、そうした思想家の価値は「誰々の思想は大きな影響を与えた」ということになり、そこから思想史的・文化史的な知識や教養は得られるにしても、現在進行形の科学的知識や知的探究に触れることはできない。そのうえフロイトやポストモダン思想家たちのように、その「大きな影響」が実のところ、特定の学問分野に対して大いなる悪影響だった場合もある。にもかかわらず、新聞雑誌のようなメディアがそれを無批判に祭り上げて広めれば、その思想を真っ当な知識のように受け取ってしまう読者もいるかもしれない。そうなると事実上、それは俗に言う「情弱ビジネス」に近いものとなり、またソーシャル・メディアにおいて、誤情報や偽情報が大々的に拡散されていく事態にも通じているだろう。他分野の専門用語を野放図に濫用・誤用したり、極端に意味不明瞭な文章を書いたり、歴史を装ってフィクションを提示したりするというポストモダン思想家たちの様式は、規範を破ることで耳目を惹くという点において、迷惑系YouTuberのようでもある。実際には覆していないにもかかわらず、何かを根本から「くつがえす」と誇張するような主張の無批判な拡散もまた同様の、憂慮すべき倫理的問題を孕んでいる。

 古い時代に遡るほど仕方がないとはいえ、そうした思想家の著作は結局のところ、動画共有系ソーシャル・メディアによくある「歌ってみた」「踊ってみた」と同様の、言うなれば「考えてみた」だったと見なせるだろう。その種の歌い手や踊り手は聴衆や観衆の人気を博して、実際に歌手やダンサー、アイドルグループのメンバーになることもある。それと同様に、考え手の中には読者の人気を博して、思想家や批評家、メディア文化人の一員になる者もいた。もっとも、そのような歌や踊りは基本的に大衆娯楽文化なので、一般の人気と影響力が比例しても何ら問題はないが、文学や哲学、あるいは社会学や人類学などの場合、学問分野であるがゆえに、それこそが問題となる。つまり領域によっては一般の文化圏との境界が曖昧であるがゆえに、人気の「考えてみた」が多大な影響力を持ってしまった場合、その領域が学問よりも一般の大衆娯楽文化に近くなり、その「正典」の著者や「理論」の提唱者たちは、古くは「シャーマン・予言者」的な宗教職能者、旧来のメディアならスターやセレブリティやタレントやアイドルやコメンテーター、さらにソーシャル・メディアの時代になればインフルエンサーや情報商材業者に似通っていく。かつて思想家や批評家として影響力を誇った学者の場合、その主たる露出は新聞雑誌の「フィユトン」であり、その知名度で商業出版物の「考えてみた」を布教してもいたが、現在ではその機能がネットにも代替されるようになり、一般の人々であっても、ブログやソーシャル・メディアという媒体を介して、各人の「考えてみた」を発信できる。その中には非常に鋭い洞察や想像力を発揮する才人も少なくなく、とりわけTwitter(現X)では、思想家や批評家として人気を博する学者と変わらず、その言葉で多くの聴衆に影響力を与える存在、すなわち言論系インフルエンサーの猛者たちが日々精力的に活動している。従って、そうしたインフルエンサーたちは最新型の思想家や批評家とも見なせるだろう。

 しかしそうなると、学者という肩書きのインフルエンサーと肩書きが学者ではないインフルエンサーとの間には、思想家や批評家という側面においては、もはや実質的には違いはない。学術的文献ではない形式で一般に向けて「考えてみた」を発信するという点においては、双方は同じ地平に立っているからだ。一般向け著作や旧来のメディアを通じて、知識人や文化人の役割を担っていた過去の著名な思想家や批評家は現在から見れば、当時のインフルエンサー学者であり、その一方、現在ではソーシャル・メディアからインフルエンサーが生み出されて、それがネット時代の知識人や文化人にもなっていく。そうしたインフルエンサーは鋭い洞察を述べたり、想像力豊かな推測を展開したり、独創的で挑発的な持論を唱えたり、様々な作品や問題についての論評を行ったりもする。そうしてインフルエンサーの猛者たちが影響力を増幅していくにつれて、旧来の思想家や批評家は古びていくか、グレーバーのように惜しまれつつも物故者となっていく。つまり思想家以後の思想家、批評家以後の批評家はインフルエンサーが担っていくことになるのだろう。

 そうだとすれば、それは文学のような「ソフト」な学問分野にどのような影響をもたらすだろうか。極端に悪い方向に考えれば、理論化という名の思想化、学際化という名の脱専門化、社会化という名の非学術化がよりいっそう進んで、一般の社会・文化圏との境界がさらに曖昧になり、感性的傾向やイデオロギー的傾向、活動家的学問や道徳主義的規範批評の傾向が強まり、学者がインフルエンサーになるのみならず、むしろインフルエンサーが学者になり、その領域自体がソーシャル・メディアと半ば一体化したり、反知性主義に支配されたりするようになるかもしれない。その一方で非常に良い方向に考えれば、旧来の思想家や批評家、あるいは活動家的学者の役割がインフルエンサーに代替されることで、それらがソーシャル・メディアに全面的に移行するようになり、ひいては学者としては姿を消していき、それにつれて当該領域において、中長期的には「ソフト」な学問分野なりに「ハード」な志向に基づいた専門化・学術化が進展していくかもしれない。しかしながら、社会科学に含まれる人類学や社会学の場合、曲がりなりにも「科学」が付いているので、著名学者の「正典」や「理論」を解釈・援用するという「文学」から遠ざかる圧力がかかり、それに伴って、それまで「ソフト」だった領域さえも次第に広義の科学志向を帯びざるをえないだろうが、文学の場合、そのような「人文科学的転回」は決して起こらないかもしれない。その場合、そうした領域では今後もフーコーやグレーバーのような思想家が人気となり、時代に合わせた影響力の文化が続いていくのかもしれない。

 それは結局のところ、根拠に基づく事実、その精査や検証を蔑ろにする文化であり、ダニエル・デネットが指摘した以下のような、ポスト・ポストモダニズムの状況が終わらないことを意味する(デネットによれば、アメリカの科学に無知な「人文系」においては、リチャード・ローティの著作がポストモダニズム的な悪影響を発揮した代表格のようだ)。

「真実は存在せず、解釈のみがある」と唱えた「思想」の流派であるポストモダニズムは、その多くが不条理のうちに終わったが、真実という概念それ自体への不信と根拠の軽視によって無力化され、誰も間違っておらず、何も確かめらず、ただ自分が繰り出せる限りのスタイルで主張されるだけの「会話」に甘んじている人文学者の一世代を後に残した。

     Postmodernism, the school of "thought" that proclaimed "There are no truths, only interpretations" has largely played itself out in absurdity, but it has left behind a generation of academics in the humanities disabled by their distrust of the very idea of truth and their disrespect for evidence, settling for "conversations" in which nobody is wrong and nothing can be confirmed, only asserted with whatever style you can muster.

https://www.edge.org/conversation/daniel_c_dennett-dennett-on-wieseltier-v-pinker-in-the-new-republic

 そうは言っても、希望を見出せる点はいくつかある。たとえば2021年に刊行された『進化思考』という、生物進化のメカニズムを創造的思考に応用する方法を提案したデザイナーによる書籍は、あくまでビジネス書における比喩や類比だったようであり、学問水準の批判の対象になるべきとは思えないが、発表後、進化学についての誤解、生物進化に関する用語や概念の濫用・誤用とも受け取られる表現が散見されたことから、方々から批判されてネット上でも話題になったようだ。しかし著者や版元はそうした批判を受けて進化学者の監修付きで「事実と異なる記述」「学術的な知識の誤り」「著者の解釈による不適切な文章表現」などの修正に取り組んだ末に、晴れて増補改訂版を出した。これは一方では、科学的な用語や概念を濫用・誤用したポストモダン思想家たちと非常に共通するところがありながら、他方では、迅速な批判が寄せられた上に、それに対する真摯な修正が行われたという、比べものにならないほどの優れた相違点がある。しかも著者は(特任教授などはしているようだが)学者ではない。また2022年には『ゲームの歴史』という、コンピューターゲームの誕生から現在に至るまでの歴史を解説する一般向け書籍が刊行されたが、これもネット上で多数の事実誤認などを指摘された結果、翌年には絶版・回収の措置が取られた。あまりにも杜撰な書籍だったようだが、歴史を題材にフィクションを書いてしまったという点ではフーコーと共通しており、その一方、この書籍に対しても迅速な批判が寄せられた結果、しかるべき措置が取られることになった。付け加えれば、そうした批判に貢献したと思われるTwitter(現X)には、2023年から、誤解を招く可能性のある投稿に注意喚起などを目的とした情報を追加できる「コミュニティ・ノート」という機能も追加されているようだ。これは「ファクトチェック」とまでは行かないが、誤情報の拡散を抑制する効果が見込まれている。

 このような事例を鑑みるに、少なくともネット文化やソーシャル・メディアの一部は既に、情報リテラシーや批判的思考、知的倫理や道義的責任といった側面に関して、ポストモダン思想を無批判に拡散した一部の人文系や旧来のメディアを凌駕しているのかもしれない。実際、もしポストモダン思想家たちがその著作を今の世の中で発表したりしたら、たちまち用語の誤用・濫用などを方々から突っ込まれて、それを修正した上で改訂版を出すか、あるいは絶版・回収を余儀なくされた可能性もある。そのような文化が一般に根付いていけば、グレーバーの著作からもそのうちに、ろくに根拠もなく「信じるに足る十分な理由がある」と主張を推し進める悪癖は消え去り、より事実に基づいた部分だけが残るか、あるいは思想と事実をきちんと区別した提示の仕方がなされるようになったかもしれない(もしグレーバーが生きていたらの話だが)。さらに言えば、過去の文学作品によくある「本書には、現在では不適切と思われる表現や描写が含まれています」といった道徳的な注意書きのみならず、過去の思想書にも「本書には、意味を理解していない専門用語の濫用が含まれています」「本書には、事実誤認を指摘された歴史的記述・解釈が含まれています」「本書を含めたフロイトの見解は、現在の心理学では強く否定される傾向にあります」といった知的な注意書きが掲載される日も来るかもしれない。もし以前からそうした知的文化があれば、おそらく過去数十年間の、一般文化圏に近い人文系領域の知的状況はいくらか異なったものになったことだろう。

洞察のその後

 とはいえ実際のところ、ここまで書いておきながら、グレーバーの本は一冊も読んでいない。しかし多大な影響力を誇るゆえに、読まずともその洞察の力を遠くから推し量ることはできる。

 Google Scholarで検索してみると、既に『万物の黎明』の被引用数は1500を超えており、引用先の中には、広い意味では『万物の黎明』と同路線の主張をしているものがある。そのような2022年の論文では、完新世以前の人類は小規模で平等主義的な遊動性採食民の集団として暮らしていたという従来の定説、すなわち「遊動性平等主義モデル(nomadic-egalitarian model)」に異議が唱えられており、代替案として、人類は後期更新世(約12万6000年前~1万1700年前)を通じて、あるいはそれ以前も含めて、より定住的・不平等・大集団・政治的階層化・大規模協力・資源管理といった特徴を持ち、その程度がそれぞれの社会組織によって変動するような、社会的多様性を持っていたという新たなモデルが提案されている。著者らはその理由として、(a)後期更新世の環境の多様性が考えられること、(b)最近の採食民が生態系に応じて柔軟に異なる社会を構築する能力を持っていること、(c)小規模な遊動性採食民の間でも社会組織に変動が見られることを挙げている。そしてそれらを支持する民族誌的・考古学的証拠として、以下のような知見を列挙している。

  • 現存する狩猟採集民の多くは生息地が限られていたり農耕社会の影響を受けていたりして、更新世の生活様式を典型的に代表しているとは考えにくい。農耕社会による抑圧または保護、あるいはその影響による文化や人口の崩壊によって、複雑で精緻な社会構造が解体された結果、小規模で平等主義的になった可能性もある。さらに遊動性についても、その目的が農耕社会との交易のための採集、政治的支配からの逃亡といった場合もある。

  • 採食民の社会であっても、より大きな政治的実体に組み込まれて外部の管理者に統制されたり、社会的調停や紛争解決の重要性が高まったりした場合、権威主義的な指導者が出現する。またシャーマンや長老はしばしば呪術的・宗教的・政治的権威を行使して、その他の人々を使役する場合もある。

  • 同一文化内の採食民でも、集団ごとに規模の大きな差が見られる場合もある。また資源の利用可能性に応じて、分散と集合、遊動と定住といった季節性の変動を伴う社会もある。大規模な祭りや儀式のような集会が観察される場合も多い。

  • 一見すると小規模な集団でも、より広い協力ネットワークに含まれており、戦争や共同狩猟や共有施設の建設などに関与する場合もある。完新世や更新世にもそうした事例を示唆する証拠がある。さらに完新世や更新世末期にも、栽培や動物の管理など、資源管理が行われていたことを示唆する考古学的証拠がある。

  • 資源が密集して豊かで予測可能な環境においては、採食民であっても、定住的・非平等主義的な社会が出現する傾向がある。そのような社会の場合、人口密度が非常に高く、余剰の貯蔵や再分配、階層制のみならず、奴隷制が生じた事例もある。なかには国家や首長制のような大規模に政治的階層化された社会を構築して、世襲の君主制、宗教・軍事専門家、インフラ事業といった特徴をそなえた事例もある。

  • そうした定住的・非平等主義的な採食民社会は多くの場合、水生資源に依存しており、その利用は人類史上、比較的最近(完新世初期以降)に発展した文化だと見なされてきたが、もともとは水生資源に依存していた沿岸や湖岸、河川沿いの環境に住む集団がのちに農耕民化したことで、より古い時代の利用が見過ごされている可能性がある。また近年では、後期更新世から水生資源が利用されてきたことを示唆する考古学的証拠も見つかっている。水生資源のみならず、マンモスやその他の大型草食動物が豊かで予測可能だった環境においても、不平等などが生じた可能性がある。

  • 後期旧石器時代から終末期旧石器時代のヨーロッパ各地では、豪華な副葬品を伴う埋葬が発見されており、これらは相続された地位や富を示唆すると主張する学者もいる。地中海周辺の「ネクロポリス」と呼ばれる埋葬は大きな集団、集中的な資源利用、より高い定住性を示唆してもいる。

  • 後期更新世のアフリカは考古学的証拠に乏しいが、それでも水生資源の利用を示唆する発見があり、完新世に移行してすぐ後には、半定住的な漁労採食民の証拠も見つかっている。中期旧石器時代以前には、社会的多様性の兆候を示すものが見つかっていないが、この理由としては、アフリカにおける考古学的調査が少ないこと、アフリカには優れた保存環境である洞窟が少ないこと、現在は過去の多くの時期よりも海面が高く、有望な遺跡が沈没または壊滅している可能性が高いことが挙げられる。しかし海面上昇の影響を受けなかった沿岸遺跡もあり、そのような遺跡の研究、あるいは水中考古学の技術向上によって、新しい発見が期待される。

 以上のような列挙において、その一部では『万物の黎明』やG&Wの論文も引用されており、全体としても、提示された根拠が『万物の黎明』と重なっている部分も多い。何より、数万年前やそれ以前から、人類は非常に多様な社会組織を形成してきたという主張だけを見れば、それは『万物の黎明』と同様と言っていいだろう。では、これはグレーバー(とウェングロウ)の洞察がさらに説得力を持って推し進められたということなのだろうか。

 この論文の著者らは自説を「多様な歴史モデル」と呼んでおり、それは「遊動性平等主義モデル」を否定するというよりも包含するものであり、後期更新世には小規模かつ遊動的で、比較的平等主義的な社会もあったが、それは広範な社会的多様性の一部でしかなかったと主張している。ここまでは『万物の黎明』と類似した見方だと言えるだろう。しかしながら、この著者らは『万物の黎明』とは異なり、採食民が生態系に応じて柔軟に異なる社会を構築する能力を持っているという生態学的な見方を採用して、それを後期更新世の環境の多様性に結びつけている。つまり先史時代の人々が政治的自意識によって、物質的条件から自由に様々な社会組織を選択したというようなグレーバー流の見方ではなく、むしろ物質的条件や環境要因を最も重視している。とりわけ沿岸の水生資源と定住性および不平等性が結びつけられており、これは「複雑狩猟採集民」に関する知見、あるいは同じイヌイットであっても、水生資源としてホッキョククジラに依存するか、シロイルカに依存するかによって、社会組織が異なったという知見にも通じるだろう。従って、仮に想定よりも遙かに古くから複雑な社会的多様性があったという見方をとるにしても、グレーバー(とウェングロウ)の見方は主意主義的・観念論的すぎて、学問的に支持される可能性は限りなく低いものと思われる。

 しかし生態学的な見方を受け入れた上でなら、より社会的多様性があったという洞察だけは生き残るかもしれない。つまり後期更新世やそれ以前にも、環境とそこから得られる資源の多様性に応じて、より定住的だったり、不平等だったり、大集団だったり、政治的に階層化されていたりする社会組織が多様に存在した可能性がある。とはいえ、上記の論文は考古学よりも民族誌に多くを依拠した推測であり、つまり後期更新世という遠い過去に対して、それよりも遙かに現代に近い時代の知見を外挿している。この点ではグレーバーと似た推論であり、まさにそれゆえに十分な説得力があるとは言い難い。

 この点に関して、とある人類学者・考古学者による2022年の記事では、まさに『万物の黎明』および上記論文に触れながら、制度化された不平等を伴う複雑な社会が更新世以前、おそらくは中期旧石器時代頃に出現したという、それらが主張するような太古の社会的多様性の可能性に対して、非常に懐疑的な見解が述べられている。(1)中石器時代に海洋資源が利用された定住集落があったことを示す明確な証拠はない。(2)古代の集団狩猟は季節的な出来事であり、常時の定住生活には繋がらず、おそらくは成功も散発的だった。(3)3~ 4万年以上前の、定住的な生活様式や制度化された不平等の兆候を示す証拠もない。(4)先史時代の大部分において、人類が遊動性の平等主義的な集団として暮らしていたことを示す証拠がある。(5)遺伝学的研究も旧石器時代の人類の人口規模がかなり小さかったことを示唆している。(6)旧石器時代の気候は変動が激しく、長期の定住生活には適さなかった可能性があり、ひいては遊動民の採食生活に有利だった可能性がある。様々な論文を引用しながら、このように反対の証拠を列挙した後、この記事の著者は、だからといって人類が根っからの平等主義というわけではなく、常に複雑な政治性や支配的な個人に直面しながらも、積極的かつ協調的な努力によって、平等主義的な社会生活は維持されるとも付記している。平等主義的というのは、あくまでそれ以前や他の霊長類と比較しての話だからだろう。

 結局、啓蒙主義とカンディアロンクに関してのかなり無理のある主張も含めて、『万物の黎明』におけるグレーバー(とウェングロウ)の主要な洞察にはあまり見込みがなさそうだ。もっとも、思想家とはインフルエンサーの一種だとすれば、その偉大さは知的誠実さや学術的厳密さでは測ることはできず、むしろどれほどの影響を及ぼしたかによるだろう。そう考えると被引用数の多さから判断して、やはり2010年代において、グレーバーは最も優れた思想家の一人だったとも言えるのかもしれない。

 あるいはひょっとして、ゼロ年代のメディア脳科学における茂木さんのような存在に近かったのかもしれない。しかし茂木さんの場合、出始めの頃は「将来のノーベル賞候補」と喧伝されることもあったらしいが、その後、次第にまったく異なった予想外の方向に全速力で突き進んでいき、現在では、Yahoo!ニュースなどでたまに話題を見かけると、コメント欄において「自分は脳科学のことはよく分からないが、この人は怪しいと思う」といった評価を受けている。これは知識のない一般の人々にとってさえ、茂木さんが知識人らしく見えないからこそ為せる業であり、まさにそれゆえにインフルエンサー学者のトップランナーとして、最も徳の高い知的誠実さを体現している。ある意味でのスター性はあるものの、ポストモダン思想家たちのように空疎に深遠ぶったり難解めかしたりせず、その知名度や肩書きで一般の人々を幻惑したり籠絡したりもせずに、自らの影響力を自ら骨抜きにするような振る舞いを通じて、学問とはまったく無関係なプレゼンスを示し続けながら、日本で最も有名な脳科学者の地位を長年にわたって維持している。その在り方はポストモダン思想家やその追従者たちは言うに及ばず、グレーバーよりも誰よりも、メディア時代の「公共知識人」として遙かに先を行っている。

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