見出し画像

猫を食う人食わぬ人 3/3


 尾北は妻の具合が悪いと職場に偽ってふたたびの半休を取った。警察署へ出向いて生活安全課のフロアへ直行すると、昨日自分の訴えを聞いて調書を取った青服の取調官を窓際のデスクに見つけ、カウンターの係官の頭越しに「あの、刑事さん」と尾北は呼びかけていた。刑事という呼称が正しいかもわからぬながら、昨日は名刺の交換などしていないし、そもそも名乗られたかどうかも定かでなかった。窓際の青服の男はそれでも応じて顔を上げると、尾北を認めるなり表情をこわばらせるように見えた。やおら立ち上がり、奥へ回るよう手で合図して、昨日と同じ取調室らしい部屋へ案内した。
 青服は手ぶらで尾北に対座した。どころか、しばらくうつむいてからパッと顔を上げ、顎をしゃくって用向きをうながすという無言劇がもうこちらを軽んじている証左だった。昨日の親身な態度から打って変わったこのありようはなんなのか。面食らいながら、尾北の口調はおのずと難詰じみていった。
「それで警察官のお二人からは、きちんと報告を受けてるんですか」
「もちろん」
「今後の具体的な対応について、私どもには知る権利があると思いますが」
「対応もなにも、異常なしとのことでしたからな」
「そんなはずはない。妻も私も猫の虐待を目のあたりにしている。それに警察のお二人が訪問されたさい、隣家からなん匹もの猫が暴れる音を妻が聞いているんです」
「ほう、なん匹もの猫が。報告には上がっておりませんがね」
「ちょうど私どもの家との境の壁をですね、隣家側からガリガリと爪で掻くような音がいっせいにしたと妻はいっているのですよ」
「猫が爪で掻くような音、ですか。それ、憶測ですか」
「憶測です。しかし異音であったのは事実です」
「うーん。それだけでは私どものほうではなんとも。異音が聞かれたのはそのときだけですか」
「そのときだけのようです」
「そうですか。今後、毎晩のように続いて眠りを妨げられるとかであれば、改めてご相談いただきたい」
「あの、なんなんです、昨日とは人がまるで違うみたいなこの冷淡ぶりは。昨日はもっと真摯に、親身に対応してくれたじゃないですか。相手は残忍な猫殺しなんですよ。私らの目の前で猫の腹を掻っ捌いてはらわたを盥に受けてみせるような連中です。そしてそれを煮込みにして人に食わそうとするような鬼畜なんだ。普通じゃない。異常だよ。神戸連続殺傷事件の犯人は猫に損壊を加えていたというし、佐世保女子高生殺害事件でも加害者は猫殺しだった。猫を殺すことと犯罪には相関関係が認められる。素人の私であっても知ってるような知識だ。平気で猫を殺すような連中が隣家に越してきたとなれば、穏やかではいられないのはわかろうというものです。こちらにも子どもがいるんですから」
 尾北の募る激昂に対して、青服は顔色ひとつ変えなかった。尾北の弁が一段落してからやや間があって、青服は深々と嘆息してみせたが、その口元にはかすかな嘲笑が浮かんで見えた。少なくとも青服は、時間を持て余していることを隠そうとはしなかった。
「あのね、尾北さん、だったかな。あの方たちだってね、立派な市民なんです。きちんと納税もされてるし、猫の殺し方はどうでも、しかるべき資格を得て、それを生業なりわいとされている人たちであるとは調べもついた。聞くところによると、あなたたちは引越し祝いの特別な儀式とわかって、当日はその場に居合わせたという話じゃありませんか。無理矢理見たくもないものを見せられたというのは、この場合当たらない。彼らにしたところで、猫を殺すところを見せ物にするような人たちではないし、あなたには理解し難いのかもしれないが、その生業にしても、我が国の経済のなかで古くからきちんと市民権を得たものなんだ。それともなにかね、尾北さん、あなたは屠畜者一般に対しても、同じように振る舞うというのかね。そもそも、動物の殺傷と犯罪の相関関係をことさらにあげつらうというのは、それだけで重大な偏見を構成するものと考えられますがね。それとも、あなたには、猟奇的殺人者らと同じく、あの方たちが快楽的に猫を殺したとする確証でもおありなんですか。どうなんです」
 尾北はなにも答えられなかった。
「あなたのような偏見の持ち主の妄想にかかずらうほど警察も暇じゃないんです。尾北さん、いまはなんといっても多様性の時代でしょう。自分が気に入らないからと公権力を後ろ盾にそれを排除しようなんて、いまどき流行らないよ。こんなこと、SNSにでも漏れてごらんなさい、あなた、炎上して吊し上げられた挙句、職を追われることだってあるかもしれないんだよ。気をつけないと。それがどんな人であってもね、隣人を受け入れる。認める。そういう時代なんですよ」
「家畜とペットは違う。ペットはいわば家族の一員だ。ペットとして容認された生き物をいたずらに食うのは、だから間違っている。こうした倒錯を排除するのは、むしろ社会の責務でしょうよ」
「最近は豚をペットにする人もいるらしいじゃないですか。しかしその豚と、食肉用の豚はおのずと違うのじゃないですか。その区別もつけられない人間こそ、危険なんじゃないのかな。あなたのお飼いになる猫と、あの人たちが食肉用に育てる猫とは、別物に決まってる。それが混同されるようじゃ、尾北さん、あなた、警察署に駆けこむ以前に、しかるべき病院で診てもらうことをお勧めしますがね」
「受け入れるってなんだ。認めるってなんだよ。そこにあるアブノーマルに対して、見て見ぬ振りして過ごせというのかよ。なぜノーマルの側が我慢を強いられなくちゃならんのだ」
「だから、尾北さん、言葉にはくれぐれも気をつけて。ノーマルかアブノーマルかは、あなたの主観でしかない」
「受け入れる? 認める? 猫食を賛美せよというのか。賛美しないまでも、猫をふつうに食えとでもいうのか。挙句は、今日の夕飯からでも猫肉を食卓に供して、子どもたちにも食わせよと、そういうことなのか」



🐈‍⬛




 警察署を出た尾北は、その足で職場へは赴かず、いったん帰宅することにした。あまりといえばあまりな警察の対応の理不尽さについて、妻に聞かせでもしなければ、とてもこの憤懣は収まりようがないと思われた。
 こんなことでまさか自分が孤立無縁に陥るとは思ってもみなかった。偏見。多様性。主観。なにをいってやがる。証明不要の定理のようなものが「ふつう」というやつだろうよ。人を殺さない、親兄弟と性交渉しない、人のものを盗まない。みんな「ふつう」だろう。これを逸脱すれば例外なく「異常」だ。人間社会はそれを許さない。この線引きによって社会は社会たり得ている。いうまでもないことだ。その延長線上に猫食いを許さないというふつう=常識がある。あるはずだ。ともかく俺は嫌だ。それがたとえ文化であれ伝統であれ、猫を食うというその行為がまず生理的に受けつけられないし、人並みの教育を受け、人並みの倫理観やら正義感やらしか持ち得ない俺において、だからそれは「悪」にほかならない。俺の主観といわれればそうに違いないが、社会の総意に沿った主観であるという点で、その無色透明ぶりは客観と同義だろう。つねに主観でもって社会に対峙し、日常生活を営んでる人間がどれほどいるものか。凡人なんてのは、人様の借り物を着て、思考しているつもりになってるのが大半だ。主観なんてそもそも怪しいもんだぜ。生理的嫌悪以上の普遍的な指標があるなら、ぜひ教えてもらいたいものだ。

 ふとスマホを覗くと着信が五件あった。いずれも妻からだった。留守番電話が一件吹きこまれていて、妻の声が次のように伝える。
《子どもたちが学校に来ていないと先ほど学校から連絡がありました。警察にも連絡しました。早く戻ってきてください》
 ことの重大さに比して妻の声の恬淡なのを尾北はいぶかった。訝りながら、かえってそれがリアリティをもって迫るようで、尾北はこれが夢見であることを願ってふと目を閉じてみる。

 往来に面してある車二台を停められるスペースに自転車で躍り出ると、そこから四段のきざはしを降りた先にある借家の前庭の人だかりが尾北の目に飛びこんだ。隣家の太鼓腹が玄関先で、先日と同じステテコとランニングシャツといういでたちして濁声でなにやらさかんに指示している。右手には例の柳刃包丁が握られていた。指示される者らの数は先日の倍はいるようで、こないだ横たえられていた柾目の板よりよほど長いのが、男の足元に据え置かれようとしていた。白木の表に、しゃがんだものの一人がバケツから水をぶちまけると、それをまた別の者が両手に持った榊で払っていった。傍でこれまた先日より大きな金盥の内を、三人がかりで束子たわしで磨いている。玄関の扉のすぐ前には黒檀の古風な安楽椅子が出してあって、性別のつかないしわくちゃの年寄りが深々と腰かけていた。
「やあ、ご主人。今日はまた、お早いご帰宅で」
 男がいって笑った。これに尾北は応えず、自分の家の玄関の扉に一目散に飛びつくと、鍵を回そうとして施錠されていないのを知る。
「おい、帰ったぞ。子どもたちは」
 妻は食堂の卓に向かって座りついて、両手で顔面を覆っていた。嗚咽するように見えた。
「泣いていてもわからないじゃないか。子どもたちの居場所はわかったのか。いったいどうしたんだ。なにがあった」
 妻の肩を揺すると、ごめんなさい、と叫んでそのまま卓上にうっぷした。
「おい。どうしたんだよ。なにがあったんだ」
 顔を上げる気配のない妻に業を煮やした尾北は、いい加減にしろ、と怒鳴った。妻の嗚咽は止まない。警察、とふと尾北は思いついて、
「で、警察は、なんて。向こうから連絡は」
 これにも妻は応えない。居ても立ってもいられず一通り家のなかを見回ってから、取るものも取りあえず尾北は玄関の扉を開いて前庭へ出た。自転車で学校まで行こう、その道々で会う人会う人に尋ねることにしよう。子どもたちが家を出てから、まだ二時間と経っていなかった。
「ご主人。どうしたんさね。そんな、血相変えて」
「子どもが、子どもがいなくなったんだ」
「子ども?」
 すると、足元でしゃがみこんで黙々と作業する連中が、いっせいにくつくつと笑い出した。
「なにがおかしい」
 尾北は激怒した。
「まあまあ、尾北さん、落ち着きぃって。お子なら、こっちゃで遊んどる。準備できましたんなら呼びますけえのう」
「なんのことだ」
 年寄りの安楽椅子のうしろへ回りこんだ尾北は、隣家の玄関の扉のノブに手をかけた。彼を制止するものは誰もいなかった。扉を開くと、刹那、ザリザリザリザリザリザリザリザリザリ……と異音が文字通り目前に迫った。見ると、上り框から先の壁という壁に老若男女が両手をついて、頭の天頂部分をぐりぐりと壁に押しつけているのだった。なかにはランドセルをしょった子どももいれば車椅子に乗った年寄りもいる、スーツ姿の中年の男女もちらほら見えるし、制服の警官まで二人混じっていた。
「パパ!」
 聞こえて振り向くと、隣家の正面の、北側のまた別の隣家のブロック塀とに隔てられた細い通路に、見るからに屈強と見えるいずれも猫顔の大男らが等間隔に相前後して、尾北の子どもと思しきを、一人ひとり両腕に抱きかかえて立っているのだった。子どもたちは皆こちらを背にしているので顔は見えない。
「パパ、おかえり! お隣りさんち、すごいんだよ、猫だらけなんだ。美男美女ぞろいなんだ」
 尾北は次女の名を呼び、こちらへ顔を向けるよう命じた。しかし次女はそれには応えない。
「ほんとにすごいの。みんな賢い猫ばかりで。人間のことばがわかるのよ」
 尾北は長女の名を呼び、こちらへ顔を向けるよう懇願した。しかし長女は応えない。
「あんたらのやってることは立派に誘拐だ。このままで済むと思うなよ」
 尾北は太鼓腹の男を指差して凄んだ。男は動じるどころかくっくと笑い出し、しゃがみこむ者らもまたこれに唱和した。
「パパ、この人たちはぼくらを誘拐してないよ。ママがぼくらを学校に呼びにきたんだから。大切な行事に参加しなくちゃならないからって」
「うそだ」
 尾北は長男の名を呼び、こちらへ顔を向けるよう哀願した。しかし長男は応えなかった。
 ところで次男は。尾北が次男の名を叫ぶも応じる声はなかった。長男、長女、次女に次男の所在を訊いても、彼らは振り向きもしないしことばで応じもしなかった。
 妻を呼びにいく。玄関の扉を開くと式台に妻が裸足で立っていて、あいかわらず両手で顔面を覆って肩をひくつかせている。次男はどうした。訊いてもかぶりを振るばかり。殴りつけたい衝動をかろうじて抑えつけると、尾北はすぐさま作戦を変更したもので、くるりと向きを変え、隣家の世帯主のほうを見やると、その場で両膝両手をつき、額を地面に擦りつけながら嘆願した。
「どうか、どうか子どもたちにだけは、なにもしないでください。お願いします。子どもたちを返してください。なんでも差し上げます。だから子どもたちは無事返してください」
「奥さんも、そろそろ始めるから、ご主人の横に並ばれい」
 男が胴間声で催促すると、尾北の妻は素直にしたがうようだった。
「やってますな」
 別の方角から別の男の快活な声がして、尾北が見上げると、果たして先刻まで彼が対峙していた警察署の青服が四段のきざはしの上に立っていた。
「尾北さん、あなた、隣人を受け入れるとはなにか、隣人を認めるとはなにかと、先ほどはお問いになられましたな。その切実さに私もひとかたならず打たれたものですわ。こいつは一肌脱がずにいらりょうかと。ここまでする警察もなかなかありませんでしょうよ。いわば市民の啓蒙ですな。多様性のなんたるかをわかっていただかないと、この先あなたもなにかとご苦労されると思うのですよ。これもいい機会だと思って、たんと学ばなければなりません」
「どうか、どうか、子どもたちには危害を加えないでください。この通りです、お願いします。次男をいますぐ返してください。次男はどこなんです」
「多様性の受容に私利私欲は禁物ですぞ。なにがあろうと、感謝の念を忘れちゃいかん」
「刑事さん、子どもが拐われたんです。なんとかしてください。後生です、どうか助けてください」
「もちろん助けますとも。助けようと思うからこそ、私もこうして馳せ参じたわけですよ。まだおわかりにならないかな」
 するとどこからともなく人の湧き出して、気がつけば尾北とその妻は、大勢の老若男女の組む円陣の中央に位置しているのであった。集う人らの顔は皆ことごとく同じ猫顔。
「ほな、持ってらっしゃいよ!」
 胴間声が叫ぶと、開けっ放しになっていた隣家の玄関(あいかわらず男ら女らの、壁に頭をこすりつけているのが見えている)から、今朝見た次男の服装と同じなりをした少年らしきが朱塗りの高坏を捧げながらしずしずと現れて、尾北と妻の前までくるとそれを地面に恭しく下ろした。次男かどうか確認しようにも妙にリアルなビニル製の猫の面をつけており、名を呼びかけても案の定返事はない。返事の代わりに少年が手元で鳴らしたのは、尾北の家の三毛猫のつけていた、鈴つきの首輪だった。
 少年はみずから太鼓腹の世帯主のところまで進み出ると、しゃがむ者らに黙って後ろ手を縛られた。これをむんずと掴むと、世帯主は少年を傍へ引き寄せた。柳刃包丁を振り上げると、これを前方へ差し出して、高坏の上に置かれてあるものを指し示す。
「騙されたと思って食うてみなはれ。口に合わなければ私らの負け」
 尾北はあられもなく泣いているのだった。涙と鼻水がとめどもなく流れ出るのだったが、鼻水はどろりとして黄色く、甲殻類か貝の類が奥で腐ってるかのような悪臭がした。ちくしょう、ちくしょうと呟いていた。妻の顔を拝んでやろうと横を向いたものの、涙で霞んでなにがなにやら判別がつかない。いまのいままで土を鷲掴みにしていた両の手のひらを開くと、涙やら鼻水やらを拭っているのか、泥土を顔に塗りたくっているのか、自分でもわからないようになっていた。
 くいなはれ
 はよ、くいなはれ
 たべちゃいたいくらい
 かわいいとは
 おまえじしんが
 いったんじゃないか
 高坏には上等の塗り物が二つ載せられてあり、ゆらゆらと湯気を上げていた。妻が先に手に取った。尾北の手の震えは止まず、危うく取り落としそうになる。
「どうか、どうか、子どもを……」
 いいながら、椀の縁を口に当て、まずは啜った。二口、三口と啜ると、箸もないこととて、素手でなかの具を摘み出して口に含んだ。肉離れがよく、たちまち芳醇な味わいが口中いっぱいに膨らんだ。図らずも尾北はやめられないようになって、具を口に含んではミがすっかりなくなってもしばらくちゅうちゅうと音を立てて吸いつきしゃぶる始末、横を見れば妻も夢中になって貪り食っている。二人のさまを見て、衆人らはさも愉快げに笑う。

 泣きくずおれる尾北は、嘔気に堪えながら、旨い、旨い、と呟かずにはおれなかった。旨いから泣いているのか、絶望して泣いているのか、あるいは安堵して泣いているのか、もうなにがなにやらわけがわからない。





いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集