【小説】『夜の残響』第一章「冒険は終わった」
ディスプレイに表示された「要廃棄リスト」にクマザワの名前が載っているのを発見すると、沙織はマウスを動かしていた手を止めた。カップを傾けてコーヒーの残滓を喉に流し込み、急速に乾いた口の中を湿らす。ありえない。一度深呼吸を挟み、ブラウザの更新ボタンをクリックする。画面は変わらず、「クマザワ:未済(警戒レベル5)」という赤い文字列を無機質に表示させていた。
勝手に進行していく心拍数の上昇をどこか他人事のように感じながら、震える手で本部に電話をかける。
「はい、こちらアブノーマル管理局です」
「あ、すいません実働部隊の水谷ですけど。クマザワはもう処分したと先日報告を入れたはずですが」
「ああ、水谷さんですね。少々お待ちください、今確認致します」
単調な中年女性の声が応えた後に保留音が鳴る。毎度の事ながら、こちらの身が割れているのに何故管理局の運営側は一切の個人情報を開示しなくていいのだろうと不満に思う。同じ組織内であるにも関わらず、沙織はまだ管理局の運営に携わる人間の素性を誰一人知らなかった。
「お待たせしました。クマザワですが、まだ廃棄済になってはいないようです」
「それは……まだ私のした報告が反映されていない、という解釈でよろしいでしょうか?」
「いえ、要廃棄リストに載っている人間は廃棄されると自動的にリストから削除される仕組みになっています。それは間違いありません。ということは、クマザワは確実に生きている、ということです」
中年女性は台本にあらかじめ記載されていた文言を朗読するかのように、一切の淀みなく淡々と応えた。
「そんな……じゃあこの間、私と月野先生が処分したクマザワは……」
しばらく間を置いて中年女性が応えた。
「考えられる可能性は2つあります。まず、単純な人違い。これは可能性が薄いですし、もしそうであった場合にはあなた達には重度のペナルティが与えられます。そしてもうひとつの可能性は、クマザワの謀略にあなた達が嵌められた、ということ。こちらの方が現実的な考え方ではないかと思われます」
沙織は短く息をつき、通話を切った。懸念が全くなかったわけではない。しかし嫌な予感に限っていつも見事に的中してしまうのは何故なのだろう。
暗い室内でぼんやりと発光するディスプレイを茫然自失と見つめている内に、沙織の頭は徐々に明晰さを取り戻していった。そして頭が明晰さを取り戻す、ということはネガティブな想像がより具体性を伴って膨らみ始めるということでもある。沙織は最悪の可能性に思い至る。いや、本当はどこか心の底では予測していたはずだ。それが現実になることを。それが起こり得る危険性を。
きっとクマザワは、『禁断の果実』を入手したのだーーーーーーー。
その妙な手紙を見つけたのは、沙織が大学二年生になってから間もない頃だった。平々凡々としたキャンパスライフを送りたくなくて、でもその凡庸さから逸脱するために何をすればいいのか思考する気力も行動する体力もいまいち無くて、中途半端に鬱屈とした日々を送っていた沙織にとって、もうそろそろ最低限の単位さえ取れば大学に無理して行かなくてもいいかなと思い始める時期だった。
サークルに入って青春を謳歌し、資格取得だのボランティア活動だのをしながら就職活動をして名の知れた大手企業に内定をもらい、最終的には将来の伴侶を見つけてめでたく卒業。恐ろしく退屈な想像力が行使された先にある、恐ろしく退屈な人生。人はそれを模範と呼び、理想の生き方だと称揚する。でもそのようにして世間に勝手に決められた理想のライフスタイルを暗黙のうちに要請され、生き方までもが自然と均一化されていった先に待つ未来に一体何の価値があるというのだろう。それだったらもういっそ全て放り出してゼロにしてしまいたい。そう思いはするものの、やはり自分の中に僅かながら残存している堅実性とか自己保身欲求とかがブレーキをかけてしまい、人生は容赦なく進む時間だけを除いてただ停滞するのみであった。
その日、沙織は同じ社会学部の友人である瑞希と花菜と一緒に並んでメディア学の講義を受けていた。彼女たちとは入学当初のオリエンテーションみたいなもので仲良くなって、定期的に同じ講義を受講している。
瑞希は健康的な日焼けボーイッシュ系、花菜は色白ぽっちゃりふんわり系だが、2人ともお世辞にも美人とは言えず、この2人と一緒にいれば多少は自分がマシに見えるだろうという最悪な思惑もなかったわけではない。自分がそんな他人を引き立て役にするような姑息で陰険な人間であることを認めたくなくて激しい自己嫌悪に陥った時期もあったが、誰一人友達がいない状態で大学生活を送るよりはマシだ、と強引に自己正当化することで無理矢理心を騙して納得させた。
メディア学の教室は大きく、300人ほど収容できるキャパシティなので初老の教授がマイクを使ってほぼ一方的に喋り続ける。当然後方の方に座っている沙織たちの声が教授の耳に届くはずもなく、周囲からは私語がまばらに聞こえる。隣に座っている花菜の奥から瑞希がこちらに身を寄せてきた。
「ねえ知ってる?この間ニュースになってた池袋の猟奇殺人事件あったじゃん。噂によると犯人ネクロフィリアだったらしいよ」とゴシップ好きの瑞希はなぜか嬉しそうに言う。
「ネクロフィリアって何?」と花菜が聞くと、「死体性愛。死体に性的な興奮を抱くんだって」とスマホの画面をスクロールしながら瑞希が答える。
「は?キモッ」
露骨に顔を顰める花菜を横目に口を挟む。
「瑞希、まだあのアカウントフォローしてるの?もうやめなよ、あんな低俗なの見るの」
「だって面白いんだもん」
瑞希の発するゴシップの情報源は主に「週刊望教」という名のSNSアカウントから得られている。このアカウントは沙織たちの通う望教大学を取り巻くゴシップネタを中心に投稿しており、どの講義が楽単だとか、どの教授がチョロいかだとか面倒臭いだとか、デマだか真実だかわからない内容のものが多い。中にはあのフットサルサークルはヤリサーだとか、誰も使っていない教室を使って学内カップルが性行為をしていただとかいう無根拠で低俗なゴシップもあり、沙織はSNSを使用こそするものの、このアカウントの存在は敬遠していた。
「ちょっとお手洗い行ってくる」
瑞希と花菜に告げて席を立つ。講義中であっても自分の好きなタイミングで席を外して咎められないのが大教室の利点だ。
「それ置いてけば?誰も盗らないよ、見ててあげるから」
花菜にショルダーバッグを指さされるが、肌身離さず持ち歩いてないと落ち着かないからと言って出口の扉へと向かう。
廊下を歩いてしばらくした場所にあるお手洗いに入り、用を足す。
トイレットペーパーを取ろうとしたところで異変に気付いた。ホルダーの間に白い定型の封筒が挟まっている。沙織はきっちりと挟まっているそれを少しだけ手に力を入れて取り出して点検した。宛名も差出人も書かれておらず、真っ白な状態だ。まさかお金が入ってるとかじゃないよね、と思いながら確認してみると既に開封された跡があり、上部が破られている。しかし中身を仔細に確認した形跡はない。確かめる術はないが、沙織の直感では中身は多分まだ誰にも見られていないだろう、と思った。いや、誰かが見たのかもしれないが、おそらくじっくり確認することはせずにすぐに戻したはずだ。中に入っていたのは三つに折り曲げられた便箋で、そこには小さい文字がびっしりと敷き詰められていた。
沙織は逡巡することなく、ほぼ無意識的にその封書をショルダーバッグの奥深くに用心深くしまった。
席に戻ると瑞希に「ずいぶん長くお花摘んでまちたね~、四つ葉のクローバーでも見つけちゃった?」と茶化されたので無視したら花菜が「拗ねちゃったじゃん」と言いながら頭を撫でようとしてきた。もういいから、と苦笑しながら花菜の手を振り払うと同時に、自分がいつも通り振る舞えているだろうかと少し不安になる。
一日分の講義を終え、帰宅してベッドに寝転ぶと、強烈な頭痛と眠気が襲ってきた。沙織はここ最近、寝不足に悩んでいた。2階にある自分の部屋にいても1階で行われている両親の口論が聞こえてくる。母親はヒステリックになっており、ほぼ金切り声に近い罵声を上げ、父親は怒気を含んだ声で母親の罵声に応酬する。その口論の発端は父親が引き出しを開けっぱなしにしたりエアコンをつけっぱなしにしたり、母親がスマホでネットニュースばかり見てる癖に家事をやる時間がないと八つ当たりしたりと、かなりしょうもないことであることが多かったが、そのしょうもない事象を発端としてこんなに深刻でピリピリした空気が流れてしまうという事実が沙織を途方もなく虚しい気持ちにさせた。
そういう喧嘩を聞くにつれ、自分は生まれてきても良かったのだろうか、子は夫婦にとって救いになるというのが世間のセオリーだが自分はむしろ生まれたことで夫婦の関係性を悪化させてしまったのではないかと暗鬱たる気持ちになった。そして何より、自分をそういう思考に至らせしめる存在の両親を恨めしく思った。
沙織にとって両親はずっと信用出来ない存在だった。5歳ぐらいの時に親戚の家で『千と千尋の神隠し』を観たら、冒頭の両親が豚になるシーンが怖すぎてわけもわからずに大泣きしたことがある。時を経て振り返ってみるとなぜ自分があんなに泣いたのか、なんとなくわかる気がした。自分が両親を通して薄々と感じていた大人の卑しさを、出来ることなら存在しないはずだと思いたかった大人の卑しさを、はっきりまざまざと見せつけられたからだろう。あの頃は自分の両親もこのままだと本当に豚になってしまうと思った。両親が豚になってしまったら自分はこの先どうやって生きていけばいいんだと本気で恐怖を感じていた。沙織は昔から、良くない方向に想像を膨らませることが得意だった。
それは今でも同じだ。二十歳に近い今でもまだ、夜にトイレへ行くのが怖い。それはお化けが出るかもしれないから、というような生易しい恐怖に起因するものではない。いつも、便器の蓋を開けたらそこに母親か父親の生首が転がっていないか心配になってしまう。夜中に喉が渇いても冷蔵庫を開けられないのは、そこに切断された人間の四肢が入っているのではないかという不安がよぎるからだ。そんなことはないはずだ、とわかっていながらも良からぬ妄想をしてしまうのは何かの病なのだろうか。
今回の手紙にも、それと似たような何か漠然とした嫌な予感を感じていた。関わるとろくなことにならないということはわかっていた。しかし、もし仮にこれが誰かから誰かへ向けた純粋なラブレターだとしたら、そしてそれが初めからわかっていたとしたら、沙織はその封書を持ち帰ることはせずそのままトイレに放置していただろう。純粋なラブレターのようなものでなく、そこに不穏な影を感じ取ったからこそ手紙を持ち帰ったのだ。
いつもしているような凄惨でグロテスクな妄想は、あくまで虚構の域を出ない。しかし今回は厳然たる現実なのだ。実体として目の前に突きつけられた不穏な影にはその身を委ねるべきだと、沙織の本能は告げていた。
ベッドから起き上がり、小型ピンク色のショルダーバッグの底から封書を取り出す。再びベッドの上に寝転び直して、三つ折りにされている便箋を広げると、上から下までびっしりと書かれた文字の羅列が目に飛び込んできた。沙織は朝起きてから慢性的に続いている頭痛に堪えながらその手紙を読み始めた。
今、きみがこの文章を読み始めた瞬間からすでに、きみはこの世界の中で誰よりも幸運で不運な『アブノーマル』ということになる。私はきみが誰だか知らないが、きみが『アブノーマル』の資質を持った人間だということだけは知っている。その資質を持った人間のみがこの手紙を手にすることが出来るからだ。運命という名の設計図にそう描かれている。きみはこの手紙を一読することで、私の『アブノーマル』を継承する。そうすることで私はようやく役目を終えることが出来る。正直に言って、私も最初の方はよくわからなかった。おそらく君もそうだろう。しかし大丈夫だ。時間はすべてを解決してくれる。気長に待てば必ず理解出来るはずだ。自然ときみの周りには仲間が集まり、同じ目的の下に協力し合うようになる。この世界に偶然は存在せず、ただ必然のみがある。ノーマルという概念が定義づけられる以上、必然的に『アブノーマル』が発生するように。さて、ここできみに断っておかなくてはならないことがひとつある。きみは知っているだろうか、人間の欲求というものは際限なくエスカレートするということを。ある一定の刺激に馴れてしまうと、さらに強い刺激を求めるようになるということは聞いたことがあるかもしれない。人間は誰しも欲求を持っている。食欲や性欲、睡眠欲……どれも比較的簡単に満たすことが出来るように思えるかもしれないが、その中でも厄介な欲求がひとつある。それが処罰欲求だ。人を罰したいという欲求は簡単には満たされない。罰される対象が罰を経て如実に自分の理想の姿へと変化することは極めて稀だ。そして大概の場合、相手側も罰を執行しようとする人間に対して処罰感情を抱く。処罰感情はそうやって積乱雲のように巨大化していき、やがて取り返しのつかない事態を発生させる。私は『アブノーマル』としてある人間の処罰感情を請け負い、ある人間を殺めた。殺めなくてはいけなかった、と表現した方が正しいだろう。その時点で私の長い冒険は終わった。しかしここが最終地点ではない。私の冒険は終わったが、きみの冒険はここから始まる。『アブノーマル』を継承する以上は私のように人間を殺めなくてはいけない可能性がある、ということだけ念頭に置いておいてほしい。すべては必然なのだ。文字通り生死を賭けた冒険になる。長くなってすまなかったが、最後にひとつだけ忠告しておく。クマザワという人物にはくれぐれも気をつけろ。奴は非常に危険だ。怪奇現象の無秩序さを無効化する力を持っている。虚構を現実に変換し、現実を虚構に変換する。運命さえも捻じ曲げ、自分の意のままに掌握出来る。そんな恐ろしい力を持つのは私が知る限りではそのクマザワと管理局の局長だけだ。いずれきみが見つけることになるであろう『禁断の果実』は絶対に奴に口にされてはならない。私は残念ながら『禁断の果実』との邂逅を果たすことは出来なかった。だからこそきみにこの冒険の続きを託すのだ。これは約束だ。『禁断の果実』はきみか、きみが本気で信頼している人間にしか持たせるな。この約束を守ってくれるというなら、早速きみにとっての「二度と戻れない場所」まで進みたまえ。私が授けた『アブノーマル』の力を利用すれば、そこまで辿り着くのにきっと苦労はしないだろう。
気が遠くなるほど抽象的で不可解な文章をすべて読み終え、沙織はしばらく呆然とした。眠気はほぼ無くなったが、その代わりに頭痛が鋭さを増していた。
雨雲が立ち込めていつの間にか暗くなっていた窓の外を見やると、こめかみのあたりがまるでロープで締め付けられたようにずきん、と痛んだ。
※この物語はフィクションです。