落下の解剖学
新年度、あけましておめでとうございます。
今月から、おどりばの記事をnoteでも並行して書き始めることにしました。
どうぞよろしくお願いします。
「落下の解剖学」という映画をこの前観に行ってきた。
今年のアカデミー賞脚本賞を受賞した、2023年公開のフランスの映画だ。
私はアカデミー賞がどれほどすごい賞なのかわからない映画素人だが、なにやらすごいらしい。
「君たちはどう生きるか」や「ゴジラ-1.0」も受賞している。
ただ、私がこの映画を観てみたいと思ったきっかけはアカデミー賞ではない。
なんとなく、インターネットの記事を見ていてこの映画面白そうだなと興味をもち、映画館に足を運ぶことにした。そんなよわ~い感じだ。
とはいえ私の住んでいる県では公開されていなかったので、愛知県まで足を延ばしたのだが。
知らない映画館で「ミリ知ら=1ミリも知らない」フランス映画、しかもそれを日本語訳字幕で見るという経験は私にとって初めてのことで、齢24になってもまだまだ新鮮な経験って身近に転がっているんだなと思った。
さすが大都市名古屋なだけあって結構映画館には人が多かったのだが、この映画を選んで見ている人は少ないようだ。
普段映画を見るときはある程度客層に特徴があるが、今回はそれがなく幅広い客層(映画好きな人?)でなんだか不思議な感覚だった。
以下、映画本編の内容に触れます。
そんな映画を観て、まず感じたのは真実の脆さだった。
映画の主題はずっと「落下事件の真相は何か」で一貫しており、映画後半は関係者が出廷した裁判が繰り広げられる。
誰が誰を信じている(信じたい)のか、世間の目からどう映るのか、そして自分自身がどうありたいのかという様々な思惑やプライドが交錯しながら、ストーリーが進む。
そこに、少しずつ事件を解き明かすかもしれない情報が入ってくる。
時に容疑者にとって不利な、時に検察側にとって不利な証拠を見比べながら、事件の真相に迫っていく。
そして映画中には、事件の第一発見者として弱視(と思われる)の息子が登場する。
この息子は現場検証や証言の中で大きな役割を果たすのだが、他に目撃者や証拠がないことから、この事件がどう転ぶのかは息子の発言にかかっていた。
最終的に判決が言い渡される。
しかし、その判決が真実なのかどうかは映画の中で明かされない。
そのまま映画は終わりを迎える。
―― こんなにもリアルな映画がこれまであっただろうか。
この世の中のどんな事件も、真実は本人のみぞ知ることで、第三者が直接見ることは不可能なのだ。
その当たり前だけれども忘れてしまいがちな側面を、強く叩きつけられるような感覚がこの映画にはあった。
客観的事実と主観的事実をごちゃ混ぜにしてしまう、そんな現代に対する風刺のような感じもした。
視覚障害者の息子という設定も、真相は見えにくいということを暗喩しているのだろう。
映画は色んなことを観る人に与えるが、中でもこの映画は見る人それぞれに考えさせる面白い映画だなと思った。
映画にかかわらず多くの作品に触れ、自分の感受性を育てていきたい。