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【コラム】ツキを信じないのは、運の尽き、かも?

はい。人生、ツキを信じていた方が愉しいです。私の自己都合な感想ですが。


かといって、スピリチュアル商法にお金を払うのは、愚策です。素粒子論や波動などの数学などをエセ解釈しては、いけません。数えるのにイトマがない程に、「科学の誤謬形成的借用」は多いです。お金儲けのために、尤もらしいことを。

ですが、これらに対して一々批判するのはナンセンスです。いくらでも、いつの時代も詐欺師は湧いてきます。

他人が何を信じようとも自由で、

問題は「それらを使ってタダ同然で大金を儲けようとする詐欺師」がいること。



これだけです。
ただ、必要なのは、科学的にあまりにも逸脱した根拠による不道徳な商売や、宗教学的に冒涜や不敬にあたる商売に対し、淡々と罰するべきではないか、ということ、本当にこれだけです。

未来の予測は、どう足掻いてもあくまで妄想であります。
ですが、この妄想や夢というのは、罪深くとも、人々に希望を与え、使い方を間違えれば絶望に打ちひしがれます。


妄想に遊ばれず、妄想で遊ぶというところで、「Optimistic Imagination(楽天的空想)」と「Pathological Obsession(精神病的妄想)」の違いでしょうか。どちらも、恐らく私が好き勝手に作った造語です。

ただ、上記の二つは、明確な閾値があるわけではなく、グラデーションの中で便宜的に閾値を決めるものです。

それは、
「西洋医学的な境界」か、
「宗教学的境界」か、
「社会風土・社会運用的なお役所的境界」か、
これらが、
『理数的アプローチ』か、
『文化的アプローチ』か、
により、大きく認識は異なることでしょう。


ここで勘のいい人はお気づきだと思いますが、「変人」「偏執病的」「精神分裂的」と規定しているのは、往々にして『社会環境とその運用』であり、
如何に「持続可能な民衆と社会の運用」という、政治的な側面とそれによる判断と、密接な関係性にあります。

例えば、
「この人はいい時代に産まれたね」と言われる人も居れば、
「この人は産まれた時代が不幸だね」と言われる人も居る、
というようなもの、これが典型例だと思います。


話は戻しまして、

『ツキ』
すなわち、人間ごときが理数で紐解きようがない「神様・仏様の作った、人間には解きようがない暗号」こそが、真の乱雑性であり、正直抗いようがありません。
予測が出来たら、それは末恐ろしいほどに、神がかっています。


「人間の考える理想的な乱雑性」というPseudoなRandomnessと、
実際の『真の乱雑性』は異なるということは、少し考えればわかる話です。
不思議なくらいに不幸な偶然が続くのも、それは現在の最新の確率論的最善手をとっていても、起こってしまうことが、「稀によくある」わけです。

コイントスが表と裏の結果が、同数になった時に恣意的に試行(思考)を辞めてしまいがちなのが、人間なのです。


とは言えども、どう足掻いても知りようがないものを知りたくなってしまうのは、ホモ・サピエンスという生体に組み込まれたツミとケラクに満ちた人間のきらいであり、
これに抗わずに生きるということは、これもまた無理難題であるという悲しい現実もあります。

例えば明日が、久々のレジャーならば、てるてる坊主にお願いしたくなったり、年始におみくじの結果を「初詣だけ」信じ込んだり、痛いの痛いの飛んでいけ〜、なんてものもあります。

これに、科学的根拠やエビデンスを求めるのは、大変野暮なものに見えます。


ツキを信じると、
自ずと超自然的で不可視的で明文化不可的な観念や存在をも、視野に入ることとなります。これを、一切合切誤謬の種として危険視することが、皮肉にも「確率論妄信」「統計の有意性妄信」につながることも、あります。

「科学は、カルトではありません」


さて、もう勿論不確定ではありますが、仮説的暫定的答えは出たと思います。
敵は、自身の盲信という名の思考停止や、前述の妄信を利用した悪辣な商売なのです。
これらが、敵なのです。

「あるかもしれないし、ないかもしれない。」
その姿勢こそが、クリエイティブで、科学のあるべき謙虚さであり、人生に愉しさを齎す基なのだと思うのです。
でも、この姿勢につけ込む詐欺師も多くいます。


なので、私は「ツキが存在するかの証明は出来ずとも、あるかもしれないしないかもしれない、だけど信じていた方が愉しい、でもそれは罪が伴う」という、暫定の結論が出た31歳男性の夢みがちな乙女というワケです。


はい。
そりゃあ、騙されやすい体質になっちゃうよなあ、オイラ。という、メタ結論で、この話を締め括ろうと思います。
拙文、失礼いたしました。

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