猫を食う人食わぬ人 1/3
我が家の猫は世界一かわいい。
猫飼いならそう思うわけだ。
しかし人は人のうぬぼれを許さない。だから尾北は黙っている。猫を飼うのさえ公言しない。猫を愛でるのはだから彼の隠事のようなもので、猫を撫でながらそれこそ猫撫で声を発している。
「なんておまえはかわいいの。食べちゃいたいくらいかわいいねえ」
この頃は尾北が仕事から帰ると、ニャーとか細く鳴きながら足元につと寄ってくる。ピンと立てた尻尾のつけ根に見える膣口らしきが充血して濡れているのを、彼は見逃さない。8の字にまとわりついて彼の脛に身をこすりつけるようにすると、ゴロンとその場に寝転がり、仰向けのまま両手両足突っ張って、ぐーんと伸びをする。かまわずにはいられず、尾北は仕事着のまましゃがみこんで、腹の和毛をむちゃくちゃに撫ぜてやる。乳首のこりこりを手のひらに感じながら、内臓全体をつかんで揺する塩梅で撫で上げる。しばらく繰り返していると、猫はやおら横臥の姿勢を取る。側面を撫ぜろと誘う。撫ぜながら、尾北もいつか床に横になって、猫の背に腹を接している。ミクロン単位の細い毛が宙に舞っている。塊になったのが、撫でる先に溜まっていく。ある程度溜まったところで、尾北はそれを団子にして床に並べておく。家人のドアの開け閉てに応じてかすかに蠢くさまは、フェリーニのアマルコルドの綿毛を髣髴とさせた。
なにかを愛おしむ心というのは、容易に満たされるものではない。撫ぜるばかりでは飽き足らず、両手に頬を包んでしばし見つめてから、接吻の雨を降らせてやる。家人らのやる「猫吸い」というのをやりたいが、アレルギー持ちの尾北は躊躇する。それでも先だって、たまらず大口を開けて猫の頭をなかば口中に収めてみたところが、たちまち咽せて目のまわりが腫れ上がり、鼻腔いっぱいに鼻水が充満してくしゃみが止まらなくなった。呼吸はままならず、なにかにつかまらずには立っておれないありさまで、とうとう家人らが驚いて駆けつけた。気が遠くなりながら、死ぬ、そう思っていた。
以来、寝起きと寝しなに鼻が詰まりやすくなった。しかも鼻をかむと、いつもより紙離れが悪いように感じた。そしてあるときを境に、黄色くて粘つく鼻水がどろりと出るようになった。いやらしい匂いがした。かむほどに匂いは去らず、さながら鼻の奥で甲殻類でも死んで腐っているようだった。たまらず医者にかかると、蓄膿だといわれた。アレルギーはあるのかと医者に聞かれ、ありませんと尾北は即答していた。猫愛の前に、アレルギーなどなにほどでもない。
🐈⬛
二年前に越してきたときから隣家は空き家だった。隣家とはいい条、建物はひと続きで、不動産屋の話では元々の住人が二世帯住居にすべく壁で仕切ったとのことだった。外貌はいかにも竹に木を継いだ感じで、老夫婦の住まったほうは瓦屋根をいただく昔ながらの平屋、若夫婦の住まったほうはミント色の羽目板で化粧し直されたスレート葺きの二階家だった。尾北ら一家は瓦屋根のほうを借りていた。
梅雨明け前のさる薄曇りの土曜日、前触れもなく家の前の通りに引越し業者のトラックが横づけされ、ミント色の家へ荷物の運び入れがはじまった。その多さとときおり目にされる梱包されない荷の種類とから、子どもは男女複数いていずれも幼稚園児か小学生、大人は夫婦のほか年寄りが混じると推測された。世帯主の年齢は尾北と同じかやや下くらいと思われた。
夕飯どきに尾北の家のインターフォンが鳴った。モニター越しに見ると、案の定、隣りに越してきた住人が挨拶にきたらしかった。見たところ家族総出のようで、尾北ら夫婦も子どもらを急き立てて玄関の上り框に並ばせ出迎えた。土間に降りた尾北は扉を開いて、一瞥するなり愛想笑いがたちまちこわばった。
「こんばんは。隣りに越してきた**いいます。お忙しい時間お邪魔してあいすいません」
しどろもどろになる尾北に代わって背後で彼の妻が応じた。
「赤飯を炊いたので、もらってやってください」
尾北は青い蓋のタッパーを危うく受け取った。
「おや、猫がいますかな」
背後で猫だ、猫だ、とひそひそざわつく声が立った。尾北の家の猫の鈴がどこからともなく鳴って、続いて例のか細い鳴き音が立った。鈴の音がにわかに乱れたのは、妻が抱き上げたからに違いなかった。
三毛だ。
痩せとる。
ほんとだ。
ずいぶん痩せとる。
「ご主人、たいそうな愛猫家でいらっしゃるようですな。三毛嬢のほうも、ご主人をうかがう目がもうほかと異なる。身は焦がれてますます濡れるというやつですな」
ひとしきり笑うと、隣家の住人らは去っていった。
尾北はどういうわけか膝のあたりが白々と明けるような感覚に見舞われていた。赤飯の詰められたプラスチックの入れ物の重さ生ぬるさが今更感じられ、たちまち怖気を振るって妻に押しつける。
その夜閨にいて、まどろむ尾北は横の妻がまんじりともしない気配を感じ取った。天井を見つめる両のまなこが光を溜めている。なんの光だろうとふと思ううち、妻は独りごちるようにしていった。
「こんなこといってはなんだけど、薄気味悪い人たちだったね。なんていうか、一家そろって顔がみんな、猫みたいだったよ」
翌日は朝早くから外で人の声がした。それはいつまでもやまなかった。日曜の朝くらい遅寝をしたい尾北は、眠りの接ぎ穂を失った。
休みの日の午前は、公営の図書館へ行くか、読みさしの本を持って駅前の喫茶店に行くのがこの頃の尾北の習いだった。妻も子どももまだ寝息を立てている。家を出ようとして、網戸を閉てて開け放しにしてある流しの小窓越しに、人声のするのが玄関先と判明して、尾北は出鼻をくじかれた。建物の和洋をわける仕切りを挟んでこちらの玄関と向こうの玄関は一メートルと開かず接していた。向かいは金木犀やら山椒やらの植わる共有の前庭で、四段のきざはしを上がった先に車二台を停められるスペースが空いて往来に面していた。玄関先の前庭にたむろされては、いやでも顔を合わさずにはいられない。それが尾北には億劫でならなかった。なにしているものかと苛立ちは募り、小窓をふと覗いたところが、蚊遣の匂いがまず濃く漂った。昨日挨拶にきた世帯主が白のステテコに白のランニングシャツといういでたちで太鼓腹を晒しており、地面にしゃがんでいる複数の家人になにやら指図している。さかんに振る右手に持たれているものを見て尾北は目を剥いた。
「どうしたの」
閨に戻った夫に半醒半睡の妻が声をかける。
「玄関先に連中がたむろしている」
「え?」
「早朝からなにやら騒いでいる。男が柳刃包丁を振り回して」
いわれて全醒した妻は、玄関のほうからする人声へしばらく耳を澄ました。
妻が台所の小窓を覗こうとして、刹那に気取られたようだった。途端に外で胴間声がして、
「お隣りさん、おはよう。いまから引越し祝いをやるでよお。よかったら呼ばれい」
有無をいわさぬ感じに釣りだされる格好で、夫婦は恐るおそる玄関先に顔を覗かせた。世帯主の足元ではしゃがみこんだ夫人と子らが黙々と働いて、柾目の目に鮮やかな白木の長板がいましも据えられようとしていた。玄関の扉の前には、引越しの荷の運び入れのさいに尾北の目についた古風な黒檀の安楽椅子が置かれ、にわかには性別のつかぬ年寄りが浅く腰かけてあらぬ一点を見つめて惚けた顔を晒していた。
ミント色の家の正面は北側の隣家のブロック塀に隔てられ、人ひとり通れるか通れないかの暗い通路をなした。東の隣家の塀に突き当たると、右手に折れて裏庭に通じる。塀の向こうは隣家の庭で、だから時ならぬ梅雨晴れの朝に通路の最奥は光り輝かんばかりになっていて、その逆光のなかへ人影が右手からぬっと現れた。ゆるゆると近づいてきて前庭の明るみに出ると、世帯主と同じなりをして、背つきは尾北の息子とそう変わらぬ坊主頭の少年と判明し、灰色のベルベットのような毛並みの猫を襷に抱いているのだった。猫というよりはサーバルやヒョウを思わせる大きさで、特筆すべきはそのたっぷりとした肉づきだった。
尾北はすぐに気がついた、猫が短い間合いで鼻を鳴らすのを。少年は猫を抱いているのではない、力任せに押さえつけていた。
「どうです、うちの猫。みごとなもんでしょうが」
いうが早いかその頭をむんずと掴んで世帯主が引き取った。少年のいましめから開放されると、威嚇の音を上げながらたちまち背を丸め、前足の爪を男の手の甲に食い入らせて、後ろ足でもって痙攣的に空を掻いたのも束の間、男がこともなげに首を百八十度ねじるとたちまち四肢はだらりと垂れ下がり、そこへ、刃渡り三十センチはあろうかという柳刃包丁の刃先を縦にすうっと走らせて、一拍遅れて溢れだす桃色の臓物はしゃがみこむ者らがすかさず盥に受けて、鋏でもってシャリ、シャリと根元を的確に切った。
開いたものを柾目の長板に横たえると、別の者、おそらくは夫人がこれを引き取って血泡を吹く口のなかへ五寸釘をカンと打ちつけ、マッコウクジラのような肉切り包丁を振り下ろし振り下ろしして手際よく四肢の端を切り落とし、くるりと包丁の刃を首回りに一周させたかと思うとそこへ両手を差し入れてくっ、くっ、くっと、あたかもウエットスーツでも脱がせる塩梅で毛皮を裏返しにして剥いでいった。
横で妻が嘔吐するのを、尾北は夢のように聞いていた。そして目の前の光景を見ていた。
「お近づきのしるしに、あとでこれの煮込みを届けさせますよって。それから毛皮はきれいに整えて、奥さまのマフラーといたしましょう。地味なそのお顔をば、貴人のごとく引き立てますよってに」
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