【基礎教養部】 自己にない視点を求めて-「ヤンキーと地元」
どのような人間であるにせよ,大抵の場合はその個人が持つ人間関係というものは意外に狭いものである.公立の小・中学校においては「学区に相当する地域に住んでいる」というだけで集められた人間が通うため,その子供及び家庭にはある程度幅は発生する.しかし,多くはペーパーテストによる選抜を経る高校受験の過程によって似たような境遇や環境を共有する人間と交友関係を築くことが多くなっていく.大学,及び就労を経ればその傾向がより顕著になっていく.
私は,高校は出身市において一番偏差値が高いとされている学校を卒業し,また修士課程までを関西の某大規模私立大学の理工学系研究科にて修了,現在は某国立大学の大学院博士後期課程に所属しているのだが,周りを見回しても会社等にて就業しているならば,比較的安定した職業に就いている.高卒からストレートで働いている人は知り合い含めても一人もいない.多くの人は大学へ一旦は入学している.
また,特に修士までに所属していた私立大学においては,中央値から考えると余裕があると思われる家庭出身の人が多かった.(学費の額を考えれば当たり前ではあるが)
当然ながら,趣味嗜好等も似通った人間が多くなる.現在所属している大学院博士後期課程は,国内どころか世界的に見ても読書冊数や知的受容,生産の機会などが多い集団であろう.学際融合的ではあるので,分野的には種々多様な領域を専攻する人間はいるのだが,そもそも学際融合なんて概念を考える人間は学術という狭い世界の中でも少数派である.
そのため,私は常に「私が今認識している領域は,世界もしくは社会の中でもごく狭い範囲のものに限られるのではないか?」という疑念を前提として生活し,頭の片隅に置いている.研究及び学術活動という営みは,ある視点を設定し議論が可能であること,そして議論を行うことと不可分であることから,私が現在有している視点以外にも他に様々な視点が設定できることを想定するのはある意味当然のことである.また,単純に新しい視点で語られる議論に触れることは,おおよそ興味深い事象も多い.
故に,私は立ち飲み屋などに赴き,そこで行われている会話へ耳を傾けるという活動を定期的に行っている.当たり前ではあるが,立ち飲み屋は私より歳を召された方が多く訪れている.年齢という区切りは,最も単純かつ強力な差異をもたらす視点の違いである.
最近では,大阪梅田に拠点を構えていることもあり,若い人が多そうな場所にも足を向けるようにしている.院生というのは世間的にはかなり特殊な存在ではあるのだが,大学院に長く在籍しているとしばしばそのことを忘れてしまう.同年代に近い人がおり,また大学から離れた場所に顔を出すことは私が置かれている環境の特殊性を思い出すこれ以上ない契機となる.
ただ,本書「ヤンキーと地元」にて扱われているような論説や記述は,そのような場に身を置かなければなかなか触れられるものではない.もちろん,ライターなどが取材した記事等も多く存在するのではあるが,やはりそれらは商業的要素や恣意性が介在しがちであることは事実であろう.その点,本書のような学術研究はそれらの要素が完全にないとは言えないが,比較的小さいと言える.また,本書のように10年単位のまとまった期間続けられることも,学術研究の大きな利点ではある.
ただ,本書は,感動や怒りといった,大きく感情を動かすような記述はほとんどない.ただ単に,「沖縄」という環境にて生まれ,建設業や風俗業といった現場で日々を生き抜く若者の実態が筆者の視点から淡々と述べられている.社会問題について扱った新書を複数読んだ経験のある私にとっては,想像の延長線上には存在する記述であった.
しかしながら,その記述の精緻さと丁寧さは脱帽するものがある.「パシリ」に徹することによって対象集団に取り入る姿勢を通じて筆者は参与観察を実施したそうだが,まさにその集団内部でしか知り得ないであろう実情が事細かに記されている.本書の執筆までにどれほどの時間と労力がかかったのか,想像が及びつかない.
そのような内容を誇る本書は,まさに「自信が持ち得ない視点」を擬似体験するのに相応しい書籍と言える.読む人によっては,今までの人生によって全く触れたことのない視点であろう.そういった一種の自己破壊のような経験を通じて,対象をよりよく理解できる.「社会」のような抽象的な概念ではなおさらである.
私は,本書がより多く世に喧伝されることによって,新たな視点を持ち自己が属していた環境を認識できる人間が増え,そして社会に対する議論が活発になることを願ってやまない.