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梅猫 #3/3

図書館で本を弁償させられた私は、その夜映画鑑賞を邪魔されて、猫を殺して庭の梅の根方に埋めてしまいます。翌日の昼過ぎ妻が猫がいないと言い出し、バツの悪い私は仮病を盾に部屋に引き篭もります。真夜中に目を覚ました私は、庭を白猫の埋め尽くすのを引き戸のガラス越しに見るのでした。
『梅猫』#1~2あらすじ


 昼過ぎに目覚めて、私は職場へ病欠のメールを送った。熱が出始めた、ついてはれいの疫病かもしれないので今日明日には検査に行く、と私は保険を打った。

 磨りガラスの引き戸の向こうにひと気はない。とはいえ、子どもたちは幼稚園に学校だし、妻は買い物がてら図書館やコミュニティセンターに立ち寄って本を渉猟し、しばし読み耽る、が日課だったから、この時間、家うちにひと気が絶えているといってなんら訝ることではないのでした。

 それでも掛け時計を見てまもなく二時になろうとするのを認めると、さすがに、おや、とはなった。妻はどんなに遅くても一時前には帰宅する。二人で昼食を摂り、二時過ぎに幼稚園の送迎バスが最寄りの停車場まで来るので、下の娘を迎えに行く。
 少し早めに家を出る用事でもあったのだろうくらいに思っていて、それよりもこちらは一日半と飲まず食わずだったから、さすがに空腹に耐えかねて、冷蔵庫のなかのものを、食えそうなのは皆引っ張り出してきて貪り食った。

 いつもなら二時半には妻と娘は戻るはずが、半を回っても二人は現れない。床に伏せっている夫をそうっとしておこうという配慮なのかもしれないが、一日半と飲まず食わずのまま病人を放っておくなんて法はないし、さすがにここへきて、訝るより先に忿怒が萌した。そういえば猫の姿が見えないなと、なに食わぬ顔して家うちをしばらく探したのだから、我ながら業が深いと申しましょうか。ハッと気がついて、たちまち膝下から白々と明けるように、寒さ冷たさ身に帯びる。妻と娘に対面するのが、改めて恐怖されたのでもありました。

 そうこうするうち、玄関先の砂利を踏む音がして、かまえるより早くインターホンが鳴った。食堂の壁の小さなディスプレイに、見ず知らずの女が映った。ショートボブのやや赤い髪、肉付きのいい若い女。紺のジーパンに水色の半袖のポロシャツ。すっかり夏の装いの。
 応答のボタンを押して、どなた? と私はいった。
「あの、わたし、浅間幼稚園のイノウエと申します。希菜ちゃんの担任をしております。あの、失礼ですが、お父さまでしょうか」
「はい、そうですが」
「あの、希菜ちゃんなんですが、昨日今日と来園されておりませんで。なにかあったのかなぁと思って、来てみたんです。奥様のケータイにお電話してもお出にならないので」
 なにやら尋常ならざる事態が出来していると、このときようやく私は知ることになるのでした。こんなふうに虚をつかれることが最近あったような気がする。いずれにせよ、ここはまともに応えてはならぬと虫が知らせて、こういうときに人は地金が出るものです、私は咄嗟にれいの疫病に罹患している旨伝え、ひょっとすると妻は彼女の実家に子どもたちを連れて行った可能性がある、しかしなにぶん熱でぼうっとしてしまって、よく覚えていないというか、今も夢うつつの状態でして……。
「あの、ちょっと大変そうですけど、救急車お呼びしましょうか」
「いや、それには及びません。妻にはすぐ連絡させるんで、今日のところはお引き取りを」
 そういって、なんとか私は取り繕ったのでした。

 仮病を使うと、なんだかほんとうに具合が悪くなってきやしませんか。私はそうなんです。それこそ子どもの頃から。それでこのときもなんだかにわかに熱っぽくなってきて、頭痛までする始末、私はまた寝床に戻った。 
 するとしばらくもしないで、またインターホンが鳴った。
「誰です」
「ああ、お父さんですか。わたくし、隆信くんの担任をしておりますキノシタです。隆信くんと、それから妹さんの麗花さんもですが、昨日今日とご欠席されているんですけど、どうもご連絡をいただいていないみたいでして。どうされたかと思いまして、こうしてお訪ねした次第で」
 キノシタと名乗る小学校教諭は、ディスプレイから見る限り、私よりはだいぶん年配の、直截的な性格で、活力旺盛な感じのする、日によく焼けた痩せた小男だった。濃い紫色のジャージーの上下という出立ち。
 私は先刻女の幼稚園教諭に告げたのと同じことを告げて男の小学校教諭を引き取らせた。

 食卓に座りついて私は頭を抱える。しかしこんな姑息なことで、いつまでも時間が稼げるものではないと、やはり虫が知らせる。なにか尋常ならざる事態が出来しているとは、私の感想以上に、ほかならぬ幼稚園教諭や小学校教諭の抱く感想ではないのか。帰るさ警察に通報されないとも限らないのである。

 いや待てよ。ここにきて私は自分の不安の理由を改めて自分に問い糺すわけです。私は妻子になにかしたわけではない。殺めたのはあくまで猫であり、彼らではない。後ろ暗いことはなにひとつないはずなのです。
 それでも、突然子どもたちが予告なく幼稚園や学校を欠席し、女親とは連絡がつかず、事情が事情にしろ、男親が家にいる。で、その男親がいうに、妻子はどうやら女親の実家に避難しているらしいと。この「どうやら……らしい」がクセモノなんで、得られたパズルのピースを並べれば、それらが夫による妻子の殺害を示唆するとは、この手の事件が少なくないだけに容易に想像されるではないか。とすれば、あらぬ嫌疑をかけられた末に、私は猫殺しを白状させられるかもしれない。しかしそれ自体が、いよいよ私の立場を悪くするのは目に見えている。
 それともあれか、猫を殺したことは、猫を中心に再構築されつつあった家族の絆を反故にしたという点で家族殺しに等しいと。そうなると、なんだか私は猫に激しく嫉妬していたようになるし、その線は濃いようにも感じられる。

 胸騒ぎに堪えず、私は席を立った。子どもたちの部屋を物色する。そして妻の部屋。胃に血の溜まるような感覚が募る。たまらず玄関に走って下駄箱を調べる。
 そして私は驚愕する。

 まず子どもたちの寝乱れた痕跡を示す寝具のありようにショックを受ける。それから平生ひとり床にじかに布団を敷いて寝る妻の寝具が、起き抜けのまま上げられていないことに暗澹となる。上の二人のランドセルも下の子のリュックも床に投げ出されており、外出時にいつも携行する妻のトートバッグは彼女の枕元に置かれてあった。極めつけは玄関の下駄箱で、妻子の履き物はすべてそろっている。
 つまりあらゆる状況が、妻子が外出していないことを示しているのでした。妻のバッグのなかを漁るも、彼女のスマートフォンが見当たらない。方々を探して見つからず、遅ればせながら私は私のスマートフォンで呼び出してみるのですが、いっかな応答はない。妻のスマートフォンの不在ばかりが、彼らの外出を示す一縷の望みのように思われてくる。

 妻も子どもたちもいつから消えてしまったのか。教諭たちのいうように、もはや昨日の時点でいないのか。これは私から警察に連絡すべき事案ではないかとも思うのでした。しかし急いては事を仕損じるということもある。熱はいよいよ高じているらしく、頭痛も本格的になっていた。判断力が鈍っていたと指摘されれば、それまでです。妻の実家へ連絡することももちろん思いついたが、来ていないなどといわれれば、凪の海はかしこでたちまち荒海になる。私は寝床に戻り、静観する、をふたたび選択したのでした。要は、こちらからなにかしらアクションを起こすことが、どうにもはばかられたのです。


 午後七時。
 磨りガラス越しに部屋の灯りが見える。食堂の灯り。子どもたちの声、下の娘のドタドタと走り回る音。食器の触れ合う音。妻が子どもたちを嗜める声……。なんだ、みんな無事じゃないかと私は夢うつつに安堵する。いささか尿意を覚えるが、我慢できないほどではない。悪寒がして間歇的に全身を震えが走る。

 午後十時。
 猫の鳴き声で目を覚ます。足の先を覗くと、引き戸の下半分の磨りガラス越しに白い影が見える。おから。家の三毛猫のシルエットであるのはすぐにわかる。半年と一つ屋根の下で暮らした愛猫なのだから。よかった、すべてはなかったことだった、と私は安堵する。なるほど、今般の疫病のひときわ恐れられるのは、この虚実の境を失わしめる幻覚ゆえだったかと合点する。もう大丈夫、もう大丈夫だ、すべてうまくいく、と私は自分に言い聞かせるようにして掛け布団を剥ぎかかる。すると、タタタタタ……と、これは次女の足音で、廊下の向こうから走ってきて、おからを抱き上げる。立ち去りかけて振り返り、磨りガラスにおもむろに顔を近づけたところが、それが「へのへのもへじ」と書かれてあるのを暗がりに認めて、私は思わず布団を引き被った。鈴の音がする。おからの首輪に付けられた鈴。妻がこだわって、あれは二十一金の鈴。いひひと聞こえる笑い声。尿意はほぼ限界。悪寒に加え、肘や膝に痛みが凝っている。

 午後十一時。
 食堂の灯りも落ちて、どうやら妻子らは就寝したよう。尿意に耐えかねて、床を出る。足元がふらつく。引き戸の掛け金を外そうとして、ふとこの心許ないような真鍮の部品ひとつが、これまで私を守ってきたのではないかと思い当たってゾッとする。しかしなにから? それを私はあえてつまびらかにしない。

 掛け金から手を離すと、私は踵を返し、スマホの懐中電灯で庭を照らしてからガラス戸を開ける。素足で庭に降り立つ。底に冷気が澱んで、足首に絡みつく。空はあいかわらずの雨もよい。三方の壁際は隣家の耳がやはりはばかられて、私は覚束ない足取りで梅の木を目指した。
 近視の目にも梅は二分咲き、三分咲き。枝に白猫も、幻覚に過ぎなかった。スウェットのパンツをブリーフごと膝まで下ろすと、一物の先を剥いて勢いよく解き放つ。尿に触れた土はたちまち泥となり、泥を打つ音が響くようで、私は梅の幹へ鉾先を向けた。もうもうと湯気が立つ。尿とともに全身からわだかまりの抜けるようで、わなわなと膝から震えてくる。途切れたかと思うとまた始まる。
 恍惚に似たなにかにしばし身を委ねていると、背後に気配がした。振り返ろうにも十全に振り返れない状況で、気配はたちまち濃厚になり、聞こえた。

 まぁぁぁぁぁぁぁぁぁぅお

 まぁぁぁぁぁぁぁぁぅお

 まぁぁぁぁぁぁぁぅお

 まぁぁぁぁぁぁぅお

 まぁぁぁぁぁぅお

 まぁぁぁぁぅお

 まぁぁぁぅお

 まぁぁぅお

 まぁぅお

 まぅお

 まお

 こちらの尾骶骨の上らへんを蹴って一匹が頭のてっぺんに飛びついたかと思うと、また一匹、また一匹と背中に、腕に、肩に、ひかがみにと取りついた。テレビ室の戸のガラスを見やると、放尿を続ける私の背面を、頭の先から足の先まで白猫が我先にと覆い尽くし、そしてまた後から後から白猫どもは湧いて出て、隙あらば飛びかかろうというように前脚を立てて座りついている。
 私は一物に両手を添えたまま、激しく身を揺すった。猫どもは振り落とされまいとして爪を立て、それが服を貫いてこちらの皮膚に肉に達する。私は痛みに身を仰け反らせる。それでも猫は落ちない。そうこうするうち梅の根方にできた尿の溜まりはついに決壊して、私の素足のほうへ一筋二筋と流れてきた。そればかりか、身を揺すれば的が外れるで、脱ぎかけのスウェットを盛大に汚す。
 ようやく尿意が収束すると、私は濡れたのをそのままにブリーフとスエットのパンツとを履き直し、手を頭やら背やらに回して猫どもを引き剥がしにかかった。怪しげな乱舞を踊る私がガラス戸に映る。片足片足を蹴り上げて足に取りついた猫を振り払う。猫を引き剥がす度にこちらは皮膚を裂かれる、あるいは肉を抉り取られる。かまわない。最後の一匹を頭上に掲げると、猫は四つ足の爪を立てて右腕に絡みつき、かまわず大きく弧を描いて梅の枝の先ではやにえにした。

 すぐさま梅の幹に立てかけてあるシャベルを取った私は、自分を中心にしてそれで円を描くようにぐるりと回転し、猫どもを薙ぎ払った。彼らは後退りするどころか、どこからともなく湧いて出て、近視の目には庭一面を梅の落花が埋め尽くすように見えた。

 あるいは自分は梅の花と戯れているに過ぎないのではないかとふと思われて、そのとき我知らず口をついて出たのが「梅猫」ということばでした。梅猫。この幻想を小説にしたら面白かろうと明るく私は思うのでした。スウェットの上着のポケットにしまわれたスマホをやおら取り出すと、私はメモアプリを開いてタイトルとして「梅猫」と打ち込みました。

「梅猫」
図書館で本を弁償させられる。
夜の映画鑑賞を猫に邪魔される。
猫を殺し庭の梅の根方に埋める。
家族が消える。
猫の祟り。
すべては悪い夢。
悪夢を見させる猫は魔性。
猫は梅の花の変げ。
あるいは梅の花は。
あるいは。


 私はスマホのディスプレイに点滅する、次の文字の打ち込まれるのを待機する白い縦のバーを見つめながら、ある思いつきを得たのでした。そして愕然となり、動悸は増した。
 妻も子どもたちも、もう私は恐れてなどいない。なにひとつはばかることはないのでした。
 私はメモのアプリを閉じますと、画面の電話のアイコンをタップした。私は履歴から妻の番号をスクロールし、一瞬の躊躇いののちに、それをタップする。沈黙に向けて耳を当てがう。繋がるか不通になるかの間合いを経て、呼び出し音が鳴る。

 一拍遅れて妻のスマホの鳴る音がどこかでした。家のなかからかと思いましたけど、その着信音はごく間近に聞こえるのでした。気がつけば、足元に白猫たちが群がって、甘えるように背を擦り付けてくる。

 まぁぁぁぁぁぅお

 ブーブー ブーブー

 まぁぁぁぁぁぁぁぁぁぅお

 ブーブー ブーブー

 ……私は音のするほうへ、一歩、また一歩と近づいていきました。あるいは私の顔はハタからは半笑いするように見えたかもわかりません。そのくぐもった音は梅の木の根方の真下から聞こえ、水銀のように湛えられた尿の溜まりは、みるみるうちに土のなかへ吸い込まれていった。

 ふと顔を上げますとね、いつのまにか梅は満開になっておりました。

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