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天音

 駅前の古道具屋で北木は風変わりな品を買った。

 前々から気になっていた店だったが、彼の朝夕の通勤時に開店営業していることはなかった。仕舞屋(しもたや)でないのは、夜に奥の帳場のテーブルライトが灯ることから判じられた。このごろは終電間際の電車で帰宅することも少なくない北木は、ときおり店のなかを覗き込んでは、鈴蘭を模した薄ピンクのガラスのシェードがあたたかな明かりを広げて周囲の古物をほのかに照らすのを、なにやら懐かしいもののように眺めることがあった。

 巷間に感冒の流行るという。ほとんど時候の挨拶のように方々でそのように耳にしながら、北木もまた勤務中に悪寒にさいなまれたもので、大事をとって会社を早くに退いた。それでようやく例の古道具屋が営業するところへ行き遭うこととなった。
 やや朦朧としながらも、迷わず店内に入り、古物を仔細ありげに物色して、気が済んでの帰りしな、とある品が目に触れた。桐の薬棚の天板に無造作に置かれた二枚の丸い金属を、始め北木は文鎮と見た。まず目を引かれたのはその表に施された細かな彫金で、ぐるりを取り巻く八つの絵柄は、意味ありげな象形文字に見えた。中央がやや盛り上がり、中心には穴が開いて、そこに革紐が通されて、二つは結ばれてある。お猿のシンバルのようでもあるが、五ミリほどの厚みがあり、手に取るとずしりと重かった。

「ティンシャです。別名をチベタンベルといいますかな。最近ではヨガのリラクゼーションにも使われるそうですな」
 いきなり奥から声が立って、見れば帳場の向こうに白髪の老紳士が控えている。店の主人であろう、白髪を油で七三に撫でつけ、洗い立てのワイシャツの白は目に眩しいくらいで、ループタイの七宝の青がまた目に鮮やかだった。熱に浮かされて気がつかなかったのか、はたまた古物にすっかり泥んでその存在自体が埋もれていたか、いずれにせよ北木は老人の場違いといえば場違いな清潔感とあいまって、モノノケでもそこに見るように瞬時ギョッとなった。そんな彼にお構いなく、老主人は蘊蓄を傾ける。
「紛い物が出回っておりますが、そいつは本物です。チベットの僧侶がじっさいに使用していたものの出物ですな。セブンメタルといいましてな、宇宙を表す七つの金属の合金でできている。太陽を表す金、月を表す銀、水星を表す水銀、金星を表す鉄、火星を表す銅、木星を表す錫、土星を表す鉛」

 革紐を両手に持って二つの金属を水平にしてぶら下げ、縁と縁とをそっと触れてみると、かすかに発した音はかすかななりに部屋の隅々まで隈なく染み渡るようで、その刹那、北木は頭上に怖いようにも青い蒼穹の広がるのと、牛の背のようになだらかな起伏が向こうへ打ち寄せて、その襞と襞との合間に雪眉の山嶺の聳えるのとを幻視した。

 なおも古道具屋の主人の蘊蓄は続く。
「じつにいい音だ。妙音でもって魔を払う。あるいは邪念を払う。洗心とは、まずもって耳からですな」



 ティンシャはさっそく子どもたちの格好のおもちゃになる。熱臭い床のなかに丸まりながら、北木は子どもたちによって打ち鳴らされるその澄んだ音を、空気の割れるそれのように夢うつつに聞いていた。じき妻が、パパがお熱で寝てるのよ、と子どもたちを嗜めた。声を低めても、妻の叱言のほうが、よほど眠りを妨げる。
「これは仏具といって、仏さまをお呼びするものだから、むやみやたらと鳴らすものじゃないの」
「ならしたら、ほとけさま、みえるの?」
 未就学児の次女が訊いている。
「鳴らせば見えるというものではないの。真摯で無心な祈りであれば、仏さまもお姿をお見せになるかもしれない」
「しんしって?」
「マジメってこと」
 小学生の長女が引き取る。国語の時間に蝶の助数詞を先生から尋ねられ、「頭」と答えたら「匹」と訂正されたについて遺恨を残すような娘であった。
「むしんって?」
「よこしまな考えを持たないこと。人を傷つけたり、自分だけが得をするような考えを持たないこと」
「じゃあ、しんしでむしんないのりって、たとえば?」
「世界が平和でありますようにとか」
「びょうきのこどもがいなくなりますようにとか」
「そうそう」
「パパのかぜがはやくなおりますようには?」
「もちろん、真摯で無心だよ」
 それから二、三度また澄み渡る音を耳にして、北木はいつとも知れず寝入っていた。

 真夜中に、ティンシャが鳴るように思って北木は目を覚ました。いや、目を覚ます間際まで意識はないのだから、その音を聞いたと断言するわけにはいかなかった。ふいに眠りが破れて、いつになく間合いの短い拍動を、悪夢のせいか熱のせいかあるいは薬のせいかといぶかりながら、夢見の悪さだったにしてもその内容をいっかな思い出せず、やがて夜目が利き始めると、ティンシャの音の余韻が極小の金色の弓矢のごとく、天井の対角線上を蝸牛の歩みでもって等速直線運動するのを北木は視線で辿るようだった。
 そうこうするうち、眠りにふたたび落ちかかって、今度は意識のあるうちに耳に触れた。あるかなきかの幽けさ(かそけさ)ではあれ、それは間違いなくティンシャの音だった。
 翌日も熱は完全には引かなかった。真夜中に音がしなかったか尋ねるも、妻は知らないといった。ティンシャを鳴らしたかどうかは尋ねるまでもない。子どもたちが、といいかかって、あのようにも眠りの深い子らが、夜更けに目覚めるとはちょっと考えられないと北木は思い直した。夜中に音がしたの、と妻が訊いてくるのへ、いや、熱にうなされていたのだと思う、と北木は濁していた。

 高らかに澄み渡る音が、発音体を中心に同心円状に魔を払う。いかにもありそうなことだ。聖地まで何千キロという道のりを、埃まみれの巡礼者が五体投地を繰り返しながら遅鈍に進む。見通しを問われれば、来年のいまごろには、と答えて屈託ない笑顔を見せる。直立の姿勢から両膝をつき、荒い布地の分厚なミトンをはめた手で二拍手してから、それを地につけて前方へ伸べ、完全に地にうつ伏せになる。そこからまた立膝になり、直立する。これを延々繰り返す。時速に換算して一キロを満たすかどうか。気の遠くなるような営為だが、だからこそ無心になれるというのはあるのだろう。そうであっても、ズルをする、怠ける、挙句は諦めるといった、魔の誘惑に駆られること皆無とはまず考えられない。そんな折々に、はるかなる眉雪の山嶺群に対座して、懐より取り出した銀色の重たな鳴り物を高らかに鳴らす、そして耳を澄まして洗心するということは、やはりあるのかもしれない。
 しかし棄捨を厭わぬはずの清貧の巡礼者に、あの高価な鳴り物はいかにもふさわしくなかった。在家の信者に似つかわしい姿があるとすれば、蟹やらフジツボやらその他の寄生虫の棲家となり果てた穢らわしい甲羅を背負って力なく大海を漂う憐れな海亀であるだろう。懐よりティンシャを取り出して鳴らすのは徒歩の弟子であり、それも清潔な蓮台に担がれた高僧の命令によるものであって、衣食住足りた驕慢者の旅の無聊を慰めるための、音の甘露のようなものかもしれなかった。

 しかしまたいっぽうで、北木は音による召喚という側面をも想像せずにはいられなかった。というのも熱から解かれてからのちも、深更に金属音のひと筋に渡る感じ、というか、それの尾を引く余韻に眠りの破られること度々で、その都度邪鬼どもの尻端折りして退散する絵を頭に思い描きつつ、同時に五体投地をふざけて真似ながら音源へと押し寄せる魔物らをもまたイメージされたからである。イメージに留まらないのは、音がしたと怪しまれてからの家のなかの気配というか音をともなわない空気そのもののざわめきのようなものが、次第に洗われてなくなるどころか、家じゅうに満ちて飽和するのをまざまざと感じるからだった。飽和する感じには、北木の全身は知らず総毛立った。



 休日の遅寝から目覚め、部屋を出る前にふと扉越しに外をうかがう気になってしばし耳を澄ましていると、どうやら来客のあるらしく、居間のほうが賑々しかった。
 この家には珍しいことだった。
 親族ならどうでも、妻の知り合いなら起き抜けのむさい軀を晒すわけにもいかないので、小綺麗に身仕舞いしてから居間へ顔を覗かすと、見知らぬ一家の昼餐の最中で、子どものひとりが、や、幽霊! と叫ぶなり、何人かが腰を抜かして椅子から転げ落ちた。一家の主人と思しき壮年の男が上座より立ち上がり、なにやら大声で凄みながらテーブルを迂回してくる。北木は北木で驚いて自室に引き下がり、間一髪のところで扉の鍵を回した。向こうから激しく扉を叩かれると思ったが、嘘のようにしんと静まり返った。
 小一時間もしてから寝床を這い出して部屋の扉を恐るおそる開いた北木は、居間を覗いて妻と子どもたちの昼餐するのに出会した。あなた、ぐっすりお眠りでしたから、と妻は夫を起こさず先に食事にしたことの弁解をした。君たちは、朝からここに、と北木が問えば、はい、朝からここに、と妻は答えた。

 また別の朝には、朝日に輝ける庭を我が物顔で巡る和装の男の姿を寝床にいながらカーテン越しに見た。
 北木が妻と子らと五月の連休中に拵えた菜園は、十一月の声を聞く前に胡瓜も玉蜀黍もすっかり取り払われて、仕舞い忘れた女竹の支柱が無惨な印象だった。なおいっそう荒れ庭然とさせるのは、いまだに花をつけるからと放っておかれたオクラが数株、女竹の支柱を背に子どもたちの背丈を超えてなお旺盛に繁茂するからだった。十月初めに台風の接近にともなって吹いた大風に株は残らず中折れして、しかし折れたら折れたなりにまた花をつけ実をつけて、九月十月と我が家の夕餉の卓にオクラの上らない日はなかった。それも朝夕に寒風の吹くこのごろでは、ハイビスカスに似た碧差す黄色の可憐な一日花をこぞって写真に収めたのもいまや昔、花も実も長らく放擲され、実にいたっては毛筆ほどの長さになり皮も分厚で光沢があって剣先のような危うさを孕んで、煮ても焼いても筋は硬いままでとても歯の立つ代物ではなかった。

 オクラの花を、和装の男は仔細ありげに眺めていた。淡茶の着流しに紺の角帯締めたその男は、髭の剃り跡すら見えない肌の滑やかさで、髪も綺麗に刈り込んで清潔そのものである。歳はいって四十半ば、北木より若いようでもよほど働きもあり分別そのもののようで、自分があのように庭をうろつきなどすれば、どこか所在なさげでともすると盗人染みるはずと自嘲する。と、窃視する側から見て上手(かみて)よりおかっぱ頭の和人形のような娘が飛び出して、男の胴にしがみついた。男が娘を抱き上げて、オクラの花を指差してなにをか耳元にささやく。植物全般にさえ明るい教養の深さ。そして表情にあらわれる柔和さ。羨ましいことだと眺めていると、突如頭上に轟音が響いて見上げれば、軒の端に斜めに切られた明け初めの空に機影の一部がぬうと現れた。
 ジュラルミンの腹が朝日を受けて照り輝く。無数の鳥が尾翼にまとわりつくと見えた黒い点は、みるみる機影を離れて降下し、中途で弾けて四散するとそれぞれから襷状の吹き流しがするするっとまっすぐ上へ伸びたかと思うと、北から南へ風に煽られて緩い弧を描いた。風切音がはっきりと迫って、ぱっぱっ……と次々に襷に引火すると、炎の尾を長々と引くさまは、さながら火の雨の降りかかるものと見える。思った以上の緩慢さで落下するとは見えながら、黒い点に過ぎなかったものが輪郭もあらわになり、その禍々しい正体が手に取るように把握された直後には、映像の早回しのような唐突さでそのうちの一つが庭を挟んで向かいの家の瓦屋根を直撃した。バンッと、これは金属の容器が内圧で破裂する音がして、思いのほか高い音だとあらぬ感想しながら呆気に取られていると、周囲にゼリー状のものが飛散し、それを引火したマグネシウムの閃光が追いかけて、あたかも火だるまになった獣が方々へ駆け回るように見えた。濛々と上がる黒煙。ガソリン臭が部屋のなかにいても鼻をつく。庭を囲んで三方の隣家よりたちまち火の手が上がった。ぱちぱちと木材の爆ぜる音。虚空を舞う火の粉。そう遠くないところから叫び声がする。誰かが誰かをしきりに呼んでいる。着流しの紳士とその娘は無事かと目を走らせると、黒煙の切れ間に幸いにして娘を胸に掻き抱いてかばう男の無事の姿があった。男が目を剥いている。焼夷弾の脅威におののくのではない、その視線は部屋の内から庭をうかがうほかならぬ北木の姿をとらえて、それで恐怖するのだった。

 北木の住まいは古い貸家で、契約時に竣工年が昭和一桁の記載になっているのを見て、驚いたのはほかでもない不動産屋だった。古い家のことだから、これまでに何世帯となく人の住まったことだろう。場所柄から、もとは農家の母屋だったのではないか。白昼夢のようにして家のなかで見る人々を、いつか北木はこの家の過去の住人と思うようになった。このごろでは、便所へ入ろうとすると塞がっていて、家人の誰かと思って控えていたら、家には北木ひとりだったなんてことはざらだった。夜中に風呂に浸かっていると、浴室の磨りガラスに顔を近づけてこちらをうかがう人影が茫と浮かぶが、妻や子どもたちのシルエットではない。誰もいないはずが、隣室で話し声がする、戸の開け閉ての音がする、挙句は飼いもしない猫だか犬だかの駆けずり回る音が賑やかに立つ……。
 ところがある日の遅い朝、食堂に顔を覗かせた北木は、食卓に霜雪の老夫婦の対面して食事をするのに出会した。老人とまず目が合って、しかし向こうは驚きはしても狼狽は見せなかった。なにやら面白いものを見つけたような顔をして手先で伴侶の注意を引き、それで老婦人が振り返って、あら、と北木の長男の名を呼んだ。
「いついらしたの」
 そういって老婦人は相好を崩した。いや、彼は息子じゃないよ、と老人はいい、ほら、ずいぶん前に話したことがあったが……といい淀んで、すると老婦人は程なくして合点がいったらしく、おや、まぁ、ほんとうに、と目を細めた。
「この日がついに来たわけだ」
「ええ、ええ、あなたもずいぶんとおかしなことをいうものだと、あのときは呆れておりましたけれど。ほんとうになったんですねぇ」
「嘘をつくには及ぶまいて。ただ、あの時分はよく幻を聞いたり見たりしたものだから」
「ほんとうに。お狂いになったかと、そう思ったこともございました」
 北木は合点がいくやらいかないやらで、そっとその場を立ち去ろうとすると、老人が目ざとく見つけて呼び止めた。
「まぁ、そう急ぎなさんな。起き抜けでしょうが、ここは一つ、腹でもちょいと満たしていったらどうです」
「昨夜こさえた中華おこわのお残りですけど」
 おとなしく食卓の末席に腰を下ろした北木だった。甘辛く煮た鶏肉の小さく刻んだのと翡翠のような銀杏をふんだんに和えたそれをひと椀差し出された北木は、匂いを嗅ぐなりたちまち妻を思い出し、妻を目の前にしながら妻が恋しくてならなくなった。白頭偕老の四文字が不意に浮かんで、持ち家もなく、財産と呼べるようなものをなにひとつ持ち得ぬながら、老いて二人きりになってなお睦まじく卓を挟んで穏やかにあることの尊さを北木は切実に思っていた。
「ところで子どもたちは」
 老夫婦はこれには答えなかった。老人はおもむろに席を立つと、台所の流し場の前の磨りガラスの窓を開いて、そこへ来るよう手でうながした。うながされるまま席を立ち、開いた窓の向こうの格子越しに外を覗き込んで、北木は覚えず息を呑んだ。



 夜な夜な鳴るティンシャの音に寝床にいてじっと耳を澄ますに留まっていた北木は、ついに布団を這い出して鳴り物の鳴る場所を定める探索に出た。それはどうやら小学六年生になる長男の部屋から聞こえるようだった。長男の部屋の扉を薄く開いて、北木は覚えず息を呑んだ。真夜中の二時をとうに回った時刻だというのに、扉の隙間から薄明かりが差したからだった。

 薄明かりは、息子の勉強机に灯るデスクライトによるものだった。勉強机に向かう子どもの背が見えた。声をかけようとして、今日息子に浴びせた自身の罵声が、己の心肺に食い込む荊棘のようにして、まざまざと意識される。
 不出来の息子の勉強を見るために帰宅後のすべての時間を費やす北木は、あまりの不甲斐なさに息子を罵ること度々だった。どうにも抑えの利かなくなるのを自身で訝りながら、それは息子がかつての自分と重なるからだろうかと北木は思わずにはいられなかった。
 ありし日の自分もまた、物分かりと覚えの遅さ悪さゆえ、よく親の折檻を食らったものだった。父親の、感情に我を忘れて鬼のようになる顔を、恐れながらも子どもながらに腹の底から侮蔑したものだった。怒声のあとで剣道で鍛えたというのが自慢の、子どもにすれば鋼板に等しいような硬く分厚な手による殴打が頬やら腿やらに飛ぶ。青痣がひどくて学校を休まされたことも一度や二度でなかった。
 ああは絶対になるまいと、どこかで絶えず思い続けながら成人したような自分であった。が、先刻まさに同じ忿怒の面を張り付けていたのではないかと自問されると、己を顧みる夜々に虫唾は走るわ身悶えはするわで、寝床で枕を噛みながら呻きかねない苦しみだった。五体投地からの連想だろうか、床にうっぷして、祈る、というよりそれは懺悔だった。息子の希望を叶えようと焦るあまり、彼を傷つける結果となる事態に、もはや北木は堪え得なかった。

 息子のかたわらにひとまわり大きな黒い影があって、これが覆い被さるようにして息子の手元を覗き込んでいる。近視の夜目をよくよく凝らしてみて、どうやら覚えのあるシルエットだと見るうち、それがほかならぬ北木自身であるのを北木は認めた。北木でない北木は、息子の耳元に囁きかける。それに応じて息子がはきはきと答えていく。
「フランス革命」
「200万人」
「ナポレオン戦争」
「500万人」
「クリミア戦争」
「77万人」
「南北戦争」
「82万人」
「パラグアイ戦争」
「110万人」
「日清戦争」
「5万人」
「日露戦争」
「17万人」
「第一次世界大戦」
「2600万人」
「第二次世界大戦」
「5300万人」
「ホロコースト」
「600万人」
「東京大空襲」
「8万人」
「沖縄戦」
「11万人」
「広島原爆」
「14万人」
「長崎原爆」
「7万人」
「朝鮮戦争」
「280万人」
「ベトナム戦争」
「340万人」
「アメリカ同時多発テロ」
「2977人」
「イラク戦争」
「50万人」
「ウクライナ戦争」
「50万人」
 北木はそっと息子の部屋の扉を閉ざす。去り際に、なかからくつくつと声を押し殺して笑う笑い声を聞いたように思った。

 以降は毎夜ティンシャの音に北木の眠りは破られた。寝覚めの間際はどうでも、しばらく寝床でじっとしていると、二度三度と立て続けに鳴らされるので、不眠の正体は疑いようがなかった。しかしそれにしても、あいかわらず家人は誰ひとりそれを聞かない。当の息子すら問われて知らないといい張り、詰め寄れば半泣きになった。
 では当初の疑い通り、北木の頭のなかだけで鳴る音だったろうか。そしてそれは狂いの兆し、あるいは狂いそのものだったろうか。いずれにせよ、北木には聞こえるのであって、洗心というにふさわしくも、高らかに、清らかに、あまねく澄み渡る音でありながら、もはや北木を挑発し、逆撫でするものでしかなかった。彼はたまらず飛び起きると、食堂で晩餐する見知らぬ大家族の誰彼に驚かれながらそこを素通りして、息子の部屋の扉にひたと片耳を当てるや、おい、と凄んでなかへ押し入った。
「また来てくれましたね」
 そう答えたそれは息子でありながら、息子でなかった。それは、往時の北木でありながら、北木でなかった。
「呼べば、必ず来てくれる。勉強を、見てください」
 笑いかけるのへ、
「いい加減にしないか!」

 その刹那、爆音が立った。
 その衝撃波に背後へ叩きつけられ、鼓膜を破られながらも、すぐさま瓦礫を押し除けて息子のほうへ飛びかかる。ほとんど反射に属する行動だったろう、濛々と上がる砂塵越しにそれと見つけて首根っこを掴んでぐいと後ろへあらんかぎりの力で引き寄せれば、間一髪のところで勉強机の寄せられていた壁全面が音もなく崩落して、霞んだ晴空が眼前に広がった。無惨に半壊したコンクリートの矩形の建物群が、通りを挟んだ向かいに乱杭歯のように並んだ。どうやらここはそれなりの高層階で、恐慌した鳩の一群が、弾丸のように視界を斜め下へ横切った。北木の腕のなかに守られながら、息子は戸外を振り返って、
「やあ、丸見えになった!」
 と興奮して叫んだ。状況を面白がるようで、声音に怯えは微塵もない。
「أَحْمَد」
(アフマド!)
 息子の呼びかけた先に、同じく通りに面した壁のすっかり抜け落ちた建物があり、同じ目線の階に、白と薄緑色の横ストライプのシャツを着た息子と同じ歳の頃と思しき少年が、こちらに気がついて大きく両腕を振った。
「هل أنت بخير؟」
(大丈夫?)
「اهرب بسرعة」
(早く、逃げて!)
 息子がなにやら異国のことばで少年に叫んでいる。
「لقد قتلوا والدتي」
(奴らが母さんを殺した)
「فقط اهرب من هناك」
(いいから、そこから逃げて)
「لن أسامح」
(ぼくは、ゆるさない)
 少年は足元に転がるなにかを両手に持つと、よろめきながらそれを頭上高くに掲げた。それは、結い上げた黒髪のすっかり解け切って蠢く蛇玉のようにも、あるいは怒号する獅子の鬣のようにも蓬髪の膨れ上がった女の生首だった。それを掲げる彼の全身を、つま先から怪鳥の影がじわじわと覆っていく。世界の崩れそのもののような轟音が頭上に迫ったかと思うと、少年の真後ろを、ほとんど落雷と見紛うような速さで真っ黒な細い支柱のようなものが上から下へ垂直に走り、その直後、見えるものすべてが真っ赤に染まった。



 街の随所にクリスマスツリーの目につく時節になっていた。
 朝の通勤時に、なにげなく例の古道具屋のなかをガラス越しに覗き込んで、北木は驚いた。もぬけのカラだったのだ。それも、昨日今日出払った感じではない、はるか昔から廃墟然としていたふうで、その証拠には、床の至るところに落ちている端材は抜け落ちた天井板のそれで、壁もすっかり黄ばんでかしこで壁紙がめくれ落ちていた。
「物件をお探しで」
 背後から声をかけたのは高齢の小柄なご婦人で、両手に箒と塵取りとを持って通りの落ち葉の掃き掃除をしていたものと見える。
「いえ、あの、ここに、古道具屋があったはずですが」
 おや、まぁ、そんな古いこと、と老婦人はいって目を丸くした。
 たしかにその昔、ここに古道具屋があったと婦人は懐かしんだ。
「しかしねぇ、それもかれこれ二十年、いや三十年も昔の話ですよ。その古道具屋さんはね、ある日忽然と姿を消したんですよ。売り物からなにからぜーんぶいっしょに。そんなことって、あるのかしらねぇ」








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