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猫を食う人食わぬ人 2/3


 その夜遅く、隣家からは死角となる建物西側の通路にシャベルで穴を掘った尾北おきたは、さきほど届けられた「煮込み」と昨夜の赤飯とをあわせてそこへ空け、土を被せて入念におもてを固めた。

 翌日、尾北はそのためにわざわざ半休を取って警察署に出向いた。生活安全課に回され、映画やテレビに見る取調室のようなところへ案内された。日曜の朝に出来した異常事を誇張なく漏らさず語り、対面する取調官は調書を取りながらあからさまに顔を歪めた。それが本当なら由々しき事態です、と取調官はいった。しかるべく対処いたしましょうと力強く結び、ようやく尾北は安堵を得てそのまま仕事場へ向かった。

 妻の話では、その日の昼過ぎにさっそく警察官が二人、隣家をおとなったとのことだった。当初警察官らは、尾北の家のほうのインターフォンを鳴らして「**さんですか」と誰何すいかしたらしい。両家とも玄関に表札を出していなかった。
 気を取り直して隣家のインターフォンを鳴らした警察官らは、ほどなくして例の胴間声に迎えられた。台所の小窓から覗いて、立ち話の末の押し問答を想定した妻だったが、男は警察官らの訪問をあらかじめ知っていたかのような口ぶりで迎え、二人を鷹揚に家のなかへ招き入れた。十分、二十分と経過して、警察官らは隣家から出てこなかった。不審に思った妻は、壁越しに聞き耳を立てようとして、夫婦のねやの押入の襖を開いた。ミントの家とはかように壁一面の収納に隔てられており、互いの生活音はしっかり遮蔽される構造になっていた。冬物を詰めたプラケースをいくつか物音のせぬようそっと引っ張り出し、自分ひとり入れるスペースをこしらえると、押入に潜りこんで奥の背板に耳介を押し当てる。向こうもまた収納なのか、あるいは仕切りが分厚なのか、隣家からする人声はあるかなきかにくぐもって、内容などようとして知れない。それでもときおり聞かれるのは笑い声で、警察官らはどうでも、おそらく家人らがいっせいに笑うものと妻は聞いた。
 襖を閉てるのを怠った妻は、押入に猫の侵入するのを許した。鈴の音がしたかと思うと、妻の目の先でゴロンと横になり、例のか細い鳴き音を引いて愛撫の催促をし始めた。途端に背板の向こうの人声が止んだ。しんと静まり返る。いま自分が感じつつあるのはほかならぬ恐怖だとじわじわと自覚しながら、片手でおざなりに猫の腹毛を撫ぜていた。このときほど猫を愛おしみながら憎悪したこともなかったろう。息を詰めてこちらをうかがう気配が向こうにいよいよ膨らんで、妻は夏場の押入のなかの暑気のせいばかりとはいえない汗をねっとりかいていた。玄関に鍵をかけたかどうか、妻にはとうとう思い出せなかった。
 ザリ。
 思いのほか間近に立った音だった。
 ザリ。ザリ。
 壁の向こう側から爪を立てて掻くものがある。そう聞いた。
 ザリザリザリザリザリザリザリザリ……。
 爪で壁板を掻く音は四方八方壁一面あまねく渡り、押入のなかで豪雨のように降りしきって妻を制圧した。たまらず押入から這いだすと、まずは玄関の鍵を確認しに急いだ。それから震える手でスマホを掴んで夫を呼び出すも、夫はついに応答しない。
 夕刻、職場からの帰りしな、尾北は昼過ぎにあった妻からの着信を思い出してショートメールを送った。
《ごめん。いまのいままで気がつかなかった。なにかあった?》
 尾北が帰宅するまで、妻からの返信はなかった。

 遅い夕餉の折に、妻から事の顛末を聞かされた尾北は、隣家の壁ぎわに床から天井までびっしりと積み上げられたケージをまずは思い浮かべた。そこになん匹とも知れぬ猫が押しこまれていて、我が家の猫の鳴き音に感応していっせいに騒ぎ立てる。ありそうなことではあったが、だとすると向こうから猫の鳴き音の一つや二つ立ってもおかしくないのに、ザリザリのほかはこれという音はしなかったと妻はいうのである。
 妻のいうザリザリとは具体的にどんな音かとなって、別の部屋の収納に妻を潜りこませると、隣室に回って尾北は収納の奥の背板に接する壁を爪で掻いてみせたが、どうも違うようだという。子どもたちが面白がってこれに加勢して、脱ぎ捨てた衣類を壁に擦りつけたり、豚毛のブラシで壁を撫ぜたり、ハタキで叩いたりしたが、いずれも違うと妻はいった。一番下の娘がふざけて天頂部を壁に押しつけてぐりぐりやってみせたところ、いまのが一番近いかも、と妻はいった。
 家のインターフォンが鳴った。
 宵を過ぎてからインターフォンを鳴らされることなど滅多にあるものではない。憮然としてモニターを覗くと、はたして映るのは隣家の猫殺し。男の背後に妻が控え、子らが控え、年寄りまで控えている。明日にしてもらったらと妻のいうのへ、大丈夫と制して尾北は玄関の扉を開けに立った。尾北は少し酒が入っていた。
「赤飯と煮込みの入れ物を返してもらいに来ましたが」
 男は濁声でいった。明日にも返すつもりでタッパーは手の届くところに置いてあったから、いますぐ手渡してやるのはやぶさかではなかったのだが、それで帰すのもなんだか業腹で、尾北は堪えずいった。
「何時だと思ってる。そんなことは明日でもいいじゃないか。こんな時間に人の家のインターフォンを鳴らしておいて、詫びのひとつもいわないなんて、非常識にもほどがある」
 いった。
 いったね。
 この人もいったね。
 非常識だって。
 わしら、非常識だって。
「非常識ときましたか。それではご主人、人様からの借り物を一日以上借りたままというのも、私らからしたら非常識です。しかし私らはご主人の非常識をなじりにきたのではないよって、ただ貸したものを返してもらいにきたまでで」
「そこにあるのがそうですよ。どうぞこれでお引き取りを」
 土間に片寄せた靴入れの棚の上に置かれたビニル袋の中身がそうで、袋を掴むと尾北は男に突き出した。男は受け取るとなかを覗いた。
 空っぽだ。
 きれいなもんだ。
 洗って返すのが常識なんだろ。
 ぜんぶ食ったのかな。
 食ったんだね。
 そうとはかぎらんよ。
 尾北が玄関の扉を閉めようとして、男が片足を土間へ差し入れてこれを制した。
「ご主人、いくらなんでも非道ひどいじゃありませんか。私らが精魂こめて作った手料理なんだ。感想くらい聞かせてくれてもバチは当たるまい」
「感想?」
 いいながら、尾北の顔からみるみる血の気が引いていく。罠にかかったと知ったときには、なにごともあとの祭りであるのだ。しかしこんな世間知はなんの役にも立たない。
「感想なんか、ありませんよ」
「口に合わんかったかな」
「まさか。私はいかにもあなたのいう愛猫家です。それゆえに猫を虐待する者を私は許さない。猫をあのように殺して人に食らわそうとするなど、人間の所業とはとてもとても私には思えない。だから私はあなた方を心から軽蔑するし、金輪際姿も声も見聞きしたくない。どうか、もう、お引き取りください」
 ぎゃくたい。
 けいべつ。
 なんのこと。
 わからない。
「尾北さん、玄関先に私ら立たせたままにして、子どもも年寄りもおるのに、蚊には食われ放題やし、良心は痛まんのかいね」
「今日のところは、どうかお引き取りを。お願いします。さもないと、警察呼びますよ」
 警察だって。
 また呼ぶって。
 呼んだとて。
 呼んだとて。
「あー、警察ね。警察。なんであなた、警察なんかに駆けこんだんです。私ら、なんも悪いことしとらんのに。まあ、慣れっこですからね、どうということもありませんけど。ちょっと悪いんだけど、年寄りの足が悪くってね、上がり框に座らせてもらいますよ。じいさん、尾北さんがここ座れって。親切な人やね。ちゃんと礼をいってな」
 夫人が後ろ手に玄関の扉を閉めると、狭い土間に猫顔の一家が八人からぎゅう詰めになった。取次に退いた尾北は、それ以上は来ないでくれとなかば叫んでいた。そうして背後の引き戸の向こうに控えるはずの妻に向かって、警察に通報するよう命じた。
「いや、奥さん。それには及ばんよ。いわれっぱなしもなんだから、こちらもいっとくまでなんで。あのね、尾北さん、私らはね、あんたが考えてるような、地縁やら血縁やらに縛られた人間ではございません。ましてや反社の人間でもない。もっとも、我々の嗜好というか、哲学というか、正義というか、愛の帰結というか、まぁ、なんでもよろしいが、そんなんが反社会性のレッテルを貼られることはあっても、それはどちらさんかの都合によるものなんで、私らはなにも好き好んで人様の神経を逆撫でするつもりはないきにね。あんたはいけしゃあしゃあと愛猫家を自称するんけど、どうやろ、たかだか一匹の雌の捨て猫をたぶらかしたくらいで猫愛なんぞといわれても鼻白も鼻白なんで、私らはもうえげつないほどの猫らと交わって、愛の一語ではとても足りんわな、猫のために生き、猫のために死に、猫を崇敬し、猫との同化を日々の願いとする。あんたのいう猫愛なんてのは、しょせんは愛玩物に注がれたみみっちいケチ臭いしみったれたうぬぼれ自己愛と変わらぬオナニズムに過ぎんのであって、汎猫論的世界観に根ざす我々の猫愛を前にしては風前の塵に同じ。私らほど猫に精通しとる者らはこの世におらぬと、まずはこの自負があります。ところであんたはヴィーガンでしょうか。違いましょうとも。それでよござんす。あんた、ニッポンの動物愛護法では牛や豚も愛護の対象となってんの、知っとりますんか。牛や豚を屠殺して食ってそれを虐待とはいいひんのに、イルカや犬や猫を食ったらケチつける輩がぎょうさんおりますけど、まぁ、多数派のロジックなんてのはどんな場合もそもそもの初めから破綻しとりますからな。そうかといって、イルカやクジラを食うのは文化だ伝統だなどと反論する御仁もおりますけど、あれなんかもねえ……。要は恥知らずのおタメごかしなんよ。昔から食ってきたからいまも食うなんてのは、大義としていかにも怠惰でしょうが。私らが猫食するのはね、猫を愛するからにほかなりません。猫を愛すればこそ、大切なときとところを限って精魂こめておいしくいただく。特別な機会においしくいただくことで、猫様との同化を曲がりなりにも実現する、猫様の霊性に一歩近づくという、この身震いするような感覚なのですなあ。……あのね、私らとこの感覚を共有せよなんてことはいわんのですよ。ただね、せめて私らの敬虔な思いをお認めいただきたいのです。少なくとも、私らが精魂こめてこさえた赤飯やら煮込みやらを、私らの目と鼻の先で土に埋めるなんて非礼をば、はたらかんでほしんでがすよ」
「塩だ、塩を持ってこい!」
 八個の猫顔がゆらゆらと揺れ、やがてごろごろと喉を鳴らし始めた。背後の戸がわずかに開いて、その隙間から妻か子のうちの誰かは知らぬが塩の袋を差し出してきて、後ろ手に受け取った尾北は闇雲に中身を掴んでぶちまけようと振りかぶった。刹那、玄関の扉がひとりでに開き、生ぬるい風が吹き入ると同時に、するすると八匹の大猫が外へと吸い出されていった。



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