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知命の蟹

……京都の天橋立でね、おっさんが転落したっていうね。なんかのニュースで見ましたよ。あすこ、「股のぞき台」なんてスケベな名のついた見晴らし台があるらしくって、背中向きに立って軀を折って股ぐらをのぞけば松の生う砂洲が天空に架かるように見えるってんで、なんとも日本らしいスケールの観光地なんですな。どうも昨今砂洲が細っちまって、コンクリートで固めてるなんて話もございます。で、くだんのおっさんが、股のぞきをしていたところうしろざまに転んで、これがころころ防護フェンスを突っ切って(なんのためのフェンスだろうねえ)、十五メートル崖下に転落して重傷を負ったというんだね。ところがこれ、おっさんが勝手によろけて転落したって話じゃないの、いっしょに観光に来ていた同僚がふざけて押したっていうんだね。押した側はさ、まさかそこまで大事に至ると思っていなかっただろうね。そりゃそうだろう。押す加減を間違ったかな。されたほうだって、まさかそこまで派手に自分が転げるとは思っていなかっただろう。記事にはお互い五十代とあった。とかく手元が狂うんだ。さもありなんという気がするね。

……これはまた別の記事なんですがね。芸名で活動しているさる女芸人が、ネット上で本名をいじられてると。どこぞで調べてネットに晒す奴がいるんでしょうな。本名とテレビのイメージとのギャップがおもしろいらしく、匿名連中がネットで煽ってくるのに対し、くだんの芸人は本気で怒ってるわけ。本名は非公表であると。で、目に余る書き込みについてとうとう訴訟を起こした。判決が下り、悪質な匿名連中が特定される。するとこれが、ことごとくいい歳したおっさんだったというんですな。かくいう私も、四十代五十代をターゲットにした筋トレ指南のYouTubeを時々のぞくんですけど、そこのコメント欄ね、最初のうちは皆さん口々にしおらしく感謝を述べ、聞かれもしない自分史をつらつらと書き連ねて悦に入るようだったのが、回を追うごとに荒れてきましてね、やれ出演者のトレーニングウェアと背景が同色で見えづらいだの、やれ言われた通りやっても効果は出ないから詐欺同然だのと、もう文句ばっか好き放題。ご丁寧に、「私は五十代の男子ですが……」なんて書いてたりする。

……かくいう私も老害となるのが嫌で会社を早々に辞めて独立した口ですけど、昨今めっきり老け込んだなあと、街なかにある一面ガラスに全身像がちらと映るたびに思うわけです。髪はすっかり白くなり、まっすぐ立ってるつもりが心なしか前屈みになっていて、腹も出てきた。こう見えても昔はモテたほうなんだけど、いまはご覧の通り、カウンターでこうして飲んでたって、女性から話しかけられるどころか、さっきの二人組なんか、私が止まり木に座った途端に「マスター、お会計」でしょ。もういい加減慣れましたがね、いまだにやりたい盛りなんだからやんなっちゃうよ(やったらやったで腰がね……)。我ながらキショいがどうしようもない。

……けしからんのはね、街なかの歩道を歩いてると、向こうから来る女がこちらを認めるなり、顔をこう背けてね、すれ違いざま片手で顔の前に壁まで作るのがいる。コロナ禍ならともかく、コロナ明けですよ。かと思えば、こちらは交通法規を守って最大限右に寄って歩いてるのに、ずんずんと正面から来て譲らない奴がいる。これなんかも大概は女で、歩いてきてもそうだし、自転車でもそう。ぎりぎりまで粘って、こちらがパッと左へ移って道を譲ることになるが、なんだか釈然としない。交通法規を盾に正当性を笠に着る初老男の頑なさに反発するんでしょうかね。雄として拒絶されてる感じが、どうにも傷つくんですよ。ただどうも、年寄りや若い男にこれをやられても、私はなんとも思わずに道を譲ってるとあるとき気がついてね、こうしたミソジニーっ気に彼女らは敏感に反応して、ナメられてたまるかとばかりに挑んでくるのかもわからない。最近ある策を思いつきましてね、交通法規を守らない輩が向かってきたら、コンコンとこれ見よがしに咳をするようにいたしましてね、するとこいつが効果テキメンで、男でも女でも必ず道を譲ってくれるようになった。すれ違いざま向こうが息を止めてるのがわかる。ところがこないだこれをやったあとで、自分こそ歩道の左側を歩いてるのに気がついた。いやはや、つくづく歳は取りたくないものだね……って、なにをさっきから小さいことをうだうだとって……まあ、まあ、酒もすっかり回りましたんで。


🦀


 男は覚束ない足取りして連れと店を出ていった。連れも同じ背つきの初老の男で、学生来の古い付き合いと見えた。肩を組んで歌い出すかと思えば、ふいに声を荒らげて罵倒し合う。かと思えば腹を抱えて笑い出し、あられもなく植え込みに倒れ込んで尻餅をつく。時刻はまだ宵の口だった。人の往来も盛んで、迷惑千万の狼藉を働きながら、二人に臆するところは微塵もない。
 すると一人が両脚を開いて歩道の真ん中で仁王立ちになった。かと思うと、やおら股のぞきをやってみせた。なんのと、一人もやってみせる。しばし並んで都心の街灯りを逆さに眺めて見惚れるようだったのが、どちらからともなくその姿勢のままのそのそと動き出し、尻と尻を付き合わしての押し合いへし合いが始まった。初老の男らがしこたま酒を飲んだあとで頭に血を上らせながら力一杯踏ん張り合うとは、剣呑も剣呑この上ないことだった。
 なんの! なんの!……と互いに譲らずすっかりムキになり、押しつ押されつがいよいよ極まると、男らはいつか全身唐紅色に染まって一体となり、とうとう大きな蟹になった。

 オッ
  オッ
   オッ
    オッ
     オッ
      オッ
       ……

 掛け声の息もぴったりに、大きな蟹は植え込みを越え、車道に躍り出て、横歩きで巧みに車を避けながら、街の灯のなかへ消えていった。





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