BGM conte vol.14 『ばらの花×ネイティブダンサー』
そのモーパッサンの青い布張りの初版本の奥付には、大正二年とあり、西暦に直せば1913年である。左下の余白には見知らぬ名が毛筆の可憐な字で小さく書かれてあった。
秋冬の連休の中日などにふと思い立って実家に顔を出すと、死んだ父の書斎に立ち入って、書棚からめぼしいものを引っ張り出してきては大時代風のカビ臭い安楽椅子に身を埋めながら読むとはなしにページを繰るうち、いつしか寝入ってしまう。そんな日は目を覚ますのはいつだって深更で、母は僕を決して起こさず、書斎の暖炉にはいつかチロチロと火が見えて、膝にはブランケットがかかっていた。
そのモーパッサンの初版本の由来について、僕は父の死後まもなく母から聞かされた。父の父、すなわち僕の祖父の元は蔵書のひとつで、とりわけ祖父は大事にしていたという。初版本だからではなく、その本を入手した経緯こそ祖父には特別だったのである。それは祖父の密かに恋慕っていた御仁の持ち物だった。さる夏の昼下がり、偶然乗り合わせた路面電車で隣り合わせに座った二人は、そのとき互いに手にしていた本について、どちらからともなく訥々と意見を述べ合って、そのご令嬢だったか祖父だったか、降りる停車場を過ごしそうになって慌てて駆け降りたところが、手にした本が相手の本だった。まもなく路面電車で翻訳本を開くなどゆめ参らぬ世相となって、生涯二人は再会を果たさなかった。
最近モーパッサンのその初版本を父の書棚から失敬した僕は、革鞄に忍ばせて毎日出勤するようになった。たまには仕事帰りの車内でパラパラとつまみ読みなどしている。この頃ははたからはどことなく浮かれて見えるらしく、先日妻が浮気の嫌疑をかけたものだが、要らぬ邪推というものだった。
🛤️
その赤い豪奢な布張りの本こそは、荷風の『珊瑚集』の初版本で、とりわけ祖母が大切にしていた蔵書の一である。その入手の経緯について、孫のわたしに祖母は生前語って聞かせたことがあった。
用向きに乗る路面電車にときおり乗り合わせる青年があった。いつも何かしらの本を膝に広げて読んでいた。初めのうちはなんとも思わなかったのが、祖母の近日読了したばかりの本を彼が膝に広げるのを見て、俄然興味が湧いた。話しかけたい、といつしかなっていた。とこうするうち、さる真夏の昼下がり、手元の本に夢中で気がつかなかったのが、隣り合わせの乗客こそは例の青年だった。
「先刻から熱心にお読みですね。外国本ですか」
「……」
「不躾な真似をいたしました。お許しを」
「いえ、これ、外国本です。フランスの……」
「綺麗な装丁ですね。吸い込まれるような、群青の。ゾラですか、それともフロオベエル」
「あの、これは、モオパッサンの『水の上』でございます。荷風先生がお褒めになっていた……」
「なんと、お羨ましい。とすると、それは初版本なんですね。よくぞ手に入れられた」
「いえ、父がそのほうの仕事をしているもので……」
そうこうするうち祖母の降車すべき停車場は刻々と近づいてくる。それがなんとも恨めしくてならなかった。青年はまるで屈託がなく、思うことをおおらかに語る人物だった。人を明るくさす、それは天性だった。とうとう目的の停車場に電車は到着し、発車する間際になって、祖母はようやく席を立った。青年への挨拶はおざなりなってしまった。それは致し方のないことだった。しかし彼女はひとつの冒険をやってのけた。彼が膝の傍らに置いていた赤い装丁本のほうをわざと取って、モオパッサンをば車内に置いてきたのである。それはまた、彼女の置いてきたせめてもの心だった。
しかし不幸にして二人は再会を果たさなかった。やがてこの国は黒い雲に覆われたようになって、と祖母はいった。
「そんなだから、ゆくゆくこんな可愛い孫に会えるなんてね、ゆめゆめ思いませんでしたよ」
この頃のわたしは、祖母の形見の『珊瑚集』をトートバッグに忍ばせて出勤している。ときには空いた電車のなかで、膝に載せてページを繰ることもある。おりしも子どもたちはわたしがにわかに綺麗になったなどと戯言をいい、夫は柄にもなく不審がる。祖母の初々しい恋心が、なんとなく赤い本を通してわたしに伝播するのかもわからない。本の奥付に鉛筆で記されたその人の名が、なんだか自分の初恋の人のそれのように感じられて、ときおり指先でなぞってみることもあった。
🛤️
彼は傍目には初老といっていいような年齢だったかもしれない。頭には白いものが勝った。不惑も半ばを過ぎて、仕事も裏方に回ることが多くなった。物事にあまり拘らなくなった。感情の整理が自然にできるようになっていた。これは乱される、と思えば、巧みに遠ざけた。それでいて利己的な気配は微塵も残さない。こんな小狡いこともない、と自嘲しながら、真夏の昼下がりの電車の、クーラーの効いた乗客のあまりいない車両に座りついてモーパッサンの初版本を膝に広げて繰るなどは、これ以上ない露悪ともいえたし、当人優雅なつもりでも、案外意識せぬ厭世の形かもしれなかった。
彼女は居ずまいの美しい人だった。子を三人産み、育て、上は成人になんなんとしている。彼女は老いに抗うような性質ではもとよりなかった。分相応であれば、枯れるの一つを取ってもおのずから美は備わるものだと、あえて言語化すればそうなる人生哲学をうちに育んでいた。パートやアルバイトの社員の不平不満をうまく往なしながら、上層部の経費削減の意向と見事に折り合った。凛とした空気を纏いながら、彼女はその膝に赤い装丁の大判の古い本を広げ、一枚一枚ゆっくりと味わうように繰る。静謐そのものの姿勢は、あるいは決壊する寸前のダムの静けさだったかもわからない。あるいは冬の空のあの、いつ破裂するともわからないベテルギウスの赤い輝きのような。
彼女は彼の視線にいっかな気がつきそうもない。痺れを切らした男はとうとう話しかける。
「ずいぶんとまた、古い本ですね」
「……」
「突然話しかけたりして失礼しました。私も本好きなもので、つい」
彼女はぼんやりと男の手元の青い布張りの本を見遣った。何やら見覚えのあるような気がして、自然眉根が上がる。
「ああ、これですか。モーパッサンの『水の上』という小説の初版本です。とても珍しいものなんです。父の形見、といったらいいのか。いや、祖父の形見かな」
「これ、お当てになれまして」
自分でも不意に馴れ馴れしい口調になるのを彼女は訝った。しかし男は少年のように目を丸くして、一瞬身を乗り出して手を伸ばしかかって、触らないで当てなきゃですよね、と独りごちてから、居ずまいを正す。彼女は両腕を伸ばして本を囲うと、やや前屈みになって表紙も背表紙も見えないようにした。
「いえね、その本には、じつは見覚えがあるんですよ。だからついお声をかけた次第で」
「そうでしょうとも」
彼女の口元に勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。男は謎のような目を向ける。
「ひょっとして、どこかでお会いしましたか」
「あら、わたしをナンパしてらっしゃるの」
「いえいえ、真面目な話ですよ。なんというか、その本を見た瞬間にね、なんか、こう、胸の辺りがね。こんなこと、ついぞなかったものだから……」
「その胸のうちをはっきりとおっしゃって」
「いいましょうか」
「ええ」
「やっと、会えた。これです」
すると彼女は本をひっくり返すと、裏表紙を開いて、奥付を示した。それでは見えないという仕草をするものだから彼女はぐいと本を持ち上げてやり、男はそれを恭しく両手で捧げ持って顔の前に近づけて、示された鉛筆書きの文字を読んで、「あっ」と小さく叫んだ。
おりしも窓外に、新宿のビル群が陽炎越しにゆっくりと回転するようにして近づきつつある。あの土地は元は浄水場で、戦時中の地図では真っ黒に塗りつぶされたものだったといつか幼い彼女に教えた祖母の声が、まざまざと脳裏に再現されるのを、彼女はいつになく心躍らせながら聞いている。
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