苦しみの色は千差万別
最近よく他のnoteユーザーが書かれた毒親やアダルトチルドレン関連の記事を読ませてもらっている。とりわけ関心を惹くのは親に過干渉に育てられたという趣旨の記事。
私自身が母親に過干渉に育てられたという自覚があるからだろう。
記事を読んでいると似たような境遇の人だったり、同じような苦しみを味わっている人がいたりして、悩んでいるのは自分だけじゃなかったんだと勇気づけられる…………なんて、そんな簡単にスッキリ片付けられる問題でもなく。
同じ悩みを共有出来たような気がしてポジティブな心持ちになれるのは嘘ではないけれど、やっぱりこんな苦痛を自分以外の人間も味わっているんだ、いや、味わわなくてはならなかったんだと思うとやるせなくなってくる。
中には私なんかよりもよっぽど過酷な家庭環境で幼少期を過ごしてきた方などもおり、文章を通じてその方の抱える葛藤や精神的不和を想像すると、悔しくてなのか哀しくてなのかはわからないけれど涙が出た。
ロシアの文豪トルストイは『アンナ・カレーニナ』にて「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という文章を遺している。
毒親関連のnote記事を読んでいると、まさしくその訓戒めいた言葉を痛切に感じずにはいられない。
みんなそれぞれに違った苦しみや悲哀を抱えているのだ。
しかし最近ではインターネット上で「弱者男性」という言葉が流布されていることからもわかるように、こういった「生きづらさ」を抱える人間を冷笑する風潮が形成されつつある。というかもう既に形成されているのだろう。
私はインターネットヘビーユーザーの陰湿さに辟易としながらもインターネットを使用し続けるというどうしようもないインターネットアディクション野郎だからなんとなくわかる。誰もが正論ぶっこいたつもりになって悦に浸りたい時代なのだ。
さて、そのようにインターネットで正論をぶっこいているつもりの連中は「自身の生きづらさを親に責任転嫁したり、精神的病理の所為にするのはただの妄執だ」という主張を掲げている。
ある文脈においてはそれは本当に正しいのかもしれない。覆しようのない厳然たる事実なのかもしれない。
しかし、その生きづらさの原因を真に突き止めるためには、まず生きづらさの責任の所在を明らかにしなければならないだろう。
トルストイの言葉に則るならば、大衆の意見ではなく自分自身の過去と境遇に向き合わなければ真実は見えてこない。
他人は他人の人生を生きているし、自分は自分の人生を生きている。
他人は自分の人生を生きてはいないのだから、自分の人生上で発生した問題について他人が解決することはほぼ不可能だろう。
それが精神的な、内的な問題なら尚更だ。
ということで、少しでも前に進むために私も自分自身の過去と腰を据えて向き合おうと思う。
どういうバックグラウンドを経て今の自分が形成されたのか、何が自分の精神の成長を阻害しているのか……もしくは何かに影響されている"つもり"になっているだけなのか。
答えは出そうにないが、多分これが今の自分にとって必要なことなのだ。自身の過去を掘り下げていくということが。
例によりまた長くなりそうなので、次のチャプターで詳しく述べることにする。
道標を示すような糸口は提示出来ないかもしれないが、どんな形であれ私のこの記事が同じような悩みや問題を抱えている方たちの力になれれば幸いである。
つづく