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読書記録。~愛を求めて~

『家にいるのに家に帰りたい』
クォン・ラビン・著
チョンオ・絵
桑畑 優香・訳

書店に行って手に取り、一目ぼれした本。
この本を読んで、私自身の気持ちと愛を再確認しました。

そして、ずっと会えていない”片想いの相手”に会いたくて、悲しくなりました。

この本を読むと色々と思うところがあって、
思い通りに感想がまとまらないのが
もどかしいのです。

私の悩みなんて

もっと特別な理由やものすごい事情がなければ、心から悲しんではいけないの?
『家にいるのに家に帰りたい』p.36

テレビやSNSを観ていると、色々なニュースが飛び交う。
中には私の想像を超えるような壮絶な人生を歩む人もいる。
そんな境遇に遭って、それでも涙ながらに頑張る姿をたたえる人々。

頑張っている姿は憧れるし、勇気をくれる。
逆境にさらされていながらも試練を乗り越えようとしている人を、応援したくなる。

それなのにどこか、寂しくなる。

私が今まで背負ってきた苦労は、大したことないのでは、と。
こんなちっぽけなことで悩み苦しんだところで、こんなにも応援してもらえやしない。

些細なことでも深く傷つく私の経験は、こんなのに比べたら取るに足りないのではないか。

本当はそんなはずないのに…目いっぱい悲しんで、目いっぱい助けを求めればいいのに、
思わず応援したくなるようなメッセージ性のある報道を、心の底から応援できない自分が情けなくなる。

誰が何と言おうと、あなたが悲しいならそれはれっきとした心の傷。
それを他者の悲しみのせいで悲しめなくなる必要なんてないし、他者の心の傷を否定する権利なんて、誰も持ってはいない。

誰かにはささいなことに思えても、わたしには苦しく、しんどいこともある。自分のつらさを他の人と比べないで。「みんなは平気なのに、どうして」。そんな思いが、むしろもっと自分を苦しめる。
『家にいるのに家に帰りたい』p.32

自分が傷つきやすいばかりに、自分ばかりが苦しんでいると思っては、その度に自分自身をさらにを苦しめてでも自分を安心させようとしていた。
そんな過去の自分に向かって、その必要はないと語りかけられるなら…

失い、変わり果てたのは

「人生で大きな学びを得るのは、たいてい持っていたものを失ったとき。失くしたあとで悔いても、取り返しのつかないことがほとんど。 … だったら、いくつ大切なものを失えばいいのだろう。大切な者と引き換えに得るくらいなら、学びなんていらない。もうこれ以上、何も失いたくない。」
『家にいるのに家に帰りたい』p.139

親がどんなにか支えてくれたか。
思い描いていた自立がどんなに実現不可能だったか。
どんなに私には力がないのか。
それなのに、どんなに私は無理をしてきたのか。

そうしたことを思い知らされた時には、時すでに遅かったのかもしれない。

好きだった食べ物に手を伸ばすことができなくなっていた。
気兼ねなくお菓子をつまみ、美味しいと心から感じる幸せを失った。
大好きな料理を何のためらいもなく食べられる日は、もう来ないのだろうとさえ思う。

昔のような、食べてばかりの楽しい日々を失ったのが、どこか悔しくてならない。

私が幼い頃からずっとずっとダイエット中の母親は、
「できるだけヘルシーなものを食べよう!」と意気込んだり、
「最近わが家もがっつり食べられなくなったんだよね」と私に気を遣う日もあるけれど、
焼きそばやラーメン、肉をがっつり食べたい!と言うことがほとんど。

それを聞いて、ダイエット後の私は
「ありえない!ダイエット中なのにどうしてそんな発想になるの?ダイエットする気ないんじゃないの?」
と怒り狂っていましたが…

でも、変わり果ててしまったのは私のほうなんだ。
春巻きも、唐揚げも、ティラミスも、ドーナツも、全部大好き。
それを当たり前のように「あれ食べたい!」と言えた日が、私にもあった。

ダイエット以前に飲んだフラペチーノと食べたドーナツ。
太る怖さなんて無く、純粋に楽しめたあの頃。


なのにダイエットして、それがエスカレートしたせいで、そんな発想を抱いたらダメだって
そう思うようになった。

家族はなんにも変わっていない。
変わらず食べたいものを次々と挙げていっては、さっそく注文して食べている。

私だけがそれを失ってしまった。

会いたい人

すぐには会えないからこそ、「会いたい」という言葉の悲しさがわかった。会いたかった、さみしかった、愛していると言って。わたしのすべてが満たされるように。わたしを愛してると言って。
p.180

大学生活を始めて1年間で失ったのは、食べる幸せだけじゃない。
以前、片想いしていた人に会う機会や勇気さえも失った。

お気楽な雰囲気で、どこか笑わせようとしてくれる。
それなのに、必要なところで様子をうかがってくれて、
「暗い顔をしている」って指摘したときには、本当につらいことがあって。

コミュニケーションが下手極まりない私にも、親しげに接してくれる。
そういう仕事だから、と言ってしまえばそこまでかもしれないけれど、
それが営業スマイルだったとしても、
義理の優しさだったとしても、
私は馬鹿だから、本気で受け取ってしまった。

そんなあなたに、私はどんな顔をして会えばいいのだろう?
昔はお世話になったけど、巣立ってもなお、今更助けを求めていい相手ではない。
そんな風に思う。

「上手くいっているように見えて、実は大変です」って訴えたいのが本音。

それを言いに、わざわざ会いに行っていいのかは迷うけれど、

でもやっぱり、会いに行きたい。
そして、お世辞でも社交辞令でも何でもいいから、
私を認める言葉をかけて、それで私が満たされるのなら
それ以上あなたに負担はかけたくない。

私は愛されて育ってきたはずなのに、
その愛をどう受け取ればいいのか分からなかったから、
他者への愛の注ぎ方が分からない。

でもこの本は、そんな私の”不完全な愛”も”欠けだらけの愛の形”も認めてくれる。
こんな愛があってもいいんだ、と教えてくれる。

だから自分の愛の在り方を、せめて全否定はしなくても良いのかな、と
気づくことができました。

今月末には、一度好きな人に会ってみようかと思います。
もし会って話ができるのなら…上辺だけの楽しかった思い出についてだけ語るのはやめようかと。
片想いに過ぎないけれど、そんな本音が語れる相手がいることのありがたみを教えてくれる一冊でした。

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